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美術研究科修士課程の学生作品

芸術学専攻

芸術学

作品名 1920年代の日中美術交流と竹内栖鳳

氏名 李 趙雪

学年 修士課程2回生(2013年修了)

研究テーマ「平安時代から鎌倉時代における仏教版画の変遷についての研究」 森咲花(2013年卒)

研究の概要

竹内栖鳳(1864-1942)は近代京都画壇の代表的な日本画家である。彼の画歴は三つの段階に分けられる。本論ではそれを基づいて検討する。明治11(1881)年から明治33(1900)年における20年間は栖鳳の青年期であり、続く明治33年から大正9(1920)年における20年間は栖鳳の壮年期である。この壮年期の20年間は、栖鳳の西洋美術への関心が顕著であり、多くの学者たちに研究されている時期である。大正9年から昭和17(1942)年における22年間は、竹内栖鳳の晩年期である。この時期に彼が創出した斬新な水墨画に対して「南画傾向」や「四条派の伝統性を継承した」などの表面的な評価が見られるが、その制作の背景や外部の要因など、またその伝統の中にある創新性についてはまだ深く追究されていない。そこで、本論において彼の晩年の作品をあらためて考察し、再評価する。老境になる栖鳳の日本画制作の背景、晩年の作品の創新性について論じる。

栖鳳の晩年の制作には、徐々に東洋美術の伝統を重視する制作姿勢が見られる。それは、1920年代に盛んとなった日中美術界の交流という外因があると考えられる。本論の第1章においては、栖鳳の晩年の制作背景として考察を加えた。近代の混乱期に流出した中国の中世絵画作品の影響下、1920年代の日中美術の交流が隆盛であった。明治維新から脱亜入欧の姿勢を示した日本は、積極的に中国方面と協議を重ね、共同で7回の日華(中日)絵画聯合展覧会を開催した。同時に日本側は「東洋美術」という言葉を頻繁に使い、中国美術界と共に西洋美術とは対置する傾向が見られる。中国近代画壇は「書画同源」の伝統性がなお定着している。東洋美術という理想を実現するため、日中美術の接点として「南画」があらためて注目され、提起された。1920年代の日中美術交流には、両国の美術界の接点とする南画が大きく貢献した。竹内栖鳳は1920年代日中美術の交流に関わった。中国の近代画家である金城、陳師曾、斉白石との交流を保っており、第3回の日華(中日)絵画聯合展覧会から出品した。栖鳳晩年の作風の変化では、中国近代画壇からの影響が感じられる。

栖鳳の晩年の作品には、中国との交流という背景の下で、伝統性が見られる。しかし、栖鳳の晩年の制作は必ずしも保守というわけではない。第2章には、主に1920年後の栖鳳晩年作品について検討していく。晩年に制作されたすべての作品を網羅するとことが不可能だが、一部の作品の検討により、栖鳳の晩年の制作姿勢、作品が持つ創新性を明らかにする。

晩年の栖鳳の制作においては、壮年期の西洋美術を日本画と融合する傾向から、宋元絵画の伝統を自分の制作に取り入れようという制作意欲の転換が、《斑猫》、《鯖》、《子雀之図》などの作品制作から窺える。また、《斑猫》、《鯖》、《秋風宿鴉・柳陰白鷺》、等の作品において、栖鳳が基盤とした伝統構図法は、伝世品、即ち旧来日本の寺院や大名たちが所有してきた伝来品としての中国絵画に由来する。また、《喜雀》などの作品には、中国近代画家や日本の従来の南画系の作品の構図法も使用された。栖鳳晩年の制作に見られる日中の美術伝統に対する態度は、「東洋美術」という理念を基盤とした日華(中日)絵画聯合展覧会と合致していると考えられる。1926年の《蹴合》、1928年の《おぼろ月》などの作品制作から栖鳳の筆法の特徴が徐々に顕在化してきた。これも、筆法が重視されている中国近代画壇の影響ではないであろうかと考えられる。栖鳳は、東洋美術の伝統の基礎下に、新しい空間意識や皴法を創出した。一見すると、伝統への回帰を試みていた竹内栖鳳の晩年の制作であるが、彼ならではの独特の絵画の近代性が内包されている。栖鳳の探求は、旧来の道に従って作り出された独自の創新性であると考えられる。この創新性においては、東洋美術を讃えるという時代背景として世界美術風潮が注目すべきだと考えられる。芸術世界のリーダーといえるパリとアメリカの東海岸は、アジア芸術に対する認識が1920年代に深化してきた。これも、日華(中日)絵画聯合展覧会や東洋美術という概念再び提起された重要な外因であったと考えられる。栖鳳の晩年の作品制作は、世界美術の風潮の下で、アジア美術の近代性という問題に対する一種の答えとも見られる。1920年代の日中美術交流は栖鳳に大きな影響を与え、このような時代風潮こそ、栖鳳の模索の必要条件であると考えられる。

栖鳳の晩年の制作は、東洋独特の文化環境から発展してきた創新性を収めていたといえよう。この時代風潮の影響を受けたのは当然ながら栖鳳ひとりではない。栖鳳の晩年の作品の再評価は、1920年代の日本画壇の再認識や、同時期のほかの日本画家の作品研究にも重要な意義があると考えられる。