エリック・アンデルセン オーラル・ヒストリー

2014年4月21日 京都市 ホリーズカフェ四条室町店
インタビュアー:柿沼敏江
書き起こし:柿沼敏江 

エリック・アンデルセン(Eric Andersen)
1940年ベルギーのアントワープ生まれ。デンマークのコペンハーゲン在住のアーティスト。子供の頃から音楽に親しみ、デンマークの著名な作曲家に作曲を学んだが、1959年以降はインターメディア・アートに関心を持つようになる。1962年11月フルクサスの創設メンバーとなり、第2回フルクサス展——コペンハーゲンのニコライ教会で開催されたフェスティヴァル——に参加し、最初のフルクサスの出版物『ザ・ロールThe Roll』に貢献した。1965年、ニューヨークに滞在して、様々な場所でパフォーマンスを行なう。1962年から65年にかけてはドイツのアーティスト、アルトゥール・ケプケと一緒に制作を行ない、1960年代後半にはメール・アートに携わった。また70年代には地理的な空間に関心を持つようになる。2014年4月に東京都現代美術館で開催された「フルクサス・イン・ジャパン2014」のために初来日。代表作として《隠された絵画》、《泣く空間》、《太陽の芝生》、そして演奏のたびに作品番号が変わる4人のピアニストのための《Opus XXX》がある。インタヴューには夫人のインゲ・アンデルセンも参加した。


エリック・アンデルセン・オーラル・ヒストリー

柿沼:今回「フルクサス・イン・ジャパン2014」に参加されました。どのような印象をもたれましたか。フェスティヴァルについてどう思われましたか。

エリック・アンデルセン:ひじょうに感銘を受けました。もともとは、他に6人のアーティストが参加するはずでした。一人がアリソン・ノウルズでしたが、参加することができませんでした。ベン・ヴォティエも参加できませんでした。この二人のかわりに、ミラン・ニザクとベン・パターソンになったんです。アリソンとベン・ヴォティエだったらより強い存在感があるので、よかったのですが。でも、問題はありませんでした。人は年をとりますし、そうなったらもう旅行もできません。し方がないことです。
今回のフェスティヴァルについてですが、アーティスト全員が自分だけの日を持ちましたが、これはそうしばしば行なわれる形態ではありません。ひじょうに強烈な形態で、みなが集団で行なう日だけでなく、すべてのアーティストが責任をもってやる日があったのです。こうしたことすべてによって、ひじょうにいいフェスティヴァルになりました。そして一種のフィナーレのような形で、すべてのアーティストが一緒になって、出席できない人たちのプログラムを決めたのです。こうして私たちは代表者となり、またインターメディア作品の視野を示したのです。
素晴らしいフェスティヴァルを開催してくれたと思います。とくに西川美穂子(注:東京都現代美術館の学芸員)さんが尽力してくれたと思います。西川さんの姿勢、そして彼女がとても忙しく働いてくれて、細かいことに至るまでオーガナイズしてくれたことに感銘を受けました。彼女は何かを忘れるということはありませんでした。またいいヴォランティアを集めてくれました。だからひじょうに感激しました。これまでで最高のフルクサス・フェスティヴァルのひとつだと思います。

柿沼:それはよかったです。たしかに今回のフェスティヴァルでよかったのは、すべてのアーティストが自分の日を持ったということです。それでいて、自分の作品だけでなく、他のアーティストの作品もやりました。とてもいいことです。

エリック・アンデルセン:自分の作品だけではなく、多くの作品から選択をしました。膨大な数の作品があったんです。ですから、こうした多くの作品のなかである種のパースペクティヴを持つ必要がありました。そしてすべてのアーティストが自分自身の解釈を行いました。とてもよかったと思います。

柿沼:そうですね。またコラボレーションはフルクサスにとってキーワードとも言えます。

エリック・アンデルセン:私たちが合意しているのはたったひとつのことについてだけです。フルクサスのアーティストはひとつのことについて合意しているのですが、それは、フルクサスは運動ではなかった、芸術運動ではけっしてなかったということです。

柿沼:ではフルクサスは何なのでしょうか。グループでも運動でもないのなら、フルクサスは何でしょうか。

エリック・アンデルセン:フルクサスはネットワークです。というのは、歴史上でアーティストがネットワークを持ったのは始めてのことなのです。これは批評家がつくったものではなく、また流派でもありません。誰かが何かを組織したのではないのです。ネットワークをつくったのはアーティスト自身なのです。それはインターナショナルな、グローバルなネットワークです。ずっと私が言ってきたことですが、フルクサスはコンピューター以前に生まれた最初のインターネットなのです。

柿沼:ああ、それはとても面白いです。なるほど。

エリック・アンデルセン:それに興味深いのは、62年に私たちが使った用語、たとえばグローバリズム、インタラクション、同時性といった言葉が、80年代に86と呼ばれるプロセッサーとともに最初のコンピューターが登場したときに、ふたたび現れたことです。62年に使われたのと同じ用語が使われたのです。

柿沼:それは一種の集合知のようなものと考えていいでしょうか。

エリック・アンデルセン:そうです。

柿沼:集合知の前兆だった。

エリック・アンデルセン:そうです。しかしまた私たちの精神は62年にこうした種類のグローバルなコミュニケーションに向かっていました。そして、そちらに精神が向かうと、社会が発展し、その後にテクノロジーが発達します。ですから、実際にこうした理解のし方を進めることになるのです。

柿沼:なるほど。ある記事で述べていらっしゃることですが、1959年にインターメディアの作品を制作されています。これはひじょうに早く、フルクサス以前のことです。何という作品でしょうか。ご説明いただけますか。

エリック・アンデルセン:59年に、私は8ミリの映像をやっていました。紙がありますか?そうしたら描いてみせてあげられます……。

柿沼:はい。

エリック・アンデルセン:これは建物です。トーヴァルセンと呼ばれる美術館です。ひじょうに有名な18世紀デンマークの彫刻家トーヴァルセンの美術館です。ここで8ミリ映画を制作しました。最初にこれを撮り、次にこれを撮り、そしてこれを撮りました。こうして一連の映像を撮影して、ファサード全体をカバーしました。それからパフォーマンスのために人々がやってきて見られるようにしました。そして同じ映像をファサードに戻して映し出したのです。ですから、撮影されたものに投影された映像でした。それが59年にやったことです。それから後で、美術館のなかで、ピアノを使って別のパフォーマンスをしました。それが60年でした。ピアノと打楽器の曲でした。

柿沼:ピアノと打楽器の曲ですか?

エリック・アンデルセン:そうです。

柿沼:それはインターメディアの作品ですか。

エリック・アンデルセン:そうです、インターメディアの作品です。

柿沼:どうしてでしょうか。それは音楽作品ではないのでしょうか。

エリック・アンデルセン:ピアノが使われ、打楽器が使われていますが、楽譜はたくさんの指示を、どう演奏するかについて様々な可能性を与えるものでした。でも、これを演奏できる人はいませんでした。複雑すぎたんです。誰も適切なヴァージョンをつくることができない。それに近いことができるだけなんです。実際に演奏することはできない。せいぜい一部を演奏することができるだけです。複雑すぎました。演奏するときに、あまりにも多くのパラメーターについて考えなくてはいけないんです。だから実現不可能なスコアでした。そういうわけでインターメディアの作品なのです。

柿沼:なるほど。さきほどの記事に戻っていいでしょうか。というのは、フルクサス以前の時期のあなたの初期の活動について情報を見つけることができなかったんです。

エリック・アンデルセン:そうでしょう。61年にも……。金曜のコンサートには行きましたか。先週の金曜のです。

柿沼:ええ、行きました。

エリック・アンデルセン:4人のピアニストによるピアノの曲があったでしょう。

柿沼:はい、もちろん拝見しました。

エリック・アンデルセン:あれは61年の作品です。

柿沼:本当ですか。

エリック・アンデルセン:そうです。

柿沼:あなたのバックグラウンドは何なのだろうかと思っているのですが。音楽ですか。

エリック・アンデルセン:そうです。音楽家になるための教育を受けました。14歳のときに最初の音楽作品を書きました。音楽家は美術家より早く活動を開始しますから。

柿沼:音楽を学ばれたんですね。

エリック・アンデルセン:はい、音楽を学びましたし、作曲家として教育を受けました。14歳で最初の曲を作曲しました。そして最初のインターメディアの作品は、59年、60年、61年のものです。でも、作曲だけするのではないことはいつも分かっていました。ひじょうに受動的な聴衆とオーケストラにおけるひじょうに強固なヒエラルキーというコンサートのあり方には、まったく反対していました。聴衆と何らかのインタラクションをしていましたし、音楽家にはまったく違うやり方で互いに関わりあうようにしました。

柿沼:なぜあなたはご自分の作品に作品番号(opus number)をつけるのだろうと思っていたのですが、だからなんですね……。

エリック・アンデルセン:そうです。でもopusはただ作品を意味するだけです。ラテン語で作品の意味です。

柿沼:そうですが、ふつうは作曲家が自分の作品にオーパス番号をつけるんです。美術家ではなくて。美術家はopus番号をつけたりしません。

エリック・アンデルセン:私はもともと音楽をやっていましたから、opus番号をつけたんです。でも、私が使う番号はまったくランダムに選ばれています。Opus no.1は最初の曲ではなく、opus no. 2は次の曲ではありません。作品にはその度ごとに新しい番号をつけます。

柿沼:そうするとopus no.1は14歳のときの作品ではないのですか。

エリック・アンデルセン:いいえ違います。

柿沼:opus no.1は何の作品でしょうか。

エリック・アンデルセン:私は作品について言うたびに、違う番号をつけています。ある作品がopus 51と呼ばれることもあれば、次のときにはopus 32と呼ばれるといった具合に。今回やったマッサージの作品は、正確には覚えていませんが、《opus 140-0022》です(註:実際の番号は《Opus 135-0022》)。

柿沼:では作品番号1はないのですか。

エリック・アンデルセン:ありません。この作品を次回に作品番号1と呼ぶことはできるでしょう。この番号は美術館の郵便番号なんです。《Opus 144-0022》(《opus 135-0022》)は美術館の番号だったんです。もし明日これをやるなら、opus no.1と呼ぶことができます。それでいいんです。

柿沼:たいへん面白いです。音楽は、音楽院か大学で勉強されたんですか。

エリック・アンデルセン:個人的に先生に習いました。当時、私の父は裕福でしたから、最高の先生を見つけて作曲を教えてもらう約束をしました。そして父が引退するときに、父の事業を引き継ぐことにしました。でも事業は継がないで、いい先生だけつけてもらったんです。

柿沼:誰に作曲を習ったんですか。

エリック・アンデルセン:イブ・ネアホルム(Ib Nørholm)といったデンマークの作曲家たちです。ネアホルムはひじょうに有名なデンマークの合唱作曲家です。

柿沼:名前を書いていただけますか。

エリック・アンデルセン:これはデンマーク特有の……。ニールス・ヴィゴ・ベンソン(Niels Viggo Bentzon)もひじょうに有名な作曲家です。それからヘアマン・ダーヴィド・コペル (Herman David. Koppel)。この二人はもう亡くなりました。この人(ネアホルム)はいま85歳かそのくらいです。そしてピアニストのアンケル・ブリーメ(Anker Blyme)。彼はピアニストですが、それ以外の人たちは作曲家です。ブリーメはピアニスト兼作曲家です。

柿沼:一人有名な作曲家を知っています。ニールセンです。

エリック・アンデルセン:何?

インゲ・アンデルセン:カール・ニールセン?

エリック・アンデルセン:そう、彼はもう大分前に亡くなりました。

インゲ・アンデルセン:そして有名です。

エリック・アンデルセン:ただこの人たちは、私が習い始めた50年代には30歳代、40歳代でした。いまはもうほとんどが亡くなるか、ひじょうに年をとっています。

柿沼:なるほど。でもこういうことはまったくおっしゃっていませんね−−つまり、あの記事のなかであなたの音楽上の経歴についてはおっしゃっていませんでした。それで、もしかしてあなたは音楽出身ではないかと思っていました。

エリック・アンデルセン:フルクサスのネットワークの人たちを見てみたら、演劇から出てきた人もいれば、美術からの人もいます。ディック・ヒギンズを見てみると、彼は作曲家だったことが分かります。彼は美術の教育はまったく受けていません。ラ=モンテ・ヤング、テリー・ライリー、そして塩見允枝子もいます。

柿沼:そうです、それにオノ・ヨーコも大学で音楽を学びました。

エリック・アンデルセン:彼女も音楽から出発しました。一柳も。

柿沼:一柳と小杉がそうです。

エリック・アンデルセン:ですから、多くの人たちが音楽の素養があったんです。実際……。それからジャクソン・マクロウのように何人かは文学出身でした。フィリップ・コーナーも音楽をやりました。ですから、ネットワークをつくっていたのはひじょうに多様な一群の人たちでした。そして私たちが様々な伝統の、そして世界の多様な地域の出身だったことは、フルクサスの強力な要素のひとつだと思います。つまり本当の意味で国際的な現象だったんです。

柿沼:素晴らしいです。ここで1962年のヴィースバーデンにおける最初のフルクサス・コンサートに戻りたいと思います。アンデルセンさんはこれに参加されましたか?

エリック・アンデルセン:いいえ。

柿沼:参加されていませんね。そうするとフルクサスの運動、というかネットワークに最初に参加されたのはいつでしたか?

エリック・アンデルセン:ヴィースバーデンのすぐあとです。62年11月にコペンハーゲンで参加しました。

柿沼:62年11月というと、同じ年ですね。

エリック・アンデルセン:そうです。でも面白いのは、ヴィースバーデンでみなが会ったとき、参加したのは当時ドイツに住んでいた人たちでした。ベン・パターソン、エメット・ウィリアムズ、ナム・ジュン・パイク、そしてジョージ・マチューナスです。それからアリソン(・ノウルズ)とディック・ヒギンズが合衆国からやってきました。ドイツ国外から来たのはこの二人だけでした。そしてそのときには、フルクサスという言葉は、用語として使われていませんでした。

柿沼:何と呼んでいたのでしょうか。

エリック・アンデルセン:私たちはこれをインターネディア、あるいはアクション、あるいはイヴェントと呼びましたし、色々な言い方で呼びました。私は自分の作品を「オカランシズoccurrences」と呼びました。それから「アート・トータルart total」という言い方もありました。ベン・ヴォティエは作品を「アート・トータル」と呼びました。また「アクション・アート」という言葉も使いました。ですから数多くの言葉が使われたんです。しかし、ジョージ・マチューナスはいつも亡命リトアニア人のための文芸誌をつくる夢を持っていて、その雑誌を「フルクサス」と呼びたいと思っていました。しかし、彼はそれを実現できませんでした。リトアニア人のための文芸誌を出版するためのスポンサーがなかったんです。
それで、マチューナスはヴィースバーデンで合衆国空軍の仕事をしていたときに――彼がそこにいた理由は、ニューヨークで破産したからなんです。債権者から逃げなくてはならなかったんです。殺されそうになったので、国外に持ち出しました。それでヴィースバーデンの空軍に仕事を得たんです。アメリカ空軍の本部で、彼はそこでグラフィック・デザイナーをしていました。そしてヴィースバーデンのフェスティヴァル全体が空軍の費用で賄われましたが、空軍はそのことを知りませんでした。合衆国空軍から必要なものを持ち出して、フェスティヴァルのために使ったんです。
それから、彼はこれをフルクサスと呼びたくなったのです。もうこの言葉がありましたから。それ以前には他の人たちはこの言葉を聞いたことがありませんでした。しかし私たちは58、59、60年よりずっと前からあのような作品をやっていたのです。そしてこのフェスティヴァルの最初の批評が出たときに、それは4つの異なるコンサートについてでしたが、最初のコンサートの後で、新聞はフルクサスと呼びました。その見出しは「フルクサスはスキャンダルだ、狂人たちは異常だ」でした。ですから最初にフェスティヴァルをフルクサスと呼んだのは報道機関なのです。マチューナスがこの言葉を使っていたからです。私たちはフルクサスと呼ぼうと決定したことはありません――けっしてありません!「フルクサス」という言葉をつくったのは報道機関です。それで私たちは突然、フルクサスに
なったのです。それ以前は、「アクション・アート」であり、「イヴェント」「オカランシズ」「アート・トータル」「ミュージック・シアター」その他数多くのものでしたが、突然私たちは「フルクサス」になったんです。

柿沼:報道機関がヴィースバーデンのフェスティヴァルを「フルクサス」と呼んだんですね。

エリック・アンデルセン:そうです。それで私たちは突然、名前を持ったのです。

柿沼:そうですか。分かりました。それであなたはご自分のフルクサスの活動を始めたということですね。

エリック・アンデルセン:いいえ私はフルクサスという言葉を使いませんでした。

柿沼:使わなかったのですか。

エリック・アンデルセン:まったく使いませんでした。

柿沼:でも……。

エリック・アンデルセン:それからマニフェストがありました。ジョージ・マチューナスが64年にデュッセルドルフでマニフェストを書きましたが、誰も署名しませんでした。それにジョージ・マチューナスはまったくフルクサスを理解していませんでした。彼は運動を、芸術運動を起こしたかったし、ブランドをつくりたかった。特別のデザインをつくりたかったのです。私たちはみな同意しませんでした!それに……。

柿沼:そうするとマチューナスと他の人たちとの間に大きな軋轢があったのでしょうか。

エリック・アンデルセン:ええ。それは軋轢ではなかったのですが、彼には別の意図がありました。また私たちはひじょうに柔軟な態度をとっていて、彼がもしそうしたければ、それでOKで、彼はそうすることができるのですが、私たちは別のやり方をとっていました。彼はあの例のボックス、プラスティックのボックスを制作しました。私たちが自分の作品を制作するやり方を見てみてください。私たちは小さなプラスティックのボックスをつくったりしませんでした。それは彼だけのやり方です。でも、それはOKなのです。やりたいことをすればいいので。プラスティックのボックスを提供したければ、そうすることができるんです。でも私たちは同意したことはありません。たとえば、ジョージ・ブレクトの作品を見てみると、彼が制作した作品は、ジョージ・マチューナスが制作したのとはまったく異なるやり方で制作されていました。しかし、私たちはひじょうにオープンで柔軟で寛容な関係をお互いに持っていました。これをしていいですよ、あれをしていいですよ、といった具合に。
そして実際、私たちの基本的な態度は、もし誰かが何かとてもいいことをしたら、とてもとても喜ばしいということです。なぜなら、そうしたらそれを自分でやる必要はないし、何か違うことができるからなんです。ですから、私たちはシーンをつくったり、アウトラインや特別のフォーマットをつくろうとはしませんでした。皆がいつも、異なる方向に進もうとしていました。そしてそれはとてもうまく行きました。というのは、私たちは一緒に住むこともなければ、同じ町にいるわけでもないので、ネットワークのなかにいる人たちよりも、ネットワークにいない人たちとより多く仕事ができるからです。そしてそれはまったく正しいのです。なぜなら、ネットワーク上の人たちよりも、ネットワークにいない人の方が多いからなのです。

柿沼:なるほど。ネットワークを効果的なものにするという目的で、アンデルセンさんのメール・アートはネットワークに大きな作用を及ぼすように思われます。あなたのメール・アートについてご説明いただけますか?どういう種類のメール・アートだったんでしょうか。

エリック・アンデルセン:メール・アート作品はコンピューターの代替物です。当時、私たちはインターネットのメディアとしてのコンピューターを持っていませんでした。そのかわりに郵便がありました。それでいつも情報を郵便でやりとりしていました。しかしそれは……。

柿沼:どのような種類の郵便を使っていたのでしょうか。

エリック・アンデルセン:葉書です。

柿沼:葉書に何を書いたのですか。

エリック・アンデルセン:たとえば、62年には世界中のさまざまな場所に座っている人たちが、同時に同じことをする作品をつくりました。

柿沼:書いたことは……。

エリック・アンデルセン:そのときには時間を書きました。

柿沼:音符や言葉や何かは書きましたか。

エリック・アンデルセン:いえ、世界中で同じときにしたいことをするのです。誰も作品全体を聴くことはできませんが、62年の特定の日に、世界中であるタイム・スケジュールにしたがってみなが接点を持ったことを知りました。この郵便は、作品は私たちが送ったスコアではなくて、むしろ私たちがしたことの報告のようなものになりました。

柿沼:報告ですか?

エリック・アンデルセン:そうです。スコアと呼んでいるものはしばしば私たちがやったことの報告なんです。やりたいと思っていることではなくて、すでにやったことなんです。そしてネットワークの他の人たちに、それについて知らせるのです。そうして、これらの報告のほとんどは様々な人たちの未来のパフォーマンスのスコアとして使われるのです。

柿沼:そのメール・アートはいつ始められたのですか?

エリック・アンデルセン:60年にはもう始めていたと思います。

柿沼:60年ですか?

エリック・アンデルセン:60年です。

柿沼:60年!

エリック・アンデルセン:そうです、フルクサスの2年前です。

柿沼:1960年!

エリック・アンデルセン:そう。

柿沼:まあ、それが本当なら、とても早いです。

エリック・アンデルセン:私たちはフルクサス以前に接触していました。エメット・ウィリアムズやラ=モンテ・ヤングは62年より前に知っていました。でも、もちろん62年以降により多くの人たちと知り合いました。それ以降により有効なネットワークになってきましたから。それから私たちはフルクサスの他の人たちが住んでいる様々な都市に旅行し始めました。これはとても重要なことでした。私たちはお金がなかったからです。
それで、ニューヨークに行ったときには、ホテルには泊まりませんでした。ディック・ヒギンズのところに滞在し、それからジョージ・マチューナスのところにやっかいになりました。それからディック・ヒギンズがコペンハーゲンに来たときには、彼はホテル代が払えなかったので、私のところに泊まりました。こうやって旅行するときには、お互いに一種の地域の拠点になったのです。これがフルクサスのネットワークにおける機能そのもので、私たちはお互いに一種の施設、地域の施設になったのです。

柿沼:先日、マンハッタンに泊まったとおっしゃっていたと思いますが。

エリック・アンデルセン:はい。

柿沼:ニューヨークにはどのくらい滞在されたのですが。またそれは何年ですか?

エリック・アンデルセン:65年に三ヶ月いました。

柿沼:65年ですね?

エリック・アンデルセン:はい。

柿沼:三ヶ月ですね?

エリック・アンデルセン:はい。ニューヨークではたくさんパフォーマンスをしました。そのひとつは、ブリーカー・ストリートとウェスト・ブロードウェイの角にあったカフェ・オ・ゴーゴーでやりました。それからイースト・エンド・シアターでは、ジョージ・マチューナスが一連のパフォーマンスをオーガナイズしてくれました。そのときのポスターを見たら、そこにはオノ・ヨーコ、久保田成子、ウィレム・デ・リター、私、それから他の何人かが出ています。それぞれがそこでやったんです。また私は、ディック・ヒギンズとアリソン・ノウルズ、アル・ハンセンと一緒にプロヴィンスタウンに行って、「第1回ハプニング世界会議」を行いました。

柿沼:ハプニングですか?

エリック・アンデルセン:そうです。「第1回ハプニング世界会議」です。「第2回世界会議」や「第3回世界会議」はありませんでした。やったのは、アル・ハンセン、ディック・ヒギンズ、アリソン(・ノウルズ)そして私です。ですから、それはたった4人の小さな世界会議でした。

柿沼:アラン・カプロウは参加しなかったのですか。アラン・カプロウは。彼を知っていますか?

エリック・アンデルセン:もちろんです。

柿沼:彼は参加しなかった?

エリック・アンデルセン:はい。

柿沼:アラン・カプロウについてはどう思いますか?

エリック・アンデルセン:彼はひじょうに重要だと思います。58年に最初のハプニングをやりました。

柿沼:そうです。でも彼はフルクサスではありませんね。

エリック・アンデルセン:彼はネットワークの一部でした。しかし彼の作品はより教育的で、他のアーティストの作品よりもアカデミックでした。また彼は生涯大学教授をしていました。

柿沼:そうです。実際、私はカリフォルニアで彼に学びました。また彼のクラスも受講しました。

エリック・アンデルセン:彼は素晴らしい人でした。

柿沼:ああ、そうです。

エリック・アンデルセン:いくつかの作品はひじょうにいいです。

柿沼:はじめて彼に会ったとき、彼はジョン・ケージの弟子だと言いました。それから禅センターにも通っていました。

エリック・アンデルセン:彼はひじょうにいい人でした。しかし、ソロで仕事をする方を好みました。

柿沼:ソロですか?

エリック・アンデルセン:はい。他の人たちと一緒にプログラム全体をやったりはしませんでした。彼は最初から最後まで完璧にコントロールしましたから。でも彼はヨーロッパとアメリカの両方で何度もやっていましたし、いつもいい関係を持っていました。彼が自分はジョン・ケージの弟子だと思っているのなら、面白いですね。というのは、ナム・ジュン・パイクに聞いたら、彼は「僕はジョン・ケージが好きだ。僕にとって祖父のような存在だけど、彼の哲学は信じない」と言うでしょう。ですから、芸術的には彼はジョン・ケージに感銘を受けたり、影響を受けたりはしていません。しかし、年上の人物としてケージを気に入っていました。ケージは重要なことをしましたし……。

柿沼:個人的にはジョン・ケージを尊敬していたのでは?

エリック・アンデルセン:そうですが……。

柿沼:アーティストとしてではなく?

エリック・アンデルセン:それはフルクサスの他の人たちにも言えることで、私たちはジョン・ケージが達成したことについて、彼がとても好きでした、でも彼をインターメディアのアーティストとは見ていませんでした。むしろクラシック音楽の作曲家と思っていました。ですから彼はフルクサスの父とか何かではないんです。絶対にそうではありません。みんな彼がとても好きでしたが。

柿沼:分かりました。アンデルセンさんは1996年にヨーロッパの文化的首都のための大きなイヴェントをしました。そこで生きた羊を含めた様々な作品を発表しました。これについて説明していただけますか?たいへん面白いです!

エリック・アンデルセン:それまでこんなに多額のお金を使ったことはありませんでした。3日間のイヴェントのために100万ドルあったのです。そのやり方ですが、毎晩8時に2000人の聴衆が中世の教会にやってきたのです。そして私は合唱とオルガンの音楽でコンサートを催しました。1時間半かそのくらいかかりました。
それから、2000人の聴衆はそれぞれ200人ずつの10のグループに分けられました。私は世界中から10人のアーティストを招いていました。ラリー・ミラー、ウィレム・デ・リター、そしてイタリアからニコリーニなどが来ました。10人の様々なアーティストが、この200人の人たちとイヴェントを行なったのですが、彼らは町の頂上にある大聖堂から、ロスキレと呼ばれる唯一の中世の首都である町を通過して、フィヨルド(峡湾)にある古いヴァイキングの集落まで行くのです。そしてそこで私はヘリコプターでバラッドをやりました。5台のヘリコプターが空のバラッドを演じたのです。500人の歌手がフィヨルドを歩きました。水の上を歩くという問題を実現したんです(注:エンジニアたちが水の表面から3センチ下に、長さ200メートル、幅10メートルの橋を建設した。橋は浮いていて、フィヨルドの潮流にともなってその位置を変えるようになっていた。すべて均衡がとれており、500人の歌手を乗せても、なお水面下3センチのところに留まっていた。そして歌手たちが水のうえに立って、歩いているイリュージョンをつくりだした)。
そして大聖堂からフィヨルドまでのあるツアーには、走り回る200匹の羊が参加しました。羊は犬にコントロールされていて、とてもいい犬たちでしたから、羊の群れを完璧にコントロールしました。この犬たちが羊を連れて、町じゅうを廻ったのです。彼らは広場や通りを訪れ、公園を抜けました。とても田園的な情景でした。ある日、群れのひとつがコントロール不能になり、土手に行ってしまい、土手の植物を全部食べてしまいました。土手にとっては不幸なことになりました。

柿沼:でもそれは昼間やったんでしょうか。それとも夜、夕方ですか?

エリック・アンデルセン:晩の8時から真夜中までです。

柿沼:羊は町を廻ったのですね。

エリック・アンデルセン:そう、廻ったのです。

柿沼:驚きました。

エリック・アンデルセン:でも、あの記事は細かいことが書いてないのです。記事の一部でしかありません。

柿沼:実際のところ、あなたの作品を見たのは、今回が始めてです。というのはあなたにとって、今回がはじめての来日になりますから。あなたの他の作品は何も知りません。ですから、《隠された絵画Hidden Painting》や《泣く空間Crying Space》といった作品についても説明していただけますか。どんな作品をおやりになったのでしょうか。

エリック・アンデルセン:《隠された絵画》は90年にコペンハーゲン国立美術館で行なった作品の一部です。それは3つの部分からなる作品で、《Opus 90》と呼ばれました。90年にやったからです。
美術館の入り口には大きなホールがあって、高さが18メートル、少なくとも一辺が50メートル、もう一辺が30メートルあります。巨大なエントランス・ホールです。そしてそのホールに、一辺1メートルの立方体の箱をつり下げました。50個の箱が異なる高さで天井からつり下げられました。ところが観衆は箱の中を見ることができません。というのは、ひじょうに高いところにつり下げられているからです。それで観客は動くリフトで箱のところまで行かなくてはならないのです。建物の正面などで仕事をするときに、リフトと呼ばれる機械を使います。一人か二人の男性が立っていて、コントロールします。それでやってきた人が色々な地点を訪れることができるのです。そのリフトに乗り込むと、美術館のガードがコントロールします。そのときに、ひとつの選択しかできません。つまり50個の箱のうちひとつしか選べないのです。そうするとガードがその箱まで上げてくれます。そして居たいだけ長くそこに居ていいのです。お望みなら一日中居ることもできます。スーパーマーケットで列をつくる人のように、人の列ができました。そうしてこの50個の箱の宇宙を訪れたのです。これがひとつの要素です。もうひとつの要素は、たくさんの椅子があって、テクストが書かれた、というか印刷された50個の椅子です。エリック・アンデルセンの無作為で選ばれた一般の観衆は、この椅子をとって、美術館のどこにでも置くのです。これは完全に自由な要素です。もうひとつの方は、ひじょうに厳格な規則によってコントロールされていましたが。
そして《opus 90》の3番目の要素はひとつの絵画でした。幅15メートル、高さ8メートルの巨大な壁画です。私が自分で描いたのではありません。ある女性にこの絵を描いてほしい、描きたいものを描いていいと頼みました。しかし、この展覧会の後、この絵画が卓抜な技術をもつ保存者によって隠され、将来ずっと保護されることになることを、彼女は知らされます。でも誰も見ることができないのです。それは隠された絵画なのですから。芸術のコレクションのなかではじめての隠された絵画なのです。
6週間くらいたった後、箱は下ろされ、椅子は美術館中に散らばり、そして絵画は隠されました。いまキオスクに行くと、絵はがきを買うことができます。それで《隠された絵画》がどのようなものかを見ることができますが、実物は見られません。壁に隠された場所を見ることができるだけです。壁にはここに《隠された絵画》があります、という注意書きが書かれています。

柿沼:その絵はがきを見なくてはいけません。

エリック・アンデルセン:絵はがきは見ることができますが、絵は見られません。そして面白いことに、モナリザが1920年代に盗まれたときに、もはやそこにはない盗まれたモナリザを見に多くの人たちがルーヴルを訪れたんです。前よりも多くの人たちが来たんです。モナリザがあったときよりもなくなってからの方が人々は頻繁にやって来ました。

柿沼:それは面白いです!

エリック・アンデルセン:ええ。多くの人たちが隠された絵画を見にコペンハーゲン国立美術館にやってきます。

柿沼:まだそこにあるんですか?

エリック・アンデルセン:まだあります。永遠にあるでしょう。美術館との契約で、この絵はけっして再び開示されることはなく、将来ずっと隠されたままにしておくことになっています。

インゲ・アンデルセン:そう、ここに写真を持ってきていました。持ってないかしら?

エリック・アンデルセン:いや持っていないよ。

柿沼:持っていないのですね。分かりました。それが《隠された絵画》ですね。

エリック・アンデルセン:女性が絵を描きました。その絵を描いてもらうために選んだ人には3つの基準がありました。まず女性でなくてはいけません。コペンハーゲン国立美術館のコレクションに入っている女性は、もちろんほんのわずかです。その女性はギャラリーに絵を高値で買い取ってもらうために、評判のいい人でなくてはいけません。こんな絵は価値がないとは誰も言わないような人でないといけないんです。高い価値があると皆が同意してくれなくてはなりません。第3の基準は、その人の作品が美術館のコレクションに入っていないことです。私はこのようにして、キュレーターの許可なくその人の絵をコレクションに入れることにしたのです。だから美術館は何を買うのかを決めることができず、彼らが何を買うかを私が決めたのです。

柿沼:その人の名前は何ですか。書いていただけますか?

エリック・アンデルセン:いいですよ。リーサ・マリノフスキーです。

インゲ・アンデルセン:実際、それは彼女にとってそれまでで一番いい作品だと思います。

柿沼:そうですか。

インゲ・アンデルセン:そうです。一番いい作品だと思わない?

エリック・アンデルセン:そう、絶対に一番の作品です。リーサ・マリノフスキーにとって。

柿沼:彼女はロシア人ですか?

エリック・アンデルセン:いえ、デンマーク人です。

インゲ・アンデルセン:彼女のご両親はもしかして……。

柿沼:ロシア?

エリック・アンデルセン:そう、ロシアです。

インゲ・アンデルセン:ずっと昔は。彼女の家族はロシア出身です。

柿沼:それは興味深いです。

エリック・アンデルセン:それから箱ですが、いまはコンピューターで操作されています。コンピューターがどの箱が美術館に現れるのか、またどれくらいの長さ現れるか、どういうコンセプトかを決めるのです。

柿沼:これはパーマネントのコレクションですか?

エリック・アンデルセン:そうです。

柿沼:まだそこにあるんですか?

エリック・アンデルセン:まだあります。

柿沼:それは素晴らしい。

エリック・アンデルセン:ですから、キュレーターはこの作品を決定することができない。この作品みずからが決めるのです。美術館のどこに現れるのか、この部屋なのかあの部屋なのか、そして箱のなかに何を入れるのか、そしてどのくらいの長さかということを。

柿沼:その箱は何でできているのですか。

エリック・アンデルセン:木です。1立方メーターの箱です。そして箱のなかにはまったく違う内容のものがあります。しかし内容と位置とキュレーションを決めるのはコンピューターです。

柿沼:色はついていないのですか?

エリック・アンデルセン:色はついています。

柿沼:あなたが色をつけたのですか?

エリック・アンデルセン:7種類の異なる色がついています。

柿沼:それは素晴らしい。

インゲ・アンデルセン:写真をお送りしますよ。

エリック・アンデルセン:写真を送ります。

柿沼:ありがとうございます。それからこのことについて説明していただけますか?たくさんあるのですが、よく分からないのです……。

エリック・アンデルセン:《泣く空間》はイタリアのヴェローナで制作しました。

柿沼:イタリアで?

インゲ・アンデルセン:ヴェローナ?

柿沼:ヴェローナはシェイクスピアのロミオとジュリエットの町ですね。

インゲ・アンデルセン:ロミオとジュリエット?

エリック・アンデルセン:そう、とても悲しい物語です。

柿沼:ええ知っています。

エリック・アンデルセン:そこにコレクターがいました。もう亡くなってしまいましたが、フランチェスコ・コンツという名のひじょうに重要なコレクターがいたんです。

柿沼:キュレーターですか?

エリック・アンデルセン:コレクターです。彼は私にこう言いました。「何か私のためにしてください。費用は全部こちらで持ちますから」。それで私は「オーケー、《泣く空間》をつくります」と言いました。大理石でできている作品です。町と同じヴェローナという名前で呼ばれる上等の大理石です。赤い大理石で、ルネサンス時代の多くの大聖堂で見ることができます。たとえば、ヴェネツィアでは聖マルゲリータ教会の床がそれでできています。すべてヴェローナの大理石です。それからそれが柔らかい大理石だということが分かります。なぜなら何百年間も人々がそこを歩いたので、石が少し変形してきているからです。
この作品はこの大理石を両腕で抱くようになっています。そして泣くと、涙が二つの小さな空洞に流れるんです。ですから、泣きたいときにこの石を抱いて座ると、涙が流れおちるというわけです。またこれはひじょうに貴重な物体でもありますから、何世代にもわたって受け継がれていきます。そしておそらく400年後には、流されたすべての涙が泣く石の形態を変えてしまうでしょう。涙によってゆっくりとこの大理石が変えられていくのです。またマホガニーでできたひじょうにエレガントな箱とともに置かれます。それで私はそのコレクターにこう言いました――「世界中のすべての人に泣く石を持ってほしいので、60億個つくってください」。

インゲ・アンデルセン:とても大きくて重いんですよ。

エリック・アンデルセン:12キロあります。

柿沼:12キロ!それは重いですね。

エリック・アンデルセン:するとそのコレクターはこう言いました――「エリック。60億はちょっと多すぎます。19個つくりましょう」。そして彼はひじょうにエレガントな箱とともに19個の泣く石をつくりました。それを持って旅行できるんです。ちょうどコンピューターを持ち、クレジットカードを持つように、泣く石を持つんです。旅行するときに、飛行機のなかで泣きたくなったら、泣く石を取り出して、座って泣くんです。
でも、私はこれを公開の施設にしたいと思いました。みなが自分の石を持っているわけではなくて、たった19個しか存在しません。ですから、泣く空間をつくりたかったのです。まず、私は石をギャラリーに設置しました。ニューヨークやウィーン、ミラノ、その他多くの都市に数ヶ月間、《泣く空間》がつくられました。パリにも数ヶ月間、《泣く空間》がありました。ひじょうに多くの場所につくられたんです。

柿沼:場所というのは都市のことですか?

エリック・アンデルセン:いえ、空間です。

柿沼:空間ですか。

インゲ・アンデルセン:そうです。

エリック・アンデルセン:空間というのは状況のことです。そこに行って泣くための部屋です。泣くための空間、部屋で、ギャラリーのようなところです。そのギャラリーに、私はこの石のうちの6個と泣かせるためのたくさんの道具を置きました。自分では泣けないときには、ひじょうに強力な換気装置が泣かせてくれます。換気装置の前に10秒間立つと、突然涙が流れ落ちてきますし、あるいはトウガラシですね。とても辛いトウガラシを使います。また鏡を見て、自分の風貌が気に入らなかったら、泣き始めることもあります。とてもたくさんの道具が置いてあって、泣くことができるようになっています。また、テープもあって……。フィンランドには特別の伝統があって、プロの泣き屋ですが、泣き歌をうたったりするんです。そういう歌を聴くと、ひじょうに悲しい気持ちになって泣きたくなるんです。そういった様々な種類の道具が用意されています。

柿沼:何故、笑うことではなく、泣くことに興味を持たれたんですか?

エリック・アンデルセン:なぜ泣くのか分からないときには、泣くことが我々にとって唯一の言語だからです。泣くのには本当に多くの理由があります。幸せだから泣くことも、不幸せだから泣くこともある。疲れて泣くこともある。目のなかに何か理由がある。身体言語だけでは、何故泣くのかが分からないのです。概念なしに、コードなしに持ちうる唯一の言語が泣くことなんです。でも、涙を取り出して、その化学的な分析したら、その人が何故泣いているのかが分かります。というのは、涙に含まれているホルモンが、その人が幸せなのか不幸せなのか、あるいは疲れているのか、また別の理由なのかを示してくれるからです。

柿沼:たしかに、幸せだと感じるときにも、泣きますね。

インゲ・アンデルセン:そのとおりです!

柿沼:たしかにそうですね。

エリック・アンデルセン:コードを持たない唯一の言語なんです。笑いはひじょうに明確なコードを持っています。言葉による言語にもひじょうに明確なコードがあります。しかし、泣くことはコードのない言語なんです。

柿沼:靉謳さんには笑う作品がありますが、アンデルセンさんは泣く作品をつくったのですね。面白いです。

エリック・アンデルセン:こうして世界中に《泣く空間》をつくったのですが、パーマネントのものが欲しいと思いました。そして空港や鉄道の駅に人々が《泣く空間》をつくろうとしました。そういう場所で人々がお互いに別れるときに、そこに行って一緒に泣くことができるでしょう。でも設置したいという人はいませんでした。それから、ついにデンマークの教会が見つかりました。ニューヨークのジャドソン教会のようにアート・センターに改築されたところです。コペンハーゲンのその教会の人たちが、「オーケー、永久保存の泣く空間をつくりましょう」と言ってくれたんです。こうして、ニコライ教会に永久的な泣く空間ができました。いまはニコライ・アート・センターと言っていますが。でもそこはコペンハーゲンの古い教会だったところです。

柿沼:なるほど。

エリック・アンデルセン:これについても後で写真を送りますよ。

柿沼:有り難いです。私の知らない作品がたくさんあって……。(表を指して)これらについてとくにおっしゃりたいことがありますか?

エリック・アンデルセン:これは《太陽の芝生》という作品です。この芝は太陽の方を向きます。ウェブサイトwww.thesunlawn.orgを見てみてください。

柿沼:分かりました。

エリック・アンデルセン:インターネットのサイトに入ると、《太陽の芝生》のヴィデオが見られます。

柿沼:ありがとうございます。もうひとつお聞きしたいのですが、2012年のヴィースバーデンでのフルクサスの50周年のときに、参加されています。このフェスティヴァルでは何をされましたか。

エリック・アンデルセン:古い作品をいくつかやりました。美術館が昔のものだけ望みました。新しいのはやってほしくなかったんです。

柿沼:フルクサスのクラシックですね。

エリック・アンデルセン:50周年記念だったので、古い作品だけでした。私にもたくさん古い作品があります。そのひとつは、私が誰か他の人の耳に囁いて、それからちょうどスピーカーみたいなのですが、私が囁いたことをその人が叫ぶんです。全部で26人の人たちがそれぞれアルファベットの1文字の音を持ち、それから好きな音を発音するんです。こうしてこのアルファベットのスープのなかから、突然言葉が現れるのです。
他にやったのは何だったかな?私たちはみな、最初の2〜3年の作品をやりました。アリソンがいて、ベン・ヴァオティエもいた。ベン・パターソン、ウィレム・ド・リターなどなどです。ですからひじょうに古い作品ばかりでした。それからとても可笑しいことですが、こうした作品はみな決してレパートリーにしようと思ったものではなかったのですが、いまや人々はとても熱狂し、レパートリーになっています。でも、レパートリーにするという意図はありませんでした。いつだって新しい人たちのために新しい作品をつくらなくてはならないのですから。

柿沼:でもこの作品は30周年にヴィースバーデンでもやったのではないですか。

エリック・アンデルセン:はい、92年にヴィースバーデンでもやっています。

柿沼:そうするとこれは古典的なレパートリーではないでしょうか。

エリック・アンデルセン:そうです。それはジョージ・マチューナスのいちばんいい作品のひとつです。もう彼は亡くなってしまいました。もう新しい作品はできないですから。

柿沼:分かりました。今回もそうですが、あなたはご自分の作品に音楽を組み入れています。今回の二つの作品では両方とも音楽を使っています。フルクサスのアーティストの作品における音楽や音の役割についてどう思われますか?

エリック・アンデルセン:音楽が特別の場を持っているとは思いません。他のあらゆるメディアとともに、インターメディアの一部となっています。音はありますし、また映像も使います。

柿沼:音楽について述べていらっしゃいますが。

エリック・アンデルセン:音楽について興味深いのは、時間にもとづいているということです。

柿沼:はい、そのことです。

エリック・アンデルセン:時間にもとづいていることが、インターメディアの重要な部分です。からなずしも音や音楽を使うということではなくて、作品そのものが時間に基づいているのです。ですから、けっして固定した形態を持たない。いつも変化し、新しい様相を見せるのですが、それでもなお同じ作品なのです。それは芸術の新しい理解といえるでしょう。ひじょうに面白いのは、それが芸術の新しい理解であり、また開かれた理解だということです。
1750年以前の芸術は、音楽、絵画、彫刻などに分かれてはいませんでした。『美学Aesthetica』(1750)という本を書いたのはドイツの哲学者バウムガルテンでした。芸術というジャンルを定義した最初の人物がバウルガルテンでした。そしてそれはもちろん産業革命とともに進行しました。というのは産業革命の主要な教理となったのは標準的な規範だったからです。標準的な規範なしに、産業プロセスは進行しません。芸術も標準にならなくてはいけなかったんです。芸術もまたそれから200年間、ステレオタイプの個人的な表現になりました。そして1950年に新しい芸術の理解が突然現れました。それは第二次世界大戦と関係があったと私は思います。しかし、第二次大戦はひじょうに悲惨で、ひじょうに恐ろしいものでしたから、人々はこう自らに言ったのです――「もはやこういうやり方を続けることはできない。新しいやり方で世界を創造しなくてはならない。そして芸術もまた新しいやり方で理解されなくてはならない」。
1750年以前の時代に戻るなら、芸術は物体ではない、芸術はコミュニケーションだと言うでしょう。そしてコミュニケーションはいつも時間に基づいています。ですから私たちは人工的な産物をつくりたくはないし、芸術を生みたいのではない。私たちは芸術を体験し、芸術を伝えたいのです。これがインターメディアです。インターネディアの核心は、芸術はコミュニケーションであって産物ではないということです。だからそれは時間にもとづいているのです。それはかならずしも音楽である必要はなく、音でもありえるし、色でもありえるし、多くの違ったものでありえるのです。ダンスでもありえるし、あるいはそれは相互作用や参加でもありえるのです。このことはひじょうに重要な部分だと思います。壁のうえに何か枠づけられたものがあっても、見るだけで変化し、新しい形態を持ちえます。そうした時間にもとづく側面が核心なのです。

柿沼:それにフルクサスのアーティストはしばしば作品に時間を取り込んでいます。それはたいへん特徴的なことです。

エリック・アンデルセン:ひじょうに本質的な点です。個々の作品が最終的な形態を持ってはいない。すべてが進行中なのです。

柿沼:そうです。ですから、おそらくフルクサスは流れているのであり、いつも変化しているのではないでしょうか。そしてその意味では、フルクサスはいい名前です。そうは思いませんか?

エリック・アンデルセン:フルクサスはいい言葉です。

インゲ・アンデルセン:そうです。完璧な名前です。

柿沼:完璧ですね。

エリック・アンデルセン:ジノ・ディ・マッジオは素晴らしいイタリアのキュレーターです。彼は1990年のヴェネツィアのビエンナーレでフクルサスのセクションをつくりました。それはUbi Fluxus Ibi Motusと呼ばれました。ラテン語です。それは「変化のないところには生命はない」という意味です。そしてこの言葉が2000年前のポンペイの壁に書かれていたのが発見されました。

柿沼:本当ですか?

エリック・アンデルセン:そうです。

柿沼:それは面白いですね。

エリック・アンデルセン:100年頃のポンペイです……。

柿沼:『易経』でも、中国でも同じことが言われています。ジョン・ケージはこの本に感銘を受けました。同じですね。

エリック・アンデルセン:はい。

柿沼:たいへん面白いですね。

エリック・アンデルセン:そうするとフルクサスは2000年前からあることになる。

柿沼:素晴らしい。いいお話です。もうひとつヨーロッパのフルクサス運動についてお聞きしたいと思います。コペンハーゲンはヨーロッパのひとつの中心地です。ヨーロッパのフルクサスとニューヨークのフルクサスとでは違いがあると思いますか?

エリック・アンデルセン:ありません。

柿沼:違いはないですか?

エリック・アンデルセン:ないです。個々のアーティストの違いはあります。ディック・ヒギンズはベン・ヴォティエとまったく違います。アリソン・ノウルズはヴォルフ・フォステルとまったく違います。ウィレム・デ・リターは私とまったく違います。そしてトマス・シュミットも……とは違います。

柿沼:つまりアーティストごとの違いであって、都市の違いではない。

エリック・アンデルセン:そうです。アーティストによってまったく違います。またニューヨークに特有の何かあるいはベルリンやヴェネツィアやその他に特有のものがあるわけでもありません。違っているのはアーティストたちです。そしてそれはたまたま違っているからではなくて、互いに違っていたいとアーティストが望んでいるからです。私たちはお互いに違うことをしたいと思っていて、だからグループやバンドやデザインには決してならないのです。それは私たちにとってひじょうに重要なことです。

柿沼:でも[フルクサスの]アーティストはある意味で自分の自我を捨てているでしょう。

エリック・アンデルセン:ひじょうに強い自我を持っている人もいますよ。

柿沼:たしかに自我を持っている人もいますが、共同作業によって彼らは自我を捨てています。そういうところが面白い。

エリック・アンデルセン:何人かは自我を捨てて、いまやっている作品は実際はわれわれの作品ではないと言う人もいます。われわれはこの作品の道具でしかなくて、自我がないと。でも、ベン・ヴォティエのようなアーティストは芸術はすべて自我に関係していると言います。彼がやっている作品は彼自身のものでしかない。だから彼は自我を持っています。またその意味では、われわれはひじょうに違っています。自我を必要としない人もいれば、自我がほしい人もいます。

柿沼:分かりました。あなたはまた、“arte strumentale”について述べていらっしゃいます。これはどういう意味ですか。

エリック・アンデルセン:それは私が開始した……。実際には私が最初につくった作品は“arte strumentale”ではなくて、“Handy Art”と呼ばれました。手で行なうものということです。
それから、イタリアでこの作品をやったときに、“arte strumentale”と呼びました。というのは90年代にはイタリアに住んでいたからです。そして芸術が様々な目的のために使用する一種の道具であるような場合に、この“arte strumentale”という言葉を使ったんです。1961年に行なった作品もそうでした。大きな、6メートルかける2メートルくらいのもので、この大きなプレートのこちら側に、形をつくるための様々なものが置かれました。木を切るための様々な道具、木を様々な形に形成するためのもの、磨くもの、のこぎりで切って小片にするためのものなどです。そして気に入ったように木片を加工した後で、それを台のうえに置いて、隅の方に行って、それを銃で撃つのです。こうして作業場と射撃練習場をつくったんです。これはオーディエンスが自分の作品をつくることのできるインタラクティヴな作品でした。こちらはただ道具と木を提供するだけなんです。オーディエンスは出かけて行って、こうした道具で自分のアート作品をつくり、その後で離れたところから撃って形をつくるのです。ですから、この部分は手で行なうものであり、また距離を置いて行なうものでもあったのです。

柿沼:どういう作品だったのでしょうか。

エリック・アンデルセン:様々な道具と木材による棚です。写真を送りますよ。

柿沼:分かりました。

インゲ・アンデルセン:本棚なんです。

柿沼:本棚ですか?

インゲ・アンデルセン:そうなんです。

エリック・アンデルセン:本棚と様々な道具と木材です。作業場みたいにそこで仕事ができるんです。木材を加工するような場所です。それからまたそこは、射撃の練習場のようなところで、ものを置いて、それを撃つんです。

柿沼:それが“arte strumental”eですか。

エリック・アンデルセン:そうです。この作品はいま世界で一番のインターメディアの美術館にあります。それはスペインのマルパルティーダ美術館です。

柿沼:どの町にあるのでしょうか。

エリック・アンデルセン:マルパルティーダです。

インゲ・アンデルセン:エクトレマドゥーラ州です。マドリッドからそれほど離れていないところにあります。

エリック・アンデルセン:この美術館には、ミラノのジノ・ディ・マッジオが彼のコレクションで一番重要な作品を入れて、この美術館に預けています。ですからこれが世界でいちばん重要なインターメディアのコレクションなのです。みんなマルパルティーダに行って、インターメディアを見るべきなんです。この美術館は砂漠のまんなかにあるんですが。

インゲ・アンデルセン:とても変わっています。

柿沼:美術館がですか。

エリック・アンデルセン:そうです。

インゲ・アンデルセン:このコレクションには、フルクサス・アーティストの一人、ヴォルフ・フォステルのものもあります。

柿沼:え、誰のですか?

エリック・アンデルセン:ドイツ出身の。

インゲ・アンデルセン:ヴォルフ・フォステルです。

柿沼:面白いです。これが最後の質問になります。あなたの次のプロジェクトは何ですか。

エリック・アンデルセン:ポンピドー・センターがフランスのメッツという町に新しい美術館をつくりました。そこに行って6月のはじめにパフォーマンスをします。今回のように東京や他のところを旅して、パフォーマンスなどをします。でも、最初の主要な作品は、コペンハーゲンのギャラリーでやるものになるでしょう。8月22日がオープニングで、《ヘッドレストHeadrest》と呼ばれる大理石の作品をつくります。削って形をつくった大理石で、そのなかに頭を置いて寝かすのです。

柿沼:泣くためではなくて、今度は眠るためのですか。

エリック・アンデルセン:頭を休ませます。このギャラリーに行って、頭を休めるのです。

インゲ・アンデルセン:大きな平台です。

エリック・アンデルセン:それは巨大な平台のうえに乗っていて、そこに心地よく横たわり、なかに頭を入れるのです。それからギャラリーが、この間のマッサージの作品[東京都現代美術館で行なった作品]と同じように3人の美女を用意してくれます。でもこの3人の女性たちは、身体の一部を型にとって複製をつくるのです。たとえば「では、私の手の複製をつくりたい」と言うと、その複製が展示されます。また別の人がそこに行って頭を休め、身体の一部を残します。そうやって徐々にこのスペース全体が、そこを訪れた観客の身体の一部で満たされていきます。8月にコペンハーゲンに来てください。

柿沼:ぜひお伺いしたいですね。

エリック・アンデルセン:そうです。来なきゃいけません。そうしたら《隠された絵画》も見ることができますよ。

柿沼:それも見たいです。

エリック・アンデルセン:(西川)美穂子さんはやってきて見ました……。

柿沼:本当ですか。

エリック・アンデルセン:そうです。美穂子さんは来て《隠された絵画》を見ました。それについて彼女に聞いてみてください。とても大きな感銘を与えたようです。

柿沼:素晴らしいです。

エリック・アンデルセン:いくつかのリンクを送りますよ。

柿沼:ありがとうございます。

エリック・アンデルセン:ホテルで……。でも写真はコペンハーゲンからしか送れません。

柿沼:大丈夫です。ありがとう。

インゲ・アンデルセン:コンピューターを置いてきてしまったので……。

柿沼:お話を書き起こして、お送りしますので、もし間違いがあったら直してください。

エリック・アンデルセン:いや、間違いはないでしょう。

柿沼:たぶん間違うと思います。

エリック・アンデルセン:他に質問があったら、知らせてください。とくに写真やリンクを受け取った後で、もっと詳しいことが知りたいでしょうから。いつでも……。

柿沼:芸術資源研究センターが4月から創設されて、ネット上にあなたのインタヴューを載せたいと思っていますが、よろしいでしょうか。

エリック・アンデルセン:もちろんです!

柿沼:問題ありませんか。

エリック・アンデルセン:ないです。どうぞそうしてください。

柿沼:著作権の問題はいつも出てきますので。問題を解決しておかなくてはならないのです。

エリック・アンデルセン:はい、たいていの場合、私は気にしません。研究や論文のためでしたら、大丈夫です。商売のためでしたら、私はひじょうに高いですよ。

柿沼:ああ、そういうものではありませんから。

エリック・アンデルセン:私が作品を販売するときには、4種類の値段設定をします。友人でしたら、無料です。

インゲ・アンデルセン:人によりますけれど。

エリック・アンデルセン:友人の友人というときには、ひじょうに低価格です。コレクターだと高くなります。そして美術館だとひじょうに高額になります。

柿沼:ではコペンハーゲンの美術館はかなりの額をあなたに払ったのでしょうね。おそらく。

エリック・アンデルセン:ですから、作品に固定した価格はありません。

柿沼:CDや音楽作品はないのでしょうか。

エリック・アンデルセン:音楽作品ですか。

柿沼:はい、あるいはCDは? CDは出していませんか。

エリック・アンデルセン:音はたくさんあります。音は好きですから、でもCDをつくったことはありません。

柿沼:そういう音を売ったりはしないのですか。

エリック・アンデルセン:本やCDをつくりたいとは思いませんが、ヴィデオはたくさんあります。また音のオブジェもたくさんあります。私の制作した音の作品でいちばん有名なのは、64年のものです。「私はあなたを信頼します」という文とアルファベットでできたものです。英語のアルファベットの数を数えてみれば、この文のなかの文字の数と同じだと分かります。これがスコアで、これを私は交響楽団、デンマーク王立管弦楽団に渡しました。彼らは12分間にわたってこれを演奏しました。素晴らしい曲でした!

インゲ・アンデルセン:そうそれはただ……音符はないんです。

エリック・アンデルセン:1964年でした。

柿沼:ああ、それは聞きたいです。

エリック・アンデルセン:もちろんテープはあります。それからこの曲は様々なオーケストラによって何度も演奏されました。塩見允枝子さんと一緒にやった1990年の「ヴェネツィア・ビエンナーレ」での素晴らしい録音を持っています。

柿沼:まあ、そうですか。塩見さんは何を演奏されたのでしょうか?

エリック・アンデルセン:彼女は電子ピアノを演奏しました。そのとき、ビエンナーレではイタリア中からきた音楽院の学生たちとの大きなシンポジウムがありました。この大きなシンポジウムのために彼らはやってきたんです。私は彼らに聞きました――「この作品を演奏したいですか」と。すると20人の学生が電子楽器を持ってやってきて、塩見允枝子さんと一緒に演奏したのです。30分か40分演奏しました。これもテープがあります。

柿沼:素晴らしいです。

エリック・アンデルセン:そうです。塩見さんに聞いてください。思い出すでしょう。

柿沼:はい聞いてみます。書かれたスコアはないのですね。

エリック・アンデルセン:「私はあなたを信頼します」という文とアルファベットだけです。これがスコアです。

柿沼:すごいです。

エリック・アンデルセン:この曲の音は作曲できないのです。私が信頼した人の心にあるものを誰も書き起こすことはできません。これをスコアに書くことができる人はいないのです。それは演奏する人の心のなかに起こるものなのです。すると、ひじょうに素晴らしい音がこの曲から自動的に立ち現れるのです。

柿沼:どうやって演奏したのかと思います。

エリック・アンデルセン:聞いてみてください。

柿沼:たいへん面白いです。

エリック・アンデルセン:塩見さんに、どう演奏したか聞いてください。

柿沼:はい、聞いてみます。ありがとう。どうもありがとうございました。

エリック・アンデルセン:どういたしまして。

柿沼:面白かったです。

エリック・アンデルセン:資料を送りますよ。

柿沼:はい、ありがとう。

エリック・アンデルセン:でも2週間くらいかかります。いいですか。

柿沼:はい大丈夫です。本当にありがとうございました。

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