塩見允枝子 オーラル・ヒストリー

大阪府箕面市の塩見氏自宅にて
インタビュアー:柿沼敏江、竹内直

塩見允枝子(しおみ・みえこ 1938年~ )
作曲家
岡山県出身。東京芸術大学楽理科在学中に小杉武久らとともに「グループ音楽」を結成し、即興演奏を行なった。また独自のイヴェント作品にも取り組んだ。64年ニューヨークへ渡り、「フルクサス」に参加。イヴェント、インターメディア、パフォーマンス、作曲など多様な活動を行なっている。現在大阪府在住。「フルクサス」としての活動、音楽作品、また独自の「トランスメディア」の概念についてお話しいただいた。

Interview : 2014年12月1日 / 2014年12月2日

オーラル・ヒストリーのインタヴューということで、私、柿沼敏江と、芸術資源研究センター非常勤研究員の竹内直でお伺いいたします。よろしくお願いいたします。

塩見:こちらこそ。

柿沼:まず、若い頃のことから伺わせていただきますけれども、岡山県の玉島というところでお生まれになって。

塩見:岡山市です、生まれたのは。岡山市で生まれて、小学校の1年生の6月に空襲で家が焼けたので、それ以後は玉島。

柿沼:玉島に移られた。少し飛ばさせていただいて、藝大にお入りになった頃からをお伺いしたいのですけれども。アクション・ポエムとかアクション・ミュージックというものをおやりになったということなのですけれども、これは塩見さんご自身が名前をおつけになった。

塩見:いえいえ、アクション・ミュージックというのは一般的に通用していた言葉です、その当時の前衛的な音楽家たちの間では。アクション・ポエムというのは、私が岡山に帰って、一応「グループ・音楽」から離れて、自然を相手にその中で何かの行為をする、それはもうミュージックではないんですね。音は関係ない。その行為を、自分としてはある詩的な行為だと思っていたので、「アクション・ポエム」かなと。音だけにフォ−カスを合わせたアクション・ミュージックから、自然の中で何かを行うアクション・ポエムに移行していった訳です。

柿沼:その代表作として《ミラー・ピース》というのを挙げていらっしゃいますけれども。

塩見:そうですね。《ミラー・ピース》というのは一番最初に書いた作品なんです。パイク(白南準 ナム・ジュン・パイク Nam June Paik, 1932~2006)にも、「アクション・ポエムといってこんな作品書いています」というようなことを初めてお会いしたときにお話ししたんですね。

柿沼:そうしたら「送ってください」と言われて。

塩見:はい、そうです。

柿沼:それで送られたのはどの作品なんですか。

塩見:《ミラー・ピース》です。インストラクションは詳しくは話しませんでしたが、「見たいから、まずは僕のところに送ってください。僕が読んだ後で、僕からマチューナス(ジョージ・マチューナス George Maciunas, 1931~1978)に送ります」と。そのとき、《エンドレス・ボックス》についてもお話したんですね。私は、音楽をつきつめて考えているうちにだんだんコンセプチュアルになって、音の要素が抜けていって、「持続を感じること自体が音楽だ」みたいになっちゃって、それだったらなにも音じゃなくても視覚的なものでもいいんじゃないかと。だから減衰していくヴィジュアルなものということで、「ヴィジュアルなディミヌエンドとして、こんな箱を作ってるんです」と言ったら、パイクはカーッと笑うというか、ビックリしたような顔をして、「ああ、あなたはまさにフルクサスだ!」と。「えっ、フルクサスって何ですか?」っていうと、「『音楽芸術』の座談会でこのあいだ何人かと話をしましたので、それが何月号かに載りますからぜひ読んでください。フルクサスの連中も箱なんか作ってますしね」というふうに言われて、「へーっ」と思ったんですね。「マチューナスという人に送ってあげてください」と言われても、「マチューナスってどんな人ですか」という感じで。パイクにもその時初めて紹介されたんですね。当時は岡山に帰っていましたので、何か催し物があるたびに行ったり来たりしていたんですが、パイクもフルクサスもマチューナスも初めての単語だったの。でも、それが突然コネクトしちゃったわけね。

柿沼:それは藝大を出て、あとの話ですか。

塩見:あとです。専攻科が終わってから、62年に岡山に帰って、63年のことですね。63年の夏。「ニュー・ディレクション(第二回演奏会)」というコンサートだったと思うんだけれど。

柿沼:そのときにパイクに会われたということですね。

塩見:そうです。

柿沼:すいません、時間が前後してしまって申し訳ないのですが、藝大時代のことを少しお伺いしたいのですけれども。ピアノの先生は宅孝二(1904~1983)さんだったということで、どのようなレッスンをされていたのでしょうか。

塩見:宅先生って、ほんとに藝大の教授としては変わっていた存在だと思いますね。第一めったに来ないんです。

柿沼:学校に。

塩見:その頃、映画音楽なんかを作曲してらしたのね。生徒に教えたりするようなことはあんまりお好きじゃなかったんじゃないかと思うの。宅先生はお休みが多いから、そのときは黒沢愛子先生という別の先生にレッスンを受けていて、「今日は宅さん来てるわよ」と言われたら、宅先生のところへ行くのね。なにしろ細かいことなんかおっしゃる方じゃなくて、指使いを直すとか、ここはもっとクレッシェンドしろとか、そういう下世話なレッスンではなくて。すごく印象に残っているのは、ラヴェルの何かの曲を弾いたのね。そしたら先生が聴いていらして、「ラヴェルはそんな音色で弾いたらだめだ、音色が重すぎる」。こんなふうに(手指を空中でヒラヒラさせて)、「ラヴェルは、もっと繊細で、透明で、キラキラした音で弾かなきゃだめなんだ」とおっしゃるのよね。その先生のジェスチャーとか表情を見てて、「ああ、そうか」と思って、なんとなくそのつもりになって弾いたら、もう全然違う音楽になって。先生も「そうだ、できるじゃないか。それでいいんだ」というような感じで。そういうかなりレッスンとしてはレベルが高いといえば高いレッスンでしたね。
そのあとはすぐ雑談になっちゃうの。日本の音楽界の体制やピアノの先生方、沢山の教授がいますよね、そういう人たちへの批判みたいなことを盛んにおっしゃっていて。反体制派もいいところで、とにかく自由児というかね、もう異端児でしたね。影響を受けているかもしれない(笑)。素敵だなと思ったもの、そのとき。彼はコルトー(アルフレッド・ドニ・コルトー Alfred Denis Cortot,1877~1962)の弟子なのよ。パリでコルトーに付いて。練習しすぎて指をだめにしちゃったんだって。ひょっとしたら局所性ジストニアかなとも思うんだけど、それは分からない。単なる筋肉的な障害だったかもしれないし。でもある程度治って、日本にお帰りになってからリサイタルも開かれたんですけど、彼のコンサートを聴きに行ったある人から聞くと、かなり酷評でしたね。

柿沼:作曲のほうは長谷川良夫(1907~1981)先生。

塩見:そう。長谷川先生はね、大学3年のときに対位法の授業を受けていたんですね、それは全員が必須として。彼は作曲科の先生で、作曲科の人たちのアナリーゼのような授業にも、水野(修孝、1934~)さんと一緒に「聴講させてください」とお願いして、後ろの方に座って先生の授業を聴かせていただいたりしていたの。そんなことで少し親しくなったので、「自分で勝手に曲を書いてるんですけど、見ていただけませんか」ということで、何曲か書いたものを見ていただいたんです。

柿沼:じゃあその頃から作曲をやりたいと思っていらっしゃった。

塩見:私はもう高校時代に作曲をやりたいと思ってた。

柿沼:楽理科に入られたのに、実は作曲をやりたかったということ。

塩見:そうなんです。なぜかというとね、私、小学校のときは母の影響ですごく歌が好きだったの。歌手になろうかなと思ってたんだけど、中学校に入ってからピアノがすごく好きになって。だけどうちに楽器がない。当時は普通の家庭にピアノがあるような時代じゃなかったですからね。うちも焼け出されて親戚に身を寄せているような状態で。親戚の家にはオルガンがあったから勝手に弾かせてもらってはいたけれど。で、小学校の4年生ぐらいからピアノを始めたものの、高校に入った頃には自分の実力の限界が分かって。それにピアニストなんてそれこそ日本中に(溢れ返るほどいる)、でも女の作曲家って少ないんじゃないか、音楽を一から作るというのはもっともっと素敵なことじゃないかって、作曲にすごい魅力を感じ始めたの。(自分の限界も分からないからね)。で、勝手にちょっとしたものを書いて、友だちに「ねえ、ねえ、これ誰の曲だと思う?」って弾いてね。「ショパン?」「違う」、「シューマン?」「違う」、「えっ、誰?」って。その友だち、親友だった彼女もピアノやってたんだけど、「ひょっとしてあなたの?」って言われて、「そうよ」と言ったらとたんに顔色変わっちゃって。それはほんとにつまらない、ロマン派の模倣みたいな曲だったんですけどね。
でも作曲科なんかには絶対に入れなかったの。というのは、(作曲科の受験科目である)和声学も対位法も、教えてくれる先生が岡山県中探してもいないのよ。だから藝大に入るためには楽理科しかなかったのね。一次が英語でしょ。(二次の)ピアノはそこそこのレベルでしょ。(三次は作文とか学科試験)。もちろん聴音、ソルフェージュ、いろいろあるけれども、これは絶対不可能だなというような科目は入学試験になかったので、楽理科ならひょっとしたら、という感じでね。入っちゃえばほら、もうこっちのものだから。作曲の先生だっていっぱいいるだろうし、誰かにお願いして作曲を習うこともできるしというので、楽理科は踏み台だったわけ、申し訳ないけれど(笑)。

柿沼:小杉(武久、1938~)さんなんかもそういう感じだったのでしょうか。

塩見:小杉さんはどうなんだろうねえ……聞いたことはないけど。水野さんなんかも明らかに作曲家志望でね。でも楽理科は、ピアノ科くずれというか、作曲科くずれというか、くずれというのは、そこには(実力的に)届かない人たちが「あの楽理科にだったら何とか入れて、そこから自分の道を見つけていくことができる」という、ありがた〜い科だったの(笑)。

柿沼:今でもそうですけどね(笑)。

塩見:だから私、卒論は一生懸命書いて専攻科には残せてもらえたんだけど、修了論文は書かなかった。書かないでドロンしちゃったの。最初から論文なんて書く気はなくて、つまり研究者になる気持ちはなかったんですよ。実践のほうがしたかった。

柿沼:1年で終わったというのは、1年でドロップアウトしたということですか。

塩見:いや、専攻科は1年だけなの、制度として。

柿沼:大学院ができる前なので、1年だけのコースということですね。

塩見:そうです。それもサービスみたいな形で。柴田(南雄、1916~1996)先生から、「僕たちは何もしてあげられないんだよ、こんな科に残ったところで」と言われたんだけど、その頃、教室がほしかった。つまり楽器係から楽器を借りてきてみんなで即興演奏するための教室、それから練習するためのピアノが。それに図書館は自由に使えるし、学割は利くしという、そういう非常に申し訳ない、失礼な目的でもって専攻科に残ったの。

柿沼:たしか柴田先生とはヴェーベルン(アントン・フォン・ヴェーベルン Anton von Webern, 1883~1945)の研究ということで、卒論をお書きになったんですね。

塩見:4年生のときね。そうです。

柿沼:その指導というのはいかがでしたか。

塩見:それはもう厳密にアナライズして行って、先生にそれを見て頂くと、いろんな助言をくださって。「こんな曲もあるから、こういうのも見たらどうですか」とか、それからヒルデガルト・ヨーネの詞がある歌曲が多いので、あるドイツ人の宣教師を紹介して下さって、「この人のところに行ってこの種のことをもっと深く勉強しなさい」と言われて、訪ねて行ったこともありましたね。ほんとに卒論を目的とした指導でした。

柿沼:ヴェーベルンの音楽そのものにも魅力を感じていらした。

塩見:そう。私は昔からなにしろ長ったらしいベートーヴェンのソナタよりも、ショパンのプレリュードみたいな、1ページぐらいの、短く凝縮されていて、聴いた後もそれが結晶として心の中に残るみたいな、そういう曲のほうが断然好きだったの。だからヴェーベルンの短さと寡黙さというか、それに惹かれて。ちょうど都合のいいことに、その年に2枚組のレコードとして彼の全集が出たんですよ。スコアはヤマハに行けば結構たくさんあったし。卒論を書く材料として音源がないと非常に書きにくいでしょ。それがすぐ手に入った。文献は探せばいろいろある、ドイツ語でしたけどね。そんなこんなで卒論を書くための資料が揃っていたということも一つの理由でしたね。

柿沼:ヴェーベルンの音楽はご自分の作品に影響を与えているというふうにお考えでしょうか。

塩見:いやー、それはどうかなあ(笑)。私の音楽は結構饒舌なの。長さはそんなに長くないんだけれど、華麗な響きが好きでね。だから逆ですね、ヴェーベルンの寡黙さと点描的なところとは。

柿沼:ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young, 1935~)なんかはヴェーベルンに影響を受けてああいう作風になったので、そのへんはフルクサスの人たちの共通点なのかなとも思ったのですけれども。

塩見:でも、影響というのは自分では自覚できない部分があるでしょ。意識的に何か模倣したとかいうのだったら分かるけれども。

柿沼:スタイルの模倣ではなくて、例えば凝縮された、純粋な表現みたいなところで言うと、ひょっとして共通点があるのかなとも思うのですが。

塩見:共通点なんて、そんなおこがましいことは申せませんけれど(笑)、それは一つの理想でしたね。あの洗練された、無駄のないところ。

柿沼:無駄のない抽象化された表現というと。

塩見:そう、抽象化された表現というと、私、自分の心情吐露みたいな情緒的な音楽って好きじゃないのね。むしろ音自体が、突然空間でひとりでに結晶してできたような音楽・・・・ああ、いいことを気付かせてくださった。そう、そういう意味では、たぶんほんとの影響というのはやっぱり意識できないものかもしれないわね。・・・・・そういう意味では、そうですね。私は(硬質で)乾いた音楽が好き。

柿沼:ピュアな表現みたいな。

塩見:ピュアな表現。表現主義的ではない、(自律して)明るく輝いているような音とかね。

柿沼:ああ、よかった。面白いお話を伺いました。それで62年、先ほどのことにつながりますが、岡山にお帰りになって、3月にソロリサイタルというのを岡山県総合文化センターでされているということなのですが。

塩見:そうなんです。おぼろげに覚えていたのですが、そのときのプログラムがここにあるの。

竹内:写真を撮らせていただいてもよろしいですか。

塩見:どうぞ。これは、今まで自分が勉強してきたことの集大成みたいなものだったんですね。よく帰郷リサイタルとか帰朝リサイタルなんてやりますでしょ。その流れでもって、岡山へ帰ったのだから今まで5年間東京で勉強してきたことの成果を問う、みたいな感じでね。

柿沼:これはあまり作品表に載っていませんね。《回転》は載っていますが。

塩見:だってこんなの、私やった上で捨てた曲だから。

柿沼:そうなんですか。正式に今では認めてない曲ですか。

塩見:認めてない。みんな失敗したと思ってる。

柿沼:《回転》というのは作品表に入っていました。《レボリューション》でしたかしら。

塩見:入ってたっけ。

柿沼:この《回転》、ミュージック・コンクレートの。それは入っていたと思います、いただいた作品表に。

塩見:ありましたかね。ああ、それは川崎(弘二、970~)さんが、あの方は電子音楽をやっていらっしゃるから、電子音楽を、「広い意味でテープ音楽なんかも電子音楽と言う」というふうにおっしゃったので、それであえて入れたんですね。ですからこれは大失敗の作で。

柿沼:いえいえ。

塩見:つまり、私のこのイメージも難しいんだけれど…… 例えばイヴ・クライン(Yves Klein, 1928~1962)の青。「青い円盤を回すと、それはもう青ではなくて、青が輝き出るようだった」というような文章を『美術手帖』か何かの記事で読んだんですね。私の中では、青い色が青い光にトランスフォームするように見えた、というイメージがすごく強烈に残ってね。じゃあ音は何になればいいんだろうと。音にはそれぞれ音の肉体性というか、肉感みたいなものがあるでしょ。ヴァイオリンの音は弦のきしる音、ピアノはカーンというような(打撃音)、それから人の肉声とか、クルマのズーンという(重量感のある)音とか・・・・。色と言ってもいいけれども、それぞれの個性を持って迫ってくるものがある。たくさんのそういう違った音が、ものすごくめまぐるしく現れては消え、現れては消えすると、その時間の経過だけが聞こえて、そして(音の肉質)みたいなものが薄れていく、そんな音楽を実現できないかって。それはもう究極の音楽なんですよ、イメージの中では。
それでとにかくいろんな音を録音しては2~3㎝の長さに切って、音色ごとに分類して、そのつなげ方は乱数表を作って決めて。4トラックのテープレコーダーがありましたから、それをトラック1と3に入れて再生すると同時にそれが出てくる。そういうのを何本か作って、2チャンネルで、全部で4つだったか8つだったかの、つぎはぎだらけのテープの音がワッと聞こえてくるように(編集したのね)。それで聴覚的にそういう現象が起こるかなと思って、楽しみにしていたんだけれど、音色の変わり目、つまりテープの切れ目で――ものすごく斜めに切ったんですよ、2つの音色が自然に変わるように。それにもかかわらず――音色が変化するときの衝撃が一種のリズムになって聞こえちゃうのね。それで、イメージしていたような、色が光に変わっていくような現象は起こらなくて、(音は昇華するどころか)雑多なやかましい音だけだったという(笑)、これはもう大失敗の音楽で・・・・・。
今みたいにコンピューターでフェイドイン、フェイドアウトで上手に作れば、ひょっとしたらそれに近いような、例えばソプラノの声なら声がそれとして認識されるかどうかの瞬間にほかの音色にとってかわられるというようなことをやれば、できるんじゃないかなと思うけれども。でも、そんな音楽を聴いてたら、聴神経がイカレちゃうかもしれないし(笑)。これは危険な音楽だなと、イメージだけにしておいた方がいいなとか思って、それ以来全然チャレンジしていませんけどね。

柿沼:今やろうと思えばできますよね。

塩見:できると思いますよ(笑)。

柿沼:おやりになるつもりはない。

塩見:ありません、ありません。第一、音だけにこだわってはいないもの、今は。

柿沼:そのときにヴァイオリンを吊す《晩い午後のイヴェント》というのがありますね。このときにおやりになったのですか、岡山の文化センターの屋根から。

塩見:いや、同時ではないですね。

柿沼:別のときですか。

塩見:別のときです。平田実さんという方が写真を撮ってくださったのね。

柿沼:これですね。

塩見:ええ、それです。

柿沼:これ塩見さんですか。

塩見:そうです、私です。3階のピロティからヴァイオリンをぶら下げて、彼は地上にいて、そこから写真を撮ってくださったのね。これはニューヨークへ行く直前だったか、帰った直後だったかがちょっと思い出せないんですけど。

柿沼:64年の作品になっていまして、岡山市総合文化センター屋上からとなっています。写真が平田さんという方になっています。

塩見:じゃあ帰ってすぐなんでしょうね。ただ、作品は63年のものです。

柿沼:63年でしたか。パフォーマンスは帰ってから、64年にやったということですね。

塩見:そうです。先ほどのご質問で、アクション・ポエムというのは《ミラー・ピース》だけかと言われましたけれども、私はパイクにはアクション・ポエムと言ったけれども、その後で「イヴェント」という言葉をニューヨークの人たちは使っていると知って、聞いてみるとやっていることが非常に似ている。じゃあ私もその「イヴェント」という言葉を使ったほうがコミュニケーションの上でいいかなと思って、それ以後、何とかイヴェントとか、何とかミュージックとか、いわゆるイヴェントのスコアはそういう表記に統一しました。

柿沼:63年に《バウンダリー・ミュージック》という作品をお書きになっていますが、これはどこかで演奏されたのでしょうか。非常にコンセプチュアルな作品だと思いますけれども、何をお考えになって作られたのでしょうか。

塩見:つまりね、音についていろいろ考えているときだったので、音が音として生まれるか生まれないかの状態にまで自分が出している音をかすかにするという、音の存在を聴覚的に確かめるための作品なんです。これは2012年、東京都現代美術館で「(塩見允枝子)トーク&パフォーマンス」という、レクチャーとパフォーマンスをやったのですが、そのときに何人かのパフォーマーの人たちにこれを演奏してもらいました。ただね、自分の耳にその音が音として聞こえるかどうかの境目まで小さくするというと、非常に小さな音で、これを例えば何百人というお客さまがいるホールでやるとまったく聞こえないわけです。そのへんのことを考えて、お客さまにとって、それも前列と最後列では違いますけど、何か音が誕生しているのだろうか、どうだろうか、というような状態にまで自分の出している音をかすかにしてほしいというインストラクションで、皆さん非常にかすかな音で演奏してくださいましたね。

柿沼:それは12年のときですか。

塩見:12年のとき。

柿沼:じゃあ初演というのはどのような形で、いつ、どこでされて。63年……

塩見:これはね、初演といっても、いわゆるDO IT YOUESELFの作品ですから、私はプライベートに自分一人でよくやってましたね。ピアノや、当時自分が持っていたヴァイオリンとかギターとかの楽器を使ってね。このあいだ、どこの国だったか、海外の人たちのアンサンブルから、この《バウンダリー・ミュージック》の演奏をCDにしたいんだけど許可してくれるか、みたいな(メールを貰いましたね)。そうそう、(デモ用の)CDも送ってきてくれたかな。

柿沼:『芸術倶楽部』に載った文章にそのことを、DO IT YOUESELFのことをお書きになっていらっしゃって、「音を超える音楽的想念の軌跡」ということで。パイクのDO IT YOUESELFやオノ・ヨーコさんの鐘の曲とともに《シャドウ・ピース》ということでお書きになっていらっしゃるのですけれども。自分で行うための音楽ということで。

塩見:そうそう、「シャドウ・ピース」。ほら今そこに、壁に光が当たっているでしょ。その光と影の境界線が私大好きなんですね。《シャドウ・ピース2》(1964)のインストラクションはこうなんです。「このカードの裏側に影を作ること。影の部分と光の当たっている部分との境界線を見つめること。境界線の中に入り込むこと」というんですが、これを英訳するときに「creep into」と書いたら、マチューナスに「これは難しい表現だ、英語としては意味を成さない」と言われて。(彼は、become a boundary lineと訳してくれたんだけど、これも私にはピンとこないの。本当は、境界線を地平線のように感じて、イメージの中でその間に広がる異次元の空間に彷徨い出せ、っていう意味なんだけれど・・・・)

柿沼:そうすると、ここに書いてある《シャドウ・ピース》と違うんですか。路上、壁、床……

塩見:それは《シャドウ・ピース1》のほう。

柿沼:これは1ですね。2のほう、「このカードの裏側に影を作ること。影の部分と光の当たっている部分との境界線を見つめること。境界線の中に入り込むこと」、これは《シャドウ・ピース》なんですけれども、《バウンダリー・ミュージック》というのは、音でそれを。

塩見:音でというか、それは全然別の曲ですね。シャドウはシャドウをテーマにした作品で、バウンダリー・ミュージックというのは音を。

柿沼:限界まで小さくして演奏する。

塩見:そうそう、そうです。音として生まれるか、生まれないかという。

柿沼:それを自分でやって自分で体験していらっしゃったわけですね。それって自分でしか分からない、聴衆がいない、そういう境界があって、閉じこもっちゃうわけですけれども、それについてはどのようにお考えになっていらっしゃる……

塩見:That’s a good question.(笑) ニューヨークにいるとき、そういうふうに自分の作品がどんどん袋小路に入ってしまうということに対して、これではいけないと思い始めて、コミュニケーションに対する欲求が生まれてきたんです。でも、DO IT YOUESELFのこの性格は捨てたくなかったので、それを保ちながら多くの人々とコミュニケートすることはできないか、というので《スペイシャル・ポエム》の手法を思いついたわけです。DO IT YOUESELFなんだけれども、地球を舞台と考えて、うんと離れたところにいる人々同士の間で同じイヴェントをそれぞれの解釈で行なっていただいて、それについての報告を送っていただき、それを編集して送り返せば皆とのコミュニケーションもとれるし、知らない人同士の間でも誰がどんなことやったかというのが分かるしね。これはいいアイデアだと思って、それでマチューナスの所へすぐ飛んで行って、「私、こういうことしたいんだけど」と言ったら、「That’s a good idea!」って、「こういう人たちにインヴィテーションを送ってあげなさい」といってフルクサスのメイリング・リストをくださったんです。

柿沼:それが100人ぐらいですか。

塩見:そうそう、それぐらいでしたね。だいたい100人ぐらい。

柿沼:まさにフルクサス的な作品だと思うんですよ。とてもグローバルに展開できるし、場所を選ばない。

塩見:そうです。だからみんながそれぞれの日常の中で行なえるんですね。例えば2番目の《方向のイヴェント》は、同一の瞬間にあなたはどちらの方向を向いてましたか、あるいは向かって動いていましたか、(と訊ねたんです)。もちろん時差を計算して表にして送りましたけれども、その方向の解釈というのは自由なんですね。それは、地球からちょっと離れたサテライトあたりから、パッとスナップ写真を一斉に撮ったようなもので。こちらの国は夜で、あちらは朝。そして皆はそれぞれ何かの方向を向いていたという、その報告を集めて。

柿沼:それを地図にしてみたという。

塩見:あれはマチューナスがデザインしてくださったんです。

柿沼:最初、新聞にすると言ったんですか?

塩見:いえ、最初の《ことばのイヴェント》はね、70人以上の方からお返事をいただいて、場所についての説明も少し長いし、これを全部(1枚の紙に印刷するのは)ちょっとスペース的に無理だと思ったものですから、旗にして片面に言葉、その裏に場所を書いて、地図の上にピンで突き立てるようにしたらいいなと。オブジェクトとしてもそのほうが面白いしね。カードはマチューナスが印刷してくれたんだけど、旗を作るの全部自分でやりました。6,000枚ぐらい。

柿沼:えっ!

塩見:皆さんに送り返さなきゃいけないから。主な人にも作って送らなくちゃいけないからというので、すごい量の旗を。

柿沼:全部で6,000枚を刺されて。

塩見:刺すのではなく、糊付けして。おかげでシンナー中毒になっちゃった(笑)。つまり、マチューナスがくれた大きな缶の糊は、だんだんねば〜く、ねば〜くなっていくんですよ。次第に濃くなって塗りにくくなるの。「シンナーで薄めなさい」って、シンナーの缶もくれたのね。小さな容器に糊を入れてシンナーで少しずつ薄めて、適当な粘度を保ちながら塗ってたんですけど、もう部屋はシンナーの匂いだらけ。シンナーが有毒だって何も知らなかったものだから。

柿沼:完全にシンナー中毒ですね、それ。

塩見:だから日本に帰ったとき、呼吸器がちょっとおかしくなってたんでしょうね、呼吸が苦しくて、空気を吸ってるのに空気と水の中間の物質を吸ってるような、とても重い感じで、しばらくはつらかったですね。まあべつに何も処置しないまま、いつの間にか治りましたけどね。

柿沼:分かりました。ではちょっと戻らせていただきまして。行く前だと思うのですが、63年の夏に「ニュー・ディレクション」のコンサートを行われて、そのときにパイクに会われた。

塩見:私は聴きに行っただけね。

柿沼:その同じ年に、「パフォーマンスフェスティヴァルSweet16」というのをおやりになって。

塩見:そういうの、ありましたね。

柿沼:プラカードを掲げて舞台に登場されたというふうに書いてあったのですけれども。

塩見:プラカードじゃなくてね、そのときにやったのは(こういう事なの)。一瞬にしてホールを満たすものというと、音か光しかないわけでしょ。音を出したり、光でいろんなパフォーマンスをやることもできるけれども、一番シンプルなのは「be absent」、不在になることですよね。プラカードじゃなくて、「be absent」と書いた紙を、ステージから床へ下りる垂直の部分に両面接着テープで貼って、私はホールを出ていったの。つまり「私が不在になる」ということは、そのホールを一瞬にして「私の不在」という状況で満たすから。

柿沼:それは、塩見さんが不在になるという意味。

塩見:そうそう、私が。

柿沼:聴衆が、ではなくて。

塩見:ちがう、ちがう。(聴衆にそれを要求するほど大胆にはなれなかった)。だから自分自身を不在にしたの。

柿沼:それは「Event for Jean-Jacques Lebel」というタイトルだったというのを読んだのですけれども。

塩見:Jean-Jacques Lebel(ジャン=ジャック・ルベル)が何かインパクトのあることをしたというのを美術雑誌の記事で読んで。会ったこともないし、何をしたのか今はもう全然思い出せないんだけれども、「Jean-Jacques Lebel氏へ贈るイヴェント」という、一種のエールのつもりで。だけど今ではほんとに思い出せないんですよ。彼が何をしたのか……

柿沼:Jean-Jacques Lebelという人はフランスで初めてハプニングをやった人だそうなのですけれども、かなり政治的な意味合いをこめてやっていらっしゃったようです。それにたぶん共感されたということ……

塩見:(笑)その政治的なというのはちょっとよく分かりませんでしたけどね、何かこう非常に前衛的なことをやったということで。

柿沼:そのときにグループ音楽の人たちも参加されているんですよね。

塩見:と思いますけどねえ。

柿沼:グループ音楽のCDが出ていますね。あそこに年表があって、そこには書いてあるんですよ。ただ塩見さんが参加したということは書いてないんです。

塩見:ああ、そう。

柿沼:なので「漏れてるな」と思ったんですけど。小杉と水野と書いてあって、塩見が抜けているんですね。

塩見:たぶんそれを企画したときには、私は岡山にいてまだ行くかどうか分からなかったからじゃないかな? 「こんなことやるんだけど、出てこないか」って、よく電話や手紙をくれたりしたことがあるのね、刀根(康尚、1935~)さんとか小杉さんから。「じゃあ行くわ」って、ほんとに当日ふらっと出て行って。「何かやれ」って言うから、それだったら一番簡単なことをというので、そんな作品を思い付いて、飛び入りみたいなかたちで参加したからじゃないかと思いますね。

柿沼:じゃあ記録に残ってないんですね。

塩見:うんうん、べつにいいですよ(笑)。

柿沼:いやいや、そうじゃなくて。このアーカイヴというのは。

塩見:ああ、そうか、そう言っちゃだめなんだ(笑)。

柿沼:そういう記録と実際にどうなったのかということをお伺いしたいなと思って。逆にやるはずだったのにやらなくなったりというのがあったりしますので、実際にやったかどうかというのはすごく大事なことなんですよ。

塩見:そうですね。うん、飛び入りでやりました。それは覚えています。なぜかというと、後で武田(明倫、1938~2003)さんが――私は両面接着テープで貼って出ていったんだけど――「あれは何でくっつけたの?」って聞くのね。「あら、両面接着テープってものがあるのよ」って言ったら、「へーぇ」とか言ってね、彼はまだ知らなかったらしいの(笑)。それでよく覚えてるの。(そのときの紙は、1998年の「草月とその時代」という展覧会で芦屋市立美術博物館でも展示されたし、今もうちにありますよ)。

柿沼:分かりました、そういうことだったんですね。じゃあいよいよアメリカに行かれて、フルクサスに参加されたわけですけれども、『フルクサスとは何か』(フィルムアート社、2005年)というご著書の中で、フルクサスについて、「ハイアートに対抗し、アートと日常の壁を越え、『流れる』ことを目指す自由な表現となった」というふうにお書きになっていらっしゃいます。

塩見:そんなことを書きましたか。

柿沼:「自由」という言葉は当時よく使われていたものだったのでしょうか。自由というものはどのように当時お考えになっていたのでしょうか。

塩見:自由という言葉はよく使っていたように思いますね。だいたい青春時代、二十歳前後なんて、やっぱり自由っていうのはすごく大きな問題というかテーマでしょ。

柿沼:10代の拘束があって、それから解き放たれたいという気持ちがすごく強かったと。

塩見:それはもう伝統とアカデミズム、ヨーロッパ音楽を一生懸命勉強してきたことへの反動ですね。藝大も相当アカデミックな雰囲気で、とにかくそれに対する反発というか。一つにはヴェーベルンなんかを研究していて、結局、セリエールの音楽の方まで少し伸ばしちゃったんですね、研究対象を。だから音を要素にまで分解して、音列というか順番を作って、それを組み合わせて楽曲を構築していくというような非常に合理的なやり方に対して、私たちはこんなことはもうしたくないと。西洋のギリギリの合理主義の音楽までを勉強したがために、それに対する反発心が起きたんですね。それはもう日本人としての血なのか、私の個人的な、瀬戸内海で自然を満喫しながら、たくさんの田園の物音を聴きながら育った、そのルーツが反発したのかもしれないけれども、西洋音楽の伝統や自分で詰め込んだいろんな知識から解き放たれて、ほんとに「素の人間」になりたい、みたいな思いでした。自由というのは解き放たれることですよね。だけど解き放たれるだけじゃなくて、自分の目の前にこれから未知の道が開けてくるはずだと、その道を(予感し)信じて行動するそのエネルギーみたいな、意思のようなものを、たぶん私は「自由」と感じていたと思うんです。そういう意思やエネルギーに満ちてないと、自由というのはペションとしぼんでしまうわね。風船みたいにね。当時の自分は非常に精神的なエネルギーに満ちていたと思います。だから「自分は自由だ!」と思っていましたよ(笑)。

柿沼:そういう気持ちとフルクサスが結びついたということになるのでしょうか。

塩見:そうでしょうね。

柿沼: マチューナスなんですけれども、亡くなられているので、本当はインタヴューしたいのですけれども、できないので、どういう方だったのかというのを少しお伺いしたいと思うのですが。

塩見:そうねえ、一番言えることは、彼は非常に勉強家で、博識で、10年間いろんな大学を転々として建築とか(グラフィック・アートとか、音楽学とか)いろんなものを勉強していらしたのね。だから非常に芸術的な教養がある。ただ、子供の頃から体が弱くて、どっちかというと内向的で、みんなと一緒にスポーツやって遊ぶというようなタイプの少年ではなかったように聞いているんですね。

柿沼:音楽がとてもお詳しかった、お好きだったと。

塩見:ヴィタウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis, 1932~)、前リトアニア最高会議議長のランズベルギスさんは建築家になりたかった。で、ジョージは音楽家になりたかった。ところが差し違えてしまった、逆になっちゃった、ということを私はランズベルギスさんから直接聞きましたね。

柿沼:そうするとマチューナスさんは音楽の勉強もしていた。

塩見:そう、していた。

柿沼:なのに間違ってデザイナーになってしまった。

塩見:まあデザイナーだけじゃない、建築、ソーホーの改革をやりましたでしょ。建築家としてもちゃんとした腕を持っている。だけどデザインが一番印刷物として世界中に広まることができるから。建築は、そこへ行かないと見えないしね。まず非常に能力のある人だった。ただ、彼の性格としては、みんなも彼と同じ情熱、彼と同じフルクサスに対する考え方を持ってくれないと非常にいらだつんですね。で、かんしゃくを起こしたり、ケンカになったり。「彼は支配欲が強い」とよく言われるんだけれども、私、ほんとに支配欲の強い人というのは、政治家にしろ国王にしろ、自分が権力を持って人を支配すること自体に快感を覚える人種だと思うの。マチューナスは全然そうじゃなくて、むしろ人なつっこくて、人と仲良くしたいの。でも自分の言うことをきいてくれないとかんしゃくを起こすという、一種の幼児性?

柿沼:だだっ子のようなもんですね。

塩見:そうそう。幼児性が抜けてない。その証拠に、言い合いをしたあとに普通に接するとすごく喜んで、むしろ下手に出てきて機嫌をとろう、仲直りしようとする。彼は人恋しい人なんですよね。みんなと一緒にいて、フルクサスの理想にみんなも賛同してくれて一緒に活動したいという。ただそれがちょっとtoo muchだったんですね、作家にとってはね。

柿沼:給料の90%をフルクサスのために使っていたというのは本当なのでしょうか。

塩見:私はそう思います。それはもうね、缶詰だけしか食べないんですよ、パンと缶詰。

柿沼:それは節約した暮らしをして。

塩見:節約して。これは彼が言ってたらしいですよ、「自分の給料の90%ぐらいを僕はフルクサスの出版物に費やしてるんだ」って。週給200ドルその当時もらっていたと言ってましたね。だから月800ドルというと結構いいんですよね。学校の先生が月収500ドルと言ってましたから、800ドルだったら、まあ、そんなに特別にいいこともないけれど。

柿沼:じゃあ700ドル以上をフルクサスのために費やしていた。コンミューンというものにすごくこだわりがあったということなのですが。例えばケージ(ジョン・ケージ John Cage, 1912~1992)なんかもそうですし、当時、いろんなアーティストがコンミューンというものに憧れてやろうとしていた。その当時の背景というのがあるような気がするのですが、それについてはどのように思われますか。

塩見:その当時、既にできあがっていた体制に反旗を翻すためには、一人の力じゃ絶対ダメ。どんな大胆なことをやっても、「あいつ気が変なんじゃないか」って思われるだけね。だけど、それをグループで、グループ名をつけたりして団体でやれば、「これは何か意味があることか」というふうに世の中も認めるかもしれないし、実際、具体的に行動を起こすときに役割分担でいろんなことができるでしょ。だから束になることが、活動を起こすのには非常に有利だったというふうに私は思ってますね。

柿沼:ただ、グループとコンミューンは違うと思うのですが。

塩見:ああ、そうね。

柿沼:ただグループというのと。

塩見:そうですね。コミューンというともっと生活共同体みたいな。

柿沼:生活を共にしながら、寝食を共にしながら、というところがあるので、そこはどういうことだったのだろうと思うのですが。実際、お料理を一緒にやられていたんですよね。

塩見:そうです。私たちも行ったばっかりでやっぱり心細いじゃないですか。それに、いろんな話も聞きたいし。だから久保田(成子、1937~)さんと私のためにマチューナスが見つけてくれたアパートなんだけど、そこへパイクとマチューナスが来て、斉藤(陽子、1929~)さんも来てたかな、そこでお料理をして晩ご飯だけは一緒に食べようと。私はむしろそれを楽しみましたけどね。

柿沼:そのときに缶詰だったんですか(笑)。

塩見:うーん、買い物は私たち(女)が行くの。やっぱり立派なクラム、ハマグリみたいなのを見ると買いたいでしょ。スイカとか。とにかくシーフードとフルーツというのは、やっぱり女の子にとっては魅力的なものでしょ。チキンもありましたけど、アメリカの牛肉はおいしくないし、チキンはよく食べましたね。クラムを買って帰ってクラムスープみたいなのを作ると、「こんなものは贅沢だ」って。「タンパク質はチキンだけでいい」。果物を買ってくると、「果物なんて贅沢だ。ほら、ヴァイタミンならこれやるから飲め」ってビタミン剤を出して分けてくれたりね。味気ないったらないの。

柿沼:そうやって節約してるってことですね。

塩見:節約して。だから文句は言えないんですけどね。それで食事のあとはマチューナスのロフトへ行って、ラベルを貼ったり、マルチプルを作る作業を私たちも手伝わされてやってましたね、家内工業みたいな感じで。そういう生活共同体を彼は望んでいたんですね。

柿沼:パフォーマンスやイヴェントなんかも共同でやって、人のを自分もやったり、自分のを人がやったりとか、そういうときに作者というのは明確にはして?

塩見:しますよ、もちろん。誰々のどういう作品を誰と誰が演奏する、それは同じです。

柿沼:それはするわけですね。

塩見:ただハプニングというのもありましたけれどね。それは全く性格が違っていて、言葉のとおりhappen、偶発的に起こるパフォーマンスなんです。アル・ハンセン(Al Hansen, 1927~1995)がよくやっていて、電話がかかってくるんです。いついつ何時からハプニングをやるから来ないか、そういうのを何人かのお友だちに電話するの。そうするとみんな適当なものを持っていくわけ。本を持っていったり、ペイントを持っていったり、もちろんワインを持ってくる人もいれば、楽器みたいなのを持ってくる人もいれば、トイレットペーパーを持ってくる人もいる。私はあんまりハプニングは好きじゃなかったから、でもまあ見たいから、ただ行ってました。20~30人がザッとロフトに集まって、最初はおしゃべりしたり飲んだりしてるんだけど、誰かが朗読とか始めたりするのね。そうすると、ダンサーがいるとダンサーがうねうねと動き始めるわけ。トイレットペーパーをバッと投げる人がいたり、スプレー・ペイントをかける人がいたり、もうグッチャグチャなんですよ。ほんとにそのときに成り行きで即興的に、周りから触発されて自分で何かの行為を行なっていくというかたちで。

柿沼:シナリオがなくて。

塩見:一切ないです。その場の即興。「グループ・音楽」でも即興演奏をやってましたけど、それをパフォーマンスとして何人かで即興でやるわけね。だから誰の作品なんて一切ない。

柿沼:ハプニングとイヴェントの違いというのはもちろんあるわけですよね。

塩見:もちろんあります。はっきり違うんです。ハプニングというのは、ほんとに偶発的に、そこに居合わせた人たちの間で起きるパフォーマンスですね。イヴェントというのはちゃんとコンセプトがあるわけです。

柿沼:そうするとアラン・カプロー(Allan Kaprow, 1927~2006)のハプニングとまた違いますね。

塩見:ああ、そうでしょうね。

柿沼:フルクサスの言っているハプニングというのとアラン・カプローの始めたハプニングはどうも違うような気がします。

塩見:そうですね。私が今言っているのは、アル・ハンセンのハプニングだけ。フルクサスのハプニングというのは、私は参加したことがないです。フルクサスはだいたいコンサートで、いろんな作品を順番にちゃんと、タイトル、名前を明記してやっていくのがフルクサスのコンサートね。アル・ハンセンは、もうハプニングばっかりで、自分のロフトでみんなを呼んで。

柿沼:そんな感じでやるわけ。

塩見:そんな感じでやるわけです。たいていはつまらないんですよね。あまりしゃべってもあれだし、少しずつワインを飲みながらじっと見てるんだけどね。でも、時々、ほんの2~3分ぐらいかな、みんなの意識がまるで発酵したようになって、ある不思議な、パフォーマンスとして見応えがあるというか、ちゃんとフレームに収めておけるような、そういう一瞬があるの。それはやっぱり素晴らしいですね。これはハプニングならではですね。突然みんなの波長がピタッと合ったようで、実に鮮やかでしたね。

柿沼:それは、起こるか起こらないかは分からないんですね。

塩見:分からない。ある日は不発に終わるかもしれないし、ある日はうまくいくかもしれないしという。

柿沼:それから、マチューナスが「100%フルクサス」と「50%フルクサス」を分けていた。塩見さんは50%のほうだということなのですが、これについてはどうでしょう。

塩見:50%というのは、ありがたいですね。私、100%なんて言われたら、「もうやめてちょうだい」って思うわ。つまり100%俺のというか、俺のイメージしてるフルクサスのものだと言われたら、もうコンファイン(confine)されたような気持ちになるから。

柿沼:100%に入れられた人は誰ですか。

塩見:斉藤陽子さんとかね。

柿沼:そうなんですか。ディック・ヒギンズ(Dick Higgins, 1938~1998)は違うんですか。

塩見:ちょっとその表を今……

柿沼:表があるんですね。

塩見:あるんです。一覧表があるんです。それは今出すとちょっと時間がかかるので。

柿沼:いいです、いいです。

塩見:何人かは100%なんです。何が100%かというと、彼の周りで生活をしていて、一種のルーズなコンミューンというかな、近くに住んでいて、しょっちゅう会って。

柿沼:そういうことなんですか、作品ではなくて。

塩見:作品ではなくて。

柿沼:生活のあり方が彼に近い。

塩見:生活のあり方と、もちろんフルクサスの出版物を手伝うとか、一緒に行動するとかということで、作品の質云々じゃないと思うんですね。作品の質云々だと非常に難しいと思いますよ、何%と分けることは。私なんかずっと日本にいて、彼とは離れていたし、でも作品の交流はあったし。そういう人は50%になっているんですね。(ただし、表によるとジョージ・ブレクト(George Brecht, 1926〜2008)やベン・ヴォーティエ(Ben Vautier, 1935〜)も100%になっているので、マチューナスとは離れて暮らしていても、彼がフルクサスの精神的支柱として尊敬している人は、100%なのかもしれない。1975年制作のこのFLUX MAIL LIST では、87人の内、100%が11人、50%は15人、他の人には%の印は付いていない)。

柿沼:マチューナスはすごく日本びいきで、部屋に畳を敷いていたり。

塩見:そう、確かにそう。

柿沼:日本刀を持っていた。

塩見:日本刀、持ってた。柄(つか)が壊れたから直してくれといってボロボロの柄を私のとこに送ってきたの。

柿沼:アメリカから日本に。

塩見:そうそう。私はそれを骨董美術のお店に持っていって、「この柄を元どおりに修復していただけませんか」と言ったら、「刀がないと無理です」って。そりゃそうよね。

柿沼:柄だけ送ってきたんですか。

塩見:そう、柄だけ送ってきたの。「刀がないと無理だと言われた」というふうに言って、そのあとどうしたかな。それをまた送り返したのだったか、刀を送ってきたんだったかしら。

柿沼:靉嘔(、1931~)さんが何か言ってたような気がします。

塩見:何て言ってた?

柿沼:それをもらって持っているようなことをちらっと言っていたみたいですけど、よく意味が分からなかった、そのときには。

塩見:私は(骨董美術店から)「そう言われたから」と、たぶん手紙を書いて壊れた柄を送り返したんじゃないかと思うんです。壊れてはいてもマチューナスにとっては大事なものだから。

柿沼:日本のどういうところに彼は興味を持ったのでしょう。

塩見:どうでしょうねえ…… どこまで知ってたかですよね。

柿沼:禅とかに興味を持ってたんですね。そうではない?

塩見:それもあるかもしれない。でも禅に一番興味を持っていたのはブレクトだと思います。マチューナスは全体に日本文化そのものに憧れていたんじゃないかな。一度、私のところにも「琵琶の音楽のレコードがあったら送ってくれ」といってきたので、探して送ったことがありますよ。貝を並べて吊した簾みたいなものとか、日本的なものがお部屋にありましたね。彼は建築家だから、京都に来て寺院なんかを見たらどれだけ感動するかと思って。五重塔を「これ、木だけでできてるんだ」とか、「しかもそれは地震にとても強いんだ」、というふうなことを話したりすると、彼はさぞかし感激したでしょうね。それが実現できなかったのがほんとに残念。

柿沼:ですねえ。

塩見:行きたい、行きたいって何度も言ってきたんだけれどねえ。

柿沼:パーペチュアル・フルックスというフェスティヴァルをされていますが、この「パーペチュアル・フルックス・フェスティヴァル」というのはどういうものだったのでしょうか。そこに塩見さんも64年の9月に参加されています。

塩見:いや、9月じゃなくて、10月30日。

柿沼:それはワンマンショーですか。

塩見:そうです。ワンマンショーというのは「パーペチュアル・フルックス・フェスト」の一つとして。9月はたしかフルックス・スポーツだったと思います。

柿沼:ではフルックス・スポーツというのはどういうものなのでしょうか。

塩見:卓球なんかをやるんだけど。ラケットに穴が空いていたり、缶がくっついていたり、(台も変則的で)、とにかく非常にスポーツしにくいの。彼流のジョークなんですけどね。

柿沼:みんなでするんですか?

塩見:私は出席しなかったの、そのときは。陽子さんなんかが出てらしたらしいけど。それが第1回なの。2回目が私の10月30日。

柿沼:それがパーペチュアル。

塩見:フルックス・フェストの2番目ということ。

柿沼:2番目でワンマンショー。

塩見:(2番目以後は)全部ワンマンショーです。あとは斉藤陽子さんもワンマンショーだったんだけど、彼女の場合は会場のワシントンスクエア画廊が。

柿沼:なくなってしまって。そこを移って、また移って。

塩見:他もまたダメになって、ポストポーンのイヴェントにしちゃったという。そのあと久保田成子さんは、シネマテークだったかな、別のところで会場を借りて。それは私、帰る直前でしたけど見ました。有名な《Vagina Painting(ヴァギナ・ペインティング)》(1965)。あれは確かに見ましたね。そういうふうにして続いていったんじゃないですか、あとのことは知らないですけど。

柿沼:そのワンマンショーのときに6つですか、作品を。《Double Windows(ダブル・ウィンドウズ)》という、これはトランプカードを使うものですか。

塩見:いや、何でもいいんだけど。「実際の窓の前にもう一つの窓を作れ」というインストラクションなの。トランプで開いていくようなゲームがあって、それをもう一つ窓として、実際の窓の前で、みんなが集まってくるまで一人でやっていたわけですね。それをピーター(ピーター・ムーア Peter Moore, 1936~1993)がたくさん写真に撮っています。その次は《ウォーター・ミュージック》。これは(水の入った)瓶をいっぱい並べて、みんなに取っていってもらって、「水にその静止した形を失わせる」というインストラクションを自由にやっていただいたのね。

柿沼:皆さんのやった中で一番面白いものはどれだと思いますか、形を失わせるという。

塩見:私ね、それをみんながやっているときにはすでに次のパフォーマンスに移っていたから、誰が何をしたか全部見てるわけじゃないのね。

柿沼:飲んだ人もいるし、こぼした人もいるし。

塩見:そうそう。窓からこぼした人もいるし、ポケットに入れて持って帰った人もいるんじゃないかなと思うんです。ちゃんと蓋をしていましたからね。

柿沼:最後まで見られなかったんですね。

塩見:それは見られなかった。

柿沼:《エアー・イヴェント》というのは、風船をふくらませるんですか、一息で。

塩見:そうです。風船を自分の肺と考えて、肺活量だけの空気を風船に入れて、その上にサインして、ディック・ヒギンズがオークショニアになってオークションをしてくれたの。

柿沼:結構売れたんですか。

塩見:結構売れたんですよ(笑)。

柿沼:あと《ディレクション・イヴェント》ですか。

塩見:はい。これが一番イヴェントらしかったかな。ピーターの写真もあるけれども、(10本の指の)先から長~いヒモが出ている手袋をはめて、こんなふうに座っているの。パフォーマー達は、そのヒモの先をどういう方向に引っ張っていきたいかをカードに書いて、ヒモの付け根のところにぶら下げて、実際にそれを引っ張っていく。アラン・カプローがニューヨークの地図とコンパスの前で、どこへ引っ張っていこうかと思案しているような写真もありますね。

柿沼:写真が出ていますね。それをあとで音楽作品に替えたというふうに書いていらっしゃるのですが、それは何なのでしょうか。

塩見:これなんです。「ピアニストのための方向の音楽」。

柿沼:ああ、なるほど、そういうことですね。ピアニストがカードにして放り投げる。

塩見:ピアニストが中心なんですね。ピアニストにとっての方向の音楽ですから。まず、(カード状の楽譜には)短いフレーズと方向が書いてあるので、ピアノでそのフレーズを弾いて、「何々のほうへ」と発音して、実際に楽譜をそちらの方向へ投げていくという曲です。このあいだもやりましたね。「何々のほうへ」というのは、実は毎回変えているんです。これは一番最初の曲で、演奏する機会は特定していませんでした。それを日本作曲家協議会が出版してくれたので、東京文化会館でのコンサートで、高橋アキ(1944~)さんに初演してもらったんです。ナレーションも彼女自身でやっていただいて。その次の2番目は私がニューヨークでやったの。そのときはフルクサス再会コンサートでしたから、マチューナスとか縁のある人たちの方へ方向も変えて、ピアノのフレーズもちょっと易しくして、ある程度即興的に弾けるようなものにしたんですね。3番目は、たしか井上郷子(1958~)さんのリサイタルのために書いて。

柿沼:それも拝見したような気がします。

塩見:そうですね。それから4番目は、北上市で日独ヴィジュアル・ポエトリーの会があって、ドイツからも詩人たちやオーガナイザーがお見えになったの。これはとても大きな会だったんですね。北上市に(日本)現代詩歌文学館という、文学作品をアーカイヴしている大きな図書館みたいな施設があって、そこでのオープニングのときには、やっぱりそれにふさわしい言葉を選びました。ハンブルグから来た方がいらっしゃいましたので、「ハンブルグの方へ」というような。だからTPOに合わせて言葉もフレーズも書き換えてきたんですね。

柿沼:その後、フルクサスのフェスティヴァルはいろいろあったのですが、ヴェネツィアビエンナーレでされていますね。そのときにはどのようなことをされているのでしょうか。

塩見:ヴェネツィアビエンナーレ…… フルクサス・フェスティヴァルのことでしょ?

柿沼:はい。

塩見:これはもうほんと大勢の人が集まって。ジーノ(ジーノ・ディマジオ Gino Di Maggio,1940〜)からある日、突然電話がかかってきたの。「あなたは僕のこと知らないだろうけども、僕はあなたのことはよく知っている」というような、巻き舌の英語でね。5月にヴェニスでフルクサス・フェスティヴァルをやるのでぜひ参加してくれと。フルクサスの今までの作品を送ってくれ、あなたの作品は小さいから、ヴィトリーヌ、つまりガラスのショーケースを2つ用意する、その中に入れてちゃんと釘を打つから、途中で盗まれたりすることはないから大丈夫だ、みたいなことを言われて。私のはそういうふうにして展示しました。ほかの人達もみんなそれぞれいろんなコーナーを与えられて、自分の作品を展示して。パフォーマンスもあったんですね。マチューナスの《アドリアノ・オリベッティへの追悼》もやりましたしね。それからラリー・ミラー(Larry Miller)の《Remote Music》(1976年)なんかも面白かったですね。

柿沼:エリック・アンデルセンの曲をおやりになって。

塩見:やりました、やりました。

柿沼:「それについては允枝子に聞け」と言われたんですけれども(笑)。《OPUS 51》?

塩見:そうそう。

柿沼:それでシンセサイザーをお弾きになって、ほかにエレキギターとインドの打楽器が用意されていて。で、楽譜にはアルファベットが書いてある。

塩見:「I HAVE CONFIDENCE IN YOU」と書いてあって、ABCからZまで書いてあるんですね。私もその意味が分かんないんです、AからZまで。どういうつもりで彼、アルファベットを書いたのか。

柿沼:それ分かんないんですか。

塩見:私には分からない。(ただ、AからZまでだから、一切合切という意味かな? と漠然とは思っていましたけど)。

柿沼:分からないままにやったわけですか。

塩見:そう。「I HAVE CONFIDENCE IN YOU」、うーん、アルファベットは全く無視して、「とにかくお任せします」と言われて楽器が与えられた。それは大きな要素ですよね。何も与えられなくて「お任せします」と言われたら、「じゃあサヨウナラ~」って(笑)、それもありだと思うんだけど。シンセサイザーが与えられたので、急いで音色の番号をチェックして、ここを押せばこういう音色が出るとか調べて、それに相応しい音のパターンを探ってたのね。そのときには、ほかの連中もそれぞれ自分の楽器を調整しながら音を出してたんですよ。そしたらエリックが、「允枝子、ほかの人の音を聴いてくれ」って注文したの。「いや、今はまだ始めてるわけじゃなくて、音色の番号をチェックしてるだけだから」と言ったんだけど、(その時思ったのね、ああ、この人やっぱり音楽家だなって)。で、一応番号を頭にたたき込んだので、「まあ始めようか」みたいな感じで始めたんだけれども、全くの即興演奏でした。それこそみんなの音を聴きながら。後で聴いたら、結構面白い。

柿沼:あとの演奏家はどういう方だったんですか。

塩見:アンジェロといってね、私が日本へ帰ってからも時々お手紙をくれた人なんですけど。たぶんヴェネツィアに芸術系の大学があるのね、そこの学生だと思います。打楽器の人もその友だちというか。

柿沼:学生さんなんですね、二人とも。

塩見:学生さんだと思います。若い人でした。一人は学生、もう一人はちょっと断言できないけれども。で、(エリックは私達の前で)じーっと頭を垂れたままなんです。「これ45分間のテープだから、45分間演奏してくれ」って。「長いなー」と思ったけど(笑)。

柿沼:そうですね、45分やるのは大変ですね。

塩見:ねえ。でもまあ面白い経験でしたね。

柿沼:それから、ベン・パターソン(Ben Patterson, 1934~)さんとはとてもお親しいようなのですけれども、どういうふうなことで共通点とかを感じていらっしゃるんですか。

塩見:どういうふうって……

柿沼:彼も音楽家でいらっしゃって、オケ出身ですよね。

塩見:オケ出身ね。(ハリファックス・シンフォニー・オーケストラやオタワ・シンフォニー・オーケストラなどの)コントラバス奏者でしたね。あのね、オーケストラではこういう言い伝えがあるの、「大きい楽器を持ってる人ほど人間的に度量が大きい」って。ちなみにそういうことを言ったのは私の甥で、コントラバスをやってるんです。(笑)

柿沼:じゃあヴァイオリンはちょっと。

塩見:ヴァイオリンの人には気の毒だけどね、そういうこと言うと。私、ベンを見てるとほんとに大地のおおらかさというか、なんかすごくアットホームな感じがするのね。ユーモアもあるしね。《ピアノの上のビリヤード》を、彼とエリックと3人でやっているとき、私がキューを出すと、普通はすぐ突くという約束なんだけども、或る時、キューを出してるのに、こうして構えたまま、ジーッとフリーズしてるんですよ(笑)。(あまりに長いので)、もう私我慢できなくなって、無視して次の音に移っちゃったことがあったの。そしたらあとで、彼はそのことを直接には非難しなかったけれども、「僕の先生はアンサンブルをやっているときに、『待てるだけ待って音を出せ』と言われた」って、「ああ、あのこと言ってるんだな」と思って(笑)。そういう言い方で言うのよ。

柿沼:ペイシャンスが必要だということですね。

塩見:そうそう、ペイシャンスが必要だということを直接ではなくて婉曲法で言う。「ああ、なかなかいい人だな」と思ったのね、そのとき。それとフルクサス・メモリアルサービスかな。

柿沼:最後の公演での。

塩見:ピアノの弦の上にビー玉を落とす曲、全員に参加していただいて。あとでみんなで食事しているとき、「あれはフルクサスのスタンダードナンバーになるね」って言ってくれたの。

柿沼:ちなみにあのときワーグナーを流していましたが、あれはどういうことなんでしょう。

塩見:ニューヨークでやったときは。

柿沼:あれニューヨークでやってらっしゃるんですか! 新作じゃなかったですか。

塩見:新作じゃない。ちょっと待って。あのアイデア、弦の上にビー玉を落とすというアイデアは、90年のヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルで思い付いた事なの。

柿沼:ほんとだ、94年にされていて、このあいだのは2014年版ですね。

塩見:そうそう。待てよ、初演は93年9月4日だったかな。「フルクサス/ナンカロー&ソーフォース」という、榊原(健一)さんや大井(浩明,1668〜)さんが企画したコンサートが京都のゲーテ・インスティトュートであって、そのとき「フルクサスのピアノ曲をやりたいんだけどアレンジしてくれませんか」といって、うちへ相談にみえたんです。そのときに、ペダルを踏んだうえで弦の上にビー玉を落とせば非常に面白い動きをするということを思い出して。ヴェネツィアではできなかったんです。やろうと思って行ったら、ピアノが逆立ちしてたのでできなかったんだけど(笑)。日本へ帰ってきてからそれをしようと思っていたの。それもただ落とすだけじゃ面白くないから、既成のゆっくりした曲をピアニストに弾いていただいて、それに対するオブリガートみたいなかたちでビー玉を落下させると面白いかなと思って。たしかそれが初演だったと思う。同じアイデアでも、例えばメモリアルサービスみたいにしようと思えばできるわけでしょ、そのときは音楽もそれなりに変えて。
ニューヨークでは私はヘンデルの《オンブラ・マイ・フ(Ombra mai fu)》を繰り返し繰り返し弾いて、(その間みんなはステージに上がってきて、バーバラ(Barbara Moore)からビー玉を受け取って、ピアノの弦の上に落としたの)。靉嘔さんなんか、お焼香みたいにビー玉を3回こうやって額の所に持っていっては、落としてたわ(笑)。私は譜面を見ながらも、チラッチラッとみんなの動きを見てたのね。ポーンと放り投げる人もいれば、思いを込めて落とす人もいろいろで。そのときは、メモリアルサービスとしてやったのだけれど、まあ、パターソンがそういうふうに共感してくれたわけ。この曲は、宗教的なニュアンスを持たせてやることもできるし、単なるパフォーマンスとして(ニュートラルに演奏する事も出来るんです)。今度のフルクサス・メモリアルサービスは、94年にニューヨークでやったときの生々しさが、私の心の中でもかなり薄れてきちゃったし、むしろ彼らの死を悼むというのではなくて、彼らが生きてああいう活動をしていたことに対する賛美の気持ちを贈る、「彼らは英雄だった」みたいな感じで演奏したいと思ったの。だから《タンホイザー》。

柿沼:トリビュートみたいな感じですね。

塩見:そう。「あの曲がいい」って思って。それでうちにはなかったから、わざわざAmazonで取り寄せたんですよ。福井さんっているでしょ、作曲家の福井とも子さん。彼女は「メモリアルサービスなのに、なんであんなワーグナーみたいな人の音楽をやるのかなと不思議に思ってたんだけど、実際に音楽が鳴ってやり始めたら、なんか涙が出そうになった」って。

柿沼:なんか不思議に合ってましたよね。

塩見:合ってたでしょ。

柿沼:良かったです。

塩見:これは彼らに対するエールの気持ち、彼らは素敵だったという賛美の気持ちを表すために、メモリアルサービスといってもそういう違ったニュアンスにしたの。《タンホイザー》がここではピッタリだと思ったので使ったんです。音楽の力ってすごく強いですもんね、どういう音楽を使うかによって、(場の雰囲気がすっかり変わる)。

柿沼:そうですね。塩見さんの作品はよくクラシックを、すごくうまく使っていらっしゃって。それをケージのように否定的に使うのではなくて、揶揄するために使うのではなくて、非常にうまく生かしながら使っていらっしゃるなというふうに思うのですけれど。

塩見:シンプルなイヴェントをやるときにはクラシックの音楽があったほうが、場がよりリッチになるかな、というふうな気持ちがあって。

柿沼:そこから解き放たれたいという感じではないような気が。

塩見:もうね、回帰したのよ(笑)。だってね、蹴って飛び上がったら今度は着地するしかないじゃないですか。飛び上がりっぱなしというのは、それこそ空のてっぺん突き抜けて、成層圏というか無重力のところまで行かないと飛び上がりっぱなしにはならないし、私もそのまま天国へ行ったわけでもないし。だから否定して飛び上がったら、何十年か経って着地して。だけども元の地点にじゃなくて、別の地点に着地してるはずですよね。

柿沼:ちょっと休みますか。
(休憩)

柿沼:では再開させていただきます。
「口を開け、太陽の光を飲め」、このことなのですけれども、いつもやっていらっしゃるということなのですが、若い頃からというのは、どのくらい若い頃からやっていらっしゃるのですか。アメリカに行く前からですか。

塩見:どうかな。始めたときのことは…… どうだろうねえ……

柿沼:東京に行く前から、子どもの頃からやっていたことなのか、「若い」の意味が。

塩見:ああ、そうか。それ重要なこと?

柿沼:まあ、はい(笑)。ニューヨークに行ってからやるようになったのか、そのへんのことをお伺いしたいと思いまして。

塩見:正直言って記憶にないわね、いつから始めたかということはね。でも今でもやりますよ。2階のベランダへ出ると朝陽がものすごく気持ちがいい。夏はだめなんです、太陽光線がきつ過ぎて。今頃の季節だとほんとにいい。目では太陽を見ることはできないでしょ、まぶしすぎて。だから目を閉じて、口を開けて、光を飲むとすごく気持ちがいい。それを私、母に、まだ生きてた頃ですけど、「こんなふうにしたらすごく気持ちがいいわよ」と言ったら、「あら、そういう教団があるじゃない」って。「えっ、これ私のオリジナルだと思ってたのに、そんなことする教団があるのか」って、そのときはそれで忘れてしまっていたんですけどね。
2002年にフルクサス40周年のために、ドイツのルネ・ブロック(René Block, 1942~)から、(ヴィースバーデンの街中には沢山の看板があるので)、みんなでそれぞれ看板に何か描いてくれと言ってきたの。で、そのインストラクションを書こうと思って、調べてみると黒住教というのがあったの。さっそく広報部へ電話をして、実際どんなふうにやっているのか聞いたら、丘の上の日拝殿へ上っていって、朝一番の光を信者さんたちが一同で飲むんだ、空気と一緒に飲むんだって言うのよね。面白い教団だなと思って。

柿沼:みんなでやっているんですね。

塩見:うん、信者さんたちがね。

柿沼:あとイヴェント作品なのですが、《顔のための消える音楽 微笑む→微笑を消す》という指示なのですけれども、これは何人でやってもよろしいのですか。

塩見:何人でやってもいい。

柿沼:微笑んで、微笑みをだんだん消していくというパフォーマンスをすればいいんですか。

塩見:そうそう。ベン・ヴォーティエによると、これはすごくやりやすいから、フルクサスコンサートをやるときには毎回みたいにやってるって。「何百回もやってるのに、全然ロイヤルティを払ってないけど、ゴメンね」みたいなこと言われて。「いいわよ(笑)、私だって皆さんの曲をいろいろ演奏してるけれど、一切払ってないし」って。

柿沼:これがニューヨークでやったときですね。

塩見:そうです。

柿沼:これはどなたですか。

塩見:どれが?

柿沼:この方が今やっているんですよね。

塩見:この方がわたくしです。(笑)

柿沼:そうですよね。よく分からなかったので。

塩見:こっちにアリソンがいるの。その写真はどこにいったかな。

柿沼:では何人かでやったということですね。

塩見:全員で。たしか彼女がアナウンスして。私、まだ英語がうまく言えないときだったから。これね。アリソンが「こういうふうにしてください」とお客さんたちに言って、みんなで一斉にやってるの。そちらの写真だとほとんど微笑みが消えている。

柿沼:分かりました。ありがとうございます。
そのあと、映像の作品にマチューナスがしたんですね。

塩見:そうです。それは、許可をとる手紙をもらいました。オノ・ヨーコさんに演奏してもらって、ピーターの撮影で作りたいんだけど、と。

柿沼:それを今度合唱作品に書き直されていますけれども、これは《スマイル・ミュージック》ということで、スマイル・パフォーマーが登場するということなのですが、それはどういうものなのでしょう。

塩見:これがスコアなんです。で、曲はこうなんです。これがステージの配置図で、真ん中にコンダクターがいて、コーラスが後ろにいるわけです。女声ですから、ソプラノ、メゾソプラノ、アルトと並んでいて、そして前面に4人のスマイル・パフォーマーがいるわけね。真ん中にいる人達はドローン・シンガーといって、こういうコードを、「smile smile smile」という歌詞で歌うんです。

柿沼:この方たちはただスマイルするだけなんですか。

塩見:スマイルした後、だんだん消していくの。4人にはそれぞれ反応すべき音があって、コーラスの人たちはこういう普通の歌い方もするし、ナレーション的に発語、発音する場合もあるし、それからベルとかトライアングルとか打楽器とかで、声以外のノイズを出すということもあるんです。スマイル・パフォーマー達は、例えば1の人は、楽器の音かノイズが聞こえたときに――客席のほうを向いているから、音や声は後ろから聞こえてくるわけで――音だけを頼りに、担当する音が鳴ったらスマイルするの。そしてだんだんだんだん消していくの。

柿沼:そして音がなったらスマイルするんですか。

塩見:だんだん消していっている途中でも、担当する音が鳴ったら又、パッと笑うの。広いところでやると、後ろのほうの人は笑っているのが見えないかもしれないから、例えば笑うときにちょっとこういうジェスチャーをつけると、もっとかわいいパフォーマンスになるかもしれない。

柿沼:これがトランスメディアになるのでしょうか。

塩見:そうですね。

柿沼:映像から、フリップブックから、合唱作品になって。最初はパフォーマンス作品。

塩見:そうです。そういうふうに(一つのコンセプトを、次々にいろんな媒体で作品化していくことを)、自分では勝手にトランスメディアと言ってるんですけどね。

柿沼:面白いですね。こういうふうにされるところがとても塩見さんらしくて、フルクサスの人でありながら、作曲も。ほかの方とは違う。

塩見:そうですねえ、まあ違うかも知れませんね。

竹内:これはどこかで初演は。日本では演奏されましたか。

塩見:日本ではやったことがないんです。

竹内:それは残念ですね。

塩見:ミシェル・エドワーズ(J. Michele Edwards)という、ご存知ないかしら、ミネソタにいる音楽学者なんですが、彼女はうちへ何回も来たことがあるの。私についての情報をリニューアルするためにといって。グローブのディクショナリーを彼女が担当しているみたいで。

柿沼:『ニュー・グローブ・ディクショナリー』(The New Grove Dictionary)に塩見さんのことをお書きになっている方ですか。

塩見:そうです。ここに初演したときのプログラムがあります。

竹内:いろいろな作品と一緒に。

塩見:ええ。《from the Pacific Rim》というコンサートです。私の過去のイヴェント作品を基にコーラスの曲を書いてくれないか、と彼女から直接頼まれたのね。だから女声コーラスだし、《顔のための消える音楽》で作ろうと思って。

柿沼:分かりました。作品についてはまた明日、彼が。彼は日本の現代音楽が専門なので。4時ですので、このへんで。質問は若干残っていますが、また明日来させていただきますので。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

【インタヴュー後の余談】

塩見:そうだ、以前お尋ねのあったジャクソン・マクロー(Jackson McLow, 1922~2004)からもらったニューヨークのお土産。フォールアウト・シェルター(Fallout Shelter)。ジャーン!!

柿沼:持っていらっしゃる(笑)! シルバーマン・コレクションのほうにひょっとして寄贈されたかと。

塩見:だけど、こんなもの、ニューヨークへ持って行ったらまずいじゃない。

柿沼:ちょっと写真を。

塩見:どうぞ。(マクローはもう亡くなってしまったけど)、それでもやっぱり、まずいじゃないですか。

柿沼:まずいですか。

塩見:だってこんなものを引っぱがすなんて犯罪でしょ? でもこれは一番強烈なお土産だった。それから、これがケルンでのフェスティヴァルの会場写真のアルバムです。駐車場でやるというから、みんなはクルマを素材にした作品をやるだろうということで、じゃあ逆なものをやろうと。第一私は車の運転もできないし、クルマを向こうで用意してもらうったって何の知識もないから手に負えない、やっぱりピアノでやろうと。これは《道に迷ったピアニストのための方向の音楽》といって、ああしろこうしろということが、(後ろの迷路状の額の中にインストラクションとして書いてあるの)。

柿沼:これは92年ですね。フルクサス・ヴィールスのときですね。

塩見:そうです、ヴィールスのときです。

柿沼:これはなぜヴィールスと言ったのですか。

塩見:さあ、何も聞いてませんけど。

柿沼:感染していくということですね、ウイルスが。

塩見:そう、感染力があるということでしょうね。

柿沼:グローバルに。

塩見:グローバルに(フルクサス的な精神や態度が)感染していくという意味かしらね(笑)。

柿沼:なぜクルマなのかよく分からなかったので。

塩見:それはね、カウホフという大きなデパートがあるんですね。デパートが立体駐車場を新しく作ったんです、すぐ脇に。螺旋状に上がっていく素敵な空間で、まだ一般には解放してないの。建築が終わったばっかりで、そこをねらって借りて。(主催者側は)「テンポラリー・ミュージアム」とか言ってましたけど、まだクルマなんか1台もない立派な空間を用意してくれて。作家達はそれぞれ充分なスペースを割り当てられ、展示はわりときれいでしたね。ヴェネツィアのフルクサス・フェスティヴァルのときは、レンガのむきだしの倉庫、下はデコボコしている、そういう中でやったのでほんとに雑然とした感じだったけど、ここは結構仕切りがあったりして。これもL字型のコーナーで。

柿沼:この方はアリソンさんですね。

塩見:アリソンとビリヤード。ここの(ピアノの胴に)《BILLIARDS ON THE PIANO》と書いてあるでしょ。これはどうやって作ったかというとね、白いビニールを切り抜いてここへ持って行って、終わった後で剥がしてピアノをきれいに拭けるように、水溶性の糊で貼り付けてあるの。

柿沼:両面テープではなくて。(笑)

塩見:今度は両面テープではなくて。

柿沼:ということは、これは92年なので、30周年でやったということですか。

塩見:そうです。

柿沼:ケルンですか、これは。

塩見:ケルンです。

塩見:これがベン・パターソンのフォルクスワーゲンの丸焼き。面白いですね、さすが。

柿沼:これは車庫で燃やしているんですか。

塩見:燃やしてます。

柿沼:ダックもあります?

塩見:ダックもあるの。串刺しになって丸焼きにされているフォルクスワーゲンの下で、本物のダックが丸焼きにされて。それはみんなにふるまわれたんだけど。

柿沼:フルクサスフードですか。

塩見:まあまあ、なんでもフルクサスフードになるんですよ、フルクサスがやれば(笑)。ピーター・コティック(Peter Kotik, 1942~)が一生懸命むしって、私の口の中に入れてくれたの覚えてる。

柿沼:ピーター・コティックも関係しているんですか。

塩見:いやあ、どうでしょうね、知らないですよ。

柿沼:一度、彼がオノ(ヨーコ)さんの作品を、1音だけの作品をやったことがあって、「あらっ」と思ったんですけど。

塩見:このときは、フルクサスの作家は22人ぐらい集まったかな。これらは全部自分で撮ってきた写真なの。

柿沼:これも92年?

塩見:92年。同じ場所ですね。アリソンの《ムーンカー》といって、月がクルマとその周辺に落ちてきたみたいに、黄色い色が円形に塗ってあるのね。クルマとカウホフの床は簡単に黄色く塗らせてもらえたんだけれど、隣のビルの白い壁の一部も黄色く塗らないと、丸い形にならないので交渉したらしいの。彼女いわく、「とっても大変だったのよ」って。それはそうでしょう、(突然、そんなこと頼まれてもねえ。隣のビルのオーナーもよく理解して協力してくれたと思いますよ)。

柿沼:すごい! こういうことをしてたんですね、クルマを使ったということは。

塩見:そういうのもあるし、斉藤陽子さんなんかはいつものDo It Yourself Shopみたいなことで、いろんなものを売るわけです。ここで実際に売るわけ。これはへニング・クリスチャンセン(Henning Christiansen, 1932~2008)かな。いろいろ面白い作品があったので写真を撮ってきたんだけど、ジャン・デュピュイ(Jean-Pierre Dupuy, 1941~)のもきれいだったな。

柿沼:ありがとうございました。お忙しいところすいませんでした。

塩見:どういたしまして。


アリソン紙の服写真

アリソン・ノウルズの紙の服

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