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フィリップ・コーナー オーラル・ヒストリー

2015年9月20日 コーナー氏の自宅(レッジオ・エミーリア、イタリア)
インタヴューアー:柿沼敏江、ルチャーナ・ガリアーノ
インタヴュー翻訳:柿沼敏江、青嶋絢

フィリップ・コーナー(フィル・コーナー)(1933年~)

1933年ニューヨーク市ブロンクスに生まれる。ニューヨーク市立大学で作曲を学んだ後、パリ音楽院のオリヴィエ・メシアンのクラスで音楽分析を学ぶ。帰国後コロンビア大学大学院でオットー・ルーニングとヘンリー・カウエルに作曲を師事し、修士号を取得した。その頃、ジョン・ケージやその仲間たちと知り合うようになり、ジャドソン・メモリアル教会でパフォーマンスを開始する。1962年、ヴィースバーデンの国際現代音楽祭でフルクサスのメンバーがいまや悪名高い「ピアノ破壊イヴェント」を披露したが、これはコーナーの作品《ピアノ・アクティヴィティーズ》を独自に解釈したものだった。作曲、演奏のほかニューヨークのガムラン・グループ「サン・オブ・ライオン」の活動にも関わり、カリグラフィーや美術を含む多彩な活動を展開している。1992年にイタリアのレッジオ・エミリアに移住。

I: 幼少時代から大学、フランス留学
II: 帰国
III: ケージとフルクサス
IV: ピアノ・アクティヴィティーズ
V: シュトックハウゼンの《オリギナーレ》
VI: 《ピアノ・ムーヴィング・イヴェント》とディック・ヒギンズの《1000の交響曲》
VII: ナム・ジュン・パイクと《〜風に》
VIII: トーン・ローズ・アンサンブル、その他の活動
IX: エリック・サティ
X: ガムラン
XI: フルクサスとは何か?

フィリップ・コーナー オーラル・ヒストリー

I. 幼少時代から大学、フランス留学

柿沼:本日は2015年9月20日です。フィリップ・コーナーのオーラル・ヒストリーのインタヴューを行います。インタヴューアーはイタリアの音楽学者ルチャーノ・ガリアーノさんと私、柿沼敏江です。

柿沼:ではまずご経歴に関することからお伺いしてよろしいでしょうか?

コーナー:はい、もちろんです。

柿沼:お生れになったのは1933年ですね?

コーナー:ルーズヴェルトの年に生まれたんですよ。つまりルーズヴェルト大統領と一緒に。だから私はニューディール・ベイビーでした。

柿沼:生まれたのはニューヨークのどこでしょうか?

コーナー:ブロンクスです。みなが好きな町です。

柿沼:ご両親も音楽家ですか?

コーナー:いえ、音楽家ではありません。ただ家にピアノはありました。母は子どもの頃ピアノを習っていたのですが、レッスンをやめました。クラシック音楽ではなくて、ポピュラー・ソングだけ演奏したかったからなんです。それでピアノをやめたんです。歌のためにピアノを弾いていたのですが、家で音楽といえばそれだけでした。

柿沼:ではなぜ音楽の勉強を始めたのですか?どのように始めたんですか?

コーナー:パルマの修道僧かつて私に言ったところによれば、「天の声を聞いた」んです。

柿沼:まあ!

コーナー:まあ、ある言い方をすればですが...ただ、それは本当だと思います。実際には、かなり遅くなってから音楽の勉強を始めました。13歳の頃でした。それより前にピアノは弾き始めていましたが。ですから、天才児とかそういった類いではまったくありませんでした。勉強を始めたときには、ピアノの才能もそれほどないとわかりましたし、ピアノの素晴らしい演奏家だったことはありません。スポーツも得意ではありませんでしたし、運動感覚もとくになかった。ですから、身体的に言っても、素晴らしいピアノのテクニックといったものを持ってはいなかったんです。それで、ピアノの演奏は上手ではありませんでした。でもよく練習はしましたし、勉強も一生懸命しました。そして最初から、創造的なことはしていました。だからふざけ半分に「天の声を聞いた」などと言ったのです。でもそれよりずっと前に、私はいつも創造的と言えるようなことをしていました。

芸術学校で教えられていたことはみなよく覚えています。水彩画、陶芸、素描、織物、金属細工、木材工芸などです。そしてみながやるはずのある種のモデルのようなものがいつも与えられ、私はいつも自分で独自のものをつくっていました。ですから8歳のときにはすでに、そうしたアイディアが頭のなかにあったんです。飛行機の模型さえもデザインしました。たぶん飛びはしなかったでしょうけれど、デザインは私が全部しました。そうしたアイディアがあって、実際にやっていました。何かがずっと私のなかにあったんです。それで音楽を始めたときに、まず何が起きたかと言えば、私と双子の兄弟は、ピアノの椅子にのぼって、そこにあるものを見て、どう音符を読むのかを考えようとしたんです。そのときに、母が「ピアノのレッスンをしてあげる」と言ったんです。

そうして13歳になったときに、これと同じことが音楽で起こりました。それで「これは素晴らしい」と思ったんです。音楽の方が簡単だと思いました。というのは何か作業をしなくてもいいからです。何かを磨いたり、彫ったり、何か身体的なことをしなくてもいい。それが私がやったことです。ただ考えたということです。それから、それがじつはもっと難しいことだと分かりました。ピアノのところに行って、「いや待てよ、これは正しい音符じゃない」と言い、それから正しい音符を見つけようとしましたが、見つかりませんでした。いまサウンド・コラージュとかミュジック・コンクレートと言っているようなものを考えつきました。もちろんそのときにはミュジック・コンクレートはもうありましたが、先生たちも私たちもそれについて何も知りませんでしたし、高校では教えていませんでした。実際のところ、ちょっと現代的なことを知っていると、教師たちは反対しました。ですからミュジック・コンクレートを想像することはできました。

ガリアーノ:すみません。いたのは公立ですか...?

コーナー:そうです。公立の高校です。

ガリアーノ:ブロンクスの学校ですか?

コーナー:いえ、その頃にはもうブロンクスにはいませんでした。マンハッタンに引っ越していました。ニューヨークには特別な学校がいくつかあったんです。ある学校は科学に特化していましたし、他のものに特化している学校もありました。私の行った学校は、音楽と芸術(The High School of Music & Art)でした。そこに入るには、入学試験を受けなくてはなりませんでした。そういう学校に行ったんです。保守的でしたが、いい教育をしていたと思います。トロンボーンを習わなくてはいけなかったし、オーケストラで演奏もしました。でも作曲ではいつもひどく批判されて、さんざんでした。16, 17歳で書いた作品を見ると、ひじょうに保守的です。そうではあったのですが、こうした[ミュジック・コンクレートのような]アイディアを考えていました。もっと若いとき、14歳くらいだったかもしれません。音を聴くというアイディアを考えたのは。いま振り返ってみると、その時期が分かります。ブロンクスに行くには、ひじょうにゆっくりとしたカーヴを描きながら行きます。ヒューウウウウウウという音がします。これは素晴らしい、それで別の場所に行ってみるんです。電車は二つの駅の間をひじょうに速く走ります。距離があるから。でも止まらない。こんなことがあって、私はこう言いました−−「さあ、《ニューヨーク・シティ・トランジット》という曲を書こう」。

柿沼:それでその曲を作曲したのですか?

コーナー:作曲はしませんでした...いまはテープレコーダーを操作してコラージュをつくり、全部を自分でやることは考えられます。でも、アイディアはないし、テープレコーダーはコラージュ音楽やノイズさえも求めます。でも、私は何らかのやり方で自分のものにできるだろうと思いました。ところが私は地下鉄に入る改札口を通ったことがありませんでした。当時は5セントでした。カチッ、カチッという音がして、5セントが入っていき、グルルグルルとレバーを回して、入ります。そうして入って行って、カチッ、カチッ、グルルグルルという音をただ聞いていたんです。そして家に帰って。それを書き留めようとしました。書きとめようとして、ピアノで音をとろうとした。もちろんそれは改札口のような音にはなりませんでした。ですから、それ以上にはいきませんでした。まあ失敗といってもいい。それを一種の音楽上の抽象とすることは考えませんでした。たとえばオネゲルの《パシフィック231》ですが、そこから音楽をつくって抽象化しています。そうじゃない。私はカチッ、カチッ、グルルグルルという音がほしかったんです。それで...

柿沼:それはハイスクールの頃のことですか?

コーナー:そうです、たぶん14, 15歳の頃のことです。

柿沼:14歳、それは素晴らしいです。

コーナー:やり始めたところでした...つまり、それまでは音楽を作曲したことはなかったんです。私の最初の作品はクレメンティの様式による《ソナティネ》でした。バンパラパンパンというような曲で、ピアノの練習を始めた頃に弾いていたようなものです。ですから作曲家としての経験はなかったのですが、そういう構想がひらめいたときに、「ワー、これはいいや、ニューヨーク市の地下鉄路線は」って言ったんです。

柿沼:なるほど。

コーナー:いまになって分かるのは、それはひじょうに先見の明があり、ジョン・ケージやフルクサス、ミュジック・コンクレート、電子音楽などにも繋がるということです。でも、その頃はもちろんそんなことは分かりませんでした。

柿沼:ニューヨーク市立大学 (The City University of New York)で学ばれましたね。

コーナー:その当時はシティ・カレッジと言っていました。まだユニヴァーシティではなくて。

柿沼:ああ、そうですか。

コーナー:後になってユニヴァーシティになったんです。4つのキャンパスがあって、当時はカレッジでした。いまでもあります。いまはニューヨーク市立大学(The City University of New York)のなかのシティ・カレッジ・オヴ・ニューヨークです。

柿沼:その当時、作曲を学ばれましたか?

コーナー:ええ、大学に行って、作曲を学びました。

ガリアーノ:作曲は誰に学ばれましたか?先生は誰ですか?

柿沼:ブランズウィックですか?

ガリアーノ:ブランズウィック?

コーナー:そうです。マーク・ブランズウィック(1902-1971)です。このことについては、ちょっと心に葛藤があって、たぶん中傷になってしまうんですが、でも言わなくてはならないでしょう。何年か前にインタヴューをされたことがありました。そしてそのインタヴューは《ワイヤー》に掲載されたんですが、フルクサスや様々なことについてのものでした。インタヴューアーは私の状況的な、また政治がらみの作品《対人殺傷クラスター爆弾が聴衆のなかに投げ込まれるだろうAn antipersonnel cluster bomb will be thrown into the audience》と呼んでいるものについて尋ねました。

柿沼:はい。

コーナー:それが、ある意味で大きなミスとなって、いまでもついてまわっています。このことを理解する手助けをしてくれる人たちもいましたが、これについて間違ったことを書く人もいましたすし、ときには....私はある意味でこの曲は失敗だと思いましたが、また別の意味では面白い。政治に関連したことを扱うというアイディアによるものだからです....でも、あまり話が離れない方がいいでしょう。このことをあえて言ったのは、この曲は一度も演奏されたことがないからです。この曲の演奏というのは、演奏をしないことなのです。この曲は演奏されませんと宣言するのです。やらないのです。それに、プログラムには別の作曲家の曲がありました。彼はじつは私の友人だったのですが、彼はこう言いました——「この曲をやるのなら、僕は参加しない。プログラムから僕の曲は外すよ。なぜかって?君がこの曲をやったら、怖いからね」。それで私は言いました——「何だって?僕か誰か他の人が本当に聴衆に向かって爆弾を投げたりするだろうか?バカげているよ。これが皮肉だってこと分からなくちゃいけない。何かを象徴してるっていうことをね」。すると彼はこう言いました——「いや違う!こんな馬鹿げた時代なんだぞ。誰かが何かするなんてこと、誰が言えるんだ。だから君がその曲をプログラムに載せるんなら、僕は止める。いいか、その曲をプログラムに入れたりしたら、僕はぜったい来ない!」。それで私は自分の曲を外したんです。

すると幸運なことに、プログラムに載った別の曲がとてもとても重要なものになりました。《私は音楽の世界を歩み通すI can walk through the world of music》という曲で、私たちはそれを純粋に音楽を聴く曲として最初のものであるかのように演奏しました。このことをお話しした理由は、先ほど言ったインタヴューで、インタヴューアーが「その作曲家の名前を教えてください」と言ったからです。私は「いや、誰かは言いません」と言いました。で、私はマーク・ブランズウィックについてややそれと同じ感じがしています。おかしいことに、彼はそれほど悪い作曲家じゃない。だけど彼は...私にとってはよくないことでした。彼は4年かけて交響曲を書くような類いの人でした。しかも作曲したのは夏の間だけでした。教えるときには、教えるという人でした。

私も大学の教授になったときのことを思い出します。大学で教えてから興奮して家に帰ってきて、それから腰を下ろして作曲しました。いや、いや。当時彼は夏の別荘へ行き、そこに2〜3ケ月滞在して作曲し、こう言うのです——「鉛筆よりも消しゴムを使いなさい」。それは私にはまったく間違ったやり方でした。この音を理解し、それから書きなさい、そして次の音に進んで理解し、そして書かなくてはなりませんでした。こうしてゆっくりとうんざりするやり方でシリアスな作品を書くのです。また彼の音楽もひじょうにシリアスでした。もちろん最初は私もそれに従いました。というのは、彼は私の先生なのですから。でも、いま思い返してみると、それはまったく間違っていたと思います。でもそれでよかったとも言えます。誰かに出会ってその人と立ち向かわなくてはならなくなり、そして後になってからどう作曲するのかを見出し、どうやったらいいのかが分かるようになる。ある意味で彼は(立ち向かうべきものを)代表していました。そして、彼がやっていたことについて言えば、悪い作曲家ではありませんでした。しかし彼は実際すべてを代表していました。私が...

柿沼:反対していたことに...
コーナー:そうです。ある意味で、今もなおそうなのです。私は「進化」しているとは思いませんが、変わっていく何かがあると思います。そしてひとつずつ音符を書いていくやり方というのは...演奏家はみな作曲家が標準的な楽器のために書いた音を正確に演奏しなくてはならない。とくに一音一音というやり方。というのは、それは私が模型の飛行機やなんかのために考えたアイディアについてさきほど言ったことに関係しているからです。曲のヴィジョンを得ます。そのヴィジョンを明確にするための技法を考えるのに何年も費やし、そしてそれを書き付け、細部を調整する。

もちろん、最初はスケッチのようなものをつくりますが、それは曲のエッセンスを記したものです。それから細部を書いていくにつれてしだいに展開していくのが分かります。そして曲全体が見えてくる。つまりすべてが偉大な革新と関連づけられます。上昇し、下降し、後退する。解釈の自由、不確定性。始めから終わりに向かうのではなくて。こうしたことは全体のヴィジョンを得るということのなかにすでに含まれています。一枚の紙にそれを書き記し、そして「そうだ、いちばん下から始めよう。いちばん上から始めよう。そうやってぐるりと回ろう」と言うのです。そして、それはひじょうにオープンになり、言葉で書かれた楽譜へと繋がっていきます。言葉で書かれた楽譜は一般的なやり方、曲の一般的なアイディアを記したものです。細部をすべて書くのではなくて、自分でやるのです。ですから私のことをまとめて言うと、それについてはちょうど今晩演奏するオルガニストに言ったところなんです。彼女が演奏するのは1963年の作品で、音が半ば特定されています。デザインを決め、実際には切り紙のコラージュでつくりました。個々のデザインはひじょうに特別のものですが、それはスペース全体に漂っています。デザインによる曲ですが、ほとんどはクラスターとある種の運動からなっています。不確定性も入っています。クラスターがどれほど大きいか?どれほど幅広いか?正確にどのレジスターを使うのか?それはどのくらいの長さなのか?あるページから次のページへという連続性の感覚はあるのですが...それでもある種の自由があり、それでいて左から右へ、そしてどんどん進んでいくという古いやり方とも大いに関係があります。

1963年の私はこんな具合でした。でも彼女に言ったのですが、最近は醜さにひじょうに興味を持っているんです。極限は何かというようなことです。私がやってきたことの多くは、何が極限なのかということです。そういうことは多くの曲に見出すことができるでしょう。それで「極限はどこだ?」と言ったのです。私がいま興味を持っているのは美の極限はどこなのか?ということです。それで、そうしたことをやってきました。《醜い音楽 Ugly Music》という曲を書いたことがあります。実際に何ページかの楽譜とスコア、スケッチ・デザインが揃ったヴァージョンがあります。でも、それから私は決定版をつくりました。決定版は、「できるだけ醜く演奏しろ」というものです。彼女にはこう言いました¬——「演奏するのなら、その演奏を覚えてください。それがスコアです。できるだけ醜く弾いてください」。ところが面白いのは、みながいつも「とても美しい」と言うのです。パリのグループと一緒にこのパルマで、トロンボーン、ヴァイオリン、ギターでコンサートを行いました。私は声も担当し、「アア」とか「アアアーグ」という声を加えました。明らかに醜さをもたらしているでしょう...

ガリアーノ:醜さですか...

コーナー:床の上で楽器を擦ったり...何をやったか想像できるでしょう。そして私は「アアグ...アアグ!」と言って曲を終えました。実際それは、音響上の舞踏のようでした。するとみなが「この曲はとても美しい」と言ったのです。ですからこれはある意味で大きな謎です。私はこういうことをやろうとしています。でも自分が何をしているのか分からないのです。というか、自分が何を見つけようとしているのか分かりません。でももしそれが美しいのなら、何でも美しいでしょう。でもあるレベルにおいては、これもひとつの発見です。何であれ美しい。たぶんもっとも醜いのは下手な音楽家によるクラシック音楽の演奏だ、とある人が仄めかしていました。ですから、ハ、ハ、ハ、ハ...

柿沼:学生時代の話に戻ってよろしいでしょうか?

コーナー:どうぞ。

柿沼:ニューヨーク市立大学のあとでコロンビア大学に行かれたのでしょうか?

コーナー:いえ、いえ、奨学金をもらってフランスに行ったんです。

柿沼:先にパリに行かれたんですね。

コーナー:そうです。今になってみるとそれも不思議でした。

柿沼:メシアンに師事されたんですか?

コーナー:ええと、経緯をお話ししましょう。面白いんです。私は大学院に行くことになりました。いくつか大学院を受けて、その一つがプリンストン大学でした。ですが私はひじょうにナイーブでした。実社会で何が起こっているのか、知らなかったんです。つまりその当時、マーク・ブランズウィックがいたのにニューヨーク市立大学に行きました。シュテファン・ヴォルペに習うこともできたのに。ニューヨークにはそれなりの人たちがいたのに、私は何が起こっているのかを知らなかったんです。ケージの曲はいくつか聞きましたが、50年代はじめのその当時、はじめてケージを聞いたときには、私はケージを拒否しました。ケージのことが分かったのはパリから帰ってきてからです。イェール大学を受けさえしました。イェールにはヒンデミットがいました。ヒンデミットといえば有名な作曲家でしたから。私がヒンデミットに習うことを想像してみてください。クレージーです。

でも、私はプリンストンに受け入れてもらい、もしプリンストンに行ったら、シリアスな12音の作曲家ロジャー・セッションズに習うことになると思いました。分かっていなかったのは、私は実際にはミルトン・バビットに習うということでした。ミルトン・バビットはもちろんご存知のようにアメリカのブーレーズです。トータル・セリアリズムもまた、私にとっては想像しかできないことでした。それに対してどう反応していいかも知りません。というのは、ミルトン・バビットの犠牲者ともいえる人がたくさんいて、彼らはそれを通過して、今度はそれを拒否し、最後には反クラシック音楽になり、ロックやポップ、あるいはある種の統合を行いました。フレデリック・ジェフスキー(1938- )はその完璧な実例です。民衆のための音楽、労働者階級の歌、伝統的な方法での和声づけといったことです。それはミルティ叔父さん(ミルトン・バビット)への反発のようなものでした。彼はひじょうに優しい人だと思います。私には個人的なレベルでとてもよくしてくれました。でも分かりません。自分がどう発展したのか、いまどこにいるかを考えるとね。彼にはショックを受けました。ジョン・ケージを受け入れませんでした。パリから戻ってくる頃には、私はケージにたいして偏見がなくなっていました。

さて、メシアンの話ですが、パリに着いたときには、何をしたらいいか分かりませんでした。それでパリ音楽院で勉強すべきだと考えたんです。それで色々な役所を回りました。そのなかに音楽について知っている人がいて、あるパーティに誘ってくれました。するとそこでは[メシアンの]《神の降臨のための3つの小典礼》(1944)が演奏されていました。それで「これは私の音楽だ...」と私は言いました。ところがこの人はこの曲がまったく好きではなかった。でも興味があるのなら、彼の教会に行って、日曜日にオルガンの下で待つようにと彼は言ったのです。それで私は言われたようにしました。当時の私のフランス語は下手でした。でもメシアンに近寄って、彼のクラスに出席したいと言ったんです。彼は分析を教えていました。彼は「留学生の割り当てがあるんですよ」と言いました。5人の外国人学生が認められていたと思います。面白いんです。そこにはアレクサンダー・ゲール(1932-)がいて、彼はイギリスで有名な作曲家になりました。ジル・トランブレー(1932- )は有名な作曲家になり、モントリオールの音楽院の院長になりました。ですから、本当に優秀な人たちです。彼らは5人のなかに含まれていました。メシアンは、まあとにかく来て、参加してみたらと言ってくれました。そして最終的に公式のリストをつくって、そこに私も受け入れてもらいました。つまり私はコンクールやその他のことができるようになったのです。2年間滞在しました。

これはひじょうに重要なことでした。それで私は彼の音楽を勉強しました。デュランに予約を入れ、楽譜を借り出しました。音楽院の図書館に行き、スコアを研究しました。メシアンがやっていることにひじょうに影響を受けました。ある意味で彼はもう時代遅れで、とくに50年代以降は逆戻りして、反前衛になっていました。だけど、ああした音の分離の問題...個々の音は独立して分離して極端な対照をなしているということ、それは実際にはジョン・ケージの考えでもあって、個々の音はそれ自体だということでした。ところがメシアンはすべての音は互いに隣接しているというコンテクストのなかに音を入れました。それは沈黙のなかに漂っているというのとは違って、個々の音はなおそれ自体の強度、持続、その他の特性を持ち、それが推移を経ることなく何か別のものに突然変化するのです。

ですから、コンテクストはなくて、ケージがかつてプリペアード・ピアノでやったのと同じことを実際にできるのです。ケージの偶然性のチャートである場所から別の場所へと移ったのと同じことを。《音価と強度のモード》(1949)などメシアンのいくつかの曲を見てみると、それはモードであってセリーではないので、ある場所から別の場所へと動くことができる。これはブーレーズが《構造》(1952)でやったことよりもずっとラディカルですらあります。当時彼は、メシアンはまだモードなんかやっていると、我々はトータル・セリアリズムをやるんだと言っていました。しかし、トータル・セリアリズムは、こういうやり方、こういう順番でやるんだということでしかない。だから、ある場所から別の場所に動くという状況にはならないのです。それで私は、そこに可能性があることが分かったら、即興ができると気づいたのです。

言い換えれば、たとえばメシアンが有名なリズム・エチュードで設定した音すべてをとりあげると、そこには互いに重なりあった12音の3つのセットがあります。彼らはこれらの音を使うと言うのです。それぞれが異なる強度と持続を持っています。さて、このような曲を即興することができるのです。同じことはケージにも言えます。ケージはこう言います——「これらの音が準備です。これらがあなたに与えられた音です。それからサイコロを投げてどこからでも、どこへも行けるのです」。そういうことは即興でできると言えます。違いはあるかもしれませんが...もちろん。私はパリから帰ってきて、すでにある意味でシュトクハウゼンやああした人たちに反発を感じ始めていました。私はかつてそうした方向で作曲をしていたので、やや悩みましたが、私はよりメシアンの方向へと向かっていました。

さて、私の音楽はああいう風に響いてほしくないと思っています。今の私には、自分がやっていたこととメシアンの分離の考えがどう違うか、とてもよくわかります。ブーレーズやシュトックハウゼンやああしたすべての作曲家たちにはそういうものはありません。彼らはなおもレトリックを持ち、すべてのなかに線的な流れがあります。ですから、私の観点からいえば、それはとても反動的です。セリーは反動的です。なぜなら、そうした基本的にモティーフ的な要素と順序を押し付けているからです。一方モード的なやり方では、究極的にはケージの偶然性もまたモード的なものなのですが、限られた数の可能性があり、それからそれらを偶然によって使うのです。深い意味でモーダルです。ですからメシアンはモードでそうしたことをやっていましたし、それが基本的に私が学んだことです。つまり、どこからもどこへも行くことができるという考えで、もちろんケージがそれを明確にした人であり、個々の音は完全に異なり分離しているというのはメシアンの考えでした。今晩聞くことになる曲*は、実際にこの考えに基づいています。《ハイ・コントラスト》という曲です。これはもっとも大きな分離は音と沈黙の間にあるという考えをもとにしています。沈黙によって分離した音の島を聞くのですが、個々の島はそれぞれ少しずつ違っています。

* フィリップ・コーナーの《ハイ・コントラスト》(1963)はドイツのオルガニスト、カタリーナ・シュレーダーによって、レッジオ・エミーリアのサン・フランチェスコ・ダ・パオラ教会で当日演奏された。

図形を解釈して演奏する作品で、さきほど言ったように切り紙やなんかでつくりました。クラスターがあり、基本的にノイズ的であって、オルガンで演奏すると見事に響きます。騒がしい音がし、多くの部分で音が大きいです。でもすべてがやかましいわけではありません。繊細な部分もありますが、沈黙が大きな音で激しく破られます。分離というケージとメシアンの考えの統合からもたらされたものをあるやり方で展開しています。

柿沼:とても興味深いお話です。

コーナー:ノイズと沈黙と...

ガリアーノ:ある意味で機能がない。

コーナー:機能?

ガリアーノ:つまりセリーというのは一種目的論的で機能的だということです。

コーナー:そうです。いや、私はセリーというのは基本的に.パッサカリアだと思います。際限のない反復に基づいています。彼らはそれを聞こえないようにするためにあらゆることをしています。音符はあらゆるところに飛び跳ね、進んでいきますが、1から2へ、そして3、4、それから11、12と進んでいき、また1に戻り、2、3という考え方です。どんなに延長したとしても、それはパッサカリアなのです。したがって基本的に考え方に危機が生じています。またふつう考えられている以上に伝統的です。ああ、これは12音だ。あれやこれは無調だ。無調は19世紀後期の音楽の半音階的全音階のなかにすらすでに存在していました。無調の素材があったのです。(カルロ・)ジェズアルド(1560-1613)のパッセージは、どれほど半音階的であっても、またどれほど協和音的であっても、基本的に無調的です。したがって明確な調的中心を持たないという考え方は古臭いものですし、まったく重要ではありません。でも、何らかの形でこれがあるという考え方、12音であるあり方はたしかにケージに関係があります。自動的に結果を生む、前もって決定を行うという考え方は重要だと思います。しかし、トータル・セリアリズムは、いったん全面的なセリーを持ってしまうと、ヨーロッパの12音技法の作曲家たちのやったようなやり方に繋がってしまいます。何も聞こえないのです。それは自分がまだ作曲家で、こういう曲を書く知的な人間で、アイディアを持ち、そのアイディアが正当化を行うことを何からの形で証明する方法なのです。そしてそれはある状況のなかで自動的に結果を、フーガやカノンなどの方法をつくりだします。いったんテーマが決まると、自動的に書くことが始まります。ある時点までは何をすべきかがとてもよく分かります。ですからこれは曲や形式のアイディアを生む古臭いやり方の強調なのです。この場合は極端なものを生むわけですが...でもケージも同じです。彼もまた結果がどうなるかを知りませんでしたが、彼には方法(メソッド)があり、それが自動的に結果をもたらしました。そういう意味で、この人たちはびっくりしました。ケージがダルムシュタットにやってきたときに、「おお、アメリカの偶然性の音楽と12音音楽の違いは?」と言うので、私はとても違う、ともに同じ世界の一部ではあるけれど、と言いました。アメリカといえば、カウボーイとかちょっと自由な人たちであまり知的でないということでしょう。まあそれはいいですが。ノイズの使用については、とても寛容で、ケージは素晴らしい作曲家でした。しかし、あらゆる可能性の領野が開けており、あるレベルであれ、あるいは構造的、理念的なレベルであれ、偶然であれ全面的セリーであれ、自動的に結果を生むシステムを持っているという考えは、同等なのです。

柿沼:この『ショート・ピアノ・ピーシズ』(1957)というアルバムで、これらの曲にメシアンの影響があったと述べられています。

コーナー:「ダ、ティ、ダダダダ、ダ、ティ、ダダダ」というのを聞けば、まったく明らかなです。

柿沼:これらの曲のなかで12音のメロディを使っているとおっしゃっています。

コーナー:いくつかは12音です、たしかに。

柿沼:そうです、でもグレゴリオ聖歌のように聞こえるんです。

コーナー:そうです。それはたしか、何番だったか、5番か6番ですか...?

柿沼:4番か9番では。

コーナー:オーケー、それはオクターヴで動くやつですね...それは....

柿沼:ゆっくりと動いていきます...

コーナー:ああ、それは...

柿沼:一種、繋がりのない...

コーナー:それはミニマリズムに近い。できるだけミニマルにというものです。オクターヴは基本的にユニゾンのメロディで、アイディアはメシアンから来ています。12音列が置換によって操作されます。ですから、さらに明確です。彼は《火の島》のひとつでそれをやりました。ただ何度も繰り返すのですが、同じ音域で。この12音が何度も何度も繰り返されるのが聞こえるのですが、彼は並置するためにそうしているのです。彼はシステマティックなやり方でやったようです。私はそういうシステマティックなやり方はしませんでした。ある列があって、1番の音が2番になり、12番は11番になる。12の数のなかで、反復のたびに順番が変わります。置換の考え方はもちろん、ある意味で反セリーです。音列を破壊しますが、なおも形を保っているのは、それはいつも同じオクターヴで、連続性があることによっています。音が聞こえます。パッサカリアのテーマに近く、変化はあっても繰り返されているのを聞くことができます。私がここでやったのは、グレゴリオ聖歌のイメージは(ただこれは技術的なレベルなのですが)、私の心のなかでとてもとても明確でしたし、もちろんある意味で、通常のグレゴリオ聖歌よりずっと極端でした。朗唱音さえもありません...ただ12音があるだけで、それが何度も繰り返されるのです。ですからある意味で、ひじょうに元祖ミニマル的ですが、表現性という考えを究極まで押し詰めていったものです。後になってそこからさらに発展させた曲もいくつかあります...

柿沼:メシアンと勉強されてよかったですか?

コーナー:ああ、素晴らしかったですよ。彼は素晴らしい。私たちがやったのは古典的な作品の分析でした。ストラヴィンスキーを分析しました。重なりあったオスティナートといったアイディアは、もうすでに現代的と言えるものでしょう。でも基本的に彼は20世紀音楽は分析していませんでした。彼はときたま自分自身の音楽について話しましたが、私は自分で彼のスコアを勉強し、理解しました。ですからあの『ショート・ピアノ・ピーシズ』は色々なものを吸収していて、重なり合ったオスティナートの曲もあります。ストラヴィンスキー的だともいえるでしょう。ただ、私はけっして誰かを真似しようとしたことはありません。それが私の教育の原理にもなりました。誰も真似しようとはしないということ。それは私の先生のブランズウィックが私に言ったことでもありました。「色々な土地に行って、何を探したらいいのでしょうか。バルトークをとりあげてみたらどうでしょう....若い作曲家はモデルを見つけて、自分自身のスタイルを見つけるまでは、そのモデルを真似ることができます」。それは伝統的なやり方でしょう...誰かを真似て、それからそこから脱出する。私はその当時ですら仰天しました。いまそのことを考えると、これは呪いだと思います。学生はこうした思考方法から身を守るべきです。その当時でもびっくりしましたよ。自分が望むものを探すのではなくて....

ですから《ショート・ピアノ・ピーシズ》のひとつに重なり合ったオスティナートを使いましたが、それはまったくストラヴィンスキー風には響きません。12音の曲もいくつかありますが、私は人が12音でやるようなやり方は、もちろんしていません。部分的にはウェーベルン的かもしれないけれど、その当時ですら私はあるレベルで明瞭さに関心を持っていました。そして何人かの人たちがこの曲についてコメントしてくれました。私の曲はそこらじゅうにありそうに思えるし、おかしな即興をするのに、でも明瞭さというコンセプトがある。ですからあるレベルで私はいつも明瞭さに関心がありました。ユニゾンで音列を扱うこれらの曲では、対位法さえありませんし、移高形や逆行形などもありません。ただ音列が繰り返されるのですが、音域の変化や音型の変化、形態の変化によって多様性は生まれます。ひじょうに単純化されたやり方で私は音列を使っていました。そのために批判もされました。この曲をあるフランスの作曲家に見せましたが、彼は...ブーレーズさえも同じことを言いました。君は明らかに何か現代音楽を聞いたことがあるようだが、それをとてもシンプルにナイーブに扱っている....と。後で私はそれがアメリカ的だと気づきました。アメリカ人は反知性的なのです。知的カウボーイなんです。

II. 帰国

柿沼:帰国されてから、今度はヘンリー・カウエル(1897-1965)に師事されたんですか?

コーナー:それは偶然でした。アメリカに戻って、コロンビアで勉強しました。

柿沼:コロンビアですね。

コーナー:私はひじょうにナイーブでしたので、2年間パリにいた後で、とくにミルトン・バビットと友好関係を保ちさえすれば、プリンストンの戻らせてくれると思いました。ところが彼らは「ノー」と言ったのです。こいつはプリンストンに行くのを拒否して、パリに行った。もう顔も見たくないって。それでそのことをマーク・ブランズヴィックに言うと、コロンビアに入れるように助けてくれたのです。そしてそこにいた人はオットー・ルーニング(1900-1996)でした。それでオットー・ルーニングに連絡をとると、彼は私を受け入れてくれました。私たちは話を始め、とてもとてもうまく行きました。そうして私はコロンビアに行ったんです。ふつうは大学院の2年目でオットーに就くことになります。大学院の年数は2年ですが、私はオットーのところに行ったので、2年間オットー・ルーニングに習うことになりました。実際は1年半でしたが。ヘンリー・カウエルに習ったわけは、ルーニングがローマ賞をもらい、アメリカン・アカデミーが彼をベッラージョに迎えたからです。彼は1学期間ベッラージョに行き、彼がいなくなった学期の間、私はヘンリー・カウエルに就いたのです。カウエルはコロンビア大学で教えていました。

柿沼:カウエルはルーニングの代わりでしたか?

コーナー:彼はルーニングの代わりでした。ルーニングがいなくなったときに、私はカウエルに就いたんです。私にとってはとても幸運なことでした。とてもいい経験をしました。カウエルはとても賢い人です。彼はこう言いました——「君がやっていることは分かるよ。とても面白い。演奏してもらうのが難しいっていうことが分かるといいんだが。そしてもしそれが分かったら、それでOKだ。それに君は批判を受け入れない。だから私は君を批判はしない」。彼はとても賢い人でした。彼の音楽も好きでした。彼の音楽もとても面白いと分かりました。

柿沼:それは素晴らしい。ではフルクサスのことに移ってよろしいでしょうか?

ガリアーノ:最後にもうひとつ経歴上の質問をしてよろしいでしょうか?イタリアにいらっしゃって、定住されたのはなぜですか?

コーナー:まだ経歴上の話なんですね?ニューヨークにもう我慢ができなくなったんです。

ガリアーノ:それはロザンナ・キエッシと関係がありますか?

コーナー:あります。以前、イタリアによく来ていたんです。ある意味でこれはフルクサスに関係があるのです。面白いことに、パリに2年間いて戻ったときに。もうヨーロッパのことは耳にしたくありませんでした。もう私には存在しないものになりました。最初は大好きで、とても大事でした。パリに2年間いるのはとてもたいへんでした。そしてとくにその時期、フランス人たちは極度に手の混んだハイパー・アカデミックなやり方をしていて、トータル・セリアリズムやそういったことをしていました。ひじょうに難しいやり方です。《ショート・ピアノ・ピーシズ》をある作曲家に見せると、彼は言いました——「作曲したようには見えない。むしろ即興みたいだ」。それで「それはどういう意味?」と聞いたんです。即興ということは、作曲しないことだと思いました。彼が言おうとしたのは、構造なしに書かれているということだったんです。あるアイディア、一種の原理はもちろんあるのですが、..,それが彼らの超合理的な考え方だったんです。そしてなぜこの音符はそこにあるのか?っていう問題がある。その答えは、第7反行形の反逆行形の第4の音だということになる。それで、私はこう言うのです。それは正しい音です、そこに置いたのはその音がほしいからです、と。すると彼らは「ばかな!」と言う。「ああ、君はとってもアメリカ人だ。好きだからそうするんだ」。そういった感じで...私はそういうメンタリティのなかでは生きていけません。それで戻ってきたんです...幸いにも、私の本当の友人でよき助言者になってくれたのが、カナダの画家ポール=エミール・ボルドゥアスでした。

それから、偉大な北米の冒険家、アメリカのアクション・ペインターのジャクソン・ポロック。彼は偉大なパイオニアの一人でした。モントリオールにおけるタシスム(アクション・ペインティング)、そしてもちろんパリには(ピエール・)スーラージュ(1919- )や(ジョルジュ・)マテュー(1912-2012)がいて、こうしたこと全てがアートの世界で起きていました。私はそうしたことにひじょうに惹かれました。そしてもちろんボルドゥアスは偉大な画家で、私は彼から貴重なものを得ましたし、彼が支えにもなりました。ただ、そうしたことを知っていたということで、このヨーロッパの知的な世界の一員だったわけではありません。その当時、たとえばイタリアに行ったとしたら、何かを見つけたでしょうし、(ジャチント・)シェルシ(1905-1988)や(フランコ・)ドナトーニ(1927-2000)を見出したかもしれません。ディーター・シュネーベル(1930-2018)のような人たちもいましたし。彼には後で会うことにはなるのですが。ですからその当時、そうしたことが私をフランスから救ってくれたのでしょう。フランスにはあの超合理的な構造設計があり、それで音楽を書きたくはありませんでした。一つの音を正当化しなくてはならないのですから。これは第7番目の音で、....といった具合に。

それで私はフランスを離れる前にケージの曲を聴いていました。そしてボルドゥアスに同じような音楽家がいるかどうか尋ねました。すると彼は「ジョン・ケージの周りに学派があるはずだ」と言ったんです。それで帰国してから最初に会ったのがモートン・フェルドマン(1926-1987)でした。彼はもちろんアート関係の人たちと親しくしていました。それでまずモートンに会ったんです。そしていくつかコンサートに行き、これが私の聴きたい音楽だと分かったんです。「うーん、私の音楽はこんな風に響くんだろうか?ああ、私の音楽はこういう方向に行くのか、こういう響きは好きじゃない」といった感じ方はしたくないんです。ドメーヌ・ミュジカルのコンサートでいつも感じていたのは、こういうことでした。《主なき槌》(1955)の初演にもいましたし、《少年の歌》(1956)や《断ち切られた歌》(1956)のフランス初演も聴きました。私が覚えているただ一つの曲はメシアンの《異国の鳥たち》(1956)です。でも他の曲については。もし私自身の音楽がこういう風だったら、私はやりません。それで、ケージやフェルドマン、そしてとくにアール・ブラウン(1926-2002)を聴きましたし、それからケージがクリスチャン・ウォルフ(1934- )を紹介してくれました。こうしてこの人たちをみな知るようになり、ニューヨークには他にも面白い人たちがいました。シュテファン・ヴォルペ(1902-1972)、そして彼がよく仕事をしているラルフ・シャピー(1921-2002)。また残念ながら顧みられていないルシア・ドゥルゴシェウスキ(1925-2000)がいましたが、その当時から彼女はいちばん面白い人たちの一人でした。

私がアメリカに戻った時には、こうしたことがみな起こっていたんです。それで、気楽にやればいいんだ、と言ったんです。音楽を書くことにも気楽になりました。12音列の変換を計算するのではなくて、サイコロを投げればいいんですから。でもその時でも結局は、ジョンにこう言いました——「あなたの影響はとても大きいし、あなたの音楽は好きですが、あなたと同じやり方でやるわけにはいきません。私はシステマティックな偶然性をやったことはありませんし、どうやったらいいかも分かりません..」。で、前にも言ったことに戻ると、アメリカのものもヨーロッパのものも、本質的なレヴェルでは同じです。つまり、ケージの偶然性のやり方でさえも、「私は作曲家だ、私は高度に知的でシリアスな楽曲をつくっている」という考え方に関係しています。デュシャンのように、帽子から音符を取り出すというわけではない。ケージは易経を必要としたし、その後ではコンピューターを必要としました。言うならば、コンピューターを面白く、複雑なものにしました。一つの層を別のものの上に重ねて、極めて複雑な手法を使うんです。それを偶然性と言うなら、何かを何かの上に投げるような偶然性でしょう。私がやり始めたのは、ちょうどその頃でした。最初につくった曲のひとつが《独奏者の曲》で、独奏チェロのためのアップタウンでのコンサートで初演されました。2枚の紙の上にコメを投げ入れて、コメを辿っていくというやり方をとりました。それから、アクションによって即興をするためのあらゆるやり方を見出すのです。パフォーマンスの一部としてそういうことをする曲があって、そこではパフォーマーはスコアにウネウネと音符を曲線に描いていって、見えたものをすぐさま演奏するんです。

その時にも、私はケージのシステマティックな高度に複雑なやり方を進んで踏襲しようとはしていませんでした。曲をつくるためには素材が必要でした。それは、こうした結果を自動的にうむようなシステムを設定する12音にひじょうに関係していたのです。これは、旧式な考え方です。私は偉大な作曲家だって言っているみたいなんです。このひじょうに知的で難しいやり方は理解しにくいものでした。でも、これはただの偶然だ、ただの偶然なら、何だって可能だ、と思ったんです。では、この複雑なたわごとにはなにが必要なのでしょうか?

そういうわけで....ジョンは最初はとても寛大でした。「私はそうしなくちゃならなかったんだ。君にとって必要ないのなら、それでいい」。いや、実際には私はこういうのは得意でした。12音音楽の必要性が分からないのなら、その人は無関係で役に立たない。そういった教条主義は何もありませんでした。それで、ケージとはとてもとてもうまく行きました。フェルドマンとはあまりうまく行きませんでしたが、アール・ブラウンは好きでした。居心地がよかったですね。私はコロンビア大学で勉強していました。またニューヨーク市立大学にもティーチング・アシスタントとして行っていました。そして、ずいぶんと変わったことに気づいたんです。彼らは私を全く受け入れませんでした。メシアンさえも彼らには進みすぎていました。その当時、私たちはヴァレーズを発見しようとしていました。マーク・ブランズウィックはこう豪語していました——「12音の分析などしたことはない」。彼はある種のことに敵意を持っていて、私が書いていた音楽にも敵意を示しました。そういうわけで、彼のことを言うのを躊躇したのです。人のことを悪く言いたくはないので。

先ほど言ったように、彼はいい作曲家で、真面目な人でした。でもこうした限界があり、とても防御的で、独断的でした。それに私はとてもクレージーなことをしていたわけではありませんでした。私は不確定性が何かということも、あるいはなぜこういうことをしたのかを説明できたでしょうし、なぜそうすることを選択したのかについても説明できたでしょう。でも彼は「おお、見てごらん。君はただこんなことを...」と言うのです。私が書いたのはフルートとバスーンの曲でした。フルートとバスーンがオスティナートを伴ってある地点までいき、そして別々に演奏をした後で、また一緒になる。こう言われました——「ああ、君のやっていることはかなり外れていますよ。オーケストラで誰かが拍から落ちて、誤った拍で戻ろうとした時にはいつでも、こういう効果が得られるのです」。私は怒ってこう言いました——「では、間違った音を弾いた時には、いつでも間違った和声が得られるっていうことですね」。すると、これまでとても協力的で親しかった人たちが、突然...私は突然まったく仲間はずれになったのです。それはある意味でとてもいいことでした。というのは、もし私が受け入れられていたら、もしアカデミックな環境に居心地よさを感じていたら、私は最終的に教授となり、教授として(ニューヨーク)市立大学で全生涯を送ることになったからです。そうならなかったのは素晴らしいことだと思っています。

Ⅲ. ケージとフルクサス
コーナー:それで、コロンビア大学で学んでいた頃にケージについて知るようになりました。彼のコンサート、デヴィッド・チューダーのコンサートにいくつか行きました。それで《ピアノのための音楽 Music for piano》の楽譜をコピーさせてほしいとジョンに頼みました。当時、その楽譜はまだ出版されておらず、購入することはできなかったので、そういったことは印刷会社に任せるしかなかったんです。それで彼は私のために楽譜をコピーしてくれて。やがて、彼をよく訪ねるようになりました。それから長年のあいだ私たちはとても親しくつきあい、ダウンタウンに入り浸るようになりました。そこは彼らのコンサートが開催される場所でしたから、デヴィッド・チューダーのコンサートをダウンタウンへ観に行きました。ニューヨークのアップタウン、ダウンタウンといえば、その分断はよく知られているところですがね。アップタウンの人々とは、もちろんコロンビア(大学)、モーニングサイドハイツであり、とある作曲家がそこで学び、そしてそれを否定したという、モーニングサイドの落とし穴と呼んでいるところです。 とにかく、私にとってはある程度において統合失調症のようなところでしたが、なんとかやれていました。少なくともオットー・ルーニングが私のやっていることを受け入れ認めてくれていたので。私はまだ、それほど型破りというわけではなかった。つまり、偶然性を用いていなかったという意味でね。つまり、まだ音符と楽譜、そういったことすべてを用いて作曲していました。これは50年代後半の話をしています。それで、当時もとても素晴らしい作品がいくつかあったと思いますが、私は常になにかしら明瞭なことをしようとしていました。そして12音列技法に関わることはすべて、ある程度間違っていると考えていました。けれども、私は12音技法で作曲をしていたのです。

たとえば《ショート・ピアノ・ピース Short Piano Pieces》は、単純化した方法で作曲をしました。つまり音列が何かを聴き取ることができ、またその音列からどの音を取り出しているかも聴き取ることができるように。最初の曲ではこのように二つの音列が同時にあり、これはまた...たとえば、片方はハ長調で、そして、ちょうど4つの三和音が非常にはっきりとしたハ長調で、一般的なハ長調で進行するように配置されます。そして、それが幾度も繰り返されるのです。ですから、この持続的で、そして常にとてもやわらかな(和声)があり…それに相対して、半音階を基本とした非常に不協和で尖った音階がある。これは、単に下行半音階なのですが。これらの大部分は、あらゆる鍵盤を使っているのですが、長7度と短9度ばかりなのです。それで、半音階が時たま聞こえて来ると、ブラブララブラ...となります。そしてここでは、これら二つのことが同時に起こっているのです。私の知る限りではこのような12音の作品は他にはありません。

わたしは、いつもこのように(作曲を)してきました。たとえば、4音の音列を扱うんです。だから音を聞き取ることができますし、またリズムの音列にして、たった4つのリズムで、4つの持続を聞き取ることができる。12というのは、聞き取るには多すぎる。私がこのように作曲をしていたのは、自分が何をしているかを明確に聞き取れるようにするためでした。当時、まだ12音列の作品を作曲していた時期でも、何か違うやり方をしようという感覚がありました。私が偶然性や非合理性などを始めたときも同じでした。
これはとても違っていました。もちろん、当時アジアで過ごしたことも、とても重要なことでした。コロンビア(大学)の後に、私はダウンタウンに足を踏み入れ、いろいろな人と出会いました。当時、ダンスにも興味があって、ダンスに魅了されました。ジェームス・ウェアリング (James Warning, 1922-1975)のための作曲を依頼されました。ウェアリングはダンサーで、ちょうど作曲家のリチャード・マックスフィールドに匹敵するような人物ですが、実際、60年代に彼のカンパニーから輩出された人たちはジャドソン・ダンス・シアターのようなダンス界で知られた先駆者たちでした。それで、作曲の依頼を受けて、もちろんダウンタウンの作品ですが、ジミー・ウェアリングのために曲を準備しました。そうして私はダウンタウンで活動を始めたのですが、その後、軍隊に召集されて入隊しました。そして...

柿沼:韓国ですか?

コーナー:え?

柿沼:韓国ですか?それとも?

コーナー:ええ、アメリカで招集されました。

柿沼:なるほど!

コーナー:ええ、韓国へ送られましたが、実際、その前の1年はアメリカにいました。

柿沼:韓国へ行く前。

コーナー:韓国へ行く前にね。それで、韓国で過ごした時期は興味深いものでした。なぜなら、その経験はとてもユニークな何かを私の音楽に与えてくれたからです。それは書です。帰国するまで、それを...あまり使わなかったのですが... 点の、わかるでしょうか、まるで米粒を紙の上に投げて、その周りにこう円を描くように音符を書くんです。書で音符を書いていたわけではないのですが、もちろん音はそういう風に聞こえました。というのは、それは韓国からのもので、日本的ともいえますが。韓国の音楽はより誇張されていると思います。アーアン、ナナアンナア...(a-an,a-an,nnnannaa...)みたいに音のなかで動きがある。だから、これを書くならば音の全部の長さと、その動きの調子を...

柿沼:ドローンですか?

コーナー:ええ、そのようなものですね。

柿沼:なるほど。

コーナー:ええ、もちろん、これはただの書です。そしてこれは私にはよく分からない言葉です。それは...それでもなお伝統的で、つまりある意味で伝統的な音楽を抽象化したものだということです。ええ、実際は、これはそうしたものの一つであり、これまでつくったなかでは最も極端な書の作品といえるでしょう。実は、これはアジアの筆と水墨のインクなどを使って書きました。その他に私がいつも使うようになったのはマーカーペンなどです。私が書いたものをお見せしたいのですが、ええ、あなたにお渡ししたレコードに出ていますね。たとえば、書というのは(私にとって)次第にとても大切なものとなって、よく用いています。これが、その一つですね。私の全ての音楽に、全てのレコードにあります。そしてそれは...私はずっと、これを発展させてゆくことに強い関心持ってきました。これは、ますます良くなってきていると思います。これらは全てアジアの書から来ていて、音楽的にこれに対応するものとしては、もちろん水彩インクを筆で描くよりも、これらのフェルトペンの方が近いかもしれません。

柿沼:筆

コーナー:筆、水彩インク、そして... あれは「エア・エフェクト」ですね、これらは私が韓国から帰国してすぐに行ったものです。

柿沼:なるほど、沢山お話しいただきました。

コーナー:よい答えになっているといいのですが。

柿沼:ええ。

コーナー:ええ、それで私が言ったのは、つまり

柿沼:この文章、つまりあなたがオノ・ヨーコについて言っているところで、自分の作品をオノ・ヨーコのニューヨークのスタジオまたはロフトでパフォーマンスしたいと考えていたけれども、それは実現しなかったと。

コーナー:ヨーコのことは韓国へ行く前から知っていましたよ。彼女は一柳慧と結婚していました。私の最初の妻がチェリストだったので、まず彼女がジュリアードで一柳と知り合いになり、そして、私たちはヨーコとも知り合いました。その当時、彼女はオリガミをしていましたよ。

柿沼:折り紙ですか?

コーナー:それと、たしか詩もつくっていたと思います。彼女が当時、いわゆるエクストリームなオノ・ヨーコ的作品をつくっていたかというと、当時はまだそのようなものはなかったと思います。 それらは全て60年代のはじめ頃でした。森の中で早朝に一つの音を歌うという《シークレット・ミュージック Secret Music [Piece]》(1953)をのぞいては。実は、これについておもしろい話があります。
私はフェミニズムに熱心な友人と議論をしたのですが、彼は、オノ・ヨーコは言葉で書いたスコアの偉大なパイオニアの一人として充分な評価を受けていないと主張しました。そして、彼は怒りをあらわにしました。それは私がヨーコは言葉で書いたスコアのパイオニアではないと言ったからです。彼女は言葉で書いたスコアをグレープフルーツ(1964)以前、またはジョージ・ブレクトの後に、ジョージ・ブレクトはその典型ですが、しかし当時はディック・ヒギンズとそのほかの人たちも(言葉で書いたスコア)を行なっていました。みなが言葉で書いたスコアをつくっていました。ラ・モンテ・ヤングの1960年の作品もそうです。多くの人が言葉のスコアに取り組みはじめ、そして、もちろんヨーコも独自のやり方で言葉のスコアを使っていました。けれども、それは他の人たちから3,4年遅れていたので、彼女がそのイノベーターであるとはいえません。しかし、《シークレットピース Secret Piece》はとても重要な作品だと思います。それはこれが初期のミニマル作品であり、そして、のちに商業的なミニマリズムの象徴とされる人たちよりもミニマルな作品だったからです。ご存知でしょう、ビッグフォーと呼ばれている4人です。有名ですね。ラ・モンテはのぞきますが、ほかの3人は私の考えでは、ややクラシック寄りの大衆向けの音楽でした。ラ・モンテは面白かったですよ、しかし、いずれにしても彼女(ヨーコ)は彼よりも先んじていました。長い音と、ただ長い音なのですが、ひとつの音の作品、そうです、彼女は最初の人たちの一人といえるでしょう、もちろん...いえ、彼女が最初ではなかった。イヴ・クラインの《シンフォニー・モノトーン Symphonie Monotone》(1960)があります。もちろん、このばかげたアート業界とあの裸の女性のペインティングなどもありますが、とにかくこの作品はひとつの音を30分以上も演奏し続けるという作品だったのです。
だから、これはとても重要な作品です。そしてシェルシもひとつの音の作品をつくっていましたが、彼の作品は動きという点でとても躍動的だったので、ひとつの音を使う以外はミニマルではないといえます。しかし、こういったことは全て一緒くたになっていて、そして皆がそれぞれ独自のやり方で行なっていました。だから実際は、これは《シークレットピース Secret Piece》についての話ですが、私が教えていた頃... 60年代の後半ですが、私は高校で実験的な音楽のクラスを教えていて、ヨーコに作品の提供を頼みました。最初は、彼女が新しい作品をつくってくれると思っていましたが、彼女はシークレットピースをもってきました。私は、その作品がグレープフルーツにある作品だったことに後になって気がつきました。後でといいましたが、彼女は言葉によるスコアの形式を後になってグレープフルーツに加えたのです。最初のヴァージョンでは、それは「伝統的な楽譜」だったので、音符、単音が書かれていました。そして、その後に彼女は言葉によるインストラクションを加えました。けれども完成された楽譜に対して言葉の指示を入れることは目新しいものではなく、ケージ、シュトックハウゼンなどがルールや指示を加えるということを10、20年前にすでに行っていました。それで...

柿沼:それで、あなたはオノ・ヨーコに頼んだのですか?

コーナー:そうです、帰国してからニューヨークが完全に違ったシーンになったことを知りました。つまり、抽象表現主義は終わり、ポップアートの時代になっていたのです。これらの人々はプロトミニマリズムを始めていました。私のいくつかの作品もプロトミニマリストとも言えるでしょう。私はこのシーンに入ったのですが、その幾人かは、ディック・ヒギンズ、アリソン・ノウルズなど私がすでに知っている人たちでした。ジャクソン・マックロウのこともすでに知っていました。いずれにせよこれらの人々の、幾人かはアートギャラリー、AGギャラリーのオーナーであったマチューナスと関わりがありました。ある興味深いコンサートを覚えています。トシ(一柳慧)と他の人たちのコンサートがあったのですが、そこは照明が無かったのです。これは、マチューナスが電気や他の費用の支払いを滞納していたせいで、このギャラリーから追い出されかけていたのです。彼は、私のコンサートを開きたいと思っていたようですが、ギャラリーは閉じてしまいました。
そして、先ほども言いましたが、私はこういった人たちと付き合うようになりました。彼らの中には、ジャクソンとラ・モンテがつくっていたアンソロジーに関わった人もいました。たぶん、それは実際にはラ・モンテがやった仕事であり、ジョージはデザインと出版を担っていました。私はほとんどの関係者と友人だったので、いくつかの集まりの場でその出版物の元の素材を目にしました。そして、ジョージ[マチューナス]と知り合いになりました。彼はそのような人たちと知り合いになろうとしていたのです。彼はフルクサスのアイディア、つまりブランドを作り、マーケティングをするということを考え始めていて、貧者のマーケティングのようなものでしたが、それが実際にはフルクサスとして知られるようになったのです。

それで、ヨーコのロフトのシリーズはすでに終わっていました。私にはとにかくそれとは差し障りがあって、というのは、これがラ・モンテによるキュレーションだったからです。もし私がニューヨークに(当時)居たとしても、これに参加していたかは分かりません。なぜなら、ラ・モンテは、私のことを好ましく思っていなかったのです。なぜかはわかりません。彼は...多くの人のことを好きではありませんでした。とにかくそうだったので...彼は確かに私のことを嫌って、私にノーと確かに言いました。私がアンソロジーには参加できないと。しかし、それでなにがあったかというと、先ほど、(ヨーコのロフトシリーズ)はすでに終わっていたと言いましたが、それはつまり、私がヨーコに話をつけて、彼女が「私のロフトを使っていいわ」といったのです。当時、彼女はほとんどロフトにはいませんでした。それでロフトは...私がそこに行った時には、そのビルのオーナーが「いいかい、これらはすべて違法だった、すべてやってはいけないこと、違法なんだ。消防局はビルを閉鎖して、私に罰金を科したかもしれない。そこでコンサートなんてもってのほかだ」と言ったのです。

だから、これは実現しなかった。それで、その後に私が計画した最初のコンサートはジャドソン・メモリアル教会、後のジャドソン教会で行われました。そこでは、すでにハプニングがあり、ギャラリーもありました。すでに...実際にダンスシアターや、ほかにもあったので、そこはクリエイティブな活動やハプニングなどの中心地となっていきました。そしてここが私の最初のコンサートを実際に行った場所でした...

柿沼:では、フルクサスにはどのような経緯で (参加する)ことになりましたか?

コーナー:先ほど話したように、ジョージが私のところにやってきたのです。彼はこの起業家になるというアイディアを持っていたので、私の知人のアーティストたちと友人になろうとしていました。もちろん彼が来て「コンサートを企画する」とか「本をつくる」と言ったら、「もちろん、オーケーだ。参加するよ」皆が言ったでしょう。すべての人がジョージとある程度の関わりを持っていて、はじめに言ったように、彼は「君はアーティストの一人だね、じゃあ君と一緒になにかをしよう」と言ったのです。けれども、私はギャラリーで何か発表をすることは出来ませんでした。なぜなら、ギャラリーが閉められたからです。そして私はアンソロジーにも参加できなかった。ラモンテ・ヤングが私を入れることを望まなかったからです。そういうこと、わかるでしょう。実際には、ジョージと一緒にいくつかのことをしましたが、それはとてもクレイジーなことでした。たとえばフルクサスオーケストラに参加したのですが、秋山邦晴(1929-1996)が指揮をした作品で階段を降りてゆくというパフォーマンスをしました。そこに写真がありますね...

Ⅳ. ピアノ・アクティヴィティーズ
柿沼:そしてそれ以前の1962年にヴィーズバーデンであなたの作品《ピアノ・アクティヴィティーズ Piano Activities》を彼らは演奏しました。

コーナー:はい、《ピアノ・アクティヴィティーズ》ですね。あれは初演ではなかったのですよ。誰もこのことを知りませんが。私の最初のコンサート、ジャドソン・メモリアル教会で《ピアノ・アクティヴィティーズ》を演奏しました。それは...

柿沼:ここには含まれていませんね。

コーナー:わかりません。全てについて載せることはできないですからね。しかし、それから私は...そう、私はそのスコアを渡したのです...ええ、これもまた全て言葉によるスコアですね。これはジョージが好んだ短く簡潔な(言葉の)スコアではありませんが、ひとつのセンテンスの言葉によるスコアを彼はとても好んでいました。ひとつのインストラクション、一つの...。

ガリアーノ:そして、その楽譜をジョージに渡したのですか?

コーナー:ディック・ヒギンズに渡しました。ディック・ヒギンズはこれを見て、彼は…それで、もちろんこれはとても長いのですが、私はまだこのような方法で作曲をしていました。それが言葉、長い言葉の指示のようなものでした。ご存知のとおり私はそれを変化させて、あとに作ったのですが...私はオルデンブルクでワークショップをしました。そこには、ゲルトルート・マイヤー=デンクマンGertrud Meyer-Denkmann(1918-2014)という素晴らしい人がいて、彼女はドイツでニューミュージックとその敎育について教えていて、オルデンブルグ大学にいました。ちょうど90歳代かそのくらいで亡くなりました。あれは昨年でしたか。彼女はとても優れた人でした。私は彼女とオルデンブルグ大学の学生と一緒にワークショップをしました。それで、私は「ああ、すべて忘れてしまった」と言って、《ピアノ・アクティヴィティーズ》の新バージョンを作っていたのですが、それで私が言ったのは、すべての演奏者がそれぞれにオブジェクトを持ちよって、オブジェクトをどのようにピアノの上で用いるかを考えてみるということです。つまり、これはしだいにオープンなものになっていきました。けれども、ここで私は一つのことを確実に行いたいと思っていました、確実な結果を私は求めていたのです。ピアノ・ディストラクションの本についてご存知ですか?

柿沼:存じません。

コーナー:グンナー・シュミット(Gunnar Schmidt)です。そうですか、手に入れた方がいいですね。

柿沼:それは本ですか?

コーナー:彼が出版した本ですが、ドイツ語なのです。今、(英語に)翻訳をしようとしているようですが、良い翻訳家が見つかれば...

柿沼:ピアノ・ディストラクションのLPレコードは持っています。

コーナー:ええ、ええ、そうですか。それはアルガ・マルゲンから出されたものです。彼らは思いついたんですよ...これも面白い話なんですが。

柿沼:秋山邦晴のアーカイブにあったのです。あなたは、それをお持ちなのですね。

コーナー:ええ、そうです。私がどのようにして手に入れたか知っていますか?とてもおかしな話なのですが。もしかして、オメガ・ポイントの人を知っていますか?

柿沼:ええ、彼を知っています。彼はオメガ・ポイントの人です。

*オメガ・ポイントとは、日本の実験音楽、アヴァンギャルド、ノイズ音楽、サウンド・アートを専門とするレコード・レーベル

コーナー:そうです、彼がそうです。

柿沼:本当ですか?

コーナー:彼がそれを手に入れたのです、実際にはグンナー(Gunnar)ではなく、あれは彼ではなく、他にドイツにそれを紹介したキュレーターがいて。実は他にもコピーがあって、リトアニアのカヌアスにあるジョージ・マチューナスのライブラリーにあります。

ガリアーノ:それで、いまはMOMA(ニューヨーク近代美術館)のアーカイブにいるという人物がマチューナスからその一つを入手したのですか?

コーナー:ええっと、私はよく知らないのですが、あれはテープでしたが一つだけではなかったと思います。いくつかあったはず、あまりよく知らないのですが。

ガリアーノ:ええ、いくらか在庫があったようですね。

コーナー:そのうちの一つは、秋山邦晴のところにあったのでしょう。それで、その話というのは、この(オメガ・ポイントの)男がある資料を私に送ってきたのです。その資料は乱雑なものだったのですが、2つのテープがあって、それは...、いろんなものが混ざっているような感じだったのですが。ラ・モンテ・ヤングの作品と、それから...誰でしたかあのヴァイオリニストは?小林健次、そういったすべてのものがいろいろ混ざっていた。《ピアノ・アクティヴィティーズ》の作品はバラバラになっていて、そして二つ目のレコードには最初のレコードからいくつかが複製されていました。それで、私はこの(テープを)理にかなうように...全ての録音から抜き出して、結局は《ピアノ・アクティヴィティーズ》はたったの6分の長さでした。つまり(曲の)一部しかなかったわけですが、このような矛盾した話がそこらじゅうにあるんです。たとえば、エメット・ウィリアムズによると、(ピアノ・アクティヴィティーズは)5夜にわたって上演されたそうですが、それでは5つの別々の録音があるはずです。しかしそれは存在しません。5夜にわたって上演されて…、それで毎晩、徐々に(ピアノが)破壊されていった...、それでテープについて?彼の名前はなんでしたか...あの、あなたが...

ガリアーノ:オメガ

コーナー:オメガ・ポイント

柿沼:オメガ・ポイント、はい。彼の名前を忘れましたが彼のことは知っています。

コーナー:彼がこれを、オメガ・ポイントから出版するというプロポーザルと一緒に送ってきました。それで私はOKを出しました。彼は誰が権利を所有しているかについてとても心配していましたが、私は「これは私の作品だから私が権利を持っているんだ、他のことは気にしなくてもいい」と言いました。テープをクリーニングして別々に分け、それでこのようになったんです。そうやってまとめたのがこれです。それから、彼からは何の音沙汰もありません。

柿沼:ええっ!

コーナー:これには2年ほどかかりました。私が...最初に彼が私に言ったのは、これのレコーディングをしようということ、それから彼は...彼からの音沙汰はまったくありませんでした。手紙にも返事がなかった。そのあいだにアルガ・マルゲンの [エマニュエル]カルカノが、彼は20年以上も私のアーカイブに関心を寄せていたのですが、彼がすべてのレコーディングを古いものから引っ張り出してきて、ジャドソン時代のものから何から、それらはすべてカルカノがやったことです。実は、フランチェスコ・コンツ(1935-2010)の話に戻りますが、彼は私がヨーロッパに初めて行った時に出会った人でフルクサスに興味をもっていました。その当時までにはフルクサスはすでに有名になっていました。ですから、こういった関わりがあって、そして事実それらが私をイタリアへと導いてくれたのです。とにかく、カルカノが最初に行ったことは《メタル メディテーションズ》のための音楽でした。《メタル メディテーションズ》についてはフランチェスコが彼のエディション作り、エマニュエルに会ったあとで、「LPをつくらないか?それを一緒に入れたボックスを作ろうじゃないか」と提案してくれました。それで私は《メタル・メディテーションズ Metal Meditations》の異なるパフォーマンスを録音したんです。

それが最初のアルガ・マルゲンのレコードです。そして彼(カルカノ)は他のことを始めました。それから...彼は私にとても腹を立てていました。彼は「過去のすべての録音から第一候補を(使うことを)私に約束してくれたのだと思っていました」と言いました。私は「そのとおりですが、でもこれらは私の録音ではないのです」と答えました。そして、私は彼にその話を、それが日本からどのようにして送られてきて、そして私はそのことを知ることさえなかったということ、これが実現するはずだったことを告げました。私は「だから、私は(録音を)持ってさえいないんです、それは日本でもう無くなってしまったから。彼はこれをつくると言っていたんですよ」。それで最終的に、ほぼ2年間を費やしたと先ほど言いましたが、この人物から何の返事もなかったんです。それで、エマニュエル(カルカノ)に「あの男、くそったれ」といいました。

柿沼:誰がヴィースバーデンでレコーディングをして、それを秋山邦晴に渡したかご存知ですか?

コーナー:いいえ、きっとジョージでしょう。ジョージに違いありません。

柿沼:ジョージ・マチューナス?

コーナー:はい、きっとジョージに違いない。ジョージのほかにいるでしょうか。とにかく、私は「オーケー、エマニュエル、君がやるんだ」と言いました。そして、そのようにしてエマニュエルの録音で、このすべてのテープを一つにまとめたレコードができたのです。私はこのために新たなコラージュを作り、レコードのデザインをすべてしました。そして、それ以外のこともすべてこのレコードのためにやったのです。すべての記録資料と録音が存在するのに、それがたったの6分程度です。それから...ある誤解についても話しておきたい...グンナー・シュミットについて明らかにしたことのひとつですが、ドイツ語版でも、この本をあなたが入手できれば、あなたは持っているべきだと思います。ところで彼はウェブサイトを持っていて、この本の2ページの要約がウェブにあります。その英語翻訳を私がしたので、そのウェブサイトへ行けば...

柿沼:これがきっと彼の文章ですね。これはレコードから。

コーナー:ええ、そうです。彼のウェブサイトから取ってきました。そうです、それはレコードに入っています。そのテキストです。

柿沼:ええ、これは彼のウェブサイトから引用してきました。

コーナー:ああ、そうですか。それはよかった、それです。レコードにも(このテキストは)入っていると思いますが。とにかく、ウェブに掲載されていて私が翻訳しました。

柿沼:それでは、これはあなたの翻訳ですね?

コーナー:はい、そうです。

柿沼:そうでしたか。

コーナー:とにかく、全編がきちんとプロの手によって翻訳されるのを待っているわけですが、この本はMITプレスから出版される見込みで、ええ、英語で出版されることを私も願っています。とにかく、私にはこのような表現主義的な意図がまったくなかったことを指摘したのです。つまり、彼らが議論するようなブルジョワ的なこと、またナム・ジュン・パイクからの「ピアノはブルジョワ的であり、破壊されるべきなのです」という引用があったので。お分かりでしょう、そういったことです。私はそれを信じていません。つまり、私はピアノが好きでピアノを演奏しましたし、私は音楽が好きです。私は実のところパイクはヴィースバーデンのレコーディングを台無しにしたと思っています。

柿沼:彼は演奏をした...

コーナー:なぜなら、彼は思いつきのくだらないばかげたこと、ドビュッシーのまねごとみたいな、そういったことをピアノでやったのです、単なる即席です。私はそれが嫌でした。それはまるで...何にもならない...スコアに従っていると言ってますが、私はこれについては反論できます。他の皆がスコアに従っていましたが、彼だけがそのようなことをしてスコアには従わずにいたのです。彼はピアノを壊そうとさえしなかった。しかし、私が言ったように、最初のパフォーマンスはニューヨークで行われ、そしてピアノを破壊する必要はなかったのです。基本的にピアノの内部、そしてピアノのほかの部分をオブジェクトを用いて演奏する、そういった全てアイディアの指示でした。補足の注記などは、ほんの例のようなものでした。もし、その(パフォーマンス)をご覧になったら、彼らが音楽に対してある種の職人的な態度を保ちたかったということがわかるでしょう。それは、ちょっと妙なことをやってみたり、ダ・ダダ・ダ・ダ・ダと演奏するのではなく、そういったことをすべきではありません。そうではなく、一定のパルス、一つの音と沈黙にあるのです。つまり、ナマの素材そのものに取り組むことが、ピアノのエネルギーを解放することが私のとった姿勢でした。とても良い文章があるのですが...誰だったか定かではありませんが、たぶん、アントネッリ・モンタノヴィシAntonell Montanovesiか、他の誰かがサレンコ(Sarenco)のために書いた文章です。彼女はとても素敵な文章を書きました。彼女は原子爆弾を解放することについて、内部の原子の力を解放することについて語っているのですが、私の作品がやっているのは、ピアノからのエネルギーを解放するようなことなのです。

ある意味では、ピアノの破壊というのは、このようなアイディアの極致であるといえます。ええ、私がそれを最初に聞いたとき本当だと思いました。同じように考えた、いえ、違います、理由のない破壊もあります。他の人が最大の離れ業として行っていること、ピアノを窓から投げ落として破壊し、そして「épater le bourgeois:ブルジョアの肝を潰す[保守的な態度の人々を驚かせる]」というものです。 バン、バン、バン、と単にものを破壊して。私はそのようなことにはまったく関わりがありません。それは私のアイディアではなかったと彼らに伝えました。私のアイディアは、エネルギーを解放すること...つまりピアノのすべての部分で演奏をするということなのです。

実際、あるワークショップを行ったときに「ピアノのある部分、ダンパーなどはとても繊細です。ひねっただけでも壊れやすく元にはもどりません。ダンパーには触らないようにしてください」と話しました。また他のヴァージョンでは、たとえばブロワ(Blois)の美術館では、今はなんと呼ばれているのでしょうか?ベン・ヴォーチェ(The Ben Vautier)は基本的にはフクルサス美術館でしたが、しかし彼らはそれをDoute財団(Fondation de Doute)と呼んでいました。そこでの彼らの《ピアノ・アクティヴィティーズ》のパフォーマンスのピアノはとても美しいものでした。ピアノの外側にはまったく触れず、蓋を閉めていればそれは単にとても美しい、美しいピアノです。しかし、蓋をあけると内側のすべての弦は壊れていて、壊れたカップや道具といったオブジェクトが放り込まれている。しかし外側からは...

ですから、私はいつも何か...こういったものを作りました。それから、《ピアノ・ワークPiano Work》と呼ばれる他のヴァージョンもあります。《ピアノ・ワーク》のアイディアは、ある意味では違っていますが、また同じ考え方であるともいえます。これはオブジェクトを用いて演奏する代わりに、自分の手だけを使うのです。そこにはまったく異なる制限が課せられ、そのことで...この(パフォーマンスの録音は) スロー・スキャンレコード(Slowscan Records)から出ていますが、これは昨年にストラスブール大学教育学部(ESPE-Univerite de Strasbourg)で、私が教えた高校生たちと一緒に行ったことです。つまり破壊について思考したあとに、私は破壊を意図する方法がほかにもあるということに気がつきました。最初に作ったのは《静かな破壊の作品Quiet Work of Destruction》です。ナポリで行った参加型イベントに作ったものですが、すべての行為、ヤスリ棒を弦にあてて擦るのも、とてもソフトに非常に小さく行わなければならない。だから、彼らは丸一日をかけて、とてもとても繊細に行った。そして、この非常に細やかな小さな作品を...みなでやらなければならない、ウィー、ウィー、ウィー...というのを。これはまったく異なる姿勢といえます。この3つの違った作曲について考えてみたのですが、その意図がピアノを破壊することである場合はそのようにすることも可能です。しかし、《ピアノ・アクティヴィティーズ》に話を戻して考えると、ヴィースバーデンの(パフォーマンス)ビデオを見れば、求められる行為についてはとても明確になるでしょう。1962年のパフォーマンスではなく、2012年のものです。

柿沼:2012年ですか?

コーナー:はい、ヴィースバーデンで2012年に行いました。50周年の記念で、みながヴィースバーデンにやってきました。私はやりたくなかったのです。《ピアノ・アクティヴィティーズ》を演奏したくなかった。私がそこへ行った時に「ピアノを君のために用意したよ」と皆が言いました。ピアノがそこにあったのです。実はとても素晴らしかったのです。というのはエリック・アンダーソン(Eric Anderson,1940- ), アリソン・ノウルズ(Alison Knowles,1933- ), ジェフ・ヘンドリックス(Geoff Hendricks,1931- ), そしてウィリアム・デ・リッダー(Willem de Ridder 1939- )など、信頼できる人々だったからです。誰もパイクのように鍵盤で即興のダ・ダダ・ダ・ダ・ダ・ダとかやらないのです。彼らは本当によくやってくれて、ジェフは素晴らしかった、ウァーンン...というように(みんな並外れていて)、もちろんクラスターがあり、音が鳴り響きはじめて、そして誰かがギーギーギーとやりだす。だから、もしあなたがこれを再現するのであれば、まるで作業をしているように、本当にピアノを壊す作業をしているようにスコアに書かれたこれらジェスチャーをすべて行わなければならないのです。もし、スコアを忘れてしまったとしても、覚えていてもいなくても、何をすべきかというのは、スコアで説明されています。ただ、私は思い至らなかったのですがピアノを破壊するためには、これを行うのにとてもエネルギーがいるということです。ただ彼らはその力、エネルギーの量を強調しました。しかし、その素材の質は同じであるはずです。

柿沼:ではある意味で彼らはピアノを解放したということですか?

コーナー:ええ。そのように考えたいですね。

柿沼:その2012年のパフォーマンスについて満足されていますか?

コーナー:ええ、素晴らしかったですよ。

柿沼:それは良かった。

コーナー:素晴らしかった、とても素敵な...YouTubeにあがっているので、ご覧になれますよ。私はこれらすべてのパフォーマンスにとても満足していますし、ブロワで行ったパフォーマンスと、それから、MUDIMA(ミラノの現代美術館)で行った、直近のパフォーマンスも非常に面白かったです。というのは、とても大きなノコギリを使いました、あの二人で木を切るノコギリです。 そのノコギリを使いつつ、他の誰かが非常に繊細なことを同時にやっていました。そして同時に私たちはピアノを解放したのです。それは壁に貼り付けられました。

それでこれは壁掛け彫刻となり、すぐにアートに変換されたのです。これについて書いたいくつかの文章がありますが、次のようなことをいっています。つまり同等の価値があってしかるべきなのです、それらの数と...その変換の倫理性と、そして、まず第一に、ピアノはひどい代物で、古くてもう使えないようなものであるべきだと述べました。そして今、エレキギターやその他のものと同じように人々はピアノを捨ててしまっています。それが良いピアノであっても...人々はピアノを捨てる。とにかくピアノは捨てられると新聞で読んだことがあるのですが、もし、すべてのピアノについて、捨てられるときには、《ピアノ・アクティヴィティーズ》の方法をもって捨てられるべきであると考えました。私は壊されるピアノを使って《ピアノ・アクティヴィティーズ》が世界中でパフォーマンスされるのを見たいのです。実際にヴィースバーデンであったことですが、ドイツ製の「シュロット クラヴィーア schrott Klavier」という古くて使えないピアノを彼らは所有していました。それで彼らはこれを...ピアノを破壊する必要がありました。お金を払わずに引き取ってもらうために。これとは違いますが、私が実際に行ったことで(後に)《ピアノ・ワーク》(の作品)になったことがありました。学生と一緒に行ったことで、古くて捨てられてしまうピアノがあって、学生が素手で(ピアノ・ワークを)行いました。私は学生たちに「ピアノを破壊する作曲を考えてくるように」と課題を出しました。学生たちは「いいアイディアを思いついた!ああしよう、こうしよう」と言いましたが、あまり面白ものは出てきませんでした。一つを除いては。このアイディアはとてもよかったのです。そして、その結果として最後に鉄のハープだけが残りました。弦はみな切れていて、木の部分は無くなっていました。

でも私たちはそれをとっておき、ボールを投げつけたり何だりしました。それはただのハープになっていました。そして、ダウンタウンで行ったあるコンサートにそのハープを持って行き、演奏をしました。彼らは堅いボール紙のようなものをくるりと巻いて、いいえ紙と言ったほうがいいですね。それで、それを巻いて弦の間に差し込みました。そして(その紙に)火をつけました。そうすると、とても繊細で小さな炎がゆっくりとピアノを伝って、まるでタバコの巻紙が燃えるように、それがピアノに移ると炎によって弦が熱されて銅のように緑色に変色し、それからポンッと弦が鳴るのです。彼らによる、このとても繊細なピチカートの作品...

これは素晴らしいことでした、学生が思いつき...そして彼ら自身で作った作品です。これはピアノのための素敵なあと知恵の作品でした、このピアノは捨てられる運命だったのですから...私がやった後に、学生たちがあのアイディアを思いついたんです。こうして《ピアノ・ワーク》ができたのです。ピアノを学校のロビーへ持ち出したのは、みなが、この学校の教師やすべての人が、この建物の(ロビー)の学生たちが(破壊した)ピアノの前を通るからで...それで、彼らは(ピアノを)引っ張ったりして、そして考えられるなかで最も素晴らしいことをしたのです。それはある一人が(ピアノの)ペダルを触って、手でペダルバーを動かしてペダルを外し、そしてそのペダルを使って弦を叩きだしたのです。それから彼らは弦がどこに固定されているかを発見し、そして弦を(固定している)ピンを取り外し、その弦を緩めて他の弦にそれを巻きつけ、まるで大きなチェロのように弓で弾いたのです。もし、あなたがこの録音、彼らの最も素晴らしい(演奏)の録音を聴いたら、彼らは「これをやれ!これをやれ!」と怒鳴り、叫んでいたんです。これは最も生き生きとして美しい...とても素晴らしいことでした...。

柿沼:1962年のヴィースバーデンでのパフォーマンスの話に戻ってもよろしいでしょうか。あなたが最初に...

コーナー:そこに私は居なかったんですけれども。

柿沼:いらっしゃらなかった。けれど、そのパフォーマンスについて最初に聞かれた時、どのように思いましたか?

コーナー:ええ、最初に聞いた時は少しショックを受けました。なぜなら、先ほども言いましたが、私はこの反ブルジョアの破壊について、新しく声明を出すということについて考えていたのです。これは全てばかげたことだと思っていました。そしてグナー・シュミット(Gunnar Schmidt)の本をとてもありがたく思いました。彼は(本の中で)そのことについて次のように指摘しました。「そのレコーディングを聞けば、聴衆は始終笑っていて、これを酷いことだと受け止める人はジョージ・マチューナスの母親以外には誰もいなかった」と。あのベートーヴェンとブラームスの楽器、おわかりでしょう、絶対的にナンセンスだということが。聴衆は笑いにつつまれ素晴らしい時間を過ごしたのです。そして(グナー・シュミットの本には)アヴァンギャルドとポップアートにおけるピアノ・ディストラクションという (タイトルの)章があり、アニメやコメディアン、スタンリオとオッリオ (英語名ローレルとハーディ)のピアノを配達しようとしてピアノが階段から落ちた話や、それからハリウッドの話...おかしな話がたくさん書いてあって、それはすべて単なる冗談でした。それで、ジェリー・リー・ルイス(Jerry Lee Lewis) の演奏をしながらピアノを燃やしてコンサートを締めくったという有名な話も。つまり、すべては単に楽しみのためだったのです。

そこには「我々はピアノを嫌っている」といった反ブルジョア的なことは一切なかった...だから、 私はそのレベルでは受入れていました。しかし、私の(ヴィースバーデンに対する)最初の反応は、多少なりとも「あれは、なんてお粗末なものだ?」というものでしたが、先に述べたように、私が考案し、指示したやり方で(ピアノを)破壊するには、彼らはそのようにする必要があったでしょう、たとえ彼らがスコアを厳密に読んでいなかったとしても。だから、ある意味でこれは正確に言ってフルクサス流の一行の言葉によるスコアだといえるでしょう。そう書かれてはいないにしても。そして私が言えることは、《ピアノ・アクティヴィティーズ》のスコアが何であったかというこということだけです。それは「ピアノを真剣に壊しなさい」という、そういったことです。ええ。

柿沼:では、そのパフォーマンスについて聞いたことがあるということですが、あなたはそのスコアが何か別のものであるとおっしゃった。つまり、それはあなたが思っていたのとは違う音楽ということですか?

コーナー:ええ、しかし、私は...

柿沼:今もそのように考えていますか?

コーナー:いいえ、違います。私は間違っていました。ええ、私は間違っていたのです。なぜなら、彼らはスコアに沿って演奏すべきだったと言いましたね。たとえ、彼らがそのスコアを演奏しているということを知らなかったとしても、それを行うためには、彼らは私のアイディアをもとに演奏を行うべきだったのです。それが私の今の考えです。

柿沼:この作品に関してのちに何か書かれましたか?1982年に《ヴィースバーデンのピアノの記憶 Memories of a Piano at Wiesbaden》を書かれました。なぜ、これを書いたのですか?

コーナー:それは、同じ作品ではないからです。

柿沼:これは違うのですか?

コーナー:「それを見なさい、それの側に立ちなさい、それに対して寄り掛かりなさい、それの一部分を見なさい、観客を見なさい」。

柿沼:それが作品ですね。

コーナー:ええ。

柿沼:なるほど。

コーナー:ええ、私はこれをソウルで書きました。たしか、パフォーマンスをしたと思います。93年にソウルにいた時だったかな?そうに違いないでしょう。いいえ、思い出してきました。1982年です、ヴィースバーデンの上演は20年か何かだったと。

柿沼:ええ、20周年記念ですね。

コーナー:そうです、そうでした。私はこの上演をしました。《ピアノ・アクティヴィティーズ》はやっていません。実はエメット・ウィリアムズがとてもよいことを書きました。ある意味で私がピアノに対して償いをしたと。なぜなら、私は別の作品《ピアノへの敬意 Reverence to the Piano》をつくったからだと。この作品は、フィービィと一緒に仕事をしているので今は前奏曲として、つまり《Reverence to the Piano》をピアノ・アクティヴィティーズの前奏曲としています。破壊を始める前に、(ピアノに対して)お辞儀をします。そして、これが《Reverence to the Piano》の詳細になるのですが、これは単にピアノに敬意(を表す)というだけはなく、私がピアノの側にたち、ピアノにもたれ掛かかり、見ているということなのです。つまりこの作品はピアノをただ見つめるというものでした。

V. シュトックハウゼンの《オリギナーレ》
柿沼:なるほど、それでは他のことを伺います。フルクサスのメンバーの幾人かでシュトックハウゼンの《オリギナーレ Originale》(1961)を1964年に演奏しましたね。このパフォーマンスには参加しましたか?

コーナー:私は観客として参加しました。

柿沼:そうですか、観客として観たのですか?

コーナー:ええ、そうです。

柿沼:なるほど。

ガリアーノ:あなたはピケを張っていなかった...。

コーナー:いいえ、していないです。覚えておいてくださいね。あれはヒギンズだったと思います。少なくとも一人はピケを張り、それから入って行って歌ったのです。

ガリアーノ:そうでした、ヒギンズですね。はい。

コーナー:彼は、さらに非常に興味深いことを言っていました。彼は、シュトックハウゼン自身がピケを張られる(参加を妨害される)べきだったと。しかし、それは違った理由で。つまり、資本主義者、帝国主義者に奉仕しているという理由ではなくて彼は「協和音程に不公平だ」といったのです。不協和があまりにも多かったので。ですから、ヒギンズはシュトックハウゼンがピケを張られるべきだと、このような理由から考えたようです。しかし、私はこのように思いました。つまり、みながそのようなことをする時代だったのです。みながピケを張り、そして抗議の行動や何かが行われる...

ガリアーノ:ええ、そうですね。それで日本人のアーティストについてはどのような状況だったか、マチューナスのオリギナーレに関して何かご存知ですか。

コーナー:ええと、日本人のアーティストですか?

ガリアーノ:ええ、彼らは...、観客ではなくて、日本からのアーティストたちがいたはずです。靉嘔と ...

柿沼:靉嘔はパフォーマンスに参加していました。

コーナー:そうでした。靉嘔にはフルクサスよりずっと以前にキャナル・ストリートで会いました。彼はディック・ヒギンズの近所に住んでいたので。

ガリアーノ:ええ、それで日本人アーティストはみなマチュースとピケッターをしていたと思うのですが、そういったことをよく共有していた。つまり反資本主義の立場を。

コーナー:しかし、彼らは「オンガク」をフルクサスより前にやっていましたよね?オンガクでしたか?

柿沼:オンガク?

コーナー:ええ

ガリアーノ:「グループ音楽」ですね。そうです。

柿沼:ああ、そうです。

コーナー:ええ、コスギ(小杉武久)とミエコ(塩見允枝子)、それはフルクサス以前だった?

柿沼:フルクサス以前です。

ガリアーノ:そうです。

コーナー:ええ、だから私は知らないです。ミエコが暴力的で好戦的な反資本主義者だったとは信じられません。信じ難いですね。

ガリアーノ:そうでもなかったと思います。しかし、彼らはマチューナスと特別な関係を築いていた。そうですね?

コーナー:覚えていないですね...何も覚えていません。

柿沼:ミエコはマチューナスと親しかったのですか?

コーナー:ええ、そんなには親しくなかったです。

コーナー:お分かりのように、彼女(ヨーコ)は親しくなかった...彼女はグレープフルーツを自分で出版しました。彼女は...今もとてもインディペンデントですね。もちろん、彼女はジョージを知っていましたよ。しかし、ヨーコの作品のほとんどは特に...ではないと思います。

柿沼:いや、それはミエコ・シオミ(塩見允枝子)のことです。

コーナー:ああ、ミエコですか。ええ彼女は東京にいた、あと大阪にも。それで、

柿沼:ええ、彼女はマチューナスと親しかったですか?

コーナー:知らないですね。彼女は彼のことを知っていたのかどうかもわかりません。その、彼女は参加していました...彼女は...といっしょに出版しました。

ガリアーノ:ええ、彼女は...、久保田と塩見がニューヨークへ来たときに、彼らは最初にマチューナスのところに滞在しました。マチューナスは日本の文化の愛好家であり日本文化に通じていましたから。

柿沼:そうです。

ガリアーノ:まあ、もしご存知なくても大丈夫ですよ。では、次へ進みましょうか。

VI. ピアノ・ムーヴィング・イヴェントとディック・ヒギンズの《1000の交響曲》

柿沼:1965年、あなたはピアノ・ムーヴィング・イヴェントを行いました。どのような作品でしたか?

コーナー:覚えていないですね。

柿沼:では、あなたはピアノをどこかへ運びましたか?

コーナー:ええっと、しかしあれは...あれは確かピアノ、ピアノ・ムーヴィング・イヴェントとは言っていなかった。どこで私はそれをやったのでしょうか?

柿沼:わかりません、だから聞いています。

コーナー:その情報はどこから得たのですか?

柿沼:ええ、何か本に書いてあったと思うのですが。

コーナー:ああ、なるほど、これは、この記事からですね。わかりました。

ガリアーノ:ええ、何かあるのですね。

コーナー:あることが。とても馬鹿げたことだと言いましたが、ええ、おそらく明らかにできることがあります。しかし、これは明らかに間違っています。ご覧ください、これはサレンコの本の1冊にあるのですが、彼はLotta Poetica(ロッタ ポエティカ)マガジンの別々の号に掲載された...一連の写真を持っていたのです。そして《ピアノ・ストーリー》は、彼が行ったうちの一つで、私がこのピアノの下に写っているのが見えますね。十字架を運ぶキリストみたいにピアノを押しているのがわかるでしょう。私はこれを...

柿沼:それです。

コーナー:これは、私は、これをある種の皮肉として《ピアノ・ワーク:一つのムーブメント》と言ったのです。

柿沼:まあ。

ガリアーノ:なるほど、そういうことですか。

コーナー:なぜなら一つの...ああ、そこに(写真が)ないですが。私はそれを額に入れてそこに置いてあったはずです。これはサレンコの出版したPortfluxusにもありましたよ。ピアノ・アクティヴィティーズの次の(作品の)一つ、バリエーションもしくは...《ピアノ・アクティヴィティーズ コンサート組曲》です。そして私が行ったのは、つまり同じことですが、これは(作品を)明確にしたいという願望ですね...それで...私は最初に規定したこれら細部をすべて見直し、それぞれに一つのムーブメントを作ったのです。つまり、すべての指で弦を(同時に)弾くというような同じ動作を全員が同時に行うのです。これはソロにもなるけれど、和音があるので私はこれをデュエットとしてカルレス・サントス(Carles Santos, 1940-2017)と共に演奏しました。20音のコードを弾いているなかで、一人はピンを指の爪で引き抜こうとする。もちろん引き抜けないのですが、そうするとチチチッという音が聞こえるのです。

これはクラシック音楽の組曲のように、演奏可能な異なる事象を別々に分けた一連の組曲なのです。しかし繰り返しますが、ピアノの破壊は伴っていません。このように全てのこと...つまり、指を使ってピアノを破壊しようと試みること、またはそういった類のこと。それはちょっとした違いのように見えるかもしれませんが、そこには一連の小さな、全てが言葉による、各ムーブメントが言葉で説明されているのです。たとえば「ピンを指でひき抜こうとしなさい」というように。「一つのムーブメント(楽章)」とは、もちろんジョークです。おわかりでしょう。なぜなら「ムーブメント」とは言うまでもなく「動き」なのですから。

ガリアーノ:動き、そうですね。

コーナー:この《ピアノ・ワーク:一つのムーブメント》、そしてピアノを動かすこと。

柿沼:そうです、そのことですね。ムーブメント、この本*に載っています。

*Sohm, H. 1970. Happenings & Fluxus. Koeln: Koelnischer Kunstverein.

コーナー:はい、そうです。それで...

柿沼:ムーブメント...ええ、それで《ピアノ・ムービング・イヴェント》と。

コーナー:なるほど、そうですね。

ガリアーノ:あなたはこれを、ある種の...と説明されましたね。

コーナー:ええ、私が知っていることは、これをヴィースバーデンの(うちの一人)から貰ったということです。あなたがこれを知っているということは、どこかから出版されているのかもしれません。それで、フィリップ・コーナーの《ピアノ・ムービング・イヴェント》をやろう!となった。たぶん、これがそのタイトルでしょう。これは《ピアノ・ムービング・イヴェント》ではありません、そして《ピアノ・ワーク:一つのムーブメント》でもない、彼らはタイトルを忘れたのでしょう。これはフルクサスによくあることです。ベン・ヴォーチェはフルクサスコンサートよく企画しますが、彼はまったく間違っています。彼は間違ったタイトルを付けるのです。彼はコスギ(小杉武久)のセロファンをマイクの周りに取付けるという作品を好んで上演しますが、まず彼が唯一正しいのはコスギの作品であるということだけで、彼がこの作品をどのよう呼んでいるか知りませんが、でも...

柿沼:《ミクロ》

コーナー:ええ?

柿沼:この作品は《ミクロ Micro》

コーナー:ああ、知っています。コスギがそのように呼んでいた、でも覚えていません。何という...

ガリアーノ:何と彼(ベン・ヴォーチェ)は呼んでいたか...

コーナー:けれども、彼(ベン)はいつも、すべての作品を間違ったタイトルで紹介していました。そして作品の説明をするのですが、これも間違っていた。この作品では「そのまま放置しておくと音が聞こえる」はずですが、彼(ベン)が(マイクの)音量上げていなかったのです。さらに彼は適切な種類の紙、薄いセロファンの類を使わずに厚紙を使って、それでしばらく続けてから「これを聞いてください、素晴らしいでしょう?」と言っていました。つまり、あまりにも馬鹿げたパフォーマンスだった。だから...

ガリアーノ:ええ、彼は同じ類の作品を非常に好んでいましたね。

コーナー:ですから... 私はこのようなパフォーマンスについていくらでも話すことができます。たとえば「今、ジョージ・マチューナスがハンマーを叩きつけている」と彼らが言っている有名なパフォーマンスについて、ジョージは12か13のピアノ作品を書きましたが、それらのほとんどは盗作でした。「ピアノのベンチを動かすような」という作品などは、ジョージ・ブレクトの作品で、特にこの [釘付けにする]ことについて、この...、これはトーマス・シュミットでした。それで、つまりこのような一切合切のことが... 、ジョージはすでにこのように他人の(作品からアイディアを)取ってきて書くということをしていました。ですから、ベン・ヴォーチェのような周囲の人によって(この作品が)ジョージ・マチューナスの《ピアノ・ネイリング・イヴェント :ピアノを釘付けにするイベント》として出版されているのをあらゆる場所で見かけましたが、彼らは元のタイトルが何であったかを忘れてしまったのです。トーマス・シュミットはこの作品にタイトルを付けていたはずです。また他にも、誰のものか名前も思い出せない作品がいくつかあります。これを上演した人たちが他にもいます。彼(ベン)は「この作品を覚えているか?」と言って、それから彼はタイトルをでっち上げ、そして誰が作ったかをもでっち上げたのです。

柿沼:あなたはディック・ヒギンズの《1000の交響曲Thousand symphonies》(1967)を指揮されましたか?スティック(杖)を指揮に使ったと。

コーナー:スティック(杖)がどうして重要なのですか?

柿沼:いえ、私は見たことがないので...

コーナー:この写真は見たことがありますが、(杖は)良かったですよ、これは羊飼いの杖のようで、いい杖でした。たぶん誰かがこの杖をくれたのでしょう。わかりませんが。

柿沼:何か意図があったのかと思いました。

コーナー:ありません。

柿沼:無いのですか、そうですか。

コーナー:ご存知のとおり、すべてのことを皮肉っていたのですから、杖を使って指揮者になるというのも。まあ、ディックが「ああ、そうだね。君は (指揮棒の)代わりに杖を使って指揮をするんだ」と言いそうなことです。あなたはこのレコードを手に入れる必要がありますね。

柿沼:レコードをお持ちなのですか?

コーナー:いえ、持っていません。ジェフ・ヘンドリックがフェスティヴァルをラトガーズ大学で企画しました。あれは確か10年かそのくらい前だったと思いますが。それでフェスティヴァルの一部として、彼らが一日中これを上演したのです。それは休日か何かだったと思いますが...とにかく彼らは(この作品を)夜のコンサートで上演したかったので、それで、ディック・ヒギンズの《1000の交響曲》を上演ました。私は夏の間中をこの制作に費やしました...ディック・ヒギンズのインストラクションを元に、このパフォーマンスの準備をするためにです。スコア(楽譜)はありましたが、このスコアは現在では芸術作品とされていて、ご存知でしょう。すべてスプレーで描かれた、あの銃弾の穴の作品。それで、これらの(スコアは)今は芸術作品として収蔵されていますが、しかし、それらはこれまでに...、(この作品は)最初の頃から非常に即興的で(スコアに)忠実なものではなかったと言うべきでしょう。そのパフォーマンスもとても成功したとは言い難いものでした。しかし、いずれの場合でも、私たちはその時にできる最良のことを行いました。それで...、ラトガーズで数年前に私たちが行った(パフォーマンスは)とても素晴らしいものでした。私たちはその晩中ずっとパフォーマンスを行い、5、6の異なるヒギンズ・シンフォニーを作ったと思います。私はそのスコアを持っています。あるスコアは緑、こちらは赤、これには多くの銃弾の穴がある、といった具合です。それで...、これはディック・ヒギンズのインストラクションに基づいてそのまま上演することはできないんです、つまり(ヒギンズのインストラクションは)まったく理解しがたいもので、その指示に沿って実際に演奏をすることは不可能でした。そこで私はスコアを各ページのムーブメントとして使い、そのうちのいくつかをできる限り実際の音符がどこに位置するかがわかるように楽譜に書き替え、そして、その他のことも...とにかく書き起こしたんです。それで、この小さな音符のような、それらの(音符の位置)の間を計って、ある程度の伝統的な楽譜のように書き直しました。こういった方法でしか音楽家に(スコアの意図を)伝えられなかったからです。

そして、とても良いオーケストラでしたので、30人くらいだったと思いますが、非常に美しくて、もちろんこの(演奏は)アレガ・マルゲンから(録音が)出ています。私の名前ではなくディック・ヒギンズの名前で、ディック・ヒギンズの《1000の交響曲》としてですが。この演奏はとても美しいものだったと思います。すべてのムーブメントが異なっていた、私はこの(スコアの)一つ一つから、彼がどのようにスプレーでスコアを描いて、その意図は何かということを詳細に調べて、「ああ、これはアダージョであるべきだ」、「ああ、これはロマンティックに」とか、「これは快活に」など。それで、それぞれが異なるキャラクターを持っていたので、そのようにしなければならなかったのです。

ガリアーノ:シンフォニーとして。

コーナー:はい。しかし音楽として成立させるためには、(先ほど言ったような)方法が必要でした。

柿沼:それで、パフォーマンスの後、彼らはあなたの《第4のフィナーレ Fourth Finale》を演奏しましたが、この作品は?

コーナー:フード・フィナーレ?

柿沼:フォース・フィナーレ

コーナー:フードという作品もあるので、《第4のフィナーレ》ですね。はい、ええと...《4つの組曲 The Four Suites》をお持ちでしょうか?その本の中に《4つの組曲 The Four Suites》とあるはずですが。これは サムシング・エルスプレス(Something Else Press)が出版していたかと。それで、その《第2、第3、第4のフィナーレ Second, Third and Fourth Finales》がすべて...

柿沼:その本の中にあるのですか?
コーナー:その本の中に、これらもすべて言葉によるスコアで《第2のフィナーレThe Second Finale》 は、とても快活にたくさんのエネルギーを使って、そのエネルギーが続く限り演奏するという作品です。それで...

柿沼:どうして、これを第4、または第2と言っているのですか?

コーナー:その作品の番号だからです。それ以前にも《フィナーレ》はありました。つまり、これらはすべてコンサートの最後に演奏する作品なのです。なぜなら、この作品を演奏した後はもう何もできなくなるので...

柿沼:いくつの《フィナーレ Finales》をあなたは作曲したのですか?

コーナー:いくつの何ですか?

柿沼:いくつのフィナーレを?

コーナー:4つです。

柿沼:4つ?

コーナー:はい、最初のものを除きます。これは実際は数に入れません。最初の作品は何年も前につくったのですが《フィナーレ Finale》とタイトルをつけました。これはヴァイオリン、チェロ、ピアノの弦楽三重奏ですが、まったくそういった類の(音楽)ではありませんでした。しかし、私は「これはフィナーレだ、最後だ!」と思ったのです。それで、続けてフィナーレを演奏するようにしました、つまり、2つ、3つ、4つ目のフィナーレというように。
第2(のフィナーレ)は全員が、ガアアアっとやる...それで私たちはいくつか面白いパフォーマンスをしました。しかし最後には、みなが...もうそれ以上は演奏ができなくなり終わらなければならない、そこがこの作品の終わりなのです。

柿沼:では第4番目はどうですか?

コーナー:第4の(フィナーレ)は行進曲のようなものです。全員が...、アイヴスはこれについて、それぞれが異なるドラマーのリズムで行進するようなもの、つまり各人が自分のドラマーをもっているようなものだと言いました。それぞれにくりかえしのパターンを演奏するのですが、ですから...これはある種のミニマルといえるかもしれません、実際にはミニマルのようには聞こえないということをのぞいて、ですから、もし15〜20人の演奏者がいたらそのようには聞こえないでしょう。しかし、これは全員が繰り返しのパターンを演奏するという点でミニマルなのです。つまりフィリップ・グラスはミニマルではないということです。みなに繰り返しのパターンがあって、ちょっとした行進曲のような、なにかビートを感じるけれども、全員が同じようには演奏しないという音楽だったはずです。これは単に音を混ぜ合わせたのではなくて、ドンドンドンと全員がそれぞれのマーチ(のリズム)を演奏して、そしてコンサートを終わらせるという。この演奏ではそれぞれに自分のビートがあって、それぞれの行進曲になる。(写真を指差して)これですね、これがフルクサスの(演奏の)写真で、クニ(秋山邦晴)が指揮をして、シャロット・モーマンも(1993-1991)チェロを持って写っています。もちろんクニ自身もなにかをしていました。だから誰もクニの指揮に従っているわけではない、皆がそれぞれのリズムで演奏をして、それでもクニは全員を率いていた、カーネギホールの階段で...

VII. ナム・ジュン・パイクと《〜風に》
柿沼:それでは、あなたはナム・ジュン・パイクともお仕事をされましたね。それで《ナム・ジュン・パイク風に A la mannière de Nam June Paik》という作品がありますね?

コーナー:はい、彼が《フィリップ・コーナー風にA la mannière de Phillip Corner》という作品をつくったので、あれは...

柿沼:では、なぜラヴェルの《〜風に A la mannière de…》を引き合いにされたのですか?

コーナー:パイクに対しての仕返しですね。

柿沼:どうしてラヴェルを使ったのですか?

コーナー:ラヴェルはどこにも出てきません。

柿沼:いえ、A la manière de 何々という曲は、モーリス・ラヴェルが作曲した曲です。

コーナー:誰がそれを言ったのでしょか?どこからそのことを知ったのですか?私はラヴェルと言ったことはありません。

柿沼:ラヴェルには「A la manière de何々」というタイトルの作品があります。

ガリアーノ:ラヴェルは「A la manière de (〜風に)」という作品をいくつか作曲したのです。

コーナー:それは知らないです。ええ、私が知っていることは「A la manière de…(〜風に)」という音楽がたくさん書かれているということです。単にタイトルだけでなくパフォーマンスのインストラクションでも「A la manière de musique Baroque(バロック音楽風に)」とか、…à la mannière deというのは、何々の様式でという意味で、とても一般的なことです。

柿沼:それではどうしてフランス語を使ったのですか?

コーナー:パイクが使ったからです。パイクが《フィリップ・コーナー風にA la manière de Philip Corner》という曲を書いたので、彼が何をしたのかはまったく理解できませんでした。その作品は好きでしたが、私が「それと私となんの関係があるのか?」と言うと、彼は「それは君がカードを持っていたから、そのカードにはある図柄があって...無くしてしまったけれども...そのカードが何だったかも知らないけど」と言っていました。けれども、彼、彼は、パイクはそういう感じで、何かをしろと言ってもそれとは別のことをしてしまう。それで彼はこの作品を《フィリップ・コーナー風に》と名付けた。また面白いんですよ。ええ、ほかにもあって、レコードを壊すという、私とはまったく関係ないのですが。しかし、彼はこの作品のパフォーマンスで、彼はピアノの前に座って、それで「これはやりたくないのです...わたしはこういった類のことは...」と言ってから、彼はターンテーブルを持っていて、これに(レコードを)置いて... 、これらは昔のシェラックレコードだったので、今はこのレコードは手に入らないので、(パフォーマンスが)出来ないのですが。

もし古いシェラックレコードを入手できても、壊すには高価すぎるのです。だから(パフォーマンスに)必要なものを入手することはできません。彼はいつも...彼はこのようなひどく皮肉っぽいことをするのです。ベートーヴェン!とか、ベートーヴェンのアパショナータ《ピアノ・ソナタ「熱情」》を酷い演奏で、すべて間違った音で演奏してみるだとか。私がこれまで書いた中でいくつかのものは「A la manière de〜風に」というタイトルです。それでナム・ジュン・パイクとベートーヴェンの音楽と、それをとてもひどい演奏をするという。そのようなことは彼にとって、おそらく西洋の帝国主義へのリベンジだったのだと、そしてもちろんアカデミズムに対する反発でもあったのだと思います。ジョン・ケージも同じようなことをしました。ベートーヴェン、ベートーヴェンを破壊しようとした。それで、彼(パイク)はこのベートーヴェンに対するひじょうに強迫的な批判的態度を持って、それでこのパフォーマンスでは、ベートーヴェンのすべてのレコードを持ってきて再生し、レコードがタタタティティティティと鳴っているのにあわせて演奏をしようとする。けれども出来なくて単にそれを聞いているだけで、そしてそのレコードを止めてからレコードを叩きつけて壊す。これがフィリップ・コーナー風の(作品の)一部となったということです。私にどんな関わりがあるのか、まったくわかりませんが。

しかし、それで私は...彼らから依頼されたのです。...スキ・カンSukhi Kang (1934-)が私に電話をかけてきて、韓国に来てナム(ジュン・パイク・センター)でこの作品を上演してほしいという依頼があったので。

柿沼:パン・ムジーク・フェスティヴァル?

コーナー:いいえ、それはもっと後です。彼..スキは私を招待してくれました...ああ、ええ、これは実はそれより前ですね ..そうです、彼は私をパン・ムジーク・フェスティヴァルへと招待してくれました。それで彼が私にこのパイクの何かを演奏すべきだといいました。私は自分の音楽をたくさん演奏しましたが、この作品も演奏しました。しかし、私が数年前のことで話したいのは、京畿道にあるナム・ジュン・パイク・センターにレジデントとして招待されたときのことです。スキがすべてを準備してくれていたので、私は《ピアノ・イブニング》を演奏して、それからこの作品をまた上演しました。

それで、とてもとても可笑しかったのです。最初に私がパン・ムジーク・フェスティヴァルでこれをやったときには、私は韓国へ行く前にベルリンのフリーマーケットへ行く必要がありました。それで私はベートーヴェンのレコードを見つけることができなかたのです。ナム・ジュンはいつもベートーヴェンの最も有名な交響曲を持っていたのですが、私はそれらを見つけることができなかった。それで、私はシューベルトとかその他のいくつかの(レコード)を見つけたのですが、ウィンナーワルツだったと思います。それでとにかく行き詰まってしまった。つまり、それらはとても高価だったのです。それで私は「この作品は再上演は不可能だ!」と言いました。そして数日後に、私はフィービー(コーナーのパートナー)と、フィービーは私のアシスタントをしてくれていたのですが、一緒にそこへ行って、私たちにできたことはCDを買うことでした。そしてCDを壊そうとしたのです!それはとても滑稽で、つまり、もちろん私たちは交響曲「英雄」か何かを入手したのですが。ダン!ダン!と聞こえてきて、パイクがレコードにあわせてやったように私はダン!ダン!と演奏しはじめる。そして、その後にしばらくして私がシシシーとやって、CDを止めて、フィービーがそれを取り出す。もちろん、それを単に叩き割ることはできないので、彼女はそれを曲げようとしたり踏みつけたりして。それで壊すことができなくて、最後には観客に向けて投げ捨てたのです。そして、私たちはCDでこの作品を上演をする方法をみつけました。つまり私たちが、いつも進歩をしているわけではないということがわかるでしょう。

柿沼:あなたが1983年に韓国を訪れたとき、日本にもいらっしゃいましたね。鈴木昭男とコラボレーションするために。

コーナー:あれは83年ですか?いいえ、84ですね。いや83年か、そうですあなたが正しい。ええ、83年です。

柿沼:83年です。

コーナー:ええ、そうです。昭男とは、とてもよい友人になりました。私は鈴木ナナ(Nanae Suzuki)をベルリンで知っていて、それで彼女が昭男に会ったほうがいいと勧めました。とても良かったですよ、私は日本でとても寂しかったので、日本では外国人はとても孤独になります。

柿沼:それは残念です。

コーナー:そういうものです。とても面白かったですよ。日本人は非の打ちどころのない礼儀正しさで、人がひしめくニューヨークでは考えられないほど...ニューヨークは人を出し抜こうとするところがあり、人を押しのけて行くような、まあその通りですが、けれども、もしあなたが(路上で)倒れたらみなが立ち止まって助けようとするでしょう。多くの人がこのことには気がついていませんが、(ニューヨークは)喧騒と押しあいと意地の悪さだけのように思われがちです。最近は日本では、もし(路上で)倒れても、誰も助けてくれないという問題があると聞きました。なぜならその人に対して(もし助けたら)道義的な責任ができるからだと。ご存知ですか。

ガリアーノ:そのようなことは知りませんが...

コーナー:本当ではないのですか?私はそのように聞いたのですが、彼らは人に触れたがらない、人工呼吸もやらない、それはに、別の理由...つまり、彼らに責任が生じるからだと。

ガリアーノ:私は京都で誰かが倒れたときにみなが助けているのを何度か見ましたよ。

コーナー:ええ、そうですか...状況は徐々に変化しているのでしょう...、日本では人々がとてもとても礼儀ただしいことに気がつきました。もし地下鉄で誰かの肩をたたいて、「すみません excuse me」と言ったら、彼らは「はい」と言って、私を切符売り場まで連れて行ってくれます。私が切符をちゃんと買えるようにしてくれて、それから改札口まで見送って、そしてお辞儀をして...それで、まるで目を閉じるように、私は無視されるのです。まるでそこに存在しないかのように。ひとごみの中では、誰もあなたのことを見ていない、そこに立っていても人々は...彼らは、ひとごみにあまりに慣れていて、そういうことだと思います。混雑で押しあいながらも新聞を読もうとするのを見かけます。このように、ただ立っているだけで私の周りに人が押し寄せてきて、私はまるで柱になったような経験をしました。「すみません」と言って声をかけて、助けや道案内を頼むまでは絶対に目をみてくれません。だから間違うことなく礼儀ただしいのです。そして彼らは「ついてきてください」と言って、助けてくれますし、必要なことをすべてやってくれて、そしてそれが終わるともう存在しないことになる。わかりますか、彼女の名前わかりますか?私はこの経験をこの...

柿沼:日本人ですか?

コーナー:はい、有名なアートコレクターです。彼女は大きな美術館をもっていて。スイス人の建築家がデザインしたという、なんといいましたか?彼女がフルクサスをコレクションしたと。

ガリアーノ:ワタリ?

柿沼:ああ、ギャラリー 360ですか?

コナー:いいえ、彼女の名前をいつも忘れてしまう。彼女はとてもよく知られた人です。スイス人建築家がデザインしたという有名な、ワタリ、ワタリだと思います。

柿沼:ワタリ(和多利)

コーナ:ワタリ、ワタリ、マダム・ワタリ。覚えているのは、東京へ初めて行ったときに私は贈り物を...持っていったのです。彼女は東京からヴィースバーデンのコンサートへはるばるとやってきたのです。それで、そのあとに私が(東京へ)行ったときに... あれは82年でした。東京へ行く前にルネ・ブロック(René Block 1942-)がワタリのギャラリーへ持っていくものを私に渡したのです。彼女(ワタリ)はとてもいい人で、ホテルをみつけるのや、そのほかのことをいろいろと助けてくれました。私は彼女を訪ねて、その贈り物を渡して、彼女がギャラリーをみせてくれたので話をしました。奇妙なことですが...ある瞬間に私は「拒否された」と感じたのです。私たちは話をしていただけなのですが、なぜか...この会話が終わって、彼女が(私に)帰ってほしそうな態度でなにも言わなくなったので、去らなければならない。このように、これはとても興味深いことですが、もちろん礼儀ただしく、そして、とてもとても親切にしてくれたのはよかったですが、つまりは「やってしまった...」ということで。

ガリアーノ:それは、まあ大丈夫でしょう。

コーナー:ええ、なにもなかったのです。

ガリアーノ:それで、彼女はヴィースバーデンにやって来た?

コーナー:はい、彼女は1日遅れでやってきました。なにか問題があったようで、彼女は2日目に到着しました。マダム・ワタリが東京から到着したとアナウンスがされてみなが拍手をしました...

ガリアーノ:おそらくルネ・ブロックでしょう。彼はそこの主催者のひとりでしたから。

ガリアーノ:ああ、それは興味深いです。ええ、ええ、彼女は...

柿沼:2時間が過ぎました。もう少しいくつか質問をしてもよろしいですか?

コーナー:はい、いいですよ。

柿沼:時間はありますか?

VIII. トーン・ローズ・アンサンブル、その他の活動
柿沼:トーン・ローズ・アンサンブルについてパフォーマンスの録音はありませんね、また私は演奏を聞いたこともないのですが、(アンサンブルでは)トロンボーンかピアノを演奏されていましたか?

コーナー:覚えていません...トロンボーンを演奏したかもしれません。アイヴス(1874-1954)の室内楽の曲をいくつか演奏しました。それから、たぶん、いいえ、私はトロンボーンを演奏しなかった。演奏はしていない。ピアノを演奏したことは覚えています...《Over the Pavements》(チャールズ・アイヴス)を演奏しました。ピアノと小さなオーケストラのための曲でした。いくつかソロも演奏しました。アイヴスの二つのピアノソロを演奏して、これは録音もされました。WBAIラジオ局(ニューヨークのリスナー後援ラジオ局)で演奏をして、WBAIに録音があるはずです。それとは別にいくつか録音が確かにあります。マルコム・ゴールドステイン(Malcolm Goldstein 1936- )が録音をしましたが、彼は覚えていないでしょう。彼はなにも保存しなかったので、そういったものはすべて無くなってしまった。それで、たぶんジェームス・テニーがアイヴスの《コンコード・ソナタ》を演奏したレコーディングがあるはずです。でもこれはリリースされていないので、だからあなたが聞くことのできるものは何も無いのです。ひとつも無いです、はい。

柿沼:マルコム・ゴールドステインは知り合いです。

コーナー:そうですか。

柿沼:はい、あなたがこの秋に彼と一緒に演奏をすると聞きました、ロンドンで。

コーナー:はい、そうです、彼とでした。

柿沼:この秋に彼とのコラボレーションをするのですね?インターネットでみました。

コーナー:はい、ロンドンではないですが、あれは北イングランドのハダースフィールドでした。ハダースフィールド、ロンドンではありません。

柿沼:ロンドンではないのですか、でもイギリスですね?

コーナー:はい、私は彼にハダースフィールドで会いました。もし彼がロンドンでなにかしたのであれば、それは私とではないです。毎年フェスティヴァルがあるので、あれは...

柿沼:それは、ある意味では再結成といえるでしょうか?

コナー:いいえ、大学があって、そこはとてもよいニューミュージックの学科があります。とても重要なフェスティヴァルを毎年開催していて、それで大学のひとたちがこれを「トーン・ローズの再結成」と呼ぼうと言いだしたのです。マルコムは来たくはなかったんです、彼はだんだん旅をしなくなっているので、体調があまりよくないから。それで彼は…

柿沼:すみません、とても長い時間をとってしまいました。

コーナー:いいえ、そんなに長くないですよ、まだ昼時にもなっていない。

コーナー:それで、マルコムは来たくなかったと言いましたが、大学の人たちが彼を説得したそうです、私が来るからと。そして彼らは、これはトーン・ローズの再結成になると言ったのです。私たちはジム・テニーの作品をいくつか一緒に演奏します、彼(ジム)は亡くなりましたから。あれは、だからとてもよかった...とてもよかったのです。

柿沼:それで、ピアノを演奏されるのですか?

コーナー:ええ、彼はもちろんヴァイオリンを演奏しました。自分の作品も演奏しました。わたしは何も演奏しなかった...ああ、ええ、しました。基本的に学生のアンサンブルだったのですが、これは素晴らしくて、彼らはわたしの1958年の作品を演奏したのです。わたしはそれを気にいっていたのですが、1958年から演奏されたことがなかったのです。彼らはこの作品を引っ張り出してきて、それでアンサンブルの作品として演奏をしてくれた。そしてコンサートがあって...ウェールズ出身のロードリ・デイヴィス(Rhodri Davies)というハープ奏者がいて、彼はとてもよい作曲家であり、即興演奏もできたので、こういう音楽にはとても重要でした。彼はほかのハープ奏者と一緒に、わたしの2台ハープの協奏曲を演奏しました。最初の曲は古い作品で、一つのハープの曲を二つのハープのために編曲して、そして、それをミックスしました...《二つのノイズTwo Noises》のような曲を取り上げると、耳障りなノイズを出すような演奏でしたが、わたしは美しいと言っていました。ウィーンという音が鳴っているような曲でした...しかし、それはとても美しかったのです。また、彼らはほかにも違う作品を演奏しました。そうして最終的に...、わたしは《ファンタジー》をつくりました、フランスのクープランの作品の《神秘的な障壁 Les Barricades Mystérieuses》をもとに長い時間の即興を行いました。《ファンタジー》をほぼ完全に作曲された音楽のために作ったのです...ピアノのヴァージョンがありましたが、ピアノと二つのハープのための編曲もつくりました。それで、この曲はそのコンサートで私が演奏した唯一の曲でハープと一緒に演奏をしました。私はほとんど聞いているだけで、もちろん彼らにいくらか演奏のアイディアを伝えましたが。マルコムは彼がいつもやること、ソロの即興をやっていました。

柿沼:なるほど、ではほかのことを、あなたは...

コーナー:マルコムとはどこで知り合ったのですか?

柿沼:マルコムを日本へ招待したのです。彼は自分のヴァイオリンの作品を演奏しました。

コーナー: 《サウンディングス》ですね。

柿沼:《サウンディングス》と彼のヴァイオリンの作品です、素晴らしい作品です。

コーナー:彼は素晴らしいですよ。

柿沼:はい、マッシュルームという...

コーナー:ああ、それですか。それは、その作品は《やさしい雨、そしてキノコが生える(ジョン・ケージの思い出) Gentle Rain, Preceding Mushrooms (in Memoriam John Cage)》という作品ですね。

柿沼:はい、それです。ご存知ですか?

コーナー:ええ、私はこの曲がとても好きで、いつかピアノの編曲をしてみたいとずっと思っていました。このごろはあまり演奏をしないので、できるかわかりませんが。でも、これは彼のとても美しい作品で、

柿沼:その録音をつくるべきですね。

コーナー:そうですね、とても美しい作品です。録音があると思いますよ。

柿沼:そうですか?

コーナー:ええ、たしかにあったと思います。私が...あとで、私のE-mailを見てみましょう。マルコム・ゴールドステインの録音で調べてみれば、きっとあったと思います。

柿沼:リリースされていますか?

コーナー:ええ、確か。

柿沼:本当ですか?

コーナー:確かに、これが終わったら確認しましょう。見つけられるかどうか。

柿沼:それで、あなたは「サウンド・アウト・オブ・サイレントスペース」というアンサンブルもつくったのですか?

コーナー:はい。

柿沼:何をしたのですか?

コーナー:ええ、それは少し後のことでした。私は何かとてもあきらかなことをしたかったのです。ええ、(アンサンブルを)つくりましたが、ある意味ではこれは共同で始めたともいえます。私の当時の妻が占星家で、ヒーラーでトランス・メディウム― つまり瞑想やスピリチュアルなことなどについて詳しかったのです。それで、ウェーバーという人がいて——彼女のファースト・ネームは何だったか...

柿沼:ジュリー・ウィンター?

コーナー:ええ、ジュリー・ウィンターもいました。しかしウェーバーという人もいて。彼女はグループのメンバーでした。どうしてか彼女のファースト・ネームが思い出せませんが、まあいいでしょう、そのうち思い出すでしょう。私の頭は古くなっていますので。とにかく、我々が何をしたかというと。― これが「私のグループ」であると、私が代表のように思われることはあまり嬉しくないのです。ケージもこのことについて書いていて、彼はずっとフィリップ・コーナーのグループと、フィリップ・コーナー、フィリップ・コーナー、と言い続けていたので。すべてのアイディアはある意味ではフルクサスの理想でもあったといえます。しかし、ジョージの理想は基本的にとてもブルジョア的であった...彼にはマーケットがあったので。ええ、全てが売られて、安っぽくて、反ブルジョアでした、なぜなら、彼はとても安く売ったので。でも、それは反ブルジョアとしては成立していなくて、それはフリーマーケットのようなものでした。とてもとても安っぽいものを作って、それで誰もそれを欲しがらない。彼はとても安いものをつくったので、誰でも買うことができたのですが、誰も欲しいと思わなかったのです。それで、いまでもそうなのですが―つまり、彼はフルクサスの著作権でさえも、彼はフルクサスのどんな著作権も所有していなくて。事実、ある時に―あれはリゲティだったと思いますが、ええ、リゲティがバガテルを出版したときのことです。その(作品の)フルクサス版があったのです。

それで、後に彼は商業出版社と契約を結んだのですが、ジョージは、その全ての権利を放棄しなければならなかったのです。彼の著作権は全く有効ではなかったのです。どの作曲家もこのことには関心を示しませんでした。つまり、このとてもブルジョア的な側面があって、そしてその考え方も、これらのアーティストたちによって作曲された作品、署名入りの作品なのです。これは、非常に素晴らしい作品だ、ジョージ・ブレクトは真のフルクサスのアーティストだ、というようなことなのです。これは本当に分別に頼っていることであり、また私はこれを個人所有の知的作品と言っていて、これは完全に資本主義者の考えなのです。ですからある意味で、フルクサスのすべての考えの元には大きな誤解と誤算があって、それは...(フルクサスが)失敗であったことはとくに驚くべきことでもなかったのです。とにかく、なにかしようとはしたのですが―私たちはもはや成功することはないと思いますが、その考え方はひじょうにポスト資本主義的、非ブルジョア的で、集団的な創造活動だったので、誰も作品の権利を主張することはしませんでした。ただ、問題なのはいまも私たちが資本主義の社会に生きていることなんです。つまりアイディアを提供しても、そのアイディアを自らの作品と異なる文脈で使っているということです。そして、このように考えるでしょう―「これはいったい誰のアイディアだろう?」つまりこれは、とても矛盾するようになっていますが、より先へと進むための、そして個人所有をなくして集団による創造的作品に平等に寄与するための試みだったのです。

私たちには形式があって、まず野外から何かがやってきて始まる、そして、ある行為の作品もしくは何かの行い、落ち葉の上を歩くとか、そういった何かに対して行いをすること。― そして、ある種静かな何かすこし形式ばったものでした。作品はいつも20分ぐらいの静かな瞑想で終わり、それから朗唱へとつづいて、そして最後にはダンスで終わります。とても高いエネルギーを伴って戻ってくるというのが通常の形式でした。それから、これに関わった誰もが徐々にですが、沢山の―いわゆるフルクサスの人たちが参加するようになって、たとえばアリソン・ノウルズは常連のメンバーとなりましたし、なかにはいつも来る人もいました。これは、誰にでも開かれていて、そして私はこれらのアイディアを一つにまとめて、ある晩に行う計画をしたんです。

これが、Sounds Out of Silent Spacesの全てです。これは、ある意味では芸術的にオーガナイズした瞑想であり、コンサートへ行くことを拒否して、瞑想のセッションへと向かうということでした。これはアートと精神性との間にある問題を解消するものでした。私たちは本当にこれをやってみる価値があると感じていました。そして、たとえば―そこからきた何かを、Some Silences(ある静寂または沈黙)と呼びました。Some Silencesのアイディアがどこから来たかというと、インストラクションを与えるのが不適切に思われたということなんです。つまり全てのフルクサスの作品が「これをしろ、あれをしろ」—と命令的であり、これをすべきで、そしてこの作品はこのようにするべきだと言っていたからです。瞑想をする人たちは、いつも同じことをしました、つまり—「目を閉じて、息をして、そして考えてみましょう」。私はこれが大嫌いでした!別の方法を考えたいと思いました。そして何をしたかというと《Some silences》をつくって、これについて説明したんです。たとえば「Some silencesは外側の音を聴きます」「Some silences は神について考えます」などといったことです。しかし、サイレンス(静寂/沈黙)は客観的なものなので、「この方法でやるべきだ、あのやり方で..」といったことを言わずに、関わりを持つことができます。つまり、ここから得られるのは美的な活動と精神的な活動を融合する方法なのです。そのようなことでした。

柿沼:では、あなたは沢山のグループに参加をされたのですね。

コーナー:ああ、それで、ええ、ええ、禅の瞑想とキリスト科学教会(Church of Religious Science)といった、それらに関わることです。それから、私たちは独自のメタル・メディテーション(Metal Meditations)というものも行いました。ある意味、これは瞑想になるようにつくられた―つまり、音楽として演奏したことが、実は瞑想となるようになっているということです。

IX. エリック・サティ
柿沼:どのようにエリック・サティの音楽に興味を持つようになりましたか?エリック・サティの音楽をしばしば演奏されていますが、彼の作品に関連してなにか作曲をされていますか?

コーナー:まあ、彼(の音楽)は、ダンスでは多くの人に使われていますからね。多くのダンサーがサティを使ってきました。さらにケージの「サティがいかに偉大か」という話もありましたから。けれども私は違いました。それにはあまり関心がなかった。実際、私のサティのレコードをお持ちでしょうか ― 私のサティのレコードはご存知ですか?

ガリアーノ:はい。

コーナー:それはサティのピアノ音楽のレコードで、二巻あります。最初にこれについて私が述べたのは―「サティは、ケージが我々に信じさせようとしたほど素晴らしいわけではなかった。」ということです。そして私はこうも言っています「ベートーヴェンやバッハについても、そうでは無いのです。」つまり、彼(ケージ)は常に「ベートーヴェンやバッハはゴミ捨て場みたいなものだと、そしてサティは...」と主張しますが、これに対して私は基本的に「それには全く同意できない」と言っていて、そして「確かに、サティを素晴らしい作曲家として認めています、ラヴェルやドビュシーが素晴らしいように」というのが私の態度なのです。当時は「まあ、サティはちょっと...だけどラヴェルとドビュッシーは素晴らしい」という人たちもいて、今は「ああ、ラヴェルとドビュッシーね、彼らは過去の人たちで、サティは唯一の人ですよ」と言う人がいる。ジョンはサティに対してかなり極端な誇張した態度をとっていて、私は全く共感できませんでした。

私はただサティの曲が好きだったので演奏しました。また、当時はそういった音楽を入手することが、とてもとても難しかったのです。ニューヨークには専門店がひとつしかなく、注文をしなければならなかったんです。その店員は「どうして、そんな知られていない音楽に興味があるんだい?」とすら言いました。つまり、《ジムノペティ》はもちろん知られていましたが、私が注文したのは《ばら十字団の鐘の音Sonneries de la Rose + Croix》やそのほかの曲でした。彼らは「どうして、これに興味があるの?」と聞いてくるので、「素晴らしい音楽だからだよ」と答えました。もちろん、いまでは皆が、数多くの演奏家が完全な....どれだけの人がエリック・サティの全曲レコーディングをしたことでしょうか、シュテッフェン・シュライエルマッハー、ピアノ作品の全曲を収録した10枚のレコードのように、誰でしたか?

柿沼:[アルド]・チッコリーニですか?

コーナ:正解です、チッコリーニー。はい、彼が最初に全曲を録音した。

ガリアーノ:いいえ、カルディーニです。ジャンカルロ・カルディーニ

コーナー:彼も全曲を(録音)したのですか?

ガリアーノ:はい。

コーナー:なるほど、では彼は別の一人ですね。

ガリアーノ:彼は数年前に生演奏をしました。まだ、ジャンニ・サッシGianni Sassiがまだレーベルをやっていた頃に...彼もとてもフルクサス的な人でした。彼は生演奏をして、それを録音しました、ジャンカルロ・カルディーニ(1940-)。

*ジャンニ・サッシGianni Sassi (ヴァレーゼ, 1938年10月8日– ミラノ1993年3月14日)はイタリアのレコードプロデューサー、アートプロモーター、写真家。アヴァンギャルドの芸術家と親しくし、イタリアの知的思潮に影響を与え、その偏狭な考え方を改め、芸術的な企画にたいして新たな領域を開いた。彼は多くのカンファレンスやフェスティヴァルのオーガナイザーであり、世界中の主要な詩人やパフォーマーと交流を持った。

コーナー:サティについては、もちろん瞑想と、とても関わりがあります。西洋音楽について考えると、瞑想とは繋がっているものは本当に少なくて、教会音楽ですらあまり瞑想的ではありません。バッハも瞑想には繋がりません。つまり教会音楽は瞑想には導かれない。サティはそう言える数少ない中の一人です。

ガリアーノ:興味深いですね。はい。

柿沼:あなたはケージから影響を受けたと思っていました。

コーナー:そんなことは全くありません。私は(ケージを)受け入れたことはありません。形式上のレベルでさえも。「サティは、時間による組織化であり、西洋音楽は和声による組織化である」そんなことはナンセンスです。サティだってハーモニーを使っていますし、西洋音楽は全て時間によって組織されている。これはドグマです。(音楽)全体の技術的なレベルを底上げさえもしない。けれども、その考えを理解することはできるのです。言わんとしていることは、ケージがサティについて考える必要があったということ、つまり、これは西洋のことだとか、競争とかそういったことです。ですから、新しいことをしようとすると、戦う必要がありますが、人々は皆それに反対するんです。もちろん、バッハとベートーヴェン、つまりクラッシック音楽を学んでいる人たちは、彼らにうんざりしていた。バッハもベートーヴェンも素晴らしいのですが、皆うんざりしていました。私たちは彼らについてすべてを勉強する必要があった、ソナタからフーガまですべてを学ばなければならなかった。これは、今は変わってきているとは思いますが、しかし、これにはうんざりしていました。新しいことをするために、ケージは東洋の思想に助けられたのです。しかし、「西洋の音楽は感情の表現である」——これもナンセンスです。「どのような東洋の音楽もスピリチュアルの世界に開かれていて、神々の影響がある」もしこのように言うのであれば、それは西洋音楽についてなにも知らないということになります。それで、彼は何か新しいことをしたくて、そのために仏教とインド哲学が有効だったのです。そして、私が思うに、彼には西洋音楽史からも参照が必要だったからサティを選んだのです。おかしなことに彼はモーツァルトが好きでした。つまり、たくさんの矛盾があるのです。彼はモーツァルトが大好きで、なぜモーツァルトだったのでしょうか。ハイドンやボッケリーニではなく、他の人でもなく。それは大きな矛盾なのです。そしてこういったことが、わたしにはまったく信じられません。

X. ガムラン
柿沼:それでは、どのようにしてガムラン音楽に興味を持ったのですか?あなたはSon of Lionの創設メンバーですね。

コーナー:はい、もちろんガムランはワールドミュージックのひとつにすぎないとは思いますが、私はこれまでたくさんのワールドミュージックを聴いてきました。いくつか、たとえばそのなかで、最も影響を受けたのはアメリカ・インディアンの音楽、とくに一定のリズムやミニマル的な(反復的な)ダンスなど。もちろんアフリカのリズムもそうですが、つまり、ええ、私はこういった音楽をずっと聴いてきたのです。それでなにが起こったかというと、私が大学で働いていた頃1972年ですが、とても先進的なプログラムができたのです。それは電子音楽スタジオやジャズなどのプログラムで、そこには民族音楽学もありました。民族音楽学者を雇う必要があって、それで誰か、ただの学者というだけではない、つまり「エジプトで10年間ベルベル人と一緒に暮らしてそれを記録した」という人には興味がなく、私たちはジャズとパフォーマンスに関われる人が必要だった。それで、このバーバラ・ベナリー(Barbara Benary)がウェズリアン大学から博士号を得たばかりだったので、彼女はガムランとジャワ音楽に詳しく、そしてヴァイオリニストでもありました。彼女はフィリップ・グラスのアンサンブルでも演奏したことがあり、そして作曲家でもありました。またアジアン・ミュージック・パフォーミング・グループという団体をつくって、手作りのガムラン楽器をつくりました。楽器にブロンズを使う代わりに、たとえば鉄を使ってチューニングも自分たちでして、それはとてもファンキーでしたが、音はよかったのです。そういったことをどうやってやるかを考え出した人たちがいました。彼女は、ジャワの伝統的な音楽演奏を多くの人が学ぶことができるように、このような楽器を作ったのです。彼女は私と同じ学部の教員でした。私はその(グループの)彼らと一緒に座って、すこしずつジャワの音楽を教えてもらいました。それで、彼女に「なにか現代的な音楽をやりましょう」といったのです。彼女はとても反対しました。「私は文化的な混在をしたくないのです、だめです、だめ、だめ、だめ!」と。彼女は反対をしていましたが、しかしそれから何年か後だと思います、彼女の初期の作品をガムランで演奏することを試すようになりました。彼女の作品は基本的に繰り返しのシステマティックなことをやっていましたが、そしてそれはとてもいい音でした。それで彼女は態度を変えはじめたのです。

最終的に、これは2年後か3年後のことですが、65年に彼女は私とダン・グッドにガムランのために作曲して欲しいと依頼しました。それで最初に考えたのは...私はこれまでゴングやベルを使った作曲を数多くつくったのですが、これまで火災報知器やベルでやってきたことを、ただガムランのためにやってもあまり意味を成さないと気がついたのです。なぜなら多かれ少なかれ、音に対する美学があったからです、ゴングの音や、響き、注意深く聴くこと、沈黙など...それで、ガムランですが、音階をつくるように配置され、調律されている、それは尊重しなくてはなりません…これは音階とリズムのある音楽で、実際のところとても規則的なリズムを持っていました。それで、最初の作品を書いたときに、私のなかのサイレンス(沈黙)、不確定性といった、ケージ的なものを作曲の非常に厳密な構造のなかに統合する方法を思いついたのです。

それで、私はこの二つを結びつけました。そしてその結果にとても満足しました。それで、私はもう一つ作曲しました。大学で開催した最初のコンサートで、この最初につくった2つの曲をいつも演奏します。《ガムランとガムランⅡ Gamelan and GamelanⅡ》。それから、彼女は大学から追い出されたのです、アカデミズムの人たちには(彼女のやることが受け入れられなかった) ...。

ガリアーノ:なるほど...。

コーナー:彼女は作曲家でしょうか?それとも彼女は民族音楽学者でしょうか?彼ら(アカデミズムの人たちは)このことについて考えて...つまり、私たちは、できなかったのです。それに彼らはガムランを好きではなかった。彼らにとってガムランはおもちゃで、ある人はチューニングが違っていると言ったのです。「これは、とても西洋の耳には堪え難い」と。彼らは西洋の耳!と言ったのです。考えてみてください、もし雅楽について彼らが「西洋の耳には堪え難い!」と言ったら、ええそれはそうでしょう。けれども、私たちはそれを冗談にしていました。「誰が西洋の耳を持っているか?」なんて言って。「西洋の耳ある?」「私は違います。だれか西洋の耳を持っている人知っている?」「知らない」なんて。とにかくそれで彼らは彼女を追い出したのです。彼女が退職する頃までの―6ヶ月の間、彼女がいない間に、私はガムランのグループを私の現代音楽のグループと融合して、それで文化混合の現代音楽グループをつくったのです。そして私たちはそのグループでとても素晴らしいことをしました。そして、バーバラが大学を去るときに、私たちはサン・オブ・ライオンを現代音楽のグループとして続けて行きたいと考え、そして全ての楽器を私のニューヨークのロフトへ移動して、そしてリハーサルはいつもニューヨークで行うことになりました。助成を得て、コンサートを開催して、そしてこのグループはプロの現代音楽ガムラン・グループとなったのです。それで...このグループに参加した全ての人たちが作曲に刺激を受けて、いくつかガムランための音楽を作曲しました。実際、これは今も活動しています。ある程度の活動を、覚えておくために彼らは私の昔の作品をいまでも演奏します。かれらの音楽の録音はひとつも入手できません。とても多くの音楽がつくられたのですが、私が彼らと一緒にやっていた時でさえ私の作品のほとんどはとても長い曲でしたから、レコードに録音するにはなるべく短い作品を選ぶ必要がありました。レコードには7、8人の作曲家の名前があったのです。それで、いまも同じような問題があって、とても沢山の現代音楽をする人がグループにいるので、そこに私の入る場所はありません。

柿沼:このCDを聴きました。《ガムラン・アンサンブルのための3つの小品 3 Pieces for Gamelan Ensemble》。とても驚きました。この作品の音はガムランの曲というより、フルクサスのようだったからです。

コ―ナー:ええ、最初の作品はそのような...

柿沼:これはハイライトされていますね。

コーナー:これは私が話したその曲です。しかし、私はこれについて—フルクサスらしいとは思いません。—少なくとも狭義においてフルクサスではありません。

柿沼:おそらく違うでしょう。しかし...

コーナー:たぶん、オーケー。

柿沼:とてもコンセプチュアルです。

コーナー:ええ、そうです。その話にもどりましょう。おもしろい話なので。フルクサスとは何か?ということ。ガムランについて先ほども言ったことですが、ある意味で、ただの繰り返しではなくて、私がゴングや火災報知器でやろうとしたことをガムランに応用しようとしました。それで、これは本当に、このゴングの音はまるでケージ的な作品なのです。つまり瞑想に使うゴングの残響が消えてゆくのを待っていると、そこには長いサイレンス(沈黙)があるのです。そして、それが繰り返される。それで「ああ、繰り返している」と、すでに...それで、2回、3回と繰り返しのあと「ああ、これは定期的に(繰り返すのだ)」とわかってくる、そして結局1分、つまり60秒になってから他の(音が)入ってきて、それで、「ああ、これも長い音で、消えていく」と。でも、それは前の(音の長さの)半分なのです。わかるでしょうか?つまり、30(秒)です。そして次の音が入ってきて、それは15(秒)、そしてずっと割り続けていく。すると、最後にはとてもとても方法論的な…ティ・ティ・ティ・ティ、ダン-ダン-ダン-ダン、1,2,4,8,16 –全てのパートが合わさっていくのです。それで最初に聴いていたのは、音が空間に浮いている状態であったことに気がつくのです。これはとても厳密なカウントをしました。

柿沼:とても正確に構造化されているのですね。

コーナー:はい、そうです、とても厳密です。一番最初から、最初の音は正確に計っていて、そのサイクルは常に確実に同じとなります。

柿沼:二つ目の作品もそうですか?

コーナ:いいえ、二つ目は...

柿沼:繰り返しの...

コーナー:これはフルクサス的と言えます、なぜなら、これはバルセロナ大聖堂の鐘を模倣したからです。バルセロナの大聖堂には、中に入れる——教会でなくて、あの場所——クワイヤーではなく、なんと言いましたか?クロイスター(回廊)があって、そこにはシュロの木がいくつもあるのですが。そのすぐ側に鐘の塔の基礎部分があって、そこでは、ふつうには聴いたことがないような方法で(鐘の音を)聴くことができるのです。鐘のすぐ下の、私はそこが好きなのですが、たくさんの(鐘が)あるので、12かそれくらい、ボン、ボン、ボン...と、それで私はこのような曲をつくりたいと、もちろん、かならず12である必要はないのですが。それで私の作品は、基本的に教会の鐘が何度も、何度も、何度もずっと鳴っている。そして常にわずかな、微妙な違いがあって、しかし、ずっと鳴り続けているという。ある意味では、これはノイズであり、そして芸術と生活に関わってもいる、そうようにも言えます。ですので、私たちが話したようなことに近いのかもしれません...

柿沼:毎回、これは少しずつ違うのですね — 毎回。

コーナー:ええ、とてもとても少しずつですが、とてもとても少し、非常にささやかに、しかし、これは単にボンと鳴るだけですが、それでもそこにボン・ボンと。つまり、皆がこのように、教会のベルのようにするのです。これはそのような——そのようにして聴くための作品です。それで、最後の作品は伝統的な音楽と言えます。ただ、変わっていたのはこれを最初にバリで上演したということです。私はこの作品を異なるガムランから集めた楽器で演奏しました。異なる文化(圏)から集めたので、チューニングが全て違っていました。それぞれの楽器が異なるチューニングになっていたのです。それで、私は皆が同じメロディーを演奏する曲を、異なるチューニング(の楽器)で作りました。このヴァージョンでは、私たちは全ての楽器を揃えることができませんでした。しかし、二つのガムランのチューニングがあったので、二つの異なるチューニングを使って、(ガムラン同士が)互いに合わない音程であり、そしてどちらも西洋のチューニングとも合わない。それで、西洋の楽器も用いたので、3つの異なる音階構造がありました。これは、ある部分では同じような考え方にもとづいていますが、この作品は、おそらくより音楽家に典型的な考えといえるでしょう。

つまり、言いたいことは — あなたはフルクサスとは何か?と言われました、または、フルクサスでは無いものとは、それやこれ、それとも別のことなど。私がとても不愉快に感じてきたことは、人々が何かをフクルサスと言って、それが私にとってはフルクサスだとは思えないことです。そしてマチューナスのマニフェストについて今でも誰かが話していることも。つまり、これはただジョージの想像であって、フルクサスとはまったく関係がないのです。アーティストの誰一人として、フルクサスのアーティストの誰もが、そういったフルクサスの方針を受け入れなかったのです。ジョージが言っていた「作品は短くあるべきで、そしてベイビーハハハと笑えるような作品」なんて、そんなことにはだれも賛同していなかった。だから、彼がフルクサスだと言っても、アーティスト誰一人として...、たとえば作品をみれば、ナム・ジュン・パイクの作品をみれば ——フルクサスのマテリアル以外と、いったいどのような関係があるのか?と。そして、これはハプニングに対するアンチテーゼであるはずなのです。ハプニングはマルチシアターのような、複雑で、そして何か別のものでした。そして誇大妄想者のヴォルフ・フォステル (1932-1998) がいますが、彼は電車が車に衝突するとか、そういったワーグナー的なドラマをやっていました。彼はフルクサスに関係があって、初期のフルクサスのアーティストでした。ヨーゼフ・ボイスさえもそうでした。ですから、これらの人々は後にフルクサスのアーティストになったのですが、彼らがやっていたことを見れば、とても異なっているのがわかります。つまり、ここにいくつかあります、ご覧ください。ジェフリー・ヘンドリクスと彼の空のペインティング、いいですか?彼はティエポロ(1696-1770)に影響を受けています。これとフルクサスとは何の関係があるのでしょうか!?

XI. フルクサスとは何か?
ガリアーノ:あなたは、先ほどフルクサスのプロジェクトは失敗であったとおっしゃいました。失敗とはどういう意味でしょうか?

コーナー:彼は資本主義者の社会を改革したかった。

ガリアーノ:ああ、みなが資本主義者の社会を改革したいでしょう...

コーナー:そうですね、しかしこれは大失敗でした。そして失敗して、それから彼はとても硬直したコミュニスト(共産主義者)の考えを持つようになったのです。また彼は共産主義者としても失敗でした。共産主義そのものが失敗するよりも前に、つまり彼は作曲家を組織しようとしたのです。——まずこれが、作曲家たちが拒否したことでした。彼が強要をしたのはそのスタイルだけでなくて——「これはこのようにあるべきで、これはあのようにあるべきで」といったことも、そしてプロフェッショナリズムというものは有り得ないですし、それは開かれているべきでした...。しかし、誰も受け入れられなかった。彼が何をすべきかということを伝えたとしても、誰も受け入れなかったのです。確かに彼はコレクティブ (集合体)としての組織をつくった。彼はつねにフルクサスはコレクティブであると言っていて、そして彼自身をチェアマン・マチューナス(マチューナス主席)と称していた。彼はロシア(ソヴィエトの)政治局を参考に組織をつくろうとまでしていた。彼が擬似コミュニストのような組織をつくる考えを持っていて、フルクサスをロシアに連れて行こうとさえ考えたのです。フルクサスが社会主義リアリズムより優れているということをロシア人に納得させるために。彼らがフルクサスを国家共産主義の芸術形式として採用すべきであると。彼は、彼は狂っていたと思います。彼がやろうとしていたことに関していえば、ある程度はこのような理想を持っていて、基本的に、彼は…なかった…–おかしなことに彼はとても分裂していて、彼は音楽が好きだったけれど、彼がモンテヴェルディなどを聞いていたのを私は知っています。つまり、そういった音楽を聞いていたことを彼は決して認めなかった。そういったことすべてはブルジョア、退廃、エリート主義で、破壊されるべきだと。そして現実はというと、私は「フルクサスの隠された目的というのは、すべての人々にアートが必要ではないということを納得させることではないかと。そしてこれは単に、私たちがアートを必要としていないというその事実を表すためのある種の実例である」と。だから、いかなる伝統的な芸術についても聞く必要はないのです、フルクサスと芸術、生活、ノイズといったこと以外は。そして、これは単に音であり、世界中の音であるということを人々が理解したらフルクサスは必要なくなるのです。ですから、どのようなアートもいらなくなる。しかし、ある意味こうもいえるでしょうか、これはケージの考え方と同じだと。すべては美であり、世界へただ出て行けばいいのですと。しかし、それはジョージが意図していたこと、考えていたこととは違うのです。ジョージが考えていたのは、これ以上美的なことで時間を無駄にしないということ、つまり工場へ行ってもっと長時間働いて、そして何か役に立つようなことをする。つまり、これがジョージの考えでした。ばかげた、まったく「突拍子もない」ことで、そして失敗することは目に見えていました。

とうとう、彼が亡くなる頃には誰もフルクサスをやらなくなって、マサチューセッツの彼を訪れる友人はとても少なくなっていました。その人たちはたぶん、ちょっとは(フルクサス)をやったかもしれませんが、外に出て雪の中で飛び回るとかそういったことを。しかし、ヒギンズとノウルズでさえも、その当時にはだれもフルクサスのパフォーマンスをしなくなったのです。それでフルクサスは完全に死んだのです。ジョージ・マチューナスの死によって、フルクサスはジョージとともに死んだのだと彼らは言います。しかし、それはもっと前に終わっていたのです。なぜなら、ほとんどの人たちがジョージ・マチューナスとは関わりがなくなって、そして彼の後にはフルクサスをする人はだれもいなかったのです。こうしたアートの世界が始まったのはそれから10年後でした。フルクサスを収集して、「これはフルクサスだ」と言いだして、そして「これがフルクサスのアーティストです、ナム・ジュン・パイクはフルクサス、アリソン・ノウルズもフルクサス」と言いだしました。ナム・ジュンのように大きな成功をしたアーティストを取り上げ始めたのです。

ですから、商業的に成功したアーティストを選び、フルクサスというレッテルを貼ったのです。そしてアートの世界の商品になっていったのです。もしあなたがフルクサスだったら、フルクサスに入っていたとしたら、同じようなことがあったと。私の最初の展覧会はボーフム(ドイツの都市)のインゲ・ベッカー(Inge Baecker)ギャラリーでの《メタル・メディテーションズMetal Meditations》で、そして彼女(インゲ・ベッカー)は私を 「フルクサス・アーティスト Fluxkünstler」として紹介しました。私は「インゲ、私がやっていること はフルクサスではないんです…」と言いました。 その当時、私はまだフルクサスの商売マシーンがすでに動き出していたことに気がついていませんでした。そして彼女は私をいまでも“Fluxkünstler”として紹介します- “der Fluxkünstler” 「ミスター・フルクサス、フィリップ・コーナー」と、それで、私は「OK」と、とうとうディック・ヒギンズが言っていた「それに抗うことができない、ただ、抵抗はできない」という境地に達したのです。そして何年も、何年も、何年も、「君はこのことについて何か書くべきである、そしてこういったことを修正すべきだ」とディックが言い続けてきたことで、ついに私はこのことについていくつか記事を書いて、それらは出版されました。それは、《イタリアのフルクサス Fluxus In Italia》(2012)という本にも収録されていて、そして、フルクサスとは我々である!と書いています。ええ、そうです。わたしは「これはすべて間違いであると、アートの世界だけで(言っている)ことなのだ」と言うためにこれを書いたのです。ヴィースバーデンで生まれたフルクサスのことを、フルクサスはヴィースバーデンで生まれたわけではなかったのです。

たぶん、あれは1961年でした。ジョージはすでにフルクサス、フルクサス、フルクサスを企画していました。しかし、あれは名前だけでした。ヴィースバーデンのフルクサス・アーティストと言われるすべての人たちは。私たちはこの作品を3−4年前にやっていました。ヨーコとジョージ・ブレクトとディックとアリソン、そして1960年代の初期からは、私自身も(参加しました)。これらはすべて…ジョージは単にそれを一緒にまとめただけでした。そして実際、これは売り出しのためのラベルだったのです。先ほどあなたが言ったように、異なる作品を見ましたね。私にはジェフリー・ヘンドリックがヴォルフ・フォステルとか、ええっと、もしくはトイレットペーパーを木の上に投げつけるという(作品の) アル・ハンセンや、または私自身と関係があるとは想像ができません。私がたくさんのことを、ミニマルやノイズやそういったすべてのことをしていたとしても。しかし、それから、この男シルヴァーマン、彼はこの(フルクサスの)コレクションを所有していますが、彼らは「シルヴァーマンがマーケットを壊した、彼はすべてを買い上げてしまった」と言います。ええ、その通りです。靉嘔の10のフィンガーボックスはシルヴァーマンのコレクションにありますし、彼がすべてを持っているのです。他の人が買えるものはなにも残っていません。彼と最初に会った時に、「あなたのフルクサスの作品はありますか?」私に聞いてきました。「フルクサスの作品とはなんですか?」と私は彼に言いました。「フルクサスの作品とは何でしょう?あなたは私の作品に関心があるのか、無いのか、どうなのですか?」と。それで何年もの間、彼のコレクションに私の作品はなかったのですが、それから、彼の(コレクションの)キュレーターのジョン・ヘンドリックスが、彼はより開けた態度だったので、私に作品について依頼をしてくるようになり、そして私のかなりの数の作品が、今はシルヴァーマンのコレクションに入っていて、それは今 MoMA (ニューヨーク近代美術館)にあります。

私のことをフルクサスと呼ぶ人たちがいますが、その最初の人はフランチェスコ・コンツ(1935-2010)です。なぜ私がイタリアに住むようなったかということについては、おそらく、彼が私の仕事に関心を持ってくれた最初の人で、そして戻ってきて、私たちは他のエディションをつくりました。それで、私は次の年にイタリアに戻って、ロザンナ・キエッシと会って、そして彼はエディションをつくって、パフォーマンスをしました。私にはイタリアで私の作品に関心を持ってくれる人たちとのネットワークがすでにあったのです。ニューヨークでは、ガムランでやっていたことを除いて、誰も関心を持ってくれませんでしたが。こういったことから…それで彼らはこれをフルクサスと呼んだのです。ですから、フランチェスコ・コンツでさえも、彼はただフルクサスではなく「ヴィーナー・アクトニスムス」そしてフランス語では「ヌーヴォー・レアリスム」の人でした。彼はこういった功績をあげましたが、しかし私はいまだに「フルクサス」なのです。これはまるですべてをフルクサスだと言う人たちがいて、そのように指示されているみたいで、しかし、ついに私は彼にこのことを伝えたのです、そして彼はフルクサスについてなにかよい定義を教えてくれと言いました。それで、私は「じゃあ、ただ何でもよいものすべてを受け入れて、これをフルクサスと呼ぼう」と。これは、もちろんフルクサスの終わりを意味しますが。それで、彼はそれを気に入ってくれました。しかし、私は、以前フルクサスだった人たちの幾人かとは、とてもとても良い友人で、よい友人関係を続けています。幾人かは個人的にはまったく知りません。幾人かの仕事を私はとても尊敬しています、そして、幾人かはくだらないことをしている。ですから、これはそういったすべてのことであり、そして、もしそれらをすべて一緒にするというのであれば、家族のようなものといえるでしょうか。私たちはある意味、全員のことを互いに知っていますが、それはフェスティヴァルを企画する人たちが私たちを招待してくれるからで、私たちはそれで再会をすることができるのです。これはある意味では、ある種の…

ガリアーノ:帰属ですね。

コーナー:ある種の共有の..あるスタイルであると。スタイルというのはなくて、そこにはムーブメントさえもなかったですし、最も適した言い方は、他にないくらい、とても反動的だったと。もしくは…とても…彼らがケルンで、60年と70年、いえ92年にケルンで行なった「フルクサス・ウィルス Fluxus Virus」について、あなたには決して何だったかということは理解できないでしょう。彼らはそこにシュトックハウゼンを入れたのです、シュトックハウゼンのスコアを使った。もしシュトックハウゼンがフルクサスなら、ベートヴェンだってそうです!ですから、これは….

柿沼:しかし、一部の人はフルクサスは今も続いていると...

コーナー:ええ、しかしそれはどういう意味があるのでしょうか。私は今も生きていますし、ある種の閃きがあります。これは、ある人に...『ワイヤー』誌のインタヴューで同じようなことを聞かれました。「フルクサスは今でも残っているのですか?」、「誰がフルクサスなのですか?」そういったことや、ほかのことなど、私はフルクサスに関すること、つまり「フルクサスは何か?フルクサスではないのは何か、フルクサスの作品とそうでないものは何か?私のガムランの作品はフルクサスではないのか」という類の質問にとてもうんざりしていると言いました。「もし、私がピアノを押したら、それはフルクサスである。しかし私がキーボードを演奏したら、それはフルクサスではない。そして、私が、わかりませんが、ナッツを割ったり、桃の種をコラージュしたりしたら、それはフルクサスだ」と。私はそういったことにだんだん疲れて、うんざりしてきたので、私の作品を一連の継続であると考えました。そして私の何かがフルクサスならば、全てがそうであると。それで突然に思い至ったのです「私のことを彼らが考えるフルクサスとは違うと除外することに対して感情的になる代わりに、私はフルクサスを拡張しているのだと、そういうように言えばいいのだと、それで私は、すべてフルクサスだ!」と。ですから、今は精神的には穏やかになりました。だから、もしフルクサスがいまでも続いているのであれば、私は「彼らに祝福を」と言いたい。もし誰か—若い人が、自身をフルクサスであると、東のフルクサス、若いフルクサスとか、なんでも彼らが言いたいように名付けているのであれば、彼らに安らぎがありますようにと。それで、おかしなことに、どのフルクサスのアーティストも「私はフルクサスです」とは表だって言わないのです。多分、ベン・ヴォーチェ以外は。いつも、誰か入ってこようとする人がいて、それでおそらく、それでいまは高級なフルクサスを作ろうとする人たちがいて、オンラインでボックスを買えるとか ——それで、彼らは高価なものをつくり、彼らがやっていることはまったくフルクサスの美学に反しています。パンクが流行った時に、彼らは洗濯バサミをイヤリングにしましたが、それに似ています。覚えていますか?そしてそれが受けると、今度はゴールドになった。洗濯バサミにゴールドを被せたイヤリングなんかです。フルクサスに起こったことに似ています。「さあ、私もフルクサスをやっています」と言って、それを売るんです。だから私たちはそういうのを気にはしません。私はそういうことは気にかけない。かけません。この言葉を二度と聞かないとしても、私は気にしません。

ガリアーノ:オーケー、これ以上に良い話の終わりを考えられないですね。

コーナー:これで十分だといいのですが、日本で役に立つような話だといいのですが...

柿沼:はい、そう思います。エリック・アンデルセンに「あなたにとってフルクサスとは何か?」と聞きました。彼は「ネットワークだ」と言いました。インターネットができる前、人々はフルクサスを通して繋がっていたのだと、だからネットワークだと。

コーナー:ええ、ここから始まっています。私が...、私のフルクサスについての定義ということですね?「私にとってフルクサスとは何か?」まず、すべてのタイプの実験的なそして反アカデミックな芸術作品を指して一般的に使われる用語、いいですか?2.大まかにいえば、短くシンプルな、ふつうは一人で行われ、しばしばファウンド・オブジェを伴う、風刺的なパフォーマンス。3.ある種の指示で、全面的に言葉による説明で書かれたスコア。4.ジョージ・マチューナスの支援によって展示、出版、構成された作品。5.その作品が「フルクサス」と明記されたフェスティヴァルや展覧会などで紹介されたアーティスト。6.自身のことをフルクサスであると宣言している人たち。これですべてです。

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