特別授業 「横盗り物語/ ヨコハマトリエンナーレに託すもの」の報告

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 7月7日,本学客員教授であり,ヨコハマトリエンナーレ2014 でアーティスティック・ディレクターを務める森村泰昌氏による特別授業「横盗り物語/ ヨコハマトリエンナーレに託すもの」が,美術学部と芸術資源研究センターの共催で行われた。本学卒業生の森村氏を昔からよく知る石原友明教授が聞き手となって,開催目前に迫ったヨコハマトリエンナーレについてお話しいただいた。
 冒頭,石原教授が,「森村さんはアーティストなのに,なぜアーティスティック・ディレクターを引き受けたのか」と質問すると,森村氏は,「自分はリーダーらしくないから,あえて引き受けた」と答えた。「現在のような混迷の時代においては,組織を束ねて統率し,即断できるリーダーが求められているが,自分は,全くそうではない」と言う。「アーティストは,一人でキャンバスに向かわなくてはいけないし,絵というのは迷うことなく描くことはできない。でも,だからこそ引き受けてみたい。自分なら,違うリーダー像,違う展覧会を作れるかもしれない」と考えたそうである。
 トリエンナーレは,「来たい人が来ればよい」という個展と異なり,子どもから専門家まで様々な人が来るし,来場者数も桁違いに多いので,つくるのが難しいと森村氏は言う。でも,きちんとしたものを作れば,きちんと受け入れてくれると信じて,森村氏は,子どもが理解できるひらがなのカタログ『たいせつな わすれもの』や,森村氏本人による音声ガイドなどの仕組みを用意しているそうである。
 トリエンナーレのタイトルは,「華氏451の芸術 世界の中心には忘却の海がある」で,忘却がテーマである。華氏451度とは紙が燃える温度であり,本の所持や読書が禁じられた社会を描いたレイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』(1953年)に由来している。華氏451度の社会では,本を読む人は社会を追われて,忘れられた人になるが,芸術家こそ,その忘れられた人ではないか,そして,芸術家こそ,小説中の本のような,忘却されたものに眼差しを向けることができるのではないか,と森村氏は言う。
 今回のトリエンナーレは,活躍中の現役作家を中心に集める通常の国際展と異なり,物故作家が多いという特徴がある。森村氏によれば,トリエンナーレは祝祭性を求められるが,祭りとは本来,死んだ人を召喚するものである。そこに立ち戻って,死んだ人と生きた人のボーダーを取り外してみたかったという。
 芸術の位置するところは「私以上,公未満」であるというのが森村氏の考えである。森村氏は作品をつくるとき,美術や歴史を自分に引き寄せて,自分という濾過装置を通して世界を見せていくというやり方をとってきたが,今回のトリエンナーレも,そのようなつくり方になっており,森村氏ならではの展覧会になっているのではないだろうか。
 特別講義では,このようにトリエンナーレに対する考えをお話しいただいた後,スライドを使いながら,主な参加作家を紹介していただいた。その後の質疑応答ではいくつかの質問が出たが,その中に,地域ごとの割合への配慮はあるのかというものがあった。森村氏は,日本以外のアジア諸国からの参加は少ないが,その分,福岡アジア美術館自体に参加してもらっていると言う。森村氏は,自分が活動してきた時代はもっぱら西洋に目を向けていたとした上で,自分としては,日本にある「内なるアジア」が忘れられがちなので,それについて考えていきたいと述べた。
 今回の特別講義では,ヨコハマトリエンナーレに対する考えを率直かつ明快に語っていただいたので,トリエンナーレに対する期待が大きく高まったのではないかと思う。忘れられた作品や作家を再提示しようとする森村氏の方法は「アーカイブ的」と言ってよいものである。芸術資源研究センターとしては,森村氏のトリエンナーレへの取り組みから,「創造のためのアーカイブ」を構想するうえでの多くの手がかりを得ることができたように思う。

(加治屋健司)

特別授業
「横盗り物語/ ヨコハマトリエンナーレに託すもの」
日時:2014年7月7日(月)17:00—19:00
会場:京都市立芸術大学中央棟3階講義室1
講師:森村泰昌(美術家)
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