KAWARABAN瓦版

瓦版web:01|永武靖子|子育てでオケを退団し音楽教室を始める

永武靖子(ホルン奏者、ラコルノミュージックサロン代表)
千葉県出身。12歳よりホルンを始める。1999年吉祥女子高等学校芸術コース卒業。2004年京都市立芸術大学音楽学部卒業、同年、京都市立芸術大学大学院音楽研究科修士課程に入学し2006年に修了する。卒業後は、関西を中心にフリーランスとして活動したのち、2009年から2017年まで関西フィルハーモニー管弦楽団に3番・1番ホルン奏者として在籍する。これまでに、ホルンを下田太郎、澤敦、猶井正幸、村上哲の各氏に師事、アンドレ・カザレ、ハンス・ピツカの各氏のマスターコースを受講。また、後進の育成にも力を注いでおり、ドルチェ・ミュージック・アカデミーの講師も務めている。中学校・高等学校専修教員免許(音楽)取得。大阪府高槻市の音楽教室ラコルノミュージックサロン代表。

インタビュー:柳楽正人(京都市立芸術大学キャリアデザインセンター音楽アドバイザー)


■友達とのコミュニケーションを学んだ学生時代

―今日はよろしくお願いします。ラコルノミュージックサロンのブログインスタグラム、いつも拝見しています。

永武:ありがとうございます。適当にあげてしまっていますけど(笑)

―でも活発な発信のおかげで、雑誌の取材とか色々とお声がかかってるんですよね?

永武:そうです。だから整った文章を書くよりも、わーっと出してしまったほうがいいなと思ってやっています。整った文章にしようと思ったら時間がかかるじゃないですか。その間に発信したほうがいいのかなっていうのは思います。私が整った人間じゃないから、文章が整っているのに私が整っていなかったら、ラコルノに来た生徒さんとかに「思ってたのと違う」って思われてしまうから。「ああ、あの文章の人ね!」ってギャップがないのが多分いいんです。あの適当な文章を読んで、それでもいいと思う人が来るから長続きすると思うんですよね。適当なのが嫌な人は、あの文章を読んでラコルノには来ないと思うし。素のままを出してると「思ったのと違う」っていう人を生まないし、完璧じゃないから来てくれるという人もいるんじゃないかと思っています。敷居が低いというか。

―しゃべり口調の文章がとても親しみが持てます。学生時代からしゃべるのが好きだったんですか?

永武:大学時代は友達としゃべるのが大好きでした。もちろん練習もしていましたけど、大学では友達とのコミュニケーションを学んだなってすごく思います。そして今、それが生きている。学年関係なく知り合いがたくさんいました。ピアノとか弦楽器とか、色んな専攻の子と広く友達だったのも、今に生きていると感じます。
 ヴァイオリンの先生をしてもらっている中野祥世さんは京芸の後輩です。でも学生のときはお姉さんの方と交流があったんです。お姉さんは私が4回生のときの2回生でした。それで、ヴァイオリンの先生をお願いしたいと思ってお姉さんに相談したんですが、忙しくて都合が合わなくて、妹はどうかなって聞いてくれて先生になってくれています。
 声楽の先生の小川紗奈さんは、私が新しく教室を始めるときに柳楽さん(*インタビュアー)がSNSで拡散してくださって、その投稿を見て練習室をレンタルしてくれるようになった方です。繋がりが繋がりを呼んでるんですよ。


■本気で取り組んだ1年間

―学生時代は「卒業したらプロのオーケストラに入りたい!」という感じだったんですか?

永武:ホルンを職業にするんだったら、やっぱりオーケストラに入るしかないと思ってました。まず自分がどこまで通用するかはやりたかったですよね。3回生までは猶井正幸先生に教えていただいて、4回生から村上哲先生に変わったんですけど、まだ村上先生に学びたいと思って大学院に進学しました。
 オーケストラのオーディションは色々と受けていたけど全然うまくいかなくて、大学院を修了して2年目ぐらいに、この1年間はもっと本腰を入れてやろうって思った年がありました。その年の4月に思い切って新しい楽器を買って練習をしまくりました。演奏の仕事は何でも引き受けるのではなく、オーディションの前とかにはあまり仕事を入れないような感じで、調子が整えられるようにやっていました。
 そしてこの1年は「私はプロオーケストラのホルン奏者になる道しかない」って自分のことを自分で決めてしまうんじゃなくて、自分の価値を他人に決めてもらうというか、全部の道を試した年でもありました。
 7月には教員採用試験も受けました。でも勉強は一生懸命したけれど、面接の対策はしなかったんです。入りたいからといって模範解答を覚えていくんじゃなくて、私が学校の先生になるんだったらこう思ってやります、これでどうですか? みたいな感じで、本当に言いたいことだけ言おうと思っていました。結局受からなかったので、こういう先生になりたいっていうのは好まれていない、欲しいと思われてないんだなと思いました。
 8月には日本音楽コンクールを受けました。すごく頑張って練習したら、二次予選はだめだったけど一次には残ったんです。そして10月に大阪フィルハーモニー交響楽団のホルンの下吹き(主に低音域を担当する奏者)のオーディションと、関西フィルハーモニー管弦楽団のホルンの上吹き(主に高音域を担当する奏者)のオーディションが2日違いぐらいであったので、両方とも受けたんです。これも「私は上吹きだ」って自分で決めるんじゃなくて、課題曲は倍になるけどどっちも練習して、下吹きとして欲しいと思われたら下吹きでやるし、上吹きで欲しいと思われたら上吹きでやると思っていました。そうしたら、大フィルは残れなかったんですが、その2日後にあった関フィルには受かったんです。

* 大阪フィルハーモニー交響楽団は1947年創設、関西フィルハーモニー関西は1970年創設のともに大阪に本拠地を置くプロオーケストラ。それぞれ「大フィル」「関フィル」という通称で親しまれている。
―色んなことをやってみて、それを誰かに評価してもらえればいいっていうのは、昔から持っておられた考え方なんですか?

永武:そんなことはないです。高校も大学も自分で決めて受けてきたので。全部自分で決めてはきたんですけど、仕事は必要とされているところに行きたいって思ったんですかね。

―教員採用試験の面接への挑み方などは、今のブログの発信の仕方とも通じるところがあるかもしれないですね。まず素の自分を出しておいて、それがいいと思った人に来てもらいたいという。

永武:そうですね。確かにそこはブレてないかもしれません。

―そうやって本気で取り組んだ1年があって、自分の道を切り開いていけたわけですね。

永武:本腰を入れてやろうと思った前の年に、占いに行ったんです。結婚のこととか留学のこととかを聞きにいって、そこで「音楽は辞めなくていい」って言われたんです。向いてないとかはないから、頑張ってやればいいよって言ってくれて。留学に関しては、してもしなくても一緒だよって言われたんです。だから、してもしなくても一緒ならお金を使わなくていいかって。

―めちゃめちゃ信じるじゃないですか(笑)

永武:占いは割と信じるんです(笑)。それで突き進んでいけたのもあったんですよね。悩まないで行けた。しかも、私の心の支えになっているピアニストの久保千尋さんがずっと留学してたんですけど、頑張ろうと思ったその1年は日本にいたんですよ。だからオーディションもコンクールもピアノを弾いてくれて、それも追い風になりました。

――自分で道を作っていった部分もあるけれど、占いが後押ししてくれたとか、信頼できるピアニストがたまたま日本にいたとか、色んなタイミングも重なっていたんですね。

永武:そうです。そのタイミングに乗れるかどうか。色んなところにアンテナを張っておかないと、そのタイミングを逃してしまうと思っています。音楽教室を始めたいなと思っていたとき、グランドピアノが欲しかったんです。そうしたらフェイスブックで「グランドピアノを安くで買いませんか?」という投稿を見つけて、その人から買ったんですよ。それに一番に返信したのが私だったので。その投稿を見ていたから手に入れられたんです。
 あとは、私がアンテナを張ってることを他人が知ってるかということも大事だと思います。周りに言っておくことで「あのとき、やっちゃんが言ってたな」みたいな感じで情報を教えてもらえたりもします。


仕事と子育てを両立することの難しさ

―関フィルには何年在籍されていたんでしたっけ?

永武:2009年から2017年の8年間です。その間に2回育休を取っているんですけど。オーケストラに入っていると雇用保険とかが充実していて、もしもフリーランスの奏者だったら子供を産んでも何もないけれど、オーケストラに入っているときに子供を産んだので、産休も育休あってその間もお給料をいただけるのは、すごくありがたかったです。
 女性の先輩方からは、子供が欲しいんだったら、仕事が充実してる間はいらないとかではなくて、後回しにしていたら欲しいと思っても難しくなるかもよ、みたいな話を聞いていました。この辺は計画的にできないことなので。私は意外と早くできたんですけど、本当はもうちょっと後でもいいかなとは思ってたし、子供ができたからオーケストラを続けられなくなったのもあるんですけど、でもそんなことは言ってられないですからね。

―子育てをしながら演奏活動をされている人たちを見ていると、ご本人の努力はもちろんですが、親の協力がないと難しい部分もあるのかなという気がしています。

永武:そうです! 本当におじいちゃん、おばあちゃんが子育てをしてくれないと両立は難しいですね。うちはそうじゃなかったので。
 私は、女の人でも子育てをしながらオーケストラ奏者はできるよって示したかったし、女の人もオーディションとかに受かりやすいように、真面目に頑張って仕事は続けたかったんです。道を広げていきたかったなとは思ってます。だけど逆に私が辞めたから、女の人たちに申し訳ないなとは思っています。

―いやいや、そんなことは思わないでください!

永武:でもやっぱり、1人の子育てと2人の子育てとでは2倍ではなかったですね。もっと大変でした。1人目のときもそうだったけど、私がシビアな本番があるときは、子供の調子も悪くなるんですよ。私が精神的に不安定だから。保育園で「お母さん最近、忙しいですか?」とか聞かれて。ちゃんと迎えには行ってるんですよ。「どうしてですか?」って聞いたら、すごく荒れてるんですって言われて。ああ、全然よくないなって思いました。
 保育園は親がすぐに迎えに行けるのが前提なんですよ。熱を出したとか怪我したとかがあるので。そういうのも、自分の親が近くにいる人は働いていてもできるだろうけど、私は親が近くじゃなかったので、そういうのも全然できなくて。オーケストラは土日も本番があるけど、土日の保育園っていうのも全然なくて、そういうのもあってどうしてもオーケストラが続けられなかったんです。

―最初は続けられると思っていましたか?

永武:はい。そして皆さんは続けていたけど、他の人たちは、やっぱり親の協力がありました。あとはいいベビーシッターさんに出会えているとか。私はベビーシッターさんが引っ越しちゃっていなくなったんです。そういうタイミングが全部、辞める方向に向かっていたんだなと思います。

オーケストラを退団して音楽教室を始める

―オーケストラを退団してから、どうしようと思われていたんですか?

永武:オーケストラを辞めてから、レストランでアルバイトもしていたんですけど、家でできる仕事はないかなって色々考えてたんです。どうやって自分でお金を生み出すかを考えましたね。子育てをしながらできる仕事を自分で考えて編み出したのが、今のラコルノです。
 オーケストラにいたときは、大学の友達とかと会えていたんですよ。でもオーケストラを辞めたら誰にも会えなくなってしまったので、じゃあみんなを先生にして家に呼ぼうって思ったんです。

―お友達に会いたいからっていう動機がすごいですね(笑)。音楽教室をやるにしても、見ず知らずの上手な先生を集めるんじゃなくて……

永武:私が会いたい人、それが基準です(笑)。大学の友達はみんな優秀ですからね。
 今、チューバの北畑聡子さんがラコルノでレッスンをしてくれているんですけど、北畑さんも私がオケを辞めた時期ぐらいに子供を2人産んでいて、やっぱり仕事がしにくかったんです。音楽教室にレッスンに行くためには誰かに子供を預けていかないとできないから。ここでは北畑さんが生徒を見ている間、私が子供を見てるんですよ。北畑さんが他の仕事を引き受けるときは、旦那さんに有給を取ってもらって旦那さんが子供を見るけど、レッスンは全部ラコルノですることにして、その間に私は子供を見るっていうシステムを作ったんです。そしたら私は北畑さんに会えるし、北畑さんもお仕事ができるし、北畑さんに習いたい人も来ることができる。みんなが幸せです。
―ゼロから音楽教室をはじめるのに不安はなかったですか?

永武:最初からお金を生み出せるかわからなかったから、自宅の自分が練習していた部屋だけをレッスン室にしてスタートしたんです。最初は大人だけの音楽教室だったけど、子供も行けそうだなと思って子供にも広げていきました。初めにバーンと教室を作って始めたんじゃなくて、ちょっとずつじわじわじわと大きくなっていったんです。

―ということは、最初は他にも収入源を確保されていたということでしょうか?

永武:そうです。レストランのバイトで。だから転んでも痛くない程度で始めた感じです。
 今、教室のドアがあるところはもともとシャッターが閉まっていて、教室には裏から入ってもらうしかなかったので、表通りから気づいてもらえなかったんですよ。今は表にドアをつけて部屋をふたつにして、教室の収入も倍になりました。自分でいうのもおかしいけど、私、経営の才能があったのかなって思ってます。

―自分でどの辺りに才能があったと思いますか?

永武:タイミングですかね。私は全てポジティブに捉えるんです。例えば「コロナのせいで」じゃなくて「コロナがあったから」って考える。コロナがあったから、玄関を自分の家用の玄関と教室の玄関に分けないとだめだなと思って、トイレもそれまでは二階に上がってもらっていたんですけど、一階に作ったら一階だけで教室として全部が完結するなと思って。それは「コロナがあったから」って思えたんですよ。
 それで、コロナ対策のための補助金というのができたので、それに応募したら採択されて、お金ももらえたんです。その辺もタイミングがよかったなと思って。もしも先行投資で教室を作っていたら、何の補助金もなかったんですよ。だからラッキーというか。

―でもラッキーと思えるまでの段階で、実際には色々と動いているんじゃないかと思いますよ。

永武:コロナ対策のために部屋を増やしたいなと思ったから、そこでアンテナを張ることができて、文化庁の補助金を調べたら、増築は対象外でだめだったけれど、よく読んでみたら「小規模事業者持続化補助金とは並行して使えません」って書いてあったんですよ。それで、小規模事業者持続化補助金って何だと思って調べたら、それは増築やトイレを作るのもOKということがわかって、だからそっちに行けたんですよね。自分が何かしたいと思ったときにアンテナを張る。それでしょうね。
 あと、友達とか知り合いとかと話しているときに、色んなヒントをもらっています。ここを改装するときに駐車場を潰すか悩んでいたんですけど、でも駐車場がなくなるのは惜しいなという話を友達にしたら「月極で借りたら?」って言ってもらって、でもお金がかかるしって言ったら「月極で払う分以上に稼げばいいんでしょ?」みたいなことを言われて。ああ、なるほどって。

―「なるほど」ってなりますかね?(笑)

永武:私、素直だから「なるほどね!」ってなるんです(笑)。そういうアドバイスをもらえるのも、自分を隠さないからかな。隠さないから、実はうちもね……って教えてもらえたりするんですよ。
 あとは、飾らない。飾らないし完璧じゃないから、ブログを書いてたりインスタグラムをしてても、みんなすごくアドバイスしてくれるんです。もうちょっとこうしたほうがいいんじゃないですか、みたいなのを。なるほどと思って私がそれを素直に受け止めて改善したら、その人もすごく幸せじゃないですか。私が言ったことを採用してくれたって。みんな助けてくれるんですよ。講師の先生たちもみんな助けてくれて、足りないことを補ってくれるんです。素の自分でいいのかなって思います。


音楽をやりたい人のサポートをしたい

―もし子供を産んでいなかったら別の人生があったかもしれないですが、もちろん産んだことはよかったわけですよね?

永武:はい、いてよかったです。私は今、自分がホルンを演奏して音楽を後世に残さなくても、同世代で上手い人がたくさんいるから、私が続けなくても、私はこのふたりの子供のお母さんであることのほうが大事だなって思っています。世の中の人たちのためにホルン吹きをするよりは、一線を退いても子供たちを育てる方が大事だと思えるようになりました。
 子供を産むまでは、私も頑張って上手い人たちみたいになろう、いい演奏、感動させる演奏ができる奏者になろうと思っていました。そう思っていたけれど、子供を産んでオーケストラをやってると、例えばオ―ケストラ以外の、外部からやりたい仕事の依頼があったとしても、それを引き受けられなくなっていくじゃないですか。所属しているオーケストラの仕事だけで手一杯になるし、やっぱり無理だな、みたいなのが始まってたかもしれません。

―自分で演奏を届けていた立場から教える場を提供する人になるのに、迷いのようなものはなかったですか?

永武:私は自分の演奏を聴いてほしいと思うより、音楽をやりたい人のサポートをする側のほうが好きかもしれないって思います。オーケストラにいるときに、楽器店が運営している音楽スクールの講師もさせてもらっていてレッスンもしてたんですけれど、生徒さんが上手になることは、自分が上手に演奏するのと同じぐらい、いいことをしたという充実感を得られるようになりました。
 2人目を産んだ育休のときに、アマチュアのオーケストラに行かせてもらっていたんです。ずっと休んでから復帰する一発目が、リハーサル1日ですぐ本番とかは怖かったので。育休中は仕事としての本番はだめだったんですけど、アマチュアだったら大丈夫だったから、後輩が入っているママさんオケに行かせてもらってたんです。私はプロでやっているけど、アマチュアの人と演奏するのは全然嫌じゃなくて。多分、嫌な人は嫌なんですよ。でも私は、みんながやりたいと思って楽しく演奏してるところに交わるのが楽しかったんですよね。だから別にプロじゃなくてもいいのかな、みたいなのを思ったこともありました。そういう経験もあって、プロのオーケストラだけが音楽をする場所じゃないなとか思ったりしていました。
 ママさんオケは、みんなママさんだから多分練習する暇もないし、レッスンとかに行く余裕もないし、集まったそのときだけ吹いているんですけど、「この辺を気をつけたら上手くなるんじゃないかな」とか思うことはあったから、そういう人たちが来られるような敷居が低い音楽教室を作って、アドバイスできればいいなぁとかちょっと思ってたんです。

―それは、音楽教室を始めるよりも随分と前の話ですよね。

永武:そうです。そのときは関フィルに復帰するために行ってましたから。そのときに、そういう場所があるのを知ったという感じです。色んな人がいて、色んな経験があって、色んな楽しみ方があるなって。色んな人に出会って思いましたね。

―そうやってこれまでに経験してきたことが全部、今に集約されてるんですね。ホルン奏者としての専門的な経験はもちろん、おしゃべりが大好きだった学生時代の人脈、子育てをして感じた色んな思いや経験、素の自分をさらけ出すこと、自分を決めつけずに他人に評価してもらうスタンス、タイミングに乗るためのアンテナの張り方。今のラコルノにそれら全てが詰まっているように感じます。今日は貴重なお話しをありがとうございました。

ラコルノミュージックサロン
大阪府高槻市にある音楽教室、レンタル打楽器、レンタルルーム。ホルン、パーカッション、ピアノ、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラなどのレッスンを行っている。開設4年目の2022年1月現在、生徒数は子供から大人まで約50人、レンタルルーム会員は約10人。

ウェブサイト:https://www.lacorno.com
ブログ:https://ameblo.jp/lacorno/
インスタグラム:https://www.instagram.com/lacornomusic/

CONTACT

お問合せ/相談予約