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瓦版web:11|広沢翼|フルートを、ビジネスを、選んだ先の世界線

広沢翼(動画クリエイター)
群馬県前橋市出身。12歳よりフルートを始める。京都市立芸術大学音楽学部卒業後、渡仏。パリ19区ジャック・イベール音楽院にてミエ・ウルクズノフ氏に師事。2018年、DEM(音楽研究資格)試験に審査員満場一致で合格し帰国。ライブツアーやリサイタル、スタジオ録音、オーケストラへのエキストラを経験したのち、2021年より映像制作に携わる。コンサート収録や配信ライブでの撮影のほか、企業案件などの動画制作を主軸として活動している。

インタビュー:柳楽正人(京都市立芸術大学キャリアデザインセンター音楽アドバイザー)



■フランス留学から帰国し動き続けた1年

―広沢さんは京芸を卒業してからフランスに留学されたんですよね。

広沢:この先音楽とどう付き合っていくかを決めきれないまま卒業を迎えてしまったので、フルートの本場ともいえるフランスでもう少しだけ学ぼうと決心して、学部卒業後にフランスへ3年間留学しました。フランスで習った先生はいわゆる異端児というか、ジャンルにとらわれずクラシックから即興演奏、アフリカ音楽やインド音楽まで何でもオールマイティーにこなしてしまう先生だったんですね。先生のおかげですごく世界が広がって、色んなインスピレーションを受け、インド音楽やジャズなどの即興演奏の世界に興味を持ち始めました。でも即興演奏って一朝一夕で習得できるようなものじゃないんです。フランスで学び切るには至らず、2018年の夏に本帰国しました。
フランス留学時代
 最初はその延長線上で、即興の分野で活躍している人たちに会いに行きました。フルートでジャズをやっている音楽家や、インドのバンスリーという笛を教えてらっしゃる先生に会ってレッスンを受けたり、ライブに出させてもらったりしました。クラシック方面でも、それまで面識はありませんでしたが、いつか必ずお会いしてみたいと思っていた多久潤一朗さんに会いに行き、低音フルートの「メデルダン」というグループの存在を知り、そこに入団するためにアルトフルートを購入しました(笑)。合宿に参加したりスタジオ収録に呼んでもらったりして、たくさん嬉しいアドバイスをいただいて。帰国1年目は結構楽しかったですね。
 とにかく視野を広げたくて、興味ある分野について詳しい人に教わりに行くという日々を過ごしていました。東京にほとんど人脈がなかったので、フリーランスの演奏家としてやっていくためには、とにかく広げていくしかないと思っていたんです。帰ってから1年間は、我ながらものすごい活動量でした。何とかして自分で動かないとダメだという焦りからだったと思うんですが。すごく忙しかったですね。
即興ライブに飛び入り参加
―日本に帰国した時は、東京に住まれたんですか?

広沢:最初は実家のある群馬に戻りました。群馬と東京は日帰りもできる距離なんです。東京では活動の幅を広げていましたが、群馬では全然広げることができませんでした。地方都市あるあるだと思うんですけど、やっぱり群馬は演奏させてもらえる機会が少なすぎる。自分で切り拓くしかないと思って、ロビーコンサートをやっているところや市の施設とか、色んなところにコンサートをやらせてもらえないか掛け合ってみたんですが、全然思ってたようには進まなくて、苛立ちを感じていました。



■アンテナが音楽からビジネスの世界へ

広沢:そうやって色々と動いている時、ある社長さんとお話しをする機会があったんです。その時に『群馬イノベーションスクール』というのがあるよと教えてもらいました。何か課題を抱えていて、それを自身のアイディアで解決できないか、そういうイノベーティブなことを考えている人が、試験や面談を経て1年間、月1回の勉強会に参加できるんです。「そんなところがあるんだ!」と思ってダメ元で受けてみたら、何故か通っちゃったんですよ。それで4月から演奏活動と並行しながら月1回の勉強会に行っていました。

―帰国した翌年の2019年4月からということですね。

広沢:イノベーションスクールに行ってみてわかったのは、自分にはビジョンはあるけれど計画性が無いということ。それと「こんなのがあったらいいのに」ということは既にやってる人がいるということ。演奏したいアーティストと、演奏できそうな場所とのマッチングができないか、そういうビジネスモデルを考えたんですけど、実際にもうやっている人がいたんですよ。それで調べてみると、そこまで需要と供給がマッチしていなかったんです。それを知って、イノベーションスクールでやろうとしていたことは若干挫折した感じでした。
 でもそこで学んだことはすごく多かったです。音楽家には思いつかない斬新なアイデアが出てきたり、こんなに色んなアイデアが浮かんでくるものなんだなって。私がそこで得たのは「ビジネスの世界、楽しいじゃん!」っていう感覚だったんですよ。これまで経験したことがない世界だったので、アンテナが徐々に音楽からビジネスに向かい始めました。
群馬イノベーションスクール修了式
 さらに大きなきっかけになったのが、友達と屋台村みたいなところに遊びに行った時に、たまたま目の前に座ったカップルと話をしたことでした。その人との会話がきっかけとなって、結果的にがっつりビジネスに振り切る1年が始まったんです。ビジネスをやってお金を稼ぎたいんだったら絶対に東京の方がいいよと背中を押されて、東京に出ることにしました。

―それは帰国2年目のうちの話ですか?

広沢:はい、2019年です。東京に出てきた当初は、とにかく家賃を払わないといけないのでアルバイトを掛け持ちしていました。でもアルバイトをどんなに頑張っても、思ったよりも全然稼げないということが恥ずかしながら初めてわかって、東京で暮らして音楽活動をするなんて全然無理だと思いました。生きていくことが大変すぎて、実家にいた時は精力的にやっていたことが何もできなくなっちゃったんです。楽器を練習する暇もないぐらいだったので。
 屋台村で会った人には、東京でも色々と話を聞いてもらっていました。そこで私は、自分が『しっかりとした経済基盤があること』を重要視していることを初めて自覚しました。「経済的な基盤を作ってからでも、音楽には戻れるんじゃない?」というアドバイスをいただき、最終的にフルートを続けるのは一旦辞めようという結論に至ったんです。2020年の頭にリサイタルを計画していたので、それを区切りにしようと思いました。そうしたらほぼ同じタイミングでコロナが来たんです。私にとっては都合がよかった。それで一旦音楽は辞めて、保険会社に就職しました。
2020年2月、区切りと決めたリサイタル


■休みなくハードに活動するカオスな東京生活

広沢:保険会社は営業職だったんですが、コロナが始まった年だったので、営業ノルマを達成しなくてもお給料が満額もらえる、給料泥棒状態でした(笑)。金融関係の資格試験があったので、FP(ファイナンシャルプランナー)3級くらいのファイナンシャルリテラシーを勉強しました。
 その時期、すごくいい学びの場になったのは、アメリカのランドマークワールドワイド社がやっている『ブレークスルーテクノロジー』というセミナーでした。一言でまとめるのは難しいんですが、自己の可能性を見出す、その名の通りブレークスルーを引き起こすといった内容のセミナーです。この研修は本当に受けてよかったと今でも思います。屋台村で出会った人の会社でも勉強会がいくつも開かれていて、そこにも参加してビジネスのいろはを叩き込まれました。それもすごく為になりました。
 でも、この頃が一番カオスでした。色んな活動やセミナーに参加して自己投資をするのが当たり前の感覚だったので、お金も湯水のように使って朝から晩まで毎日フルで動いてました。週1ペースでセミナーを受けていて、寝る時間も削るぐらいのことをしてたんです。最初の半年は楽しかったんですけど、後半は徐々にしんどくなってきて。結局、東京には1年半しかいませんでした。あまりにもハードに動きすぎた。やってみて気付いたのは、私はフィジカルもメンタルもさほど強くなかったんです。

―いやいや、この動き方は相当にフィジカルとメンタルが必要だと思いますよ!

広沢:20代だからできた頑張り方だと思います。こういう1年を過ごしたことで、自分の向き不向きや得意不得意がよく分かりました。最初は「やればできる!」と思っていたことが、思いの外できないということがわかった。色んな活動をしていくうちに、私には無理かもしれないというものが見え始めました。そして結局フィジカルもメンタルもボロボロになって、2021年の3月に群馬に戻ったんです。

―保険会社もその時期に辞められたんですね。

広沢:元々この仕事は収入源のひとつとしか思っていなかったので(笑)。正社員で入社したので散々止められましたが、メンタルが相当やられているということで辞めさせていただきました。素晴らしい上司には恵まれていたので、本当に申し訳なかったです。
保険会社入社当初


■フィジカルもメンタルもボロボロになって群馬に戻る

広沢:実家に戻った時は、多分ちょっと鬱状態でした。2年前にあれだけエネルギッシュにやっていたことが嘘のように、何もしたくなくなっちゃって。そこから健全なメンタルに戻るのに2~3年かかりました。それだけ無理してたんだと思うんです。
 群馬に帰ってからは、ニートの期間が半年近くあったんです。この先どうなっちゃうんだろうと思いました。その時、定年退職していた父がセカンドライフ的に音楽事務所のようなことをやり始めていたんですが、コンサートの映像やミュージックビデオの制作が軽くできるといいからと言って、パソコンとカメラを買ってくれました。もともと私が撮る写真を褒めてくれていたんです。30歳にして初めてパソコンを触るぐらいの感じだったんですけど、YouTubeで基本的な操作方法を見ながら、独学で動画を編集できるようになりました。ニートの半年間で何となくパソコンとカメラは覚えましたね。

―ニートというより、社会復帰のためのリハビリ期間という感じですね。

広沢:ちょうどその時期に、今の主人とお付き合いを始めていました。最初は群馬と東京を行き来していたんですが、ある時私が東京でコロナを発症してしまって、しばらく実家に帰ることができなくなってしまったんです。それがきっかけで同棲を始めました。東京に出てから「バイトでもいいから何か動画の会社を探してやってみれば?」と助言されて、未経験でも採用してくれる会社に入りました。そこでPhotoshopなどの扱いも教えてもらいながら、動画編集もちょっとずつできることが増えていきました。その後、主人がWebマーケティングの会社を設立したのでそこは1年で辞めて、会社の動画部門で仕事をするようになりました。
東京で動画を仕事にし始めた頃
―お父さんの音楽事務所の映像関係は、今もされてるんですか?

広沢:始めたての頃にミュージックビデオを撮らせていただいた方々のコンサート撮影の依頼を今でも受けています。そのほか年に3~4回フライヤーを作ったり、演奏で携わることもあります。今は自分が心地良いペース、心地よい仕事量でやれています。やっと心の平穏を保ちつつ、それなりに収入があるという状況になれた感じですね。



■心の底から音楽活動をやりたいとは思っていなかったのかな

―広沢さん自身の演奏活動に対するモチベーションは、今どのくらいあるんですか?

広沢:演奏の頻度としては今は年に2~3回くらいです。それくらいでちょうどいい。埼玉にある武蔵ホールで、ライブ配信の撮影担当として携わっているんですが、最初に手伝ってほしいと言われた時はまだ若干鬱だったので、第一線で活躍されている方々の演奏を目の前にして、どういう感情が浮かんでくるか不安でした。嫉妬を感じたりするのだろうかと思って。でも、全然そんなことはなかった。その美しい瞬間をどれだけ美しい映像で収められるかということに対して純粋にワクワクして、フルーティストとしての自分はいなかったんです。「私だってああなれたかもしれない」とか「私も同じ場所に立ちたい」とか、そういう感情が湧き上がることはなかったんですよね。

―その感情を自分ではどう受け止めましたか?

広沢:心の底から音楽活動をやりたいとは思っていなかったのかな、と思いました。それが自分の理想像だったら「私だって表舞台の人間だったはずなのに」って嫉妬すると思うんです。でもそういう思いが全く出てこなかった。そもそも私は、舞台上で表現して人にインスピレーションを与えたいとか、自分の音楽を届けたいとか、そういうモチベーションは最初からなかったんだなと思いました。
 でもそれは学生時代からずっと気付いていたことで、表現者とか芸術家には向いてないなとはずっと思っていたんです。在学中から色んなコンサートを企画してやっている同期や先輩、後輩を見ても、すごいなぁと思うだけで、じゃあ自分もやろう!とはならなかった。私はまだそういうコアな楽しみを見出せていないだけで、いずれは没頭できるタイミングが来るんじゃないかって期待していたんですが、残念ながらそのタイミングは訪れませんでした。
 私、高3の時に薬学部の受験に失敗していて、全く同じことをもう1年繰り返すのが無理すぎて、消去法でフルートを選んだんです。そのツケが回ってきた感じはありますね。

―最初から音楽の道を目指していたわけではなかったんですね。どうして薬学部だったんですか?

広沢:自分でちゃんと稼ぎたかったんですよね。ある程度ちゃんと稼げる女性になりたかったというか。自立したかったんです。なぜそう思い始めたのかは自分でもよくわからないんですけど。誰かに頼って生きるんじゃなくて、自分が稼いだからこそ自分の自由があるみたいな生活にずっと憧れがありました。
武蔵ホールの制作チーム


■日々の小さな選択で無数の世界線を渡り歩いていく

―結果だけを追うと広沢さんの道のりは異色に見えるけど、お話しを伺ってみるとその時々で筋を通してこられた感じがします。

広沢:自分なりの正解を求めてましたね。その時その時のベストは尽くしていたと思います。あの時もうちょっとああすればよかったとか、やらなきゃよかったみたいな後悔はあまりないんです。その時々の私のポテンシャルでできたベストだったのかなと。
 世の中には無数の世界線があって、ひとつの選択で世界をどんどん移動していくという説があります。アニメなんかではファンタジックに描かれていますが、現実の世界にも色んな世界線が無数にあって、それぞれの世界でそれぞれが生きていて、一緒の世界線で鉢合うこともあれば、鉢合った人がまた全然違う世界線で生きていることもある。一本の運命線だけじゃないんだろうなと最近は考えています。そう考えると可能性は無限にあるし、全てにおいて違う結末が選べる。ターニングポイントみたいな大きな選択肢はあったとしても、別にそれが最後の選択じゃなくて、日々の小さな選択の先にも色んな世界線があって、あっちに行ってもまた戻ることができるのかもしれない。そういう気楽な考え方で今は生きています。

―今はそう思えているけど、そうじゃない時代もあったということですよね?

広沢:ありました。大学時代は特にそうだったかも。正解の綱を引きたい、正解を選ばなきゃという感じがすごくありました。しかもそれは、自分にとっての正解じゃなくて、何となくこの世界での正解らしいもの。だけど全然見えてないから、その綱は3本とか4本しかないじゃないですか。見えている綱以外にも本当はいっぱいあるのに、全然見えてない。大学時代はそういう感じでしたね。
 高校の時にもっと色んなものを知りたかったなと思います。就活とかで初めて性格診断とか自己分析ってするじゃないですか。もっと早くてもいいと思ってます。高校くらいの時に、自分が好きだったり得意なものだったりをもっともっとちゃんと可視化して、色んなものに触れる機会があればもうちょっと違ったんじゃないかなと思うことがあります。あまりにも世界を知らなさすぎた。そういうものを10代の時に見つけて、才能を開花させている人を見ると、正直嫉妬してしまいます。自分が持って生まれたものをしっかり活かせている人、開花できる環境があったり、それに自分で気付けた人に対して、すごく羨ましいと感じます。もちろんそれは本人の努力あってこそですが。
 高校時代、本当にぼーっとしてたんですよ(笑)。戻れるものなら高校時代をやり直したい。色んなことに片足を突っ込みながら、何がいいかなって試してみたいです。中学や高校の多感な頃に学んだことは、一生ものだと思うんですよね。本当にもったいない時間の過ごし方をしてたなと思います。
高校時代、吹奏楽部


■視野が広いと思っていたけれど……

―見えているものが多いほど、選べる選択肢は増えていきますよね。

広沢:ビジネスのセミナーで耳の痛いフィードバックをいただく機会がありました。私は自分ではわりと視野が広い方だと思っていたんですが、「むしろ狭そうだけどね」って言われて(笑)。ショックでした。音楽をやっている人間の中ではちょっと視野が広いぐらいには思っていたのに、あ、狭かったのかと思って。自分は視野が狭いんだと自覚してから、むしろ見える世界が広がってきたと思います。今も視野は狭いんだと思いながら過ごしています。私はまだ音楽の世界からちょっと外に出てみただけで、ちょっと正社員を1年経験しただけで、ちょっと社会のことを知れただけで、まだ何もわかってないんだろうなって。

―自分では視野は広い方だし、メンタルも強い方だと思ってたのに。

広沢:20代の頃はそうでした。でも実際に動いてみた結果、そうでもなかった。帰国してからの数年間、とにかく焦燥感に駆られていて、本当はどうしたいのかとか明確な目標や計画を立てず、思い付くままに行動していました。遠回りをしたかもしれませんが、自分の可能性に賭けていた部分もあったので、それが間違っていたとは思いません。
コロナ禍に何度も開いたZoom
 ある時、10歳くらい年上の方に「30歳を超えると、良くも悪くも感情の起伏がなくなってくるよ」と言われたことがあるんです。本当に起伏がなくなってきている感覚があります。あの時はこういう風に思えたのになって。でも20代のときは、その行動力に伴って「これは正解」「これは間違ってる」みたいな考えの偏りがありました。色眼鏡をかけて世界を見ていたんですね。でも世界には十人十色の正解があって、そもそも正解も不正解もないって30代になって考えられるようになりました。
 生まれた環境や場所からして、この世界は不平等で不公平じゃないですか。全く同じチャンスがあるとか、同じものを与えられるわけじゃない。私は家庭環境にすごく恵まれていました。パソコンもカメラも買ってもらえるし、楽器だって好きに買ってもらえた。音楽の道に進んで留学までさせてもらって、帰っておいでと言われたらいつでも帰れたし、帰りたいと思える家だった。でもそうじゃない人はいっぱいいて、こんな環境で生きてきた私が「そんな生き方は間違ってる」なんて、傲慢にも程があるじゃないですか。それこそ視野が狭かったなと思います。どんな思いで音楽をやっているのかも本当に違いますし、自分には想像もつかないような経験を経てその選択をしている人だっているわけで、目に見えることだけで判断して「この人の人生はダサい」みたいに思うこと自体がダサいと今は思います。



■本当に好きかどうかが一番大切

―現在のお仕事は、ご主人の会社をメインにされているんですか?

広沢:そうですね、今は動画編集の傍ら主人の会社のサポートをしている感じです。まだ法人設立3年目で、やっと人事や財務のプロが入ったおかげで、ぐちゃぐちゃだった内部が整いつつある段階です。やらなきゃいけないことが毎日降り掛かってきて、わぁーっとなる時もありますが、それが嫌というわけではない。支えることも一つの仕事だと感じています。
 主人の仕事はITなので、これからどんどん変化していくと思うんですよ。GoogleやMetaが施策を出す毎に対応せざるを得ないし、来年には全て変わっているといったことが全然あり得る業界なので、だからこそ柔軟に対応できる体制でやっていかなければなりません。

―広沢さん自身の活動としては、動画クリエイターということでいいんですかね?

広沢:私は飽きっぽいので、実はちょっと動画編集に飽きてきています(笑)。やり始めた当初は「こんなものを作れるようになりたい」っていうのがあったんですが、今は何かちょっと違うな。そのうちAIができるようになる仕事だと思っているので、時間の問題だなと思いつつやっています。次に何をやるかはまだ探し中です。時代と共にアップデートしていく感じになると思っています。

―もしかしたら数年後は、またフルート奏者としてバリバリ活躍しているかもしれないですね(笑)。もともとビジネスの道に入ったのは、音楽活動を広げたいというのがきっかけだったと思うんですけど、音楽とビジネスを絡めることはやっぱり難しそうですか?

広沢:イノベーションスクールやセミナーを受ける中で、音楽とビジネスは結びつけない方がいいという結論に至りました。音楽をやるからには仕事として稼げなきゃという思いがあったので、何とかマネタイズできないかとか、音楽家は稼げないというイメージを根本的に見直したいというのはあったんですけど、クラシック業界は市場が小さすぎる。そして何より、お金にちゃんと向き合える人が少ない。
 これは正解不正解はないと思うんですけど、私の価値観としては、見合った対価が得られないのであれば、ボランティアで演奏を続けていくことはしたくないんです。惰性で続けるくらいだったらスパッとやめたい。好きだったらできるかもしれないですけど、私は根っからの音楽家ではないので。京芸を受験する時、大嶋義実先生に「塩を舐めてでもフルートを続けたいか」って聞かれたんです。「え、普通に無理」って思いました(笑)。あれが答えだったのかもしれません。
父の音楽事務所での仕事
 京芸の音楽学部の人たちに何を一番伝えたいかと言われたら、「本当に好きかどうかが一番大切」と伝えたい。それに尽きると思います。好きだったら続けられる。好きなことの続け方は十人十色でいいと思っています。でも「今まで続けてきたからこれを選ばなきゃ」みたいに思っちゃうと自分の可能性を潰してしまう。それはすごくもったいないと思いますね。特に大学を出たての頃はそういうことに縛られてしまって、今さら辞められないと思ってしまう。4年間で自分自身としっかり向き合って、自分の本当のモチベーションはどこにあるのか、在学中に見極められたら一番いいと思います。

―そのためにも視野を広げて色んなものを見て、選択肢を増やしていくことが大事ということですね。貴重なお話をありがとうございました。また何年か後に、その時の広沢さんがどんな世界線にいるのか伺わせてください!
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