美術研究科修士課程の学生作品

絵画専攻

日本画

只、この道が宜しく
氏名 服部しほり
学年 修士課程1回生
2011年度京展 館長奨励賞

油画

すき
氏名 基山みゆき
学年 修士課程1回生

版画

pine#3
氏名 伊藤学美
学年 修士課程2回生
サイズ 100×70cm
技法 ドライポイント

new omiyasan(ドライポイント)
氏名 宮田雪乃
学年 修士課程2回生
2010年度京都市立芸術大学作品展奨励賞受賞

構想設計

glitch scape
氏名 高橋卓久真
学年 修士課程1回生

再帰化オセロ
氏名 日名 舞子
学年 修士課程1回生
京都市立芸術大学作品展市長賞

彫刻専攻

彫刻

袋の中は
氏名 中村潤
学年 2010年度修士2回生

Capricious wall
氏名 冬木遼太郎
学年 2009年度修士課程2回生
2009年度大学院市長賞受賞

a border
氏名 加藤元
学年 2008年度修士課程2回生

デザイン専攻

ビジュアル・デザイン

等高線上の風景
氏名 池上典衣
学年 修士課程2回生
2007年度大学院市長賞受賞

環境デザイン

(違和の系譜)
氏名 原一生
学年 2010年度修士課程2回生
2010年度 市長賞受賞

プロダクト・デザイン

砂糖箱
氏名 金秀娟
学年 修士課程2回生
2010年度 産学連携プロジェクト“Crafted in Kyoto”参加作品

Bloom project
氏名 赤崎茂樹
学年 修士課程2回生
交換留学先RCAでの課題(OPEN SOUSE)での作品

工芸専攻

陶磁器

沼地
氏名 塚本春日美
学年 修士課程1回生

coral
氏名 宮川奈都美
学年 修士課程2回生

うみに かえる
氏名 福岡佑梨
学年 修士課程2回生

漆工

透明色の線結び
氏名 山西杏奈
学年 修士2回生(2014年修士修了)
2013年度芸大作品展大学院市長賞

氏名 鄭炳蜜
学年 修士2回生(2013年度本科留学生終了)
2013年度芸大作品展平館賞

染織

カラフルなバスケット
氏名 國政聡志
学年 2012年修士課程修了
2011年制作

沈んだきりの夜
氏名 吉田奈々
学年 修士課程2回生
2012年制作、同窓会奨励賞

ニチヨウ裁縫
氏名 大谷史乃
学年 修士課程2回生
2011年制作

保存修復専攻

保存修復

『簪花仕女図』模写
氏名 油淺頌子
学年 修士課程1回生

芸術学専攻

芸術学

作品名 1920年代の日中美術交流と竹内栖鳳

氏名 李 趙雪

学年 修士課程2回生(2013年修了)

研究テーマ「平安時代から鎌倉時代における仏教版画の変遷についての研究」 森咲花(2013年卒)

研究の概要

竹内栖鳳(1864-1942)は近代京都画壇の代表的な日本画家である。彼の画歴は三つの段階に分けられる。本論ではそれを基づいて検討する。明治11(1881)年から明治33(1900)年における20年間は栖鳳の青年期であり、続く明治33年から大正9(1920)年における20年間は栖鳳の壮年期である。この壮年期の20年間は、栖鳳の西洋美術への関心が顕著であり、多くの学者たちに研究されている時期である。大正9年から昭和17(1942)年における22年間は、竹内栖鳳の晩年期である。この時期に彼が創出した斬新な水墨画に対して「南画傾向」や「四条派の伝統性を継承した」などの表面的な評価が見られるが、その制作の背景や外部の要因など、またその伝統の中にある創新性についてはまだ深く追究されていない。そこで、本論において彼の晩年の作品をあらためて考察し、再評価する。老境になる栖鳳の日本画制作の背景、晩年の作品の創新性について論じる。

栖鳳の晩年の制作には、徐々に東洋美術の伝統を重視する制作姿勢が見られる。それは、1920年代に盛んとなった日中美術界の交流という外因があると考えられる。本論の第1章においては、栖鳳の晩年の制作背景として考察を加えた。近代の混乱期に流出した中国の中世絵画作品の影響下、1920年代の日中美術の交流が隆盛であった。明治維新から脱亜入欧の姿勢を示した日本は、積極的に中国方面と協議を重ね、共同で7回の日華(中日)絵画聯合展覧会を開催した。同時に日本側は「東洋美術」という言葉を頻繁に使い、中国美術界と共に西洋美術とは対置する傾向が見られる。中国近代画壇は「書画同源」の伝統性がなお定着している。東洋美術という理想を実現するため、日中美術の接点として「南画」があらためて注目され、提起された。1920年代の日中美術交流には、両国の美術界の接点とする南画が大きく貢献した。竹内栖鳳は1920年代日中美術の交流に関わった。中国の近代画家である金城、陳師曾、斉白石との交流を保っており、第3回の日華(中日)絵画聯合展覧会から出品した。栖鳳晩年の作風の変化では、中国近代画壇からの影響が感じられる。

栖鳳の晩年の作品には、中国との交流という背景の下で、伝統性が見られる。しかし、栖鳳の晩年の制作は必ずしも保守というわけではない。第2章には、主に1920年後の栖鳳晩年作品について検討していく。晩年に制作されたすべての作品を網羅するとことが不可能だが、一部の作品の検討により、栖鳳の晩年の制作姿勢、作品が持つ創新性を明らかにする。

晩年の栖鳳の制作においては、壮年期の西洋美術を日本画と融合する傾向から、宋元絵画の伝統を自分の制作に取り入れようという制作意欲の転換が、《斑猫》、《鯖》、《子雀之図》などの作品制作から窺える。また、《斑猫》、《鯖》、《秋風宿鴉・柳陰白鷺》、等の作品において、栖鳳が基盤とした伝統構図法は、伝世品、即ち旧来日本の寺院や大名たちが所有してきた伝来品としての中国絵画に由来する。また、《喜雀》などの作品には、中国近代画家や日本の従来の南画系の作品の構図法も使用された。栖鳳晩年の制作に見られる日中の美術伝統に対する態度は、「東洋美術」という理念を基盤とした日華(中日)絵画聯合展覧会と合致していると考えられる。1926年の《蹴合》、1928年の《おぼろ月》などの作品制作から栖鳳の筆法の特徴が徐々に顕在化してきた。これも、筆法が重視されている中国近代画壇の影響ではないであろうかと考えられる。栖鳳は、東洋美術の伝統の基礎下に、新しい空間意識や皴法を創出した。一見すると、伝統への回帰を試みていた竹内栖鳳の晩年の制作であるが、彼ならではの独特の絵画の近代性が内包されている。栖鳳の探求は、旧来の道に従って作り出された独自の創新性であると考えられる。この創新性においては、東洋美術を讃えるという時代背景として世界美術風潮が注目すべきだと考えられる。芸術世界のリーダーといえるパリとアメリカの東海岸は、アジア芸術に対する認識が1920年代に深化してきた。これも、日華(中日)絵画聯合展覧会や東洋美術という概念再び提起された重要な外因であったと考えられる。栖鳳の晩年の作品制作は、世界美術の風潮の下で、アジア美術の近代性という問題に対する一種の答えとも見られる。1920年代の日中美術交流は栖鳳に大きな影響を与え、このような時代風潮こそ、栖鳳の模索の必要条件であると考えられる。

栖鳳の晩年の制作は、東洋独特の文化環境から発展してきた創新性を収めていたといえよう。この時代風潮の影響を受けたのは当然ながら栖鳳ひとりではない。栖鳳の晩年の作品の再評価は、1920年代の日本画壇の再認識や、同時期のほかの日本画家の作品研究にも重要な意義があると考えられる。