第37回アーカイブ研究会

沓掛アーカイバル・ナイト〈第1回〉
沓掛時代から平成美術へ:アートと社会システムとわすれたくない作品

来年度の崇仁地区への本学移転に際し、芸資研では1980年から2023年までの43年間の「沓掛時代」を多彩なゲストとともにふりかえるトーク·シリーズ「沓掛アーカイバル·ナイト」を今年度より企画している。第一回目のゲストは、本学卒業生であり、1986年に「ヴォイス·ギャラリー」を立ちあげて以来、多くの表現者たちに活動と発表の場を提供しつづけてきた松尾惠氏と、関西を対象とした現代美術の批評誌『A&C: art & critic』(1987年創刊)など様々なかたちでアート·マネジメントに携わってきた原久子氏をお招きした。「沓掛時代」を「美術をめぐる様々なシステム化が進んでいく時代」ととらえ、両者の視点からこの時代を振り返る機会としていただいた。

1 「関西アートシーンから見た沓掛時代」
まず原氏から、アート・プロデューサーとして関西のアートシーンを俯瞰してきた外側の視点からお話しいただいた。インターネット誕生以前、1980年代は「ニューアカデミズム」、「ポストモダン」などの活発な言論も後押しして「雑誌の時代」となったが、同時代のアートシーンを紹介する役割も雑誌が担ったという。だが、原氏によると、出版メディアは首都圏に集中しており、『美術手帖』などの月刊誌では関西の情報はあまり紹介されなかったため、当時「西高東低」[1]と呼ばれた関西方面のアーティストが活躍している状況を伝える雑誌は不足していた。
関西には芸術系大学・教育大学の芸術系学部が多数あり多くの作家が輩出されたという背景もあるが、とりわけ京芸出身者の作品は当時外から見ていた同世代の原氏の目からも興味深いものだったという。関西の作家の活動を数多く紹介し、創作と批評の若い才能を交差させる目的で創刊された批評誌『A&C: art & critic』[2]では、原氏が編集を務め、本学出身者のインタビューを多く手がけている。また原氏の参加した企画で、首都圏以外の作家を集めた「ドーナッツ」展(ワタリウム美術館 オン・サンデーズ、1999年)では、伊藤存、カワイオカムラらの卒業生が紹介された。京都の作家はマーケットに左右されない分、作品を深く醸成することができると見ていたそうだ。
『A&C: art & critic』の目次を一例として紹介していただいたが、当時よく使われていた「平面」(絵画、書、写真)や「立体」(彫刻)という用語からは形態等へのこだわりが読み取れるという。また「クレイワーク」(陶立体)や「テキスタイル」(染色)という用語もしばしば用いられており、そうしたマテリアル(素材)や形態別に顕彰制度(賞)や企画展がおこなわれていた。「インスタレーション」を問う議論が頻繁におこなわれたのも、この時代の特徴だという。
アーティストをとりまくインフラ状況(社会システム)に目を向けると、京都市街地にあるギャラリーが大学の外の世界との接続点となり、時代ごとの各種の顕彰・助成制度(文化庁在外派遣研究制度、ACC、安井賞、 VOCA展、京展 等)、また90年代以降には企業メセナが盛んとなって、卒業後の発表の受け皿となってきた。沓掛時代の約40年間にはそうした制度が増加しており、交換留学やアーティストインレジデンスなどの仕組みも90年代以降に整ってきた。京都芸術センター(2000年)や@KCUA(2011年)がオープンするなど、ギャラリーや美術館ではないオルタナティブな発表場所が加わったことも大きな変化として挙げられる。1980年代から現代にかけて、そのように作家のキャリアを支える諸々のシステムが整備されたことが確認されたが、原氏からは近年のアートフェスティバルのありかたについて、昔の団体展に近づいてきているのではという懸念も述べられた。

2 「わたし(たち)はどうサバイブしてきたか」
松尾氏からは、原氏から概説いただいたようなシーンの内側で活動した一作家として、個人的な体験を踏まえてお話ししていただいた。大学が沓掛に移転した1980年には、第一次テクノブームが起こり、ニューペインティングが隆盛するなど、若者のカルチャーに衝撃を与える出来事が次々と起こった。松尾氏自身も『美術手帖』1982年の「インスタレーション」特集号や1986年の「美術の超少女たち」の特集号で取り上げられ(作品画像の横にはポートレート写真がカラーで掲載された)、女性作家の活躍に注目が集まることで、それまでの怖くて近づき難いようなアーティスト像を覆し、一般の若者の考えるアーティスト像が身近なものに変わった時代だったという。
1980年に本学を卒業した松尾氏は、学生時代を過ごしたのは今熊野学舎だが、その多くのエッセンスは沓掛学舎にも引き継がれたと話す。学生時代の活動、三美祭(五芸祭の前身)、卒業後の展覧会、ギャラリーを開いてからの様子など、当時の写真を見せていただきながらふりかえっていただいた。学生の時、松尾氏はバスケ部に所属し、練習や合宿など部活仲間との結びつきも強かったという(バスケ部の先輩たちが「GOOD ART」を結成した際にも展示に誘われて参加している)。芸祭では、自転車(京大西部講堂の放置自転車を拝借)を改造した山車をつくり仮装行列で四条河原町を練り歩いた[3]。
卒業後は、京都大学の解剖学研究室やギャラリーでアルバイトをしながら作家活動を続け、1986年にVOICE GALLERY(現「MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w」)を開くことになる。当時の松尾氏はアーティストでもあったため、VOICE GALLERYは貸画廊の形を借りているが、表現者の生き方をサポートする一種のアーティスト・ラン・スペースだった。レンタル代を安くした反面、お金の工面に苦労し、他のアーティストを代弁することにも価値観の違いからジレンマを感じたそうだ。だが、1986年頃は沓掛で学んだ学生たちが発表場所を探していた時期でもあり、レンタル代の安いVOICE GALLERYでたくさんの卒業生が展覧会を開くことができた。夜遅くまで出入りができ、壁を塗ったりすることも可能な自由度が高いスペースが、他では断られてしまうような“やんちゃ”な表現を許容したという(一例として、初期に展示をした作家に、1967年生まれ世代である高嶺格、南琢也、西松鉱二らがいる)。当時の常識的アートシーンからすれば「はみだしもの」ばかりで、VOICE GALLERYは「不良の溜まり場」と陰で呼ばれたそうだが、逸脱の証として勲章のように感じてきたそうだ。実際、展示をした作家の活躍が目立ち始めると、ギャラリーの活動にも評価が向けられるようになった(ソニー・ミュージックエンタテインメント主催「アート・アーティスト・オーディション」では、1992年第一回グランプリに西松鉱二、1993年第二回準グランプリに高嶺格が選ばれた)。
1990年頃には、京都市主催の「芸術祭典・京」事務局でアシスタントをし、演劇、音楽、現代美術、学生(美術関係大学8校の卒制選抜展)の各部門に携わりながら、行政的な手続きを要する仕事を覚えた。1990年に文化庁芸術文化振興基金が創設されて以来、助成金制度を利用するようにもなり、またVOICE GALLERYの隣にオフィスを構えたDumb Typeが、セゾンなど企業からの助成を得て活動の幅をどんどん広げていく様子を目の当たりにすることにもなった。オルタナティブな活動をする上で、そうしたアーティスト支援の社会システムをフレキシブルに利用していく(サバイブしていく)ことの重要性を感じたという。
松尾氏の発表に対し原氏からは、現在の視点で「アーティスト・ラン」、「オルタナティブ」と言えるような活動がこの時期に数多く起こり、いい意味で“やんちゃ”=型にはまらない自由さがあったが、それは社会的な環境が発展途上だったからこその表現ではないかと所感が述べられた。

3 「ふたりの平成美術(1989~2019)」
後半の対談では、1980年代以降のアートに注目が集まっている状況[4]を踏まえて、おふたりにとっての沓掛時代(≒「平成美術」)を振り返っていただいた。当時の両氏の身近では、Dumb Typeメンバーら沓掛キャンパス出身者を中心とするAIDSポスタープロジェクトや、その周辺の多様な活動が起こっていた。それらはプロジェクト・ベースで議論のきっかけを作ることを目的としていたため、これまでは「作品」と捉えられず「美術未満」の活動とされてきたという。両氏も参加した、女性が女性のためにダイアリーを作るプロジェクト「Woman’s Diary Project」なども、単に手帳というプロダクトの共同での編集作業とみなされがちだったが、昨今のソーシャリー・エンゲージド・アートの文脈では活動のプロセス、インタラクション、継続性やそのアウトプットの仕方なども踏まえて評価されていることから、アートの実践ととらえ直すこともできるのではないかと話された。
80年代から平成の時代にかけて様々な社会的問題が噴き出し、それに作家達も応答して反権力的であったりマイノリティを擁護したりする活動が盛んになされ、多くのプロジェクトが現れた。アクティヴィズムかアートかの二者択一ではなく、自立する人間としてその時々の態度で積極的に関わっていく可能性が重要だと松尾氏は指摘する。特に、マイノリティの権利について活動をするには覚悟を要する時代だったため、正当に評価されなかった(損をした)作家も少なくないという。近年のドクメンタやヴェニス・ビエンナーレの傾向など、社会変革の意識を持つアートが国際舞台で取り上げられるケースも増えている現代の視座から、平成の時代に、拾い上げられないまま慌ただしく目次的に流されてしまったような問題を振り返り、再評価していきたいと両氏は語る。
また、マイノリティの表現だけではなく、メディア・アートやインスタレーションの作品等、この時代に新興した表現もレンタル・ギャラリーという仕組みがあったから生き残ることができたと指摘された。一方ではバブルの時代でもあり、コマーシャル・ギャラリーでは販売のしやすさを想定した作品が扱われがちだったが、そうしたシーンに迎合しない活動を支えた、“おばちゃん”的面倒見の良さが特徴とされる京都のレンタル・ギャラリーの存在は大きいという。評価を得て後にカテゴライズされていった表現であっても、出てきた当時は未分類で何者とも呼べないようなもので、作品未満の過程で作家自身がそれをしなければならないような必然性があるために生み出されてきた。芸術大学という場所がそうした「出てくる時代を間違えた」ようなオルタナティブな表現を醸成し、大学の多い京都では異分野の知とアートの自然な交流が生まれやすかったことも、時代を拓く表現の土壌にあったと語られていた。おふたりのお話によって像を結んできた沓掛時代の京都芸大の姿を踏まえ、崇仁キャンパスでの次なる時代の本学のありかたを見通す一助とできれば幸いである。

(𡌶 美智子)

VOICE GALLERY開業当時の様子


[1] 「西高東低」の状況を伝えるインタビュー集として本レクチャーでは下記が紹介された。畑祥雄『西風のコロンブスたち 若き美術家たちの肖像』ブレーンセンター発行、1985年。
[2] 京都芸術短期大学(現・京都芸術大学)発行。編集委員は、本学の学長も務めた建畠晢(元・国立国際美術館館長、現・多摩美術大学学長)、京都大学で教鞭を振るった篠原資明(現・高松市現代美術館館長)が務めている。
[3] 学生時代から松尾氏はバイクに乗る姿でも有名だ ったそうだが、バイク事故のため卒展で展示できず、保険金でギャラリー16で個展を開催したという武勇伝も。
[4] 「起点としての80年代」(金沢21世紀美術館・高松市美術館・静岡市美術館を巡回、2018-19年)、「平成美術」(京都市京セラ美術館、2021年)、「関西の80年代」(兵庫県立美術館、2022年)など、この時代を特集する企画展が相次いで開催されている。


第37回アーカイブ研究会
講師|
松尾 惠(ギャラリスト/MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w主宰)
原 久子(アートプロデューサー/大阪電気通信大学教授)

開催日時|2022年10月21日(金)18:00~20:00
会場|伝音合同研究室1(新研究棟7階)

第36回アーカイブ研究会


西洋美術史研究と芸術資源—目録やテクストが伝える情報

芸術資源研究センターは、日々生み出される芸術作品や、その周辺に存在し、時として作品の成立に関与しうる各種資料、また作品が生み出される環境などを広く「芸術資源」と捉え直し、それらが新たな芸術創造に活かされるための諸条件やあり方などを探求している。センターの規模や立地からして、優先的な研究対象となるのは現在進行形の芸術実践活動や、京都という場と関連した史的資料群であることは間違いない。一方で、伝統的な西洋美術史研究においても、狭い意味でのアーカイブ、すなわち古文書記録が史的研究に活用されてきただけでなく、アトリエに集められた素描や版画、あるいはより広く、先行作例や過去の作家像などをも含む広義の「芸術資源」を作り手がどう活用し、次の制作・創造につなげていったのか、その有り様が常に探求されてきた。また、そうした「芸術資源」から作家や研究者が汲み取る「情報」や「内容」も、決して一律に規定されるものではない。そこで、西洋美術史研究のなかで蓄積されてきた、「芸術資源」にアプローチする際の方法論や観点を具体的な事例に即して紹介し、かつ本センターの提唱する芸術資源の新たな捉え方を西洋美術史研究に取り入れることができれば、言い換えれば、双方の活動を照らし合い、益し合うことができればという意図から、この度、「西洋美術史研究と芸術資源––目録やテクストが伝える情報」というテーマで研究会を企画した。
芸術資源には、上述の通り、様々なものがありうる。今回は、多様性と一定のまとまりの双方を両立させるため、あえて「文字資料」としての芸術資源という縛りを加えて、五件の発表からなる研究会とした。「財産目録から探る作品のすがた」と題した前半の二つは、歴史研究において極めて広範に活用されてきた「財産目録」に関わるものである。
まず大熊の発表「財産目録から辿るティツィアーノ作品の来歴––展示状況とその変化」は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90-1576)による《キリストの埋葬》(1525年頃)という作品を取り上げ、財産目録を手がかりにその展示状況を詳らかにすることを試みた。マントヴァのゴンザーガ家からイギリス王室に渡り、その後フランス王室に入った本作の来歴そのものは比較的よく知られてきたが、それぞれの所蔵先における展示状況については、これまで深く追及されてこなかったからである。その検討の過程で、大熊は、本作について最初の実質的な情報を提供するゴンザーガ家の財産目録(1627)のなかにも、本作と同定されうる記述が二つあり、確実な同定が困難であることを指摘する。仮に本作が、名作が集められた「閉ざされた開廊」に掛けられていたとすると、その作品の扱いは、イギリス王室におけるそれ––ティツィアーノ作品を集めた「第一の私寝室」における特権的扱い––とほぼ変わらないものだと言えるが、周縁的な別室で扉の上に置かれていた「墓に下ろされるキリスト」が本作だとすると、マントヴァでの軽視から、一転してイギリスにおいて重要な作品としての扱いを受けたことになる。そしてこうした位置づけの変化は、ロンドンで本作の対作品とされた《エマオの晩餐》にも認められるのである。こうした一連の詳細な検討により、大熊は財産目録と特定の作品の同定をめぐる限界と同時に、単なる同定を越えた作品評価の変遷に繋がる視点を導き出している(本誌所収の論文を参照)。
続く深谷は、十七世紀前半にネーデルラント総督を務めたアルブレヒトとイザベラの美術コレクションをモデルケースに発表を行い、この総督夫妻の場合のように、財産目録の情報が単独では活用しづらいものである––目録の散在と情報量の少なさ、かつコレクション全体の規模の大きさによる––場合に、財産目録の補強資料として参照しうる芸術資源として、アントウェルペンで展開したギャラリー画を取り上げた。ギャラリー画は、実在したコレクションの一部、架空のコレクション、あるいはその両者の混合等を室内画として描いたもので、十七世紀初頭のアントウェルペンで隆盛を見たジャンルである。初期の著名なギャラリー画のなかには、当のギャラリーを訪問中の総督夫妻が描きこまれたものが散見されるほか、地元の画家たちが共同制作した「五感の寓意」の絵画は、総督夫妻のコレクションをモチーフとしたギャラリー画でもあった。総督夫妻は、ギャラリー画の成立や流行と極めて近しいところにいたのである。反乱中は敵視されたスペインから派遣され、難しい立場で統治に当たっていたアルブレヒトとイザベラは、農民たちの集いに列席する自分たちの姿をヤン・ブリューゲル(父)に描かせるなど、絵画を通じて地元の人々との宥和的なイメージを打ち出していたが、同様の機能はギャラリー画にも託されていたのかもしれない。ギャラリー画には、君主の美術コレクションの新しい可視化手段という側面と、統治理念と密接に結びついた文化政策の表れとが見てとれるようにも思われるのである。
続く第二部「テクストとしての芸術資源と美術史研究」では、まず倉持が「十六・十七世紀イタリアにおける芸術家のための図書一覧」と題する発表を行った。近年、画家の制作の根底にあった学識や読書に関する注目が高まっており、倉持の研究はその動向を踏まえつつ、芸術家のための書籍として著された文献の中に登場する「参考図書」を具体的に調査し、それを実際の芸術家の蔵書目録等と比較しつつ分析するという極めて意義深いものである。まず出発点として今回取り上げられた主要な図書は、アルメニーニ著『絵画の真の法則についての三書』(1586)、レオナルド・ダ・ヴィンチの『絵画論』(1651)所収のデュ・フレーヌによる美術文献書誌一覧、そしてスカラムッチャ著『イタリアの絵筆の卓越』(1674)などである。挙げられている書目の分類項目や、定番の書籍(リウィウス、オウィディウスなど)の存在、スカラムッチャに取り入れられたより同時代性の強い作家の文献(タッソやマリーノ)、さらに時代の変化に伴う傾向の推移などの具体的な分析の上で、倉持は、これらの推薦図書がどの程度実際に活用されていたのかを、教育現場および画家の蔵書目録との比較から検証した。その具体的な分析結果のまとめは、いずれ稿を改めて発表される倉持の論文に譲ることにするが、図書やテクストとして芸術家の周りに存在していたこうした知識や情報は、彼らの生み出す作品を十全に理解するためにも、さらには制作プロセスに関する洞察を深めるためにも、このように研究され、共有されることが待たれるものだといえよう。さらには、近世の芸術家たちの間で一定の理想像を構成していた「博識な画家(pictor doctus)」というイメージの実情に迫るうえでも、画家の蔵書や読書にまつわる研究がもたらす知見の意義は大きい。
続く西嶋の発表「ドラクロワによる『ニコラ・プッサン伝』(1853年)––「芸術家伝」に何を学ぶか」は、画家ウジェーヌ・ドラクロワ(1798––1863)が1853年に発表した小論『ニコラ・プッサン伝』の特色を、同時代に発表された同画家に関する伝記的な書籍との比較を通して分析し、芸術資源としての過去の芸術家伝について考えるものである。西嶋は、ドラクロワのプッサン論を、先立って発表されたマリア・グラハムによる『ニコラ・プッサンの生涯についての回想』(1821)とシャルル・クレマンが1850年に『両世界評論』誌に掲載した『ニコラ・プッサン』と比較し、その共通点と相違点を明らかにした。さらに続けて、この二人や過去の伝記作家との比較結果として、ドラクロワがプッサンの生涯と芸術を語る際に、独自に以下の三つの点を強調していることを指摘する。つまり、十七世紀ローマの芸術環境において全く新しい古典的な趣味の画風を打ち立てた「革新性」、イタリア・ルネサンスの成果、とりわけミケランジェロのそれに誘惑されることなく自分の特性を活かして古代の模倣を貫いた「独自性」、さらに、老いと向き合いながら制作を続ける「時間の有限性への意識」である。ドラクロワの『日記』の記述と比較すると、これらの点は、彼自身の1850年代の関心と深く連動しているという。老いを迎えつつある画家が若い芸術家にとっての範として語るドラクロワのプッサン論は、プッサンの生涯の叙述を通して、ドラクロワ自身と同時代の芸術にかかわる問題意識を整理しようとするものである。こうした西嶋の分析は、過去の作家を語り、言説化することを通じて、画家が自らの芸術観や思想と向き合うという重要な営為を明晰に浮き彫りにし、かつ同時に、「芸術資源」の更なる広がりを窺わせるものだと言える。なお西嶋によるドラクロワの『ニコラ・プッサン伝』の翻訳については、第一・二部の試訳が『尾道市立大学芸術文化学部紀要』第二十一号、二〇二二年、六七––八一頁に掲載(全文はで参照可: web
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u/metadata /14381)されているほか、二〇二二年度末に同紀要二十二号(二〇二三年三月発行)にて、第三部の訳とともに、本発表内容に関連する解題が掲載される予定である。
最後に今井は、「ヤン・ファン・エイク研究と古文書記録」において、十五世紀ネーデルラントを代表するこの画家に関する研究史を紐解き、そのなかで古文書記録に基づく研究が如何に進展してきたかを跡付けた上で、今後の可能性についても意義ある提言を行った。ヤン・ファン・エイクを取り巻く芸術資源のなかで、テクストによる同時代史料(古文書記録)の研究は、新たに提供され続ける質の高い画像データなどの影に隠れてしまいがちである。一方で、ジェイムズ・ウィールのモノグラフ(一九〇八)は、ヤンの生涯に関わる約四十点の同時代史料と、十五世紀中頃以降の評価を網羅的に含んでおり、今日に至るまでファン・エイク研究の基盤をなす重要書として参照されており、さらに後続の研究者たちによる新たな周辺情報の付加も続けられている。今井は、こうした資料の価値を正当に評価しつつ、今後の研究においては、一人の芸術家や注文主に限定されないネットワークやコンテクストを包括的に分析する態度がますます必要となってくるであろうことを指摘する。発表では、こうした観点から、ヤン・ファン・エイクと同時期にブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷画家(部屋付侍従兼画家)を務めた画家(アンリ・ベルショーズとジャン・ド・メゾンセル)に関する古文書記録に注目し、それらとの比較を通じて、宮廷画家ヤンの位置づけをより鮮明に浮かび上がらせた(本誌所収の研究ノートを参照)。ここで今井が行ったように、今後は、このように蓄積されてきた古文書記録の情報を基盤に、各種の芸術資源を総動員して明確な見取り図を示していく作業がますます求められることであろう。
このように、西洋美術史研究においては、(文字資料だけに絞っても)財産目録や支出簿を含む古文書記録、芸術家たちの参照した図書類、作家自身が執筆した芸術家伝など、多様な種類の芸術資源が直接的・間接的な研究対象となってきた。さらに今回、複数の発表が明らかにしたように、こうした資源は、当時の芸術家たちによっても大いに活用されてきたのである。そしてこのことは、過去の芸術家たちにのみ当てはまることではないだろう。現代の制作者にとっても、研究者にとっても、過去の作家や学者たちのこうした芸術資源との向き合い方からいまだ大いに汲むべき点がある。また現代の我々が古今東西の芸術資源に対する柔軟で多角的な視点を得るためには、多様な事例を用いて意見交換を行うことが必須だと思われる。末筆ながら、企画者や発表者のこうした趣旨・意図に理解を示し、今回の機会を与えて下さった森野センター長、佐藤教授に深く感謝致します。

深谷訓子(美術学部)

注記:今回の研究会の発表は、以下の科研費の成果の一部です。大熊夏実「1510––30年代におけるティツィアーノとラファエロのライヴァル関係」(特別研究員奨励費: 22J21804)、倉持充希「世紀イタリアにおける芸術家の学識とその評価に関する研究」(研究活動スタート支援:)、西嶋亜美「ドラクロワによる「反復」制作の意義––アカデミーと前衛の交錯の中での実践と受容––」(若手研究(B):17K13356)、今井澄子「世紀のブルゴーニュ宮廷美術における肖像の「ブランド」をめぐる総合的研究」(基盤研究(C): 19K00186)。


第36回アーカイブ研究会

西洋美術史研究と芸術資源—目録やテクストが伝える情報

発表者|
今井澄子(大阪大谷大学文学部教授)
大熊夏実(京都市立芸術大学美術研究科博士後期課程)
倉持充希(神戸学院大学人文学部講師)
西嶋亜美(尾道市立大学芸術文化学部准教授)
深谷訓子(京都市立芸術大学美術学部准教授)

研究会|8月25日(金)13:00~(オンライン配信)

第35回アーカイブ研究会


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吉田亮人チェキ日記展と第35回アーカイブ研究会

 吉田亮人氏は写真家である。作品は国内外で展示・出版され、高い評価を受けている。今回のテーマである「チェキ日記」は、氏が写真家となる以前の2009年から現在に至るまで、毎日1枚「チェキ」フィルム(富士フイル ム製のインスタントフィルム)で撮りつづけている、数千枚におよぶ家族の記録写真だ。
 チェキ日記は、子供の誕生をきっかけに、日々変化する楽しかった思い出や、小さな子供のたたずまいなどを「忘れたくない」という強い気持ちからはじまったという。日常の感覚をなるべく生の状態で残す手段として、記憶をふりかえる栞として、写真はいいメディアですと吉田氏はいう。特に何かを意図的に撮ろうと狙うのではなく、ピンと来たとき、「おもしろい!」と思ったときにシャッターを押すそうだ(いずれは子供たちにプレゼントする予定だという)。
 撮影時には日付だけを裏面に記入し、時間があるとき、月光荘製のスケッチブックに日付と短いコメントを添えて貼る。「チェキ」を使うのは、時間が経ってからではなく、日々の流れのなかでその瞬間に感じたことを、生々しく覚えている身体のまま、ことばと写真で記録したいためだそうだ。1日に1枚しか撮らないので、写真家としても鍛えられる。デジカメだと写真を撮りすぎて、取捨選択してしまったり、プリントからアルバムに貼るまでに、時間がかかりすぎてしまう。チェキフィルムは、〈再編集する視線〉をできるだけ介入させず、日常性を身体的な感覚を維持したままアーカイブしつづける、そうした記録に適した自律的で簡便なメディアなのだ。松本久木氏はグラフィックデザイナーである。吉田氏の写真集や、この『COMPOST』もデザインしている。あるとき松本氏は、偶然、チェキ日記の一枚を見る。すぐその魅力にひきつけられた、という。これは何? と吉田氏に聞き、記録方法を聞いて、さらに興味は大きくなったそうだ。
 チェキ日記の写真(松本氏は「写像」と呼ぶ)の一枚一枚に、まず魅力がある。それを松本氏は「特別な出来事ではない日常性そのもの」あるいは、誰もが一度は見た風景や、誰もが一度は写真の中の人と同じことをした、そのような何かが写っている、と表現する。日常風景を撮影した映画フィルムの「任意のひとこま」のようなもの。日常性のなかの日常性と言えるかもしれない。あくまで私的な吉田家の家族写真なのに、自分自身の過去がそこに写っているような気さえする。一瞬を捉え、この一枚しか存在しないという意味で、強い唯一性(此性)を備えている写真なのに、むしろ普遍的な魅力がある。そんなチェキ日記に惹きつけられた松本氏は、この写真を「本」にすることを考えた。
 だが、ここに問題がある。チェキ日記の魅力は、一枚一枚の写真だけでなく、写真を日々撮りつづけアルバム化するという「営為」にも(にこそ?)あるからだ。「この1枚の写真」だけではない。「チェキ日記」という持続的な記録行為、あるいは方法自体にも、唯一性があるのである。そしてさらに、独自なメディアとしての、モノとしての唯一性を備えた一冊一冊の「チェキ日記」(松本氏は、チェキ日記には吉田氏の造形作家的な作家性が見られるという)。繰り返される営為の痕跡として結実するところにチェキ日記の魅力があるとすれば、それをどのように、さらなる複製物としての「本」に転換しうるのか? そもそもチェキ日記を作品だと考えていなかったという吉田氏と、その価値をなんとか世に伝えたい松本氏は、芸資研に相談を持ちかけ、今回の研究会につながった。
 吉田氏・松本氏と芸資研の石原教授・佐藤が相談した結果、「研究展示」を行うことにした。来場者たちと積極的に対話し、実験的な展示活動を通じてチェキ日記を公にする方法を探求するのである。展示を研究の場にもする「研究展示」という手法は、芸資研にとっても初めての試みだが、展示スペースと議論の場が隣接する芸術大学ならではの活動とも言える[写真1]。
 実際の展示では、「写真作品」なら決してしないだろうことを色々と試みた。写真を加工して展示したり(文字のみ/写真のみの2バージョン、どちらも日付なし)、極端に拡大してプリントしたり、現時点でのチェキ日記全116冊を実物展示する(来場者は、実物を自由に手にとってよい)などである[写真2~5]。

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 本についても実験的に数パターンを制作し、来場者に手に取っていただき感想を聞いた。現物のチェキ日記をかぎりなく模倣した複製バージョン、写真集の体裁にレイアウトしなおしたダミーブック、チェキ日記の全ページを見開きで撮影した写真のプリントアウト山積み(約4000枚)などである[写真6~8]。
 新型コロナウィルス感染症の流行と会期が重なったこともあり、来場者を予約の上で1日10名に限定したが、結果的に吉田氏や松本氏と来場者との豊かで濃密な対話が生じたのはとてもよかったと思う。「作品」でも「資料」の展示でもない「研究展示」という方法は新鮮で、来場者からも好意的な反応が少なくなかった。
 アーカイブ研究会は、展示期間の最終日前日に研究展示の成果をふまえて行なった。チェキ日記の魅力やチェキ日記という方法のメディア論的な特徴だけでなく、私的な記録を公的な作品にする際の論拠や、写真メディア史におけるチェキフィルムの独自性、社会的な時間と私的な時間など、重要な論点の提起がいくつもなされた。議論は現在も継続中で、いずれどこかで、チェキ日記に関する議論の詳細を公開できると思う(研究会自体については、芸資研のYouTubeチャンネルに近日中に公開される記録動画を参照していただきたい)。
 最後に一点私見を述べる。チェキ日記を本にする際の最大の問題は、写真の選択、つまり「編集」(あるいは「評価選別」)行為に関わるとわたしは考えている。チェキ日記はそもそも、写真を直感的・感覚的に撮影し、できるだけ再編集する視線を介入させず記録活動を継続することを意味している。一方で、写真集とは選択行為の結果そのものである。それはある視点から行われる「収集」だと言ってもいい。チェキ日記における「営為」の次元を重視し、選択された写真が不可避的に巻き込まれていく「物語」への回収を避けたいなら、「評価選別あるいは編集という行為をいかに避けて本を作るか」という難題を解決しなければならない。最終的に印刷される写真が4000枚から「選択」されたものではなく、チェキ日記という持続する記録活動=アーカイブの一部であることが、パフォーマティブに示されていなければならないはずである。
 そのためには、完全に同一な複製物を流通させる「本」というプラットフォームのあり方自体を変える必要があるかもしれない。そもそも、なぜすべての本は同一でなければならないのだろう。たとえば、写真の選択が一冊一冊ランダムに行われ、結果として内容が別々なのに、同じ書物であることを主張するような本はどうだろう。製本される瞬間ごとに、新たに最新の内容がつけ加えられ、成長していく本は? 写真が貼られておらず、購入者が自分でチェキ日記を作るための「本」は? チェキ日記とその「本」の関係は、データベースのデータとその出力形態のようにも思えてくる。そうしたことを、チェキ日記は考えさせてくれるのである。

(佐藤知久)


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1.展示風景
2.チェキ日記全116冊および、制作途中のチェキ日記(どちらも接触可)
3.チェキ写真の拡大プリント
4.チェキ写真(日付が記録されておらず、いつの写真かわからなくなったもの)
5.チェキ写真を加工し、①コメントのみ、②写真のみにしたバージョンの拡大写真
6.製本(現物の形態をかぎりなく模倣した複製物。複製した写真を貼り付けている)
7.ダミーブック(数十枚の写真からなる通常の写真集の形態にした本)
8.全ページのプリントアウトおよびフラッシュカット映像(チェキ日記の全ページを印刷したものと、1見開きを0.2秒で積み重ねた映像)
撮影:吉田亮人


第35回アーカイブ研究会

吉田亮人チェキ日記展と第35回アーカイブ研究会

講師|吉田亮人(写真家)、松本久木(松本工房代表/グラフィックデザイナー)

研究展示|2021年8月24日(火)-8月29日(日)研究展示会場/京都市立芸術大学 小ギャラリー

研究会|8月28日(土)14:00~(オンライン配信)

配信|芸資研YouTubeチャンネル
前半
後半

第34回アーカイブ研究会 失われた絵画とアーカイブ 宇佐美圭司絵画の廃棄処分への対応について


 2018年4月、東京大学本郷キャンパスの中央食堂に長年掲げられていた、宇佐美圭司(1940-2012)の絵画《きずな》(1977)が、前年に廃棄処分されていたことが判明した。寄贈された美術作品を、大学(正確には東京大学生協)自らが廃棄するというショッキングな事件について、東大は5月8日にコメントを発表。9月28日には、シンポジウム「宇佐美圭司《きずな》から出発して」が開催され、翌年5月にはその記録集も刊行された。さらに2021年には、《きずな》の再現画像と《Laser: Beam: Joint》(1968年南画廊にて初展示)の再制作作品を他の絵画作品などと合わせて展示した、「宇佐美圭司 よみがえる画家」展が開催された(東京大学駒場博物館、7月1日~8月29日まで)。
 今回のアーカイブ研究会では、作品廃棄後の対応、特に2018年のシンポジウムや2021年の展示に至る調査研究において、中心的な役割を果たした加治屋健司氏をお招きし、《きずな》および《Laser: Beam: Joint》の再制作をめぐる話題を中心にお話しいただいた。加治屋氏は芸資研の前専任研究員でもあり、2015年には芸資研で古橋悌二《LOVERS》の修復作業にも関わっている。
 宇佐美圭司は1990年から95年にかけて本学美術学部教授をつとめた。レクチャー後は、コメンテーターの石原友明氏(美術学部教授)のほか、京都市立芸術大学時代の宇佐美の教え子のベ・サンスン氏(アーティスト)、國府理「水中エンジン」再制作プロジェクトのメンバーでアート・メディエーターのはがみちこ氏らを交えて、ディスカッションを行った。研究会の内容全体については、動画記録(https://www.youtube.com/watch?v=tf 7SIPGyGH4)を、またあわせて同展カタログに掲載された加治屋氏の論考を参照していただくことにして、ここでは筆者が重要だと感じた3つの論点を記しておきたい。

1. 作品を記録することの重要性
 あらためて痛感されたのは、実に当たり前なのだが、芸術作品の記録を残すことの重要性である。大学生協の食堂に、撮影するとどうしても照明器具が映り込んでしまうかたちで配置されていたため、《きずな》には「正面から障害物なく写した写真」が一枚も現存していなかったという(廃棄が判明した時点では、作品名すら不明)。《Laser: Beam: Joint》でも、作品の構成要素の正確な配置に必要な図面は残っていない。今回の展示にあたっては、加治屋氏やそのチームが数年間にわたる調査を国内外で行い、作家本人のアトリエから《きずな》の全体像を写したカラーポジフィルムが発見されたものの、正面から写した写真は依然として発見されていない。

2. 再制作における判断を記録することの重要性
 作品そのものが現存せず作家も存命ではない場合、調査によって集められた種々の資料とその読解、ならびに、作品および作家に関する研究=言説から得られた知見をもとに、芸術作品を再現-再構成することになる。だが、どうしても詰めきれない細部(写真からは精確に判読できない等)については、再制作を担当する人間(研究者、学芸員、アーティスト、技術者…)が「判断」することになる。今回の場合でいえば、《きずな》再現画像における色の決定、《Laser: Beam: Joint》での、安全上の理由から当初のコンセプトに反するような改変(レーザーを1箇所からではなく3箇所から発する)を行わざるを得なかった点、などがそれにあたる。そこで重要なのが、こうした細部に関する判断を、誰が・どのように行うかという問題である。
 ディスカッションで石原友明氏が指摘したように、オリジナルの作者が存命の場合でも、作者の言説が作品にとって歴史修正主義的に働くケースがありえる。作者に近く、作品にとっての当事者性が高い特定の「強い語り手」が、再制作の現場で影響力を行使することもあるだろう。
 もちろん(作家が存命であれそうでない場合であれ)work in progressとして、またある種のリミックスとして、芸術作品が時代や社会的な状況とともに変化成長することはつねにありえる。だが、作品がもつ変化の可能性は、その作品自体に、そもそも変化の可能性を包摂するような特性があったかによって大きく意味を変えるであろう。はがみちこ氏が言うように、改変には「非当事者として再制作に関わることの責任」がともなう。作品そのものに関する記録に加え、再制作時のプロセスを記録し作品に付随させて継承することが、作品が時間の流れを超えたアクチュアリティを持つうえで重要だと思われるのはそれゆえである(保存修復と再制作の差異を考えることにもつながるだろう)。

3. 作品論の重要性
 加治屋氏によれば、今回の展示では展示作品が10点と少なく、各時期の代表的作品が並んだ結果、個々の作品が「宇佐美圭司という画家の人生」を説明する「挿画」として読まれてしまう危険性があったという。作家自身のナラティブやこれまでの言説(批評や研究)が既につむぎあげている作家像に寄り添うだけでは、作家が今ここに「よみがえる」ことにはならない。加治屋氏が何度も強調したように、「作家や作品についての多様な言説」、特に作品論を残すことが重要なのは、作品に、作家自身による/作家に関する〈ナラティブ〉から逸脱する要素があるからだ。作家像を越えていく作品論によって議論が展開していく。そうした作品論を増やしたい、と加治屋氏は言う。

 ダムタイプ《pH》のアーカイブや、《水中エンジン》の再制作プロジェクトをふりかえっても(本誌所収のシンポジウム「過去の現在の未来2 キュレーションとコンサベーション その原理と倫理」を参照)、「必要であればその作品の再制作が可能になるような記録を残す」ことは、非常に有意義な記録方法だ。今回は東京大学の事例だが、移転を控えた京都市立芸術大学でも、同様の「廃棄」が起きる可能性は充分にある。個々の芸術作品に適した記録活動を、日常的な制作や研究のなかに、負荷をかけずに、むしろそれ自身が芸術的な営みとして面白くあるようなやりかたで組み込んでいくことに、これからの可能性を感じる。

(佐藤知久)


第34回アーカイブ研究会

失われた絵画とアーカイブ 宇佐美圭司絵画の廃棄処分への対応について

講師|加治屋健司(東京大学大学院総合文化研究科教授、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員)

日時|2021年6月21日収録後オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第33回アーカイブ研究会  360°展覧会アーカイブ事業 「ART360」の実践を通した考察


 時空間を記録して残す方法は、この数百年間、基本的には変わっていないのではないか。絵画から高精細なデジタル映像に至るまで、視覚的な記録の形式は、ある視点から見た立体空間を平面におとしこむという意味で、ほとんど変わっていないと、辻勇樹氏はいう。
 いっぽう、「360°を記録するカメラ」は、鑑賞者の視点移動を可能にする。VRヘッドセット・ディスプレイをつけた鑑賞者は、記録された映像のなかの、何に注目するかを身体的に探索できる。これは、その場の状況を感じること―「体験」―に近づくのではないか。テキスト/写真/映像など、記録者が
設定した枠組みを明確にもつ記録(「framed media」)の価値を十分認めつつも、辻氏が360°映像に注目する理由はここにある。それはおそらくはじめて、解釈の多様性を担保する記録形式となるのではないか、というのである。
 辻氏がディレクターをつとめるプロジェクト「ART360」は、360°の映像で展覧会やパフォーマンスを記録する公益事業として、2018年にはじまった。運営の母体は、「次代を担う創造者への支援事業や芸術文化活動に関する普及活動を通じてよりよい未来の創造を目指す」公益財団法人の西枝財団である。
 記録対象となる展覧会やパフォーマンスは、3名の有識者委員会によって選択される。選ばれた展覧会は、8Kの360°カメラ(Insta360 TITAN)、空間オーディオ用のマイク、遠隔操作可能なドリーなどを用いて、360°のステレオ(立体)映像で記録される。すでに24本の360°映像がウェブサイトに公開され、これからも年間12ずつ記録されていく予定だという。
 記録活動に加え、配信や利活用、共有技術の開発にも力を入れている。その場にリアルに行った人たちと、そうでない人たちが意見交換や議論をおこなう場(「展覧観測」)を開催したり、多点同時撮影された対象を、鑑賞者が切り替えながら見るためのプラットフォーム(「PLACE」)も開発中である。将来的には、3Dスキャニングの技術と360°映像を組み合わせた、動的な記録技術の実装も検討しているという。
 ART360は、展覧会を直接経験した人たちと、そうでない人たち―そこには未来の人たちも含まれる―が、「状況の再経験」を通じて共通の土俵に立つことをめざしている。もちろん質疑応答にあったように、「映像のなかでは自由な解釈が可能だとしても、見るべき対象自体が制限されているのではないか」とか、「VR空間だけで満足してしまう人が増えるのでは」といった懸念はあるだろう。しかしそれが、「出来事の本質」とされる部分のみを切り出すのではなく、「展覧会という状況」を丸ごと記録しようというART360の活動の意義を減じることはないだろう。これからもひきつづき、ART360の活動に注目していきたい。

(佐藤知久)


第33回アーカイブ研究会

360°展覧会アーカイブ事業
「ART360」の実践を通した考察

講師|辻勇樹(Actual Inc. 代表取締役 /ART360ディレクター)

日時|2020年12月18日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第32回アーカイブ研究会 世界劇場モデルを超えて

 アーカイブとは単なる資料の集積ではなく、資料を提供するシステムや物的・人的資源をふくめた組織である。したがってアーカイブについては、どのような組織や資源(人や棚やコンピュータや建物…)によって運営され、どのような「システム」によって支えられているかを考えねばならない―そう、桂英史氏はいう。
 第一に、アーカイブは、どのような公共性と関係をもつのか。それは功利主義的な公共性なのか、それとも個々人それぞれに異なる効用にかかわる自由主義的な公共性なのか。あるいは、市場経済の欠陥を是正する福祉・厚生主義的な観点からみた公共性なのか。
 第二に、アーカイブは、どのようなイデオロギー(あるいは思想)に支えられているのか。その近代的な起源のひとつは、フランセス・イエイツが『世界劇場』(1969)で述べたルネサンス期ヨーロッパにある。そこでは神秘主義と科学が同居し、世界全体についての知識を得ることができるという思想から生じたさまざまな「知」が、書物や図表や演劇として、物理的・建築的空間に具現化されていた。図書館や劇場は、こうした思想を強化する一種の記憶装置として機能する。この全能的な思想―桂氏はそれを「世界劇場モデル」と呼ぶ―を、これからのアーカイブも継承していくのか。
 第三に、アーカイブは、どんな秩序に沿って提示されるのか。アーカイブ資料は分類と整理をほどこされ、一定の秩序を備えた資料体として並べられる。その配列し秩序化する論理―桂氏はそれを「棚の論理」と呼ぶ―自体は、どのように構成されるのか。レッシグの『CODE』(2000)を参照しつつ、検討すべき問いが提起される。それは社会的に統一された「法」なのか。行動原理としての市場性なのか。それとも、環境管理型権力に通じる可能性をもつ「アーキテクチャ」か。あるいは相互的に醸成される規範なのか。
 第四に、アーカイブにおける「財」とは何か。アーカイブされた資料が何らかの価値をもつ「財」であるならば、その価値はどのような仕組みによってつくられ、管理・調整されるのか。たとえ物資が豊富に存在しても、それを幸福や自由に変換する能力には、社会や個人間で差があると主張した経済学者、アマルティア・センの議論を引用しつつ、アーカイブの〈財としての活用法〉を検討すべきではないか。
 最後に桂氏は、現在開発中の、映像コンテンツの上映権と公衆送信権の売買システム(追求権の行使を可能にし、映像活用の記録にもなる)「ACIETA」を紹介しながら、ものがつくられるごちゃごちゃとした現場と、アーカイブとが一体化した組織の可能性について語った。整然と分類された秩序の美しさだけではない、ローカルなマイクロアーカイブの美しさ―現場で発生したもののありようについて自分たちで決め、それが共有され組織化されることから生じる美しさもあるのだ、と。

(佐藤知久)


第32回アーカイブ研究会

デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉

世界劇場モデルを超えて

講師|桂英史(東京藝術大学大学院映像研究科/メディア研究、図書館情報学)

日時|2020年11月16日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第31回アーカイブ研究会 美術館の資料コレクションは誰のもの?


 松山ひとみ氏は美術館の資料コレクションの観点から発表を行った。これまで美術館は所蔵している資料を主に展覧会や論文で公開してきたが、2022年開館予定の大阪中之島美術館では、利用者による閲覧の制度を整備し海外の研究者にも活用されるよう、情報発信を行うことを基本方針に定めている。美術館がこうした方針を打ち出すのは中之島美術館が先駆で、国内には明確なノウハウがないため、主に北米の情報を参照しながら進めてきた。国内では全国美術館会議によって、資料の所在情報をまず共有する試みが先ごろ行われ、美術館全体で資料を活用する機運が高まっている。
 美術館に関わる資料には、機関に関わる資料と、作品や作家に付随する収集アーカイブズがあるが、収集資料の受入れのプロセスが具体的に説明された。管理番号の付与、資料群の特徴と目的を決める作業指針の策定、資料に付随する各種のメタデータを国際標準化された基準に沿って付与していくが、カタログ化するまでの注意点などを、アーカイブ担当者は、予算や人出、需要に応じて決めていくことになる。必ずしも収蔵作品に関わらない美術関連資料であっても、新たな創作のために閲覧されることがあり、情報資源をさらなる価値創出へ還元する可能性を秘めている。
後半の討議では、作品と資料の曖昧なものや、作品の評価や保存には関わらない周縁的な活動の資料保管の意義、アーティストが独自に分類した資料群の寄贈の可能性、研究者やアーティストによる利活用の可能性も含めて、いかに美術館のアーカイブを社会に開かれた場所にできるかが議論された。

(石谷治寛)


第31回アーカイブ研究会

デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉

美術館の資料コレクションは誰のもの?

講師|松山ひとみ(大阪中之島美術館/学芸員・アーキビスト)

日時|2020年11月10日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第30回アーカイブ研究会 プラットフォームとしての図書館の役割 コロナ禍で露呈した物理的な公共空間としての弱さ



 佐々木美緒氏の発表は、「図書館とは何か」という問いからはじまった。
 日本では、各種図書館それぞれのあり方が、関連する法令によって定められている。大学図書館のばあい、「大学設置基準」(文部省省令、1956年)がそれにあたる。近年では、情報公開(レポジトリやオープンアクセスなど)、学習支援(ラーニング・コモンズ)、学内外の他機関との連携(MLA連携)などの諸機能も求められている。けれども、各大学固有の使命に沿って、必要な資料を系統的に蓄積し、教育研究に役立てる場所という図書館のあり方そのものは変わっていないと、佐々木氏はいう。
 一方で前回の研究会同様、交流やコラボレーションなど、さまざまな活動のための場所として図書館が注目されていることを佐々木氏も指摘する。たとえば近畿大学の「アカデミックシアター」(2017年開設)。ラーニング・コモンズ、産学連携、国際交流などのための専門施設をつなぐ「あいだ」の空間に、松岡正剛氏が監修した「近大INDEX」と呼ばれる独自の分類法に沿って配架された、マンガをふくむ数万冊の書物がならぶ。そこは文字通り、学生が行き交い議論する場所になっている。
 このように現代の図書館像は多様化しているが、それを佐々木氏は、〈共時的〉と〈通時的〉という異なる時間軸に属するふたつの役割から整理する。〈共時的役割〉とは、「同時代の社会における知識・情報・コミュニケーションの媒介機関」としての図書館の役割(場所としての機能)であり、〈通時的役割〉とは、「記録の保存と累積によって、世代間を通じた文化の継承と発展に寄与する社会的記憶装置」としての図書館の役割である(記憶機関としての機能)。そしてどれほど情報を伝達するやり方が変わっても、さまざまな資源を整理して検索可能な形にし、利用者が必要な資源にたどりつくことを助ける専門職者がいる。そうした人的資源によって、これらの機能が支えられている記憶機関、それが図書館なのだと佐々木氏は指摘する。
 まとめるならば、大学図書館とは、大学ごとに特色ある資源を蓄積し、それを教育・学術資源として活用しつつ、その成果をさらに蓄積して発信・公開するための、媒介機関/社会的記憶装置となる。芸術大学について言えば、これからの芸術大学の図書館とは、大学の中にあるさまざまな組織が、それぞれに深めてきた文化芸術資源を広く集約していく一種のプラットフォームになるだろう。学内組織それぞれの「深さ」を連携させ、広がりを持たせることで、大学としての特色ある文化芸術資源としてまとめていくことができるのではないか。佐々木氏はそう提案して、発表を締めくくった。
質疑応答では、検索のためのメタデータ記述に関する中央集権性の問題や、図書館の使命を大学全体で共有することの重要性などについて議論が行われた。

(佐藤知久)


第30回アーカイブ研究会

デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉

プラットフォームとしての図書館の役割
コロナ禍で露呈した物理的な公共空間としての弱さ

講師|佐々木美緒(京都精華大学人文学部/図書館情報学・図書館員養成)

日時|2020年10月28日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第29回アーカイブ研究会 デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉―イントロダクション


佐藤知久氏は、5日にわたる研究会とシンポジウムの前提となるイントロダクションについて説明した。図書館、博物館、アーカイブは、それぞれ携わる人々の専門性によって、見えない壁があるように思えるが、文化資源を扱うという点に関して共通の特性があり、過去の記録を扱う施設や機関の総称として「記憶機関」という言葉を使うことによって、その垣根を崩して議論できる利点があるという。あわせて2023年の京都市立芸術大学の移転を契機に、従来の付属施設の担う役割を捉え直して、新たに連関させる機構の構想が進められていることも説明された。これ
からの芸術や芸術大学にとって記憶機関はどのようなものでありうるべきか?という問いが本企画の大きなテーマである。佐藤氏はデジタル時代に記憶機関がいかに変化してきたか、そのとき、図書館がどのような場所として捉え直されているか、そして芸術大学において記憶機関がどういう役割を果たせるか、事例の紹介と問題提起を行った。たとえばジョージア工科大学の改装された図書館のように、ストレージは外部にある書物のない図書館が開設されている。この場合、デジタル知識へのアクセスを担保するのが図書館の役割となる。というのも北米での公共図書館の役割は、「市民社会の情報インフラストラクチャー」であり、教養に資するだけでなく、何らかのアクションを促すための場所だと捉えられているからである。他方で日本の公共図書館の役割は、教養の提供の場から地域づくりの核となるものに変わっていった歴史がある。芸術大学の図書館はテキストベースの調査の場所だと考えられがちだが、系列的にモノが蓄積されてきた履歴に潜りこみながら、その物質性を新たな創造につなげることにあるのだという。芸術大学の図書館・博物館・アーカイブの連携の可能性を本研究会では探っていく。
 

(石谷治寛)


第29回アーカイブ研究会
デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉―イントロダクション

講師|佐藤知久(文化人類学/芸術資源研究センター教授)

日時|2020年10月16日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第28回アーカイブ研究会 シリーズ:トラウマとアーカイブvol.04     ロマの進行形アーカイブとしての ちぐはぐな住居


岩谷彩子氏(京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)は,人類学の視点で調査研究を行い,インド移動民の夢の語りや,ヨーロッパでジプシーと呼ばれるロマの人々の文化を考察してきた。岩谷氏が調査対象とするのは,ルーマニアに住む金属加工に携わってきたロマの人々が建てる豪奢な建物である。これらは「ロマ御殿」とも呼ばれ,写真集も出版されている。岩谷氏は,この独特の建物は,記憶の反復や持続に基づく民俗学や伝統の産物というより,安定性のない「進行形アーカイブ」だと述べる。どういうことか?
岩谷氏は,その学術的背景として,近年の記憶研究を整理する。1990年代頃から「集合的記憶」(アルヴァックス)や「記憶の場」(ノラ)といった共同体の記憶を通して歴史を再構築する議論が活発になってきたが,他方で,想起に抗う記憶,共同忘却によって立ち上がる共同性といったトラウマ記憶への着目もあった。そのとき,番号化して分離・管理の道具とするアーカイブではなく,喪の作業としてアーカイブを捉える試みもなされた。たとえば美術家ボルタンスキーのような個々の遺物に名前を与え不在を共有するアーカイブ・アートや焼け焦げた跡など資料の物質性に注目する「不完全なアーカイブ」などである。岩谷氏は,ロマの家屋の様式のもつ象徴論的分析を超えた,そこを人が生きるプロセスに注目し,それを「進行形アーカイブ」としてロマの建築物の考察を続けている。それは身体と物質との関わりの中で立ち現れる環境でもあり,衣服の延長のように外部に開かれた建築であり,記憶が内面から外面へと折り広げられる場所だろう。
そもそもロマは,遊動性の高い移動生活を送るがゆえに,記録や民俗的な起源については無関心で,死に対する忌避の傾向も強いと考えられる。死者を歪めてしまうことへの恐れから,遺物を残すことへのこだわりも低く,長年の構造化された差別の経験から,対抗記憶を表明する人権運動もさほど活発にはなっていない。ルーマニアでは1864年の奴隷制度からの解放後にもロマへの差別は続き,ナチスドイツの占領後には反社会的な存在として強制収容された。戦後にロマの人々は,メタルとスクラップを売る仕事に従事し,工業化のなか蓄財をなす人々も増えた。1990年代以降に,西ヨーロッパに移住して出稼ぎをし,戦後の賠償金がなされるようになって,家を建てるというトレンドが起き,とりわけルーマニア南部の街ストレハイアでは御殿が次々と建てられるようになったのだという。
岩谷氏は調査で訪れた部屋の写真を見せながら,その目を惹く折衷的な様式からなる外観(ロマのインド起源説にもつながるアジア建築の様式やボリウッド映画スタイルの大邸宅とルーマニアの新古典主義やフォーク建築の折衷),それと対照的な空っぽの部屋(2階には誰も住まず,死者の遺物だけで満たされたり,孫のためのぬいぐるみだけが置かれたりし,大家族の客人が泊まる部屋として使われる)や,ファサードだけ設えられ建設途中で放置された建物などを紹介した。そうした開かれた家の住人の聞き取りから明らかになるのは,強制連行を逃れる途上の迫害や飢餓を生き延びながら,わずかな持参材を生き延びる糧にした経験である。
とりわけ74歳の男性のトランスニストリアでの経験の証言は不思議な夢のようで象徴的だ。彼は警察に追い立てられ馬を奪われ地下に2年間住まわされた。そこから退去させられて帰還後は,金を飲み込んで隠して持ち運び,後に便にして体外に排出することでその財を守って生き延びたという。そして近年の金の価格の高騰や賠償金によって,家が建ったのだ。移住と定住の狭間で,金が文字通り身体の内外を出入りすることで,死と生の価値が反転するような経験を,この家と人は記憶しつつも未来の忘却へと開け放っている。人類学者もまた,そのファサードの内側や証言者の内部に踏み込みながらも,その「進行形アーカイブ」を外へとつなげるメディエーターとなる。岩谷氏は,連続した記憶を持たない民は,家を残すのではなく,「エスカルゴのように脱ぎ捨てていく」,「そうしなければ生きていけなかった」という。
講演には,崇仁地区の街の記憶に取り組む人々の参加もあり,記憶の向き合い方についての類縁性も語られた。苦しい思い出を言いづらいと逆に,見栄を張って内部の人間に対して見せびらかす文化が生じるという。そうした内面は,外部の人間が調査に立ち入ることで,より複雑な表情を見せるだろう。聞き取りをして記録に残し,その記憶を内外で分かち合うことの意義があらためて確認された。

 

(石谷治寛)


第28回アーカイブ研究会

シリーズ:トラウマとアーカイブ vol.04
ロマの進行形アーカイブとしてのちぐはぐな住居

講師|岩谷彩子(文化人類学/京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)

日時|2020年2月18日(火)14:30−16:30

会場| 京都市立芸術大学芸術資源研究センター,カフェスペース内

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