一柳慧 オーラル・ヒストリー

2016年9月21日
場所:渋谷カフェ・シェ・ダイゴ
インタヴュアー:柿沼敏江、竹内直
書き起し:永田典子

一柳慧(いちやなぎ・とし 1933年〜 )
作曲家
兵庫県神戸市生まれ。幼い頃からピアノを習い始め、宅孝二、原智恵子らに学ぶ。また作曲を平尾貴四男、池内友次郎に師事。ジュリアード音楽院に留学。卒業後、デヴィッド・チューダーのリサイタルでジョン・ケージに出会い、生涯にわたって大きな影響を受ける。ラ=モンテ・ヤング、G. マチューナスらフルクサスのメンバーとも知り合った。1961年に帰国し、草月アートセンターでコンサートを開催。62年のジョン・ケージ来日の折には各地でのコンサートの開催に尽力し、ケージの紹介に務めた。66年ロックフェラー財団の招待で再度渡米。69年東京で開催されたクロストーク・インターメディアに参加。70年の大阪万博でも様々なプロジェクトのために活動した。近年はフィンランドの音楽家との交流に力を入れている。伝統楽器と声明を中心とした合奏団TIMEの音楽監督、復元された古代楽器によるアンサンブル・オリジンの音楽監督を務めるなど、現在も幅広い活動を展開している。


I. 初期の音楽教育、アメリカ留学
II. ケージとの出会い、《ピアノ音楽》シリーズ
III. フルクサス・ヴァージョン?
IV. フルクサスとの関わり
V. 帰国、ケージ来日
VI. 再渡米
VII. 「クロス・トーク/インターメディア」、万博
VIII. ケージ、カニングハム・ダンス・カンパニー
IX. フィンランド、フィールド・ミュージック、これからの活動

I. 初期の音楽教育、アメリカ留学

柿沼:これから始めさせていただきます。今日は一柳慧さんにお話を伺います。今日は2016年9月21日です。インタヴュアーは私、柿沼敏江と竹内直で行います。よろしくお願いいたします。

一柳:はい、こちらこそ。

柿沼:生まれた頃のことからお聞きしたいのですけれども。1933年、昭和8年2月4日に神戸でお生まれになったということで。お父さまはチェリストの一柳信二さん、お母さまがピアノを教えておられた光子さん。お母さまはご自宅でピアノを教えていらっしゃった。

一柳:だいたいそうですね。私が気がついた頃はもう戦争が始まっていて、だんだんそういう活動ができにくくなってきたようです。

柿沼:一柳さんもピアノはお母さまから最初習われたのでしょうか。

一柳:そうですね。うちに生徒さんたちが十数人ぐらい来てましたから。

柿沼:ピアノの先生としてはロシア人のポール・ヴィノグラドフさんにはどのようなことで習われることになったのでしょうか。

一柳:ピアノの先生はけっこう替わったんですよね、あれはどういう経緯だったのか。だれかのご紹介だったと思う。宅孝二さんにも習ってましてね。ポール・ヴィノグラドフは、母の友人にウチダミツコさんという方がいらして。ウチダさんの紹介だと思いますが、はっきり思い出せません。

柿沼:ウチダミツコさん?(笑) 同じ名前ですね。

一柳:今考えるとね。でも年齢はずっと上だし、それは確かじゃないんですよ。母の友達だったですから。

柿沼:おそらくその方が宅孝二さんの先生でいらっしゃったんでしょうか。

一柳:いや、そうじゃないです。宅さんは、藝大の先生でもいらしたでしょ。

柿沼:はい。そうすると東京に移られてから習われたということですか。

一柳:ええ、もちろんそうです。私が二つのときに両親は東京へ来てます。

柿沼:2歳のときに東京に移られた。作曲に関心をもつようになられたのはどういうことだったのでしょうか。

一柳:それは戦後ですね。戦争中、3年あまり、疎開やら、空襲も毎日のようにあったとかいろいろなことがあって。ピアノが満足に弾けるような状態じゃないし、いつ焼け出されるかも分かんないとかで、ブランクがあるんです、3年以上。戦後に一応東京に戻ってきて。9月から学校が再開されて、その頃からぼちぼちまたピアノを始めたんですけども、なにしろすべて焼け野原で、うちは幸いピアノは残ったんですけども、楽譜もないし、ほんとにモノが全く、音楽を勉強するためのものは払底していたものですから、勝手にピアノをいじくっているうちに作曲のほうに興味がわいてきた。そんな状態であんまりきっちりした考え方のもとに始めたというわけではないです、最初は。

柿沼:では作曲の先生に就いてみようかということになったわけですか。平尾貴四男さんとかですね。

一柳:そうです。

柿沼:あと池内友次郎。

一柳:池内さんは、平尾先生がご病気で入院されてしまったんで。池内さんを紹介するからという話で。

柿沼:当時、藝大の先生でいらっしゃった。

一柳:そうです。ご存知のように、すでに別宮(貞雄)さんとか松村(禎三)さんとか三善晃さんとかの先生でしたから。

柿沼:高校は青山学院の高等部に入られたわけですね。

一柳:そうです。

柿沼:そのときに音楽コンクールで作曲の賞を取られて。

一柳:ええ。まあ完全に我流の作曲ですから、あのときは。

柿沼:でも先生に就いておられるわけですから、我流とは言えないと思いますけれども(笑)。

一柳:でも、先生は作曲を教えてくれるというよりも、ハーモニーとか対位法とか、...そうでしょ。まあ作曲はなかなか難しいですよね、教えるということは。

柿沼:その当時、好きな作曲家というのはいらっしゃったんですか。

一柳:ぼちぼちと出かかってましたね。父親がフランスへ行ってましたから、少しうちにその手のレコードがあって。戦後のものではなかったですけども、戦前のたとえば「フランスの六人組」のプーランクとかオネゲルとか、だからあのへんは好きだったですね。

柿沼:フランスの近代ものが好きだった。

一柳:そうですね。

柿沼:ドビュッシーとかですか。

一柳:うーん、僕はどっちかというとドビュッシーよりラヴェルのほうに興味がありました。

柿沼:ラヴェルのほうが好き。そういうことで次の年も《ヴァイオリン・ソナタ》で2位になられて、その次の年も、これはトリオで1位になられてということだったわけですが、素晴らしいですね。

一柳:いやいや(笑)。全然たまたまですよ。

柿沼:その頃ですか、武満(徹)さんが訪ねてこられたというのは。ご近所だったんですか。

一柳:たまたま近所だったということが。うちもほんとは渋谷だったんですけど。焼けはしなかったんですよ、幸運なことに。だって青山まで完全に丸焼けだったですから。戦後、小学校に行ってたころに会っていた親しい友達が何人かいたんですけども、その人たちと、9月に学校が始まったときに会えるのを楽しみにしてたんだけども、いないんですよ。たぶんあの辺に住んでた人が多いんで、青山あたりにね。もう完全に丸焼けだったから、おそらくどっか行っちゃったかあるいは亡くなったか。そのへんはその後も少し調べたけど分からないですね。

柿沼:そういうなかで武満さんがご近所にいらっしゃって。

一柳:うちも渋谷から追い出されて、下北沢と池の上、今、池辺さんなんかが住んでられるとこのそばですけどね。

柿沼:池辺晋一郎さんがいらっしゃるあたりですか。

一柳:に近いです。2〜3分です、あそこから。

柿沼:そのご近所に武満さんがいらっしゃった。

一柳:武満さんは、小田急で言うところの世田谷代田寄りのほうでしたけど。

柿沼:で、突然訪ねてこられたんですか。

一柳:彼はきっといろんなことで、松村さんも秋山(邦晴)さんもあの沿線、井の頭とか小田急の沿線にいらしたんで、たぶん交流があった、前から。コンクールのことなんかもそういう情報は入ってたと思う。私が第1回目に賞を取った直後に訪ねてこられた。

柿沼:その直後に訪ねてこられた。それでメシアンの曲を借りていったという。

一柳:そうですね。メシアンの《プレリュード》ですね。

柿沼:その頃、皆さんメシアンには関心があったということですか。

一柳:いや。つまりメシアンの楽譜というのは、うちの母親が若い頃オハイオのオーバリン大学に行ってて、そういうことからアメリカ人との交流が戦後多少あった。アメリカ人というのはわりあいとそういうことが寛大で、「楽譜がないんだったら何か新しいものを送ってやろうか」ってなことで送ってくれたなかにメシアンがあった。メシアンは最も新しかったですけどね。それをピアノの上に置いていたら、武満さんが来て。まあほんとにモノがない時代ですから、彼も新しい楽譜に飢えてたと思いますね。

柿沼:で、返ってこなかったんですか。

一柳:さいごまで返ってこなかった。(笑)

竹内:少し話が戻るんですけれど。コンクールで1位を取られた《ピアノ・ソナタ》はどういった作風の曲だったのでしょうか。

一柳:どういった、ちょっと難しいですけど、まあそんなに新しくはないですよ。

竹内:新古典主義のような。

一柳:というよりも近代フランスに近いですね。

柿沼:ラヴェルのような。

一柳:まあラヴェルとか、さっき言ったプーランクとか、そういうのに近いです。

竹内:当時触れた楽譜とかそういったものから、そういったイメージというのは取られた。

一柳:そうですね。ピアノはぼちぼち始めていましたけども、ピアノの場合はほとんど古典だったですから。

竹内:そういった曲は自分で楽譜を見て弾かれたということですか。

一柳:そうですね。

竹内:原智恵子さんにずっとピアノは就いてらっしゃいました?

一柳:ええ。それはアメリカへ行く前の最後3年ぐらいです。

竹内:原さんからはそういった新しい曲を習うということはなかったんでしょうか。

一柳:原さんからは直接新しいものを習うということはありません。あの方はほんとに素晴らしい人で。今でいうと中村紘子さんに近い感じですかね。古典をすごく大事にしていらして。つまり「バッハはいつも弾きなさい」と言われて。それとあの頃は、あれはLPじゃなかった、SPのレコードをたくさん持っておられて、それを次から次へと惜しげもなく貸してくださった。これは非常に勉強になったですね。

柿沼:アメリカへ留学されることになって、お父さまがヨーロッパよりアメリカのほうがいいとご判断されたということなんですけれども、なぜミネソタ大学を選ばれたのでしょうか。

一柳:ヨーロッパは殆ど戦場だったからでしょう。アメリカは母の友人との関係で、その友人がミネアポリスに住んでいたもんですからね、それで。

柿沼:オーバリンでなくてミネソタ大学にいらっしゃったんですか。

一柳:そうです。

柿沼:途中でお辞めになるんですけども、それはどういうことだったのですか。

一柳:アメリカだったら、最初から、できればニューヨークへ行きたいと思ってたんで。ミネソタ大学のほうでもいろいろ便宜を図ってくれて、たとえば試験を受ける段取りとか、奨学金をとるとか、そういうのをみんなつくってくれました。

柿沼:それでジュリアードに移られたということですか、入り直した。

一柳:そうですね。

柿沼:ジュリアードでは(ヴィンセント・ラドウィグ・)パーシケッティに師事されたということなのですけれども。

一柳:要するにジュリアードではピアノと作曲、両方試験を受けて。どっちも通ったんだけども、どっちか片方にしないといけないと言われて、そこから本当に作曲に専心しました。ピアノはビヴェレッジ・ウェブスターに、このごろ時々息子さんたち夫妻が日本へ来て演奏会をしてますけれど、そのお父さまに習いました。

柿沼:で、作曲のほうをパーシケッティに習われたということですね。

一柳:でも、これは向こうからあてがわれた。

柿沼:あてがわれた?

一柳:こちらからは選択できませんでした。

柿沼:《ヴァイオリン・ソナタ》でまたエリザベス・クーリッジ賞(1955年)をもらわれたり、いくつか賞をもらわれています。その頃、これはフィリップ・コーナーさんに聞いたんですけれども、コーナーさんの最初の奧さんがジュリアードにいらっしゃって、一柳さんにそのとき会ってるということだったんですけれども、ご記憶にございますでしょうか。

一柳:何年の話ですか。

柿沼:54、55年の話ではないかと思うんですが。チェリストだそうです、奧さんが。

一柳:チェリスト?

柿沼:はい。ジュリアードにいたそうです。で、一柳さんを知ってると言っていたことがインタヴューで出てきたもんですから、ご存知かなと思いまして。

一柳:ああ、それは私ははっきりした記憶はないですね。ただね、ジュリアードへ入ってありがたかったのは、ジュリアードでアルバイトをできた。つまりピアノを弾く、ヴァイオリンとかチェロとか歌の先生のレッスンに伴奏者として。そこへ生徒たちが一日中、朝から来て。ずい分たくさんおソナタやコンチェルトの伴奏をして勉強になりました。

柿沼:それかもしれませんね。その方の伴奏をした可能性がありますね。

一柳:そのなかの一人かもしれない。だけど悪いけど何人もいるから覚えていません。

柿沼:名前を聞いてないもので、すいません、私も。First wifeと言っていたので(笑)。

一柳:ああ、そうですか。今はsecond wifeですか、もっと?

柿沼:どうでしょうか。ダンサーの方ですけども。フィービーさんという。

一柳:ああ、そうか。今の話じゃないんだね、そうするとね。

柿沼:ええ、最初の奧さんということなので。ジュリアードを途中でお辞めになったんですか。

一柳:いや、一応4年間行きましたよ。

柿沼:卒業されたんですか。

一柳:ええ。

柿沼:「途中でいやになって」みたいなことをどこかでおっしゃっていて。

一柳:最初からいやになった。入ったとたん。やめたわけじゃない。だってやっぱり外国の留学生ですから、ビザのことがあってね、どこにも所属してないということではダメですから。

柿沼:そうですね。それで卒業されてからはどうなったんですか。日本に帰ろうというお気持ちはなかったんですか。

一柳:ええ。ジュリアードに行っている間に、いろんな方にお話ししてますけども、12音音楽をやろうとしていたんですが、ジュリアードにはそれを教える先生が全くいないので、かえってピアノのウェブスターさんなんかはバルトークなんかの曲を次から次へとあてがってくれて、そっちから学んだほうが大きかったですね。だからジュリアードは、少なくとも作曲に関しては私はあまり面白くなくて。

柿沼:それじゃあ学外でいろんな先生に就かれたということ。

一柳:先生に、というよりも、当時ヨーロッパから来ていた人たちを含めていろんな作曲家に出会えたのが良かったです。

柿沼:(ルイジ・)ダラピッコラとかに習われて。

一柳:そうです。ダラピッコラのとこも訪ねました。

柿沼:ダラピッコラには12音を習われたんですか。

一柳:まあ習ったというほどじゃないですけどね。ダラピッコラらが教えていたクーインズ・カレッジに行って。むしろ彼のオーラに触れたという感じですかね。

柿沼:そのほかいろんな方に学ばれているということなのですが。

一柳:学んでいるというよりも、お会いしたというほうが正しいかもしれないです。

柿沼:エドガー・ヴァレーズはどうだったんですか。お会いしたというわけじゃないですか。

一柳:ヴァレーズはほんとに晩年だったですから。お会いしたときはべつにお具合が悪いという感じじゃなかった。ケージが連れてきたんですよ。ヴァレーズとはほんとに1回だけで。でもケージはそうやって観も知らない東洋の人間、若者に対していろんな人を連れてきて紹介してくれたんで、とてもよかったですよね。だから私はいつもケージと、彼が連れてきたヴァレーズのような人とか、あるいはマルセル・デュシャンとか。デュシャンはそばにしばらくいたりしましたから。

柿沼:あと(ゴッフレード・)ペトラッシとかも。

一柳:ペトラッシは、ボストンのそばのタングルウッドでの夏の先生として来てた。そこでペトラッシに。

柿沼:それは53年ですか、それとも。

一柳:それは55年の夏です。向こうの学校は9月からで、ジュリアードへ移ったのが54年ですから。タングルウッドへ行った最初は(アーロン・)コープランドだったです。

柿沼:53年ですね、それは。

一柳:そうです。そのあとぐらいだったかな、ペトラッシはそのあとですね。

柿沼:それからルーカス・フォスにも習われた。

一柳:ルーカス・フォスも来ました。

柿沼:それは「会った」という……

一柳:これは習いました。

柿沼:何を。

一柳:私は彼の作曲よりも、ピアノの演奏に感銘を受けました。

柿沼:タングルウッドで。ボリス・ブラッヒャーはどうですか。

一柳:ブラッヒャーは、ニューヨークと、タングルウッドでも会ってるんですけども、だいたい外国の人はタングルウッドが終わったら皆ニューヨークへ来る。ニューヨークにしばらく滞在してましたから。その間にいちばん世話になったのがシュテファン・ヴォルペなんですよ。

柿沼:ヴォルペには何を習われたんでしょうか。

一柳:ヴォルペはいろんな面で面倒をみてくださって、私の住んでたアパートが彼のそばだったもんだから。ヴォルペは12音の作曲家としてアメリカで初めて会った人です。

II. ケージとの出会い、《ピアノ音楽》シリーズ

柿沼:そこで(デヴィッド・)テューダーに会われたんですか。

一柳:そうです。

柿沼:一緒に演奏されたんですか。

一柳:しました。ヴォルペの作品の演奏会があって、テューダー推薦ですけど、《三台のピアノのための“アナクトメント”》という曲を。

柿沼:三台のピアノのための曲を三人で。

一柳:もう一人アメリカ人が、もう少し若い人がいらしたけど、これは名前を思い出せません。

柿沼:そのあとですか、カーネギーホールでコンサートされましたか。

一柳:しました。

柿沼:それはリサイタルですか。

一柳:リサイタル。でもそれは日本へ帰る少し前で作品発表会を兼ねたものです。

柿沼:60年?

一柳:61年です。

柿沼:61年、帰る年ですね。

一柳:ええ、帰る年です。帰ってきたのは夏ですから、その前ですね。

柿沼:それは作品展ですか。

一柳:いえ、《ピアノ音楽第2》と《第7》の他、ケージ、ヴォルペ、フェルドマン、ウルフなどを演奏しました。アール・ブラウンもやったと思います。

柿沼:すいません、話が前後してしまいますけれど、テューダーと共演されて、ヴィレッジ・ヴァンガードでテューダーがコンサートをしたときに聴きにいらっしゃった。

一柳:それはテューダーのリサイタルで共演はしていません。

柿沼:そのときにケージの曲を弾いていたということですか。

一柳:ええ、テューダーがね。それは《ウィンター・ミュージック》の初演の日だったです。

柿沼:そこにケージもいたんですか。

一柳:いました。

柿沼:そこで初めて会われた。

一柳:そうです。まあ前にもどっかですれ違ってたとは思いますけど、正式には初めて。

柿沼:自己紹介したのは。

一柳:そうです。

柿沼:それで「うちに来るように」と言われたんですか。

一柳:そしたらすぐに。東洋人の作曲家ということで、興味を持ってくれたようです。

柿沼:それでケージの家を訪ねたときに持っていった曲が《ピアノ音楽第1番》ということでよろしいですか。

一柳:そうです。一夜漬けでしたが。

柿沼:それについて何か。

一柳:これはちょっと話がうまくできすぎてて(笑)。つまりケージの曲というのはそれほど知らないで。まだ楽譜も出てませんでしたからね。つまりケージの曲が考え方も内容もヨーロッパ的な新しい音楽と全然違うということだったんで、それをさぐって《ピアノ音楽1番》というのを、一応ケージばりの曲を書いたのを持っていったんですよ。私も12音に行き詰まりを感じていましたので。

柿沼:それはこれになると思うのですけれど。

一柳:ああ、ははは。そうです、そうです。僕はどっかで紛失したんです、これを。

柿沼:これは『音楽藝術』に載っているんですよ。それをコピーしてきたんですけど。ここが11音ありまして、Cの音だけないんです。なので12音を意識されているのかなと。これが不確定性で音を選んで書くということかなと思うんですけど。

一柳:ええ、そうですね。ただ、あまりきっちり認識していたわけではありません。

柿沼:ここは譜面に、自分で演奏家が起こしてやるということでよろしいんですか。

一柳:いや、この《1番》というのはそれほどまだグラフィックではなくて、グラフィック的な要素としてはこういうような、何か自分でつくった機能を入れたかどうかは、ほとんど入れてなかったんじゃないかな。全面的にそうなったのは《2番》からですから。

柿沼:はい、分かりました。

一柳:今、大井浩明さんがさかんにこれを弾いてる。

柿沼:あと河合拓始さんも弾いてらっしゃる。

竹内:録音になっているものですね、オメガポイントから。この当時のことで少し一柳さんに確認させていただきたいことがあるんですけれど。武田明倫さんが、1983年に一柳さんのことについて少し書いていらっしゃる文章の中で、アメリカにいらっしゃるときに12音技法と偶然性を共存させる試みをされたと、その結果書かれたのがこの《ピアノ音楽第1番》と《ピアノ音楽第2番》であるということを書いていらっしゃるのですが、これについてはどうなのでしょうか。

一柳:ちょっと正確じゃないですね。

竹内:ないですか。ではどういうことを当時はされていらっしゃったでしょうか。

一柳:それは何から読まれたんですかね。

竹内:こちらの冊子。その項目を担当されているのが武田明倫さんで、そこにそういうことを書いてらっしゃるんですが。

柿沼:これを見ると12音技法とはちょっと言えないような。

一柳:言えないですよね。

柿沼:それで「どうかしらね」と言ったんですけども。

一柳:ああそうですか。たしかにこれに到達する前は12音の作品がいくつかありまして。

竹内:では少し情報を混同された感じがありますか。

一柳:ちょっと混同されたんじゃないですかね。

竹内:分かりました。ありがとうございます。確認をしたかったということです。ではそれ以前、このピアノ音楽シリーズの最初の曲を書かれてからはまったく作風は変わられたということでよろしいのでしょうか。12音技法はその後、特に60年代使用されたということはございませんか。

一柳:使用はしてませんね。何かグラフィックな記号を書いたものの中から12音的な音の選び方をしてることはあったかもしれませんけども、それも特定したわけではなくて。

竹内:では意識はされてない。

一柳:むしろ新しい道へ進もうとしていました。

柿沼:このケージの自宅を訪ねた年ですけれども、いろいろなインタヴューで違う年号をおっしゃっているんです。

一柳:え~?

柿沼:このあいだお出しになったこの本(『一柳慧 現代音楽を越えて』)では1957年とおっしゃっているのですが、58年とおっしゃっているときもあり、59年というときもあるのですが。

一柳:59年ということは絶対にないです。

柿沼:ない。でも河合さんがオメガポイントから出されたピアノ曲集の解説にはそう書いてあるんです。59年になっているんです。

一柳:59年って、私が書いたやつ?

柿沼:解説です。これが《1番》(の楽譜)なのですけれども、59年になっているんです。「9月、ニューヨークにて作曲」になっているんですよ。

一柳:59年の9月……

柿沼:こちらのほうには57年と書いてあるんです(笑)。

一柳:ケージを訪ねたのが?

柿沼:そうです。初めて訪ねたのが57年というふうにおっしゃっていて。それがその曲を一夜漬けで書いて……

一柳:たぶんね、すいません、どこかで多少混乱してるのかもしれない。テューダーがヴィレッジ・ヴァンガードでリサイタルをした、《ウィンター・ミュージック》を初めて弾いたのは58年だと思うんですよ。

柿沼:これに57年と書いてあるんですけど。そしてこれには59年と書いてあるから、どれが正しいのかしらと思って(笑)。

一柳:うーん。いや59年はないです、絶対に。

柿沼:そうですか。では58年ですか。これ間違ってます?

一柳:間違っていることになりますかね(笑)。

竹内:《ピアノ音楽第1》の、こちら『音楽藝術』に掲載されているものには、ニューヨークで1959年9月に作曲されたというふうになっていますけれども、おそらくこちらの解説、河合拓始さんの書かれた解説はこれを参照されたのかなとは思うのですが、こちらの日付ももしかすると誤植である可能性が。

柿沼:誤植というか、間違い。

一柳:いやいや、あのねえ、もしかしたら。もしかしたらというか、おそらくそういうことだったろうと思うけど、要するにケージのところに行くのは、彼と会ってほんとに翌日か翌々日だったんです。

柿沼:ということは同じ年ですよね。

一柳:もちろん同じ年です。同じ年で、たしかにケージ的な曲を、《1番》に該当するようなものを書いたんだけども、おそらくちょっと後で手を入れたと思います。

柿沼:あっ、曲をちゃんと完成させたのが59年である可能性がありますね。

一柳:そうですね。だってこのときには時間がなくてね。

柿沼:一夜漬けですからね。

一柳:一夜漬けで。初めて不確定的な内容のものを書いたわけです。

柿沼:この「9月に」というのは違うんですか。

一柳:いや、《2番》が12月なんですよ、59年の12月。これは間違いない。

竹内:たしかに。

一柳:その前ですからね。9月はありえますね。

柿沼:じゃあ《2番》も58年ですか。

一柳:いや、《2番》は59年です。59年の秋にテューダーから12月にリサイタルをするので新曲を書いてくれないか、と頼まれました。

柿沼:《2番》は59年。

一柳:59年の12月で、テューダーがそれを初演……

柿沼:テューダーがそれを初演している。

一柳:彼はできあがったとたんぐらいに初演してますから。

柿沼:じゃあケージのところへ初めて行ったのは58年ですか。

一柳:58年。

柿沼:57ではなくて。

一柳:そういうことになりますね。

柿沼:それともう一つですが、ちょっと混乱しておりまして。

一柳:すいません(笑)。
III. フルクサス・ヴァージョン?

柿沼:《ピアノ音楽第2番》というのと《Piano Piece №4》というのが同じ曲だと思うのですけれども、図形楽譜の。《ピアノ音楽第2番》と《Piano Piece》の4番が同じ図形なんですけど、同じ曲でよろしいですか。

一柳:いやとんでもない、同じじゃないですよ。《4番》は62年にテューダーが日本へ来た時、初演しましたから。

柿沼:同じなんですけど。これ、『Fluxus Codex』* に載っているんですけど。
* Hendricks, Jon. ed. 1988. Fluxus Codex. Detroit: The Gilert and Lila Silverman Fluxus Collection.

一柳:どこに載ってる?

柿沼:『Fluxus Codex』。

一柳:フルクサスはほんとに、かなりでたらめなところがあって、Petersから出版されているものも、自分達が出版したと言ってPetersとかなりもめた事がありますが、Petersが正しいです。

柿沼:これに載っているんですけど。《Piano Piece №4》になっている。

一柳:それは間違いです。

柿沼:間違いですか。じゃあこれは《ピアノ音楽第2番》でよろしいですか。

一柳:《ピアノ音楽第2番》で。今もペータース(Peters)(社)から出てますから。

柿沼:分かりました。

一柳:話が飛びますけど、フルクサスはね、「自分のものは自分のもの、ひとのものも自分のもの」というところがあってね。もう演奏の仕方もほとんど無視して演奏者が勝手にやるっていう、そういうところがあったことが特徴だったと言っていいかもしれない。

柿沼:それに関連してお聞きしたいのですけども。このなかに一柳さんの「コンプリート・ワークス」を作ろうとした、そしたらペータースとの著作権の問題で出版できなかったと(ジョージ・)マチューナスが言っているのですが、それにはどういう曲が入る予定だったのでしょうか。

一柳:これは私知りません。

柿沼:知りません? あら。これ一柳慧になっていますけど、「コンプリート・ワークス」と書いてあります。

一柳:彼はアメリカの企業が嫌いで、ケージがフルクサスと仲たがいしたのも、Petersのものを勝手に扱おうとしたことが原因になっています。彼のような人たちはどんどん自分の思ったことを人におかまいなく。(笑)こういうところが、ペータースが一応出してたから止まったんでしょうけども。

柿沼:そう、だから出せないですよね、著作権の問題で。

一柳:だけど、どっか別なとこではきっとおかまいなく出しちゃってる。たとえばヨーロッパのどっかで出しちゃうとかですね。

柿沼:それに関連してですけれども、GALLERY 360°でフェスティヴァルがありましたけれども、あのときに「フルクサス・キット2」というのが渡されて、その中に一柳さんの作品が載っているんですね。それが《Piano Piece № 5》なんです。フルクサス・バージョンとなっています。それについて調べましたら、どうも三つぐらいバージョンがあるのですね。それでどれが正しいのかなと思いまして。

一柳:とにかくね、そのへんはもう私はずっと番号順に《ピアノ音楽第7番》まで書いてきましたから、だいたい60年から61年にかけて。それで61年に帰ってきたときに、もうちょっと後になりますかね、高橋悠治がコロンビアから《5番》のLPを出しています。テューダーも《4番》と《5番》を何回か演奏していますし、私は《4番》と《6番》と《7番》は大阪や草月(会館)やテレビなどでも何回か演奏しています。

柿沼:これだけあるんです。

一柳:うーん。

柿沼:このあいだのはこれなんですね。『Fluxus Preview Review』*にはフルクサス・ヴァリエーションもノー・パフォーマーで出てるんです。
* Maciunas, George, et al. 1963. Fluxus Preview Review. (2016年日本語版がギャラリー360°から出版された。)

一柳:だからこういうのがみんな勝手に書かれてるんですよ。

柿沼:ああ。

一柳:私も知らないうちに書かれてる。ケージがフルクサスを嫌がったのもわかりますね。

柿沼:ケン・フリードマンが出している、〓『The (Fluxus) Performance Workbook』*というのがありまして、そのなかでは《Music for Piano No. 5》のフルクサス・ヴァリエーションになっているんです。
 * http://www.deluxxe.com/beat/fluxusworkbook.pdf

一柳:もしかしたら誰かが演奏した、パフォーマンスをやった、それについてのコメントということですね。

柿沼:これは一柳さんがお書きになったものではない。

一柳:まったくないです。知らないです、だいたい。

柿沼:じゃあこのパフォーマンスはやられたんでしょうか。つまりピアノの、アップライトピアノの後ろにダーツを投げるというものなんですけど、これ。

一柳:《ピアノ音楽2番》も《5番》も、どう解釈してもそんな演奏は出来ません。おそらく楽譜を知らないで、タイトルだけで勝手に即興したものではないでしょうか。

柿沼:ここに譜面も載っているんですけど、『Fluxus Codex』の。

一柳:だってダーツを投げるなんていう指示はいっさいしてませんから。

柿沼:ここに譜面が載っているんですけど。《Piano Piece № 5》で、これに従ってダーツを投げろという指示なんです。

一柳:ああ、じゃあ向こうでつくったんだ。

柿沼:Toshi ICHIYANAGI Piano Piece №5 、フルクサス版権。

一柳:だから版権以上に踏み込んできてる。とに角《1番》から《7番》までは全てPetersの版権下にあります。

柿沼:これは一柳さんがおつくりになったものじゃないんですか。

一柳:ないです。私のはテューダーや高橋悠治が演奏したものが証明しています。

柿沼:えっ、違うんですか、これ。

一柳:はい、違います。

柿沼:この「ダーツを投げる」という。pianoとかpianissimoとか書いてある。

一柳:ただこの譜面そのものは《ピアノ音楽第5番》ですよ。だけどいいかげんにアレンジしてるみたいな感じはしますね。

柿沼:えっ?

一柳:だからフルクサスのほうで勝手につくり変えた。

柿沼:つくり変えた。そしてヴァリエーションにしちゃった。

一柳:ええ、そうですね。高橋悠治が演奏してますから。おききになってください。最近では大井さんも何回もオリジナル版を演奏しています。

柿沼:高橋悠治さんが初演されたんですか。

一柳:日本ではね。向こうではテューダーです。

柿沼:そのダーツを投げるのをやったんですか。

一柳:いや、ダーツは関係ないです。

柿沼:ダーツは違うんですか(笑)。ダーツ版はやってないですか。

一柳:ダーツ版はやってないですよ。もちろんピアノをダーツに置き換えて、「やるな」とは言ってませんけど、私は。

柿沼:ダーツで投げろと言ったのはマチューナスですか。

一柳:おそらくそうでしょ。

柿沼:強弱記号を無視してやれとか、マチューナスが書いてるんです、ヨーロッパの指示で。

一柳:そうでしょう。強弱記号はオリジナル版にも別の形で細かく書かれています。

柿沼:「ダーツを投げればいいんだ」みたいなことが書いてあるんですけど。

一柳:私はダーツの話は聞きましたけど、それはもう後になってからですね。

柿沼:後で聞いた、やられた後で。

一柳:ええ。話だけ。

竹内:事後報告。

一柳:自分でも分かんないですけど、実際にやったのか、誰がやったのか、誰が指示したのかも全然こちらでは把握してません。で、そういうのが世の中に出ちゃうと、ペータースとしては非常に困るわけです。もち論、私も困る。

柿沼:そうですよね。

一柳:それにそんなややこしいことは。ペータースの社長さんが60年代前半に自動車事故で亡くなったんですよ。それで奧さんが引き継いだ。奧さんと秘書の人が引き継いだんですけど、だけど運営がだんだんうまくいかなくなってきて、私がいちばん最初に知ってたのは、パーク・アヴェニューの27丁目か28丁目ぐらいに建った5階建てのビルはみんなペータースのものだった。その次行ったときは5階建てはなくなって、ワンフロアだけになってたですね。だから奧さんはずいぶんご苦労されたんじゃないかと思うんです。さらにその次行ったらもうニューヨークには居なくてニュージャージー州に行っちゃった。だからペータースの出版社としての浸透力が弱いから、どんどんいろんなことが起こったという感じがする。

IV. フルクサスとの関わり

柿沼:マチューナスなのですけれども、AGギャラリーというのをやっていて、そこでコンサートのシリーズとかイヴェントとかをやっていたようなのですけれども、一柳さんもやられていたようなことがどこかに書いてあったのですが、何をされたんでしょうか。

一柳:ラ・モンテ・ヤングの作品です。

柿沼:ヤングが企画したんですか。

一柳:いえ、企画じゃなくてラ・モンテ・ヤングの曲ですね。曲と言っていいのか。彼のはほとんどインストラクションだけとか、そういう曲ですけどね。

柿沼:それを演奏されたという意味ですか。

一柳:そうです。

柿沼:一柳さんの曲はやらなかった。

一柳:私の曲はやってません、AGギャラリーでは。

柿沼:ああ、そうなんですか。まあすぐつぶれちゃったんですよね。

一柳:そうですね。

柿沼:その頃、オノ・ヨーコさんもロフトをチェンバース・ストリートに持っていて、そこで同じようなことをされていて、メンバーも重なっていたというようなことを読んだのですけれども。たとえばラ・モンテ・ヤングが。

一柳:ラ・モンテ・ヤングは両方にきっと重なっていたんですね。

柿沼:両方が企画してたとか、何か違いというのはあるんですか。

一柳:全然違いますよ。雰囲気とか環境とか。だってAGギャラリーがマディソン・アベニューですから。つまりニューヨークの中でもわりあいとハイブローなとこですから。チェンバース・ストリートというのはほんとのダウンタウンの。

柿沼:そこでオノさんが60年の12月にコンサートを始められて、ラ・モンテ・ヤングが企画して、最初のがテリー・ジェニングスのコンサートで。

一柳:そうだったかもしれません。

柿沼:一柳さんの日もあったと聞いてるんですけども、何をされていたんでしょうか。

一柳:えーっと、ピアノ音楽しかやってないですね。べつに予算があるわけでもなんでもないですから、完全にボランティアで何かやってくれというんでやったぐらいの感じですか。

柿沼:ピアノはそこにあったんですか。

一柳:ピアノは、ニューヨークは借りるの安いですから。

柿沼:ご自分の作品を自分で弾いたという。

一柳:その程度ですね。

柿沼:それが《ピアノ音楽第1番》とか《第2》、《第3番》。

一柳:シリーズの何曲かです、全部じゃないです。

柿沼:なぜラ・モンテ・ヤングと一緒にやるようになったんでしょう。

一柳:私が?

柿沼:チェンバース・ストリートの……

一柳:ラ・モンテ・ヤングが住んでたのもあのすぐそばでしたから。

柿沼:じゃあ行き来があって、それで何か一緒にやろうみたいな。

一柳:そうです。その辺にフィリップ・コーナーもいたし。

柿沼:でも「やらせてもらえなかった」と言ってました、フィリップ・コーナーは。

一柳:ああ、そうですか。そうでしょう、きっと。ラ・モンテはわりあいと選択が厳しかったですからね。どういう作曲家とかどういう演奏家にやってもらうとかいうのはね。

柿沼:何回かほかにも見られてますか、そのとき。そのシリーズで。

一柳:でもね、テリー・ジェニングスの曲なんかは、彼は全く無名でしたけど、モートン・(Morton Feldman)の前身みたいな。前身っていっても彼の後になるのかな。だけど非常に透明な、じっくりした、いい曲でしたよ。

柿沼:ラ・モンテ・ヤングの影響を受けてるんですよね。

一柳:受けてるでしょうね。

柿沼:音の少ない。

一柳:そうです。でもそういうのと、それは弦楽四重奏みたいな感じの曲だったんですけど、別の人では、極端なことを言うとピアノを、何と言うか、破壊するようなね、演奏を。

柿沼:破壊することをやってた。

一柳:やろうとしたような人たちまで含んじゃってますからね。誰かがきっちり運営をやれてたというわけじゃないですよ。

柿沼:じゃあヴィースバーデンでフルクサスがピアノを壊しましたよね。それ以前にもうそういうことをやろうとしていたということになりますか。

一柳:そうですね。ただヴィースバーデンがどんな状況だったか知らないですけどチェンバース・ストリートの場合ピアノは借り物でしたから、借り物のピアノを壊されたんでは(笑)。

柿沼:壊すわけにいかないですよね。

一柳:そうなんです。

柿沼:なのでやめたわけですね。

一柳:まあ半分やりかけた(笑)。

柿沼:半分やりかけた(笑)。それをご覧になっていたんですか。

一柳:それは一つやってましたね。ものすごいですよ。ピアノの蓋を開けて、内部に、こっから、何やったかな、よく覚えてないけど、ものすごい大きな建築資材みたいなものを転がす。ピアノの内部から下へ向けて板を置いといてそこから転がすというような。

柿沼:それはアップライトピアノですか。

一柳:いや、グランド。

柿沼:グランドピアノですか! ええっ!

一柳:これをやったのはディック・ヒギンズ(Dick Higgins)です。

柿沼:そういう話は全然出てませんね、その当時の記録として。

一柳:ああそうですか。どっか出てる可能性がある。かなりショッキングなイヴェントでしたから。

柿沼:どこか出てますか。

一柳:たぶん。ただ、音楽としては最低。でもそれはもうやめてもらいたいということだった。借り物のピアノだしね。

柿沼:そうですよね。

一柳:整然としたものでは全然ないので。それでAGギャラリーは、いま言ったようにアップタウンだった。アップタウンというかミドルタウンだった。場所としてはほんとにいい場所にあったんだけども、そこがフルクサスと、アヴァンギャルドの、ケージなんかと一番の違いですけども、フルクサスはもう完全なラディカリストですから、だからケージは嫌いだったんですよ。

柿沼:ケージは嫌いだった。そういうラディカルなやり方。

一柳:ラディカルな、もう音楽をはみ出してとんでもないところへ、政治的なことも含めて。AGがなぜすぐ終わっちゃったかというと、マチューナスが、そういういい場所に借りたにもかかわらず、それをちゃんと使わなかったというか、彼はいっさいのものを払わなかった。家賃払わなかった、電気代払わない、ガス代もいっさい払わない。だから2、3か月したら全部止まってしまう。それでね、私がラ・モンテ・ヤングの曲をやるとなったときに、2月だったかな。2月のニューヨークというのはちょっと寒いですからね。電気ない、夕方になったら真っ暗になってきてね。ラ・モンテの曲はまた目茶苦茶長いんですよ。3時間弾きっ放しとかって。(笑)

柿沼:そうですよね。そういう状況でおやりになったんですか。

一柳:そういう状況でやったんだけど、大変だったですね。

柿沼:えーっ!まいりますね。

一柳:それでだいたいもう、そのへんでいいやっていうことで。

柿沼:もういいやっていう。3時間、曲をお弾きになったんですか、じゃあ。

一柳:「でもラ・モンテの指示どおりにはいかないよ」って言ったら、彼は「かまわないから」って言ったんですよ。彼は何が聴きたいといったら、日本の笙。吹いても吐いても音が出ますから。あれで5度を3時間吹きっぱなし。まあ日本人だから、もしかしたらと思ったんでしょうけども。だいたい笙はまだその頃ニューヨークにはなかったし。

柿沼:でもそれお客さんいたんですか。

一柳:2人はいた。

柿沼:2人ぐらい。寒いなかで(笑)。

一柳:そう。僕はしょうがないからヴァイオリンでやったんです。ヴァイオリンの5度で。

柿沼:3時間ですか。

一柳:まあ一応ね。そういうことに関しては非常にうるさいですから。修業みたいなものでした。

柿沼:あと、マチューナスが当たり屋みたいなことをやってたというのは本当ですか。

一柳:ああ、本当です。

柿沼:クルマに轢かれるんですね、自分で。

一柳:「足一本失ってもその保証で一生食えればそのほうがいい」って言ってたんです。ほんとにあぶないですよ。信号が変わる直前に踏み出しちゃう。「それで賠償金を取る」っていうんだけども、結局、足は失わなかったですけどね。

柿沼:そんなことをしていたと。

一柳:そういうこともしているから、そこはなかなかついていけない。

柿沼:そうですよね(笑)。

一柳:そういうのとケージとは相容れないですけど。まあ、考え方の上でアメリカ文明への批判もあったのかもしれない。

柿沼:それでだんだん皆遠のいていったということはありますか。

一柳:やっぱりありますね。いくらアメリカ人が寛大でユーモアがあるからと言っても。しかしマチューナスは憎めない人ではありました。ひどい喘息を病んでましたし。

柿沼:当時、マチューナスがムジカ・アンティカ・エ・ノーヴァというシリーズをやっていたということなんですけれども。

一柳:名前は何か付けてたかもしれませんけど、私は覚えてないですね。

柿沼:あとヘンリー・フリントとか、ウォルター・デ・マリアと、レイ・ジョンソンを取りあげたコンサートをやっていたということですけれども。

一柳:やってたことは聞いてはいますけども、実際に見てないです。私がむしろ見てたのは、ジョージ・ブレクトとか、これはマチューナスともケージも両方違うけども、アラン・カプローのハプニングとか、そっちのほうは見てましたけど。

柿沼:カプローのハプニングはどうでしたか。

一柳全然:カプローのハプニングなんかはちゃんとした、一応ちゃんとしたギャラリーの中で、彼らはたくさんの自動車のタイヤなんかを使ってましたけど、これはもう全然フルクサスのやり方とは違う、要するに地に足がついてる、しかし非常に前衛的なやり方ですね。

柿沼:時期的にもフルクサスより少し前ですよね、アラン・カプローになると。

一柳:そうだと思いますね。

柿沼:《IBM》という曲がありますけど、マース・カニングハムのためのという。それは60年ぐらいにやられているはずなんですけれども。IBMともう一つありますけれども、《マース・カニングハムのためのIBM》(《IBM for Merce Cunningham》)という曲。

一柳:いや、IBMは一つしかないです。一つです。同じ曲です。

柿沼:一つですか。

一柳:ただもしかしたら「マース・カニングハムのために」という、カニングハムに献呈するといったことは後から付け足したかもしれない。

V. 帰国、ケージ来日

柿沼:日本にお帰りになってからやったのが、《IBMハプニング》。《IBM for Happening》というのをされていると思いますけど

一柳:ええ。あれは演奏というより出来事ですから、それを日本でハッキリさせる為につけました。

柿沼:分かりました。そのあと61年に日本にお帰りになるということだったわけですけれども、そのきっかけは何だったのでしょうか。

一柳:きっかけは、61年の頭に黛(敏郎)さんがニューヨークへ来らて。黛さんはモダン・バレエの音楽を頼まれて、それを彼が聴きに来たということでした。それで彼は2か月ぐらいですか、ニューヨークに滞在した。それが61年の頭ぐらいのことです。そのときに二十世紀音楽研究所のフェスでアメリカ音楽を61年の夏にやるという話が出てきてて、そこで話がつながって。だから形としては「二十世紀音楽研究所」のフェスティヴァルから呼ばれたんで帰ることに決めました。

柿沼:「帰ってきたらどうですか」とみたいなことだったわけですね。「帰ってきてやってほしい」と言われた。

一柳:とにかくアメリカ音楽の夕べは私の曲を含めて全部内容を任せるからという話だったんですね。

柿沼:そのときに何をされたんですか、プログラムは。

一柳:プログラムは、クリスチャン・ウォルフのプリペアード・ピアノの曲と、タイトル忘れちゃった。アール・ブラウンのチェロとピアノの二重奏。

柿沼:そうですね。

一柳:それから、シュテファン・ヴォルペの《フォーム》かな。それからフェルドマンの曲。

柿沼:一柳さんは曲をやられなかった?

一柳:やりましたよ。それは私の《ピアノ音楽4番》と《6番》と《弦楽器のために》の同時演奏。それとケージのピアノとオーケストラの《コンサート》ですね。

柿沼:コンサートも。

竹内:そのとき指揮をされたのは黛さんですね。

一柳:ええ、そうです。

柿沼:草月会館でもコンサートをされますね。

一柳:はい。こちらは全部私の作品の作品発表会でした。

柿沼:そのときに《IBM for Happening》をされていると思うんですけど。

一柳:あれはもグループ音楽と黛、武満、高橋など全員作曲家に出演してもらいました。

柿沼:そうですね、帰国記念みたいな。

一柳:まあそうですね。

柿沼:このときに刀根康尚さんがカナヅチで鉢を割ってそれを食べたというんですけども、ご記憶にありますでしょうか。

一柳:いや、それは聞いてないですね。どうも話にいろいろ尾ひれがつきますね。

柿沼:同じようなオーラル・ヒストリーのインタヴューで、そういうふうにおっしゃっているんですけれども。なぜかというと、ナム・ジュン・パイクがピアノのペダルを食べたと聞いたので、そのぐらいのことをやらなきゃいけないと思ってやった、と言ってらっしゃるんですけども。一柳さんはご存じなかった?刀根さんが自分で言ってるんです。

一柳:言ってるんだけども、私の発表会のほうが先なんですよ、ナム・ジュン・パイクより。

柿沼:ああ、そうなんですか。じゃあ記憶違いですね、刀根さんの。だって「パイクはやったと聞いたんでやったんだ」みたいにおっしゃってるんですけれども、そうじゃないですね。

一柳:そのあとですね。

竹内: 61年11月に草月会館でやった演奏会のときに邦楽器を使ったアンサンブルで作品を演奏されている。《ピアノ音楽第2》も演奏されていて、ピアノを担当されたのは一柳さんご自身なのですが、尺八で青木静雄さんが参加されています。これはどういう経緯でそういう編成で演奏するということになったのでしょうか。

一柳:じつは向こうから帰ってくる前に、日本音楽のレクチャーを頼まれていろいろやったんです。
じつは尺八の曲を生で聞いたのは、それは初めてだった。

竹内:ああ、そうなんですか。

一柳:非常に素晴らしいと思ったんで、それを同時演奏として私のピアノ音楽に重ねてやろうと思った。これはまったく思いつきですけど、同時演奏によく釣り合っていました。

竹内:じゃあこの尺八のための譜面というのは特にご用意されてはいなかったんですか。

一柳:ないです。そのときやったのは尺八の本曲の古典ですから。

竹内:古典を一緒に演奏されたんですか。

一柳:ええ。《鹿の遠音》という曲。日本の伝統音楽は時代は古くとも、内容は西欧の前衛に通じる新鮮なものがありますね。

竹内:有名な曲ですね。重ねてお伺いするのですけれど、《回帰》という作品をそのとき一緒に演奏されていらっしゃいます、初演だと思うのですけれど。この作品でもやっぱり神楽笛とフリュートを刀根さんが一緒に担当していて、邦楽器と洋楽器、両方使ったアンサンブルで演奏されています。やはりこの時期というのはニューヨークで日本の伝統音楽に関する講演をされたというのが大きなきっかけだった。

一柳:多少は影響してますね。そのときは宮田まゆみさんの先生だった多(おおの)さんと、笙も演奏していただいています。雅楽の楽器は西欧の音階と比べると、約半音ずれているところが魅力です。

竹内:ああ、そうですね。多忠麿(おおのただまろ)さんが笙を、一柳さんはそのとき琴を弾かれたというふうに、編成表を見たら書いてありますが、これは正しいですか。

一柳:ええ、正しいです。弾いたというのはおこがましいな。さわった程度ですよ。

柿沼:62年にケージが来日するんですが、その前に小林健次のさんとデュオ・コンサートをされていますね。このあいだCDが出ました。それで秋にケージがやってくる。このときに「ケージ・ショック」と言われたわけですけれども、今から見ても大変なことだったのでしょうか。そのときのケージ・ショックと言われる現象というのはどのような感じだったのでしょう。

一柳:5線譜を使わない、楽音と噪音を区別しない、自己表現をしない、図形楽譜の使用など、いろいろありますが、ただ来日した時、ケージがやったケージの曲というのはわりあいとスタティックな感じで、そんなに、特にケージ・ショックと言われるような感じではなかったですね。どっちかといえばピアノのための《コンサート》なんかのほうがもっといろんなファンクションが入ってたりしましたけど、あのときにやったいちばん主な曲というのは、《アトラス・エクリプティカリス》でした。これは61年の曲で、それがいちばんのメインだったと思います。テューダーとケージと日本の演奏家が《アトラス》をやったのは東京文化会館小ホールですけれども、あとはケージとテューダーが主に二人でエレクトロニクスを使ったパフォーマンスなどをして、草月会館はいつもいっぱいでした。

柿沼:そのときにケージが京都を訪問してますけれども、一緒について行かれたのでしょうか。

一柳:京都でも演奏会やりましたから、京都会館で。

柿沼:鈴木大拙のところに行ったのはそのときですか、それとも2回目の日本訪問。

一柳:1回目です。ケージは誰より大拙に会いたがっていました。鈴木大拙は1966年に亡くなってます。

柿沼:その次の年、63年にフルクサスの『アンソロジー』が出版されるのですが、そのなかに電気メトロノームの曲が入っています。それについては何か連絡をとられたんですか。それともマチューナスが勝手に入れちゃったのか。

一柳:フルクサスに私の方から連絡をとったことはありません。

柿沼:勝手に入れた?

柿沼:それとマチューナスが、フルクサスのフェスティヴァルをニューヨークとロンドンと東京でやりたいということで連絡をしてこられたと思うのですけれども、その日本でのオーガナイザーが一柳さんだというふうにどこかに書いてあるんですけれども、それはダメになっちゃったのでしょうか。

一柳:それはこちらには連絡がこなかったですね。彼は病気がちだったので、やりたい事が充分できなかったのかもしれません。

柿沼:来なかった。

一柳:連絡が来たっていう記憶はないですね。たとえ来ても、私は61年に帰ってきて、小杉(武久)さんたちとも一緒にやったり、小林健次ともやったりして、ニューディレクションというグループをつくってたし。62年にケージが来て、63年は京都で今度はメンバーの一人として二〇世紀音楽研究所の次のフェスティヴァルをやっていますし、64年にマース・カニングハム舞踊団全員が来て、というようなことをやってましたから、とてもじゃないけどほかのことにかかわる時間はなかったです。

柿沼:64年の1月にやる予定だったと書いてありますけれども。

一柳:そうですか(笑)。

柿沼:知らないですか?

一柳:知らないです。

竹内:このあたりのことで少しお伺いしたいことがあるのですが。1963年に諸井誠さんの司会で、ナム・ジュン・パイク、栗田勇、宗左近、高橋悠治と、『音楽藝術』誌で「世界の前衛と音楽」と題した座談会をされていますね。雑誌には8月号と9月号に掲載されていますが、そのときに「ケージの紹介をするより先に、フルクサスの紹介もじつはしたかった」というようなことを一柳さんが発言されているのですが、フルクサスを日本に紹介しようと思っていた時期というのはおありになったのでしょうか。

一柳:それはたぶんあったとすれば、ナム・ジュン・パイクが非常にフルクサスに興味をもってたんで、ポスト・ケージの問題として可能性について触れたかったかもしれませんが。あとは当時、草月会館と草月アートセンターが非常に熱気に包まれて、活気があった。そこへちょうどパイクが現れたんで。そのくらいですかね。

竹内:結局フルクサスは。

一柳:フルクサスのことはすでにかなり分かってきてましたから、ノータッチに近い関係でした。Petersやケージとの間で迷惑をこうむっていましたから。

竹内:単に紹介するというという機会はなかなかなかったということですか。

一柳:それはなかったですね。だいたい僕のほうがフルクサスに踏み込んでないですから。

竹内:ありがとうございます。ちょっと確認をさせていただきました。

VI. 再渡米

柿沼:1966年にロックフェラー財団の招きでまたアメリカに行かれますよね。そのときニューヨークに半年ほどおられたということなんですが。

一柳:もうちょっといましたね。約1年いました。

柿沼:そのときに横尾忠則さんとお会いになっていると思うのですけれども。今、横尾さんが『東京新聞』に連載をしておられまして、いろいろお書きになっていらして。その中に一柳さんもときどき登場するんですけれども(笑)。今、東京新聞をとっているもんですから。

一柳:そうですか。東京新聞をおとりになっているのは流石ですね。

柿沼:それでジャスパー・ジョーンズは一柳さんから紹介してもらったというようなことを言っているんですけれども、ニューヨークでの美術家との交流については何か覚えていらっしゃることはありますでしょうか。

一柳:私は美術家とか建築家とはわりあいとよくおつきあいしましたね。いちばん親しくさせてもらったのが、ジャスパー・ジョーンズと(ロバート・)ラウシェンバーグ。で、横尾さんはもうちょっとあとで、彼はアンディ・ウォーホルとかポップアートの人たちに惹かれていて、私はその少し前から活躍していた人たち、建築家のバックミンスター・フラーやフィリップ・ジョンソンなどです。

柿沼:そのなかでジャクソン・ポロックはご存知でしたか。

一柳:いや、知らないです、個人的には。

柿沼:そうですか。あまりジョン・ケージが良く言ってないんですけども、ポロックのことを。何かお聞きになっていらっしゃいますでしょうか。

一柳:えーっ、いや。特には。

柿沼:グラスペインティングのこととか、『ア・イヤー・フロム・マンデー』のなかでもあまりよく言ってないんですけど。あまりお聞きになっていらっしゃいませんか。

一柳:あまりその話題が出なかったですね。ポロックは自動車事故で早く亡くなりましたし。

柿沼:そうですか。横尾さんと知り合って、帰国後、草月で「サイコ・デリシャス・ショー」に出られたり、それから「11PM」にも出られたり。

一柳:誰が?

柿沼:一柳さん(笑)。覚えてない? 11PMで誰かと一緒に何かされたということを言っておられました。《第三の流行》ですか、という曲をその当時つくられたというのを聞いているのですけれども、あまりよく覚えていらっしゃらないでしょうか。

一柳:彼がニューヨークへ来たときは、ちょうど前衛的なバンドが次々と誕生してきて、それが皆ニューヨークで演奏会とか発表会をやって。彼はそれに完全にのめり込んじゃったもんだから。

柿沼:それでロックとかサブカルチャー系のところに行ってしまったということですか。

一柳:いやぁ、こちらはもうちょっと、たとえばペータースから次の楽譜を出したいとかいう依頼を受けてたんで、そちらのほうにわりあいと忙殺されてたんです。ただ横尾さんが来て、彼らはああいう性格だから、来たというのは分かっていたんですが、部屋から出てこれないとか。英語も、えの字も出てこない。彼を呼んだ画廊がマディソン・アベニューにあって、そこへも行けないというんでそこへ連れて行ってあげたことは覚えています。

柿沼:それで69年にオペラ《横尾忠則を歌う》をおつくりになったわけですけれども、あの音の選択は一柳さんがなさったんですか。演歌を使うとか。

一柳:半分ずつくらいでしょうか。

柿沼:でも内田裕也さんを使うというのは一柳さんの選択ですか。

一柳:ええ。二人の合意の上で。裕也は前から知ってましたし、フラワー・トラベリング・バンドは日本でもっとも先鋭的なバンドでしたから。

柿沼:オペラと名付けるというのはどちらの発案ですか。

一柳:どっちだったかなあ。横尾さんの絵がオペラを連想させたこともあるかと思います。

柿沼:それで68年に第2回オーケストラル・スペースというのがありまして、そのときにもロックバンドとオーケストラを一緒に、武満さんが指揮をされたんですか、それ。

一柳:ええ、そうです。

柿沼:途中で止まって、なんかロックが使えなくなって。最初しか使わなかったということなのですけれども。

一柳:あれは要するに、武満さんはそれまでほとんど指揮をやったことがなかったから、長く続けられなかったんで、すぐに終わってしまい、がっかりしましたね。僕のお願いした指揮というのは、ロックバンドがあって、片方にオーケストラがありましたから、だいたい指示だけなんです。だけど彼はすぐやめちゃったんですよ。僕は少なくても15分から20分ぐらいはやってもらいたいと思っていました。必要ないと思って、あまり詳しくそのことを説明したかどうか。武満さんはプログレッシーヴ・ロックにはおよそ不向きで、それで3分ぐらいでやめちゃったんです。

柿沼:そういう打ち合わせなしでやったんですか。 

一柳:打ち合わせはそれぞれの立ち位置とか、音の入る場所についてはした筈でした。

柿沼:そのとおりやらなかったということですか、武満さんは。

一柳:武満さんがね、それを3分で止めてしまったんで、音楽として成立しませんでした。

竹内:短いですね。

一柳:そうなんですよ。指揮者の選択をあやまりましたね。

柿沼:そもそもなぜ武満さんが指揮をしたんですか。

一柳:武満さんは作曲家だから、客観的な理解力を持ち合わせていると思ったのと、ほかの指揮者はロックバンドなんか指揮するのはいやだっていうこともありました。

柿沼:一柳さん、それじゃあご自分でされたらよかったんじゃないですか。

一柳:私はできれば全体を聴いてみたかった。

竹内:ああ、会場で。

柿沼:そのときに(スティーヴ・)ライヒの《ピアノ・フェイズ》をやったというのがどこかに書いてあったんですけど。

一柳:やりましたよ。

柿沼:オーケストラ・スペースでやったんですか、《ピアノ・フェイズ》を。

一柳:ええ。オーケストラの日と室内楽の日と二つあった。室内楽の日の方です。

柿沼:ああ、じゃあ別の日なんですか。

一柳:オーケストラの翌日です。

柿沼:そのときに日本初演されたわけですか。

一柳:そうです。

柿沼:もう一人のピアニストは誰ですか。

一柳:ツチヤ君[土屋幸雄]というクラシック系でないピアニストを、ああいう曲なので、あえて選んだのです。

柿沼:ツチヤ何という方でしょう。

一柳:まだLPがうちのどっかにあると思うけど、それを見れば分かりますけどね。

柿沼:ピアニストですか。

一柳:ピアニストといっても洋楽系のピアニストではないです。

柿沼:ポピュラー系ですか。

一柳:うん、まあ。つまり洋楽系のピアニストはあのずれる感覚が逆になかなかできないんですよ。

柿沼:《ピアノ・フェイズ》は万博で初演したと書いてあるものもあるんですけれど、それは間違いですね。

一柳:それは間違いです。それはスティーヴ・ライヒも、われわれが68年にやったということをどこかで言ってますから。

柿沼:《ピアノ・フェイズ》はニューヨークで聴いていらっしゃるんですか、ニューヨークの初演を。

一柳:初演、聴いてます。

柿沼:66年にニューヨークへ行かれたときに聴いたということですか。

一柳:67年。ニューヨーク大学での現代音楽の会でライヒ自身が片方のピアノを弾きました。

柿沼:67年に。EAT(Experiment in Art and Technology)というグループが「ナイン・イヴニングス」というイヴェントをアーモリーでやっているのですが、それもご覧になっているんですか。

一柳:それは66年の秋です。

柿沼:秋です。それは間に合ってないですか。

一柳:間に合ってないです。

柿沼:じゃあ聴いてないんですか。

一柳:聴いてないんです。でも話は、あの種の催しは初めての催しで、ビリー・クリューヴァーというベル研究所のエンジニアが初めて入って。ちょうどわれわれが到着する少し前にやられたので、話としてはいろいろ、その余韻の雰囲気が漂っているところに飛び込んだという感じだったと言ったらいいでしょうか。

柿沼:その年ですけれども、秋に日本で、磯崎(新)さんなどが「エンバイラメントの会」というのを立ち上げて、「空間から環境へ」という展覧会をされているのですけれども、それには参加されていますね。

一柳:ええ、してます。

柿沼:それは11月ですね。銀座の松屋です。

一柳:そうなんだ。あれをやってたから遅くなってニューヨークの「ナイン・イヴニングス」を逃してしまったんです。

柿沼:だからそれが聴けなかったということですね。

一柳:そうなんです。

柿沼:その環境ということなのですけれども、それが万博へとつながっていくと思うのですけれども。モントリオールの万博にそのときに行かれてますよね。ニューヨークにいらしたときにケージの車で一緒に。

一柳:そうです。

柿沼:そのとき、モントリオールでも環境ということが言われていたということですか。

一柳:ええ。ただモントリオール博の中心は映像博でチェコが話題をさらっていました。

柿沼:環境という概念が出てきて。

一柳:概念は出てましたけど。あの概念はどこから出てきたかというと、いちばん中心になってたのは美術の人たちですね。

柿沼:たぶんその大元というのは、アラン・カプローの本で出てる、「environment」ということなのかなと思っているのですが、そういうことでよろしいのでしょうか。

一柳:うーん・・・、ただ、アラン・カプローのパフォーマンスというのは私は二度ぐらいしか観てませんし、彼の場合はハプニングですから、概念は違うのでは?

VII. 「クロス・トーク/インターメディア」、万博

柿沼:そのモントリオールの後ですけれども、69年に「クロス・トーク/インターメディア」がありましたね。

一柳:ええ。

柿沼:そこでいろんなジャンルの人が一緒になってやるということがあって、アメリカからアシュリーとか(ゴードン・)ムンマとかも来てやりましたね。そのときロックフェラー財団も援助してるみたいなんですけれども、そのへんのことで一柳さんも企画に関わられてはいないんでしょうか。

一柳:私もコンピューター作品を上演しましたし、関わっていました。ムンマももちろんそうだし、アシュリーもそれからスタン・ヴァンダービークという映像作家なんかも来てましたから、まあ一緒に総合的に行動してたという感じですね。

柿沼:そのときも「環境」みたいなことは言っていたのでしょうか。

一柳:いや、そのときは環境よりもむしろ皆の話はコンピューターのほうにそろそろ移り始めてて。とくにゴールドン・ムンマが新しいコンピューターの曲を、彼はホルンを吹くんですけれども、そのホルンと一緒にコンピューターを結びつけた曲なんかをやってたんで、なんとなく話がそっちのほうに行って。あまり環境というのは、その直前にやった松屋での催しがつながってたとは言えないですね。

柿沼:それが70年万博につながっていったという感じはしているんですが、それでよろしいでしょうか。

一柳:ただ70年万博というのはもうちょっと大掛かりで、オリンピックと同じようなもんで、67年ぐらいから準備はスタートしてますから。もちろんそういう考え方はできるだけ入れようということではやってましたけど。しかしいろいろぎくしゃくあって。ぎくしゃくあってというのは、私は万博がどういうものかというのはあまりよく知らなかったので、それでモントリオールへ行ったんですけれども、その前の万博というのは1958年のブリュッセル博で、エドガー・ヴァレーズが《ポエム・エレクトロニクス》を書いたときですから。あのときはクセナキスの建物とヴァレーズの音楽があったからもしれないけどもかなり音楽の面で強調されて、あれもヴァレーズにとって唯一初めての電子音楽でしたから、それで。その次の67年のモントリオールはじゃあ何をテーマにしてやるのかというときに出てきて主導権を握ったのがチェコの映画だったんですよ。チェコの映像というのはまさにジョン・ケージなんかの考え方を踏襲したやり方で、つまり映画の筋をお客さんが決めていくとか。イスのとこにボタンがあって、ここから先の筋をあなたはどっちを選ぶかというのをお客さんがボタンを押して決めるんですよ。そういったものとか。それから映像の中に生の人が入ってきて一緒にパフォーマンスするとか。圧倒的にチェコの映像がよかったんですよ。なので私としては、58年は音楽、67年は映像、70年代は何をやるのかということで、コンピューターも出てきたことだし、一応音楽でライブとコンピューターを混ぜるようなかたちのものを、と思っていたんだけれども、日本の場合はなかなかそこまで話がまとまらなくて。だからそういうふうにできたのは私などが参加した一部のパビリオンに限られましたね。

柿沼:70年万博のときにいろんなことをされていますね。

一柳:やってますけどね。

柿沼:太陽の塔の中の「空中の音楽」というのをやるようにと言われたということですが、それは何という曲になりますか。

一柳:あれは《生活空間のための音楽》。

柿沼:ああ、あれがそうなんですか。CDで出てますよね。

一柳:出てます。

柿沼:人工的な、コンピューターでしゃべるやつですね。これは黒川(紀章)さんの依頼でやったということなんですけれども。

一柳:そう。川添さんがプロデューサーで黒川さんが空中の未来部門の内部とインテリアを担当していました。

柿沼:黒川さんの建築論をしゃべっている、コンピューターが。

一柳:あれはプロデューサーが川添登さんという建築評論家だったですから、音楽と同時に言葉の面を強く提起する形になったんです。

竹内:万博の前にミラノ・トリエンナーレで磯崎さんと《エレクトリック・ラビリンス》を制作されています。これは共同作業と考えてよろしいのでしょうか。音楽を担当されたということですが。この音楽について少し伺えたらと思うのですけれど。

一柳:あれもコンピューターを素材にした音楽とその発音とドアの開閉などがコンピューター制御されている観客参加による迷路空間です。2年ほど前に東京のMISA SHINギャラリーで、その再生が上演されました。

竹内:そうなんですか。ついこのあいだですか。

一柳:古川橋のシン・ギャラリーでそのリメークしたものを上演していました。そのギャラリーへ行けば。

竹内:聞くことはできる。

一柳:見ることもできる。

竹内:三井グループ館、万博のときですけれども、佐藤慶次郎さんと一緒に曲をつくっていらっしゃいますね。これはどういうかたちで共同作業を進めていかれたんでしょうか。

一柳:これは、佐藤慶次郎さんと私を指名したのが、美術の山口勝弘さんで、彼が強く推薦してくれたので、二人でやろうということになって。音楽はわれわれに全面的に任せてもらってやりました。

竹内:分担はどういうふうに決められたんですか。

一柳:分担は、音楽面と、そこには環境的な考え方が入っていたと思いますけれども、要するにいわゆる音楽的な音だけじゃない、(ミュジック・)コンクレートから電子音楽までの音を合成して分担していったんです。

竹内:最終的にはテープに定着されたんですか。

一柳:テープだったと思います。

竹内:その共同作業は非常にいい経験だったということをどこかでお話になっています。

一柳:ええ。

竹内:そういうかたちでの共同作業というのは一柳さんにとってはあまりご経験がなかったですか、それまで。

一柳:うん、あまりなかったですねえ。佐藤慶次郎さんがそのあと音楽から離脱していく……

竹内:そうですね。音響オブジェ……

一柳:やっぱりそういう考え方も持ってらしたからすごく協力し合えてよかったです。

竹内:発想となどの点でわりとやりやすかったですか。

一柳:やりやすかった。お互い自由な発想を共有できました。

VIII. ケージ、カニングハム・ダンス・カンパニー

柿沼:最初にアメリカに行った頃にもう一度戻りまして、ケージと出会われてからいろんなことをされていると思うのですが。一つ伺い忘れたのは、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチに行かれてましたね。

一柳:ええ。

柿沼:そのときにジョン・ケージのクラスに出席されていたとのことですけれども、それはどのくらいの期間ですか。

一柳:半年ぐらいですね。

柿沼:そのときにクラスメイトというか、同時に受講されていたのはどういう方たちだったでしょうか。

一柳:えっと、あそこにカプローがいたんじゃないかな。

柿沼:たぶんカプローがいたと思うんです。

一柳:いたと思います。いましたね。あとジャクソン・マクローというコンクレート・ポエムをやってる人とか、それからダンサーの若手の人たち。

柿沼:ダンサー。お名前は分からない?

一柳:ちょっと名前はよく分からないですね。だけどダンサーたちがいちばん若かったと思いますね、生徒の中で。

柿沼:そこにディック・ヒギンズはいましたか。

一柳:どうだろう。彼は非常に荒々しい人だから居たら目立ったと思いますが(笑)。

柿沼:そうなんですか(笑)。

一柳:いるとすぐ目立ってね、なんか自分が全部仕切るみたいなことをやりかねないから、クラスが下手したら成立しなくなっちゃうということがおきると思うんだけど、そういうことがなかったから彼はいなかったと思いますよ。

柿沼:私も一度お会いしたことがあるのですけれども、コンサートで隣に座ってらっしゃったんですよ。

一柳:ほんと?

柿沼:すごい紳士だったんですね。それで「あなたも音楽家ですか」と聞いたら、「私は作曲家です」って、composerだと言うんです。「えっ、お名前は?」と言ったら、「ディック・ヒギンズだ」とおっしゃって。私は、彼が作曲家だという認識をもってなかったのでビックリしたんですが、自分で作曲家だと言ったんです。

一柳:そうですか。だいぶ印象が違いますね。

柿沼:スーツ着て紳士だったので「えーっ?」と驚いたんですけど。それはヘンリー・カウエルの百年祭のコンサートだったんです。写真を撮らせてもらいましたけど。あまりに紳士だったので驚いたんです。もっと荒々しい人だと私も思っていたので。

一柳:あのね、お父さまがいた頃が荒々しかったんです。

柿沼:ああ、そうなんですか。

一柳:お父さまが亡くなって。彼が会社をやっておられたんですね、お父さん。その会社を引き継いだわけ、彼が。それがきっときっかけだったんじゃないでしょうかね。

柿沼:とにかくピアノを壊したりとかされた人だというのを知ってましたので、あまりにイメージが違ったんでビックリしました。

一柳:そうですか。

柿沼:ケージと知り合われて、ソーシャル・リサーチに出席されて、ケージの仲間というか弟子になっていくわけですよね。そのなかでいろんな活動をされたと思うのですけれども、演奏されたり。それから、マース・カニングハムのダンス・カンパニーのピアニストもされたわけですか。

一柳:ええ。

柿沼:それはどのくらいの期間やられましたか。

一柳:けっこうやりましたね。2年ぐらいやったでしょうか。

柿沼:ケージの代わりにということですか。

一柳:ケージとテューダーが交代でやってたんですけれども、きっと彼らもある程度大人だったし、できれば誰か若い人に替わってもらいたいという感じだったと思いましたね。

柿沼:ではツアーなんかにもついていかれたのでしょうか。マース・カニングハム・ダンスカンパニーのダンスツアー。

一柳:ツアーは2度ぐらい行ったかな。でも長期じゃないですよ、私は。全部つきあったわけじゃないので。

柿沼:ではわりと大事な役割をされてたんですね。

一柳:あれはこちらが学ばしてもらったという感じですね。即興でああいうダンスのピアノを弾くっていうのは、ジュリアードで伴奏をやってたのとは全然違いますからね。

柿沼:それは即興だったんですか。

一柳:全部即興です。

柿沼:即興といっても何でもいいわけではないと思うので。どうされていたのでしょうか。ケージがやっているようなことを真似してやっておられたのか、それともご自分の。

一柳:ケージは、ときどき行ったらやってるときがあったんですけど、ケージはピアノを弾くと全部ジャズになっちゃうんです。あまりうまくない(笑)。

柿沼:そうなんですか(笑)。でもそれでダンス・カンパニーが踊るんですか。

一柳:踊るっていうか、どういうのかなあ、どっちが合わせてるのか知らないけど(笑)。ただ、カニングハムは必ず、何やるにしてもわりあいと不確定なものを含めて、生徒たちに最初にワン、トゥー、スリー、フォーという、まずそれを自分がやって、それが2になったり7になったりとかいろいろするんだけども、それをやってそれを次に生徒たちにやらせてるという感じでしたからね。それを聴いてどういうふうに即興をやるかということを。でもそれはけっこう難しいんでね。

柿沼:難しいでしょう。

一柳:難しい。だから非常にためになった。

柿沼:そういうときに何を考えてされてました、即興を。

一柳:こちらも単なる即興というんじゃなくて、いちばん難しい即興を試みたこともしばらくあったんですけれども。それは何かといったら、12音というのは即興にいちばんしにくいんですよ。それをあえて強引にやったんです。(笑)

柿沼:即興で12音技法をやってみた。

一柳:12音というのは大変ですよ。なぜかというと12音の音を覚えてなくちゃいけない。

柿沼:なるほど。

一柳:でもね、さっき名前を挙げたジャクソン・マクローという詩人とか、カプローはいなかったけれども、美術家の連中とか全然ダンサーじゃない人たちも、エレメンタリークラスというのがひとつあって、そこにはそういう人たちが皆入ってきてたんで、普通のダンスのおけいこという感じじゃない雰囲気が形成されて、とてもよかったですよ。

柿沼:素晴らしい経験をされましたね。

一柳:ええ。そこは狭いとこだったけども、そこに建築家とか美術家とかが、ジャスパー・ジョーンズとかラウシェンバークも含めて、あと建築家のフィリップ・ジョンソンとか何人かの人たちがわりあいと頻繁に出入りしてた、その事務所のほうへ。事務所が一種のサロンみたいな。

柿沼:いろんな人たちの交流の場になっていた。

一柳:交流の場になって、いつも盛り上がっていました。

柿沼:そこへ出入りしているだけで違いますよね。

一柳:違いますよ。全然違います。

柿沼:素晴らしかったですね。

一柳:素晴らしいです。

IX. フィンランド、フィールド・ミュージック、これからの活動

柿沼:最近のことを伺いたいと思うのですけれども。フィンランドに行かれたりしていますね。フィンランドのグループを呼んでこられたりしていますけれども。

柿沼:フィンランドはどういうきっかけで行き来するようになったのでしょうか。

一柳:(セッポ・)キマネンさんという方はご存知ですか。

柿沼:えっ?

一柳:ご存知ないですね。クフモ・フェスティヴァルというのがあるんだけども、あれを30年間やってこられた方で。クフモというのはほとんど何もないようなところだったのを、一応30年かけてちゃんとしたフェスティヴァルに。私の感じではフィンランド人のなかでは、たとえば演奏家とか指揮者とかそういうあまり分け隔てがない、すべてに非常にインテレクチュアルな方で、ご自身はシベリウス・カルテットのチェリストでしたから、それからどこかのオーケストラの主席チェリストだったりするので、チェロは非常にうまいです。その人がフィンランド大使館の文化担当官で来たんですよ。2007年からかな。そういう人だから当然日本の芸術家、特に音楽家と交流をここで一生懸命やられて。で、呼び出されて。そしたらすぐに呼びたいからって。昔は本当はアメリカもドイツも、(フランスはまだ少しやってるかな)やってましたけれどもほとんどとまっちゃっているでしょ、今。フィンランドは特にそういうとこがわりあいと寛大で、大使館もよく使わせてくれるし。いちばんあれなのは、どのくらい裕福なのかどうかも分からないけども、私が呼ばれたときは、3人連れてきてくれてかまわないと言ったんですよ。ただし条件があると。3人とも作曲家で、演奏もできるという人。あんまり今いませんからね。3人だけ選んで連れていって。すごいですよ。ほんといい国ですね。つまり今までいろんな国へ行ったけども、アメリカは戦後だったということもあってそれは非常によかったですけれども、それと同じぐらいいい国というのはその後はなかなか出くわさなかったんだけども、フィンランドはその一つですね、まぎれもなく。素晴らしい国です。人柄もいいしね、親切だし、謙虚だし。

柿沼:音楽も最近良くなっていますね。

一柳:そうです。すごいですね、いろんな人が...。なんていうかな、要するに片方にスウェーデン、片方にロシアという、いわば大国にいじめられてきた国ですからね。どのくらい力があるかと思ったんだけれども、たとえばバルト三国なんかだと今もまだあまり力がなくて、もちろん一生懸命やってますけども、なのにくらべて、完全にもう西側の一国になっちゃった。ただいちばん最初に行って驚いたのは、消費税が30%なんですよ。全部じゃないですけどね。でも高いものは30%。

一柳:だけどその30%の消費税に対して誰も不満を言ったりとかしてないんですよ。そこが素晴らしい。つまりその支払ったものというのが自分たちの将来にまた還元されるということが、まったくガラス張りのあれで。私なんか行くと、もちろん音楽家とかジャーナリストにも会いましたけども、向こうの大臣が出てくる。そういう全然ちがう、普通だったら、日本だったらあまり関係ない分野の人たちが出てきて、皆で歓迎してくれるという感じです。そういうとこはある程度アメリカに似てますね。

柿沼:面白いと思うのは、フィンランドでフェルドマンのフェスティヴァルをやっているんですよね。

一柳:ああ、そうでしょうね。

柿沼:というのは、フェルドマンがシベリウスを評価していて、すごく素晴らしいと言っていて、大学でもシベリウスの交響曲を分析するようにという課題を出したりしていたようなんです。

一柳:それは知りませんでした。来月ちょっと彼来ますけどね、日本に。だけど今そういうフェスティヴァルを主宰するようなプロデューサーというのは、キマネンさんも今60歳代に入ったとこだけど、もっと若い人たちもけっこういますよね。すごく活発です。面白いのはね、夏は白夜だから、これはもう彼らにとってはほんとに天国みたいな時期なんですけども、夏はフェスティヴァルはいっぱいあるんです。8割ぐらいは現代音楽のフェスティヴァルでね。だけどぼくは嫌だから冬は行ってないんだけども、あまりにも寒いから。でも、冬もフェスティヴァルやってるんです。冬のやり方というのが違うんですよ。なにしろ冬は暗い、白夜の反対になりますから、真っ暗になっちゃう。それでものすごく寒いでしょ。人が家から出なくなっちゃう。それをそうじゃなくて家から出てもらうために音楽のフェスティヴァルをやる。それが音楽とつながっていることがすごいと思ってね。

柿沼:このあいだもサントリーサマーで〓カイヤ・サーリアホ〓が来ていて。聴かれましたでしょ?

一柳:聴きました。

柿沼:どうでしたでしょうか。

一柳:僕はハープの曲は嫌いだな(笑)。クラリネット協奏曲は素晴らしかったですが、あれはカリ・クリーックが驚異的な演奏をしましたから。

柿沼:嫌いですか(笑)。でもこれまでの現代音楽と違って、すごい響きがやさしくなって、聴きやすくなっていますよね。そのへんがフィンランドの最近の変化かなと思っているんですけれども。

一柳:そうですね。指揮者があまりにも出すぎてきちゃったもんだから(笑)。指揮者が出てくるとちょっと音楽の雰囲気が良くなくなるんです。全体として私もやさしい音楽の印象を持っていたのですが、クラリネット協奏曲で印象が一変しました。

柿沼:そうですか(笑)。

竹内:一つ聞き忘れていたことがあるのですが。1975年5月の『世界』という雑誌で一柳さんが「音と音楽」というタイトルで寄稿されているのですけれども、そこでニューヨークの大学の作曲コースでのフィールド・ミュージックの体験について書いていらしゃるのですけれども、その文章に登場する教師とはどなたなんでしょう。

一柳:それはケージですよ。

竹内:やっぱりケージなんですか。名前がまったく書いてないので。

一柳:書いてませんでした?

竹内:はい。それはジュリアードの経験なのか、それともケージのあとの経験なのか。そのあたりを確認しようと思って。

一柳:ああそうですか。ジュリアードは無関係です。ケージです。ケージはリードしながら、生徒たちが何人かクルマを持っているのがいますから、それに便乗して、30人ぐらいかな、出かけていったと思います。

竹内:まったく名前を書いてない、あえて名前をふせてらっしゃったんだと思ったんですけれど、どなたが先生なんだろうと思って。

一柳:あえてふせたんじゃないと思います。

竹内:そうですか(笑)。その先生はケージであったということですね。

一柳:はい。

竹内:「森に出て音を聴け」ということを指導のなかで言われたということですけれども、どういう場所に行っていらしたんですか。

一柳:いやあ、ニューヨークから小一時間ぐらいの、郊外で森ではなく、林と原っぱが入り混じっているような人家が殆どない所でしたが、多分いろいろな所へ出掛けたと思いますよ。

竹内:じゃあけっこう山のほうですか。

一柳:いや、山というほどじゃないですね。

柿沼:ストーニー・ポイントじゃなくて。

一柳:ストーニー・ポイントではないです。

竹内:月1回ぐらい授業があったと書いてありますね。

一柳:でも、そういう授業はそんなにはないですよ。

柿沼:それはソーシャル・リサーチのことですか、授業は。ニュー・スクールでの授業ですか、それは。

一柳:えーぇ、そうです。

柿沼:ちなみにストーニー・ポイントはいらっしゃったことはありますか。

一柳:何回もありますよ。いちばん最初に行ったのはケージやテューダーの家で、テューダーにカレーをごちそうになったこともあります。後にジャスパー・ジョーンズの家にも行きました。

柿沼:ケージが「うちにいらっしゃい」と言ったときに行ったのがストーニー・ポイントの家。

一柳:そうです。

柿沼:ガラスで張ってある家ですか。

一柳:ええ、まあほとんどガラス張りのモダンな家ですね。あれはポール・ウィリアムズという、1952年に《ウィリアム・ミックス》という曲がありますけど、要するにケージやテューダーのパトロンですよ。だからスタン・ヴァンダーヴィークもいたし、テューダーもそこにいたし。スカイスクレーパーが林立するニューヨークと正反対の雰囲気のとこで。マッシュルームや野生の野菜や果物やお茶を摘みにも行きましたね。

竹内:自然がすごく豊かな。

一柳:豊かってほとんど何も手つかずのままですけどね。

柿沼:コンミューンみたいなものはわりと当時流行っていたというか。マチューナスもつくろうとしていたようなんですけれども、お誘いはなかったですか、マチューナスから。島を買って芸術家村をつくりたいんだというような。

一柳:彼は発想がすごいんだけど、実現力がない。(笑)

柿沼:靉嘔さんなんか見に行ったようなんですけど、その島に。ワダ・ヨシマサさんと何人かで。

一柳:ほんと?

柿沼:今は何か新しい曲を書いてらっしゃるでしょうか。

一柳:書いております。

柿沼:それは何の曲ですか、まだ秘密ですか。

一柳:いあ、そんなことはないです。去年1回呼んだアメリカのフラックス・カルテットの委嘱です。

柿沼:フルックス・カルテット。フラックスですか。

一柳:あれはフラックス。今アメリカでもっとも先端のカルテットです。ちょっとだけもじってるんですね。ただ中の二人は台湾の方です。

柿沼:お父さまが事業をされているという。

一柳:そうそう。チェロのお父様で東京にも事務所を持ってやっています。そのカルテットに頼まれて。

柿沼:じゃあカルテットですか。

一柳:一応カルテットです。ピアノ五重奏でもいいって言うんだけど、たぶんカルテット。

柿沼:ご自分でピアノをお弾きになる。

一柳:いや、あの連中とはちょっと大変。(笑)いや、ほんとにうまいですよ。よく勉強して来てくれますし。あとはサントリー・ホールの委嘱で2017年に初演するヴァイオリンとチェロの《Double Concerto》が2つの大作で、あとはピアノやハープのソロなどです。

(終了)

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