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瓦版web:04|川内奈保子|歌に生き、吹奏楽に生き、教育に生き

川内奈保子(ソプラノ歌手、大和大学教育学部准教授)
1996年京都市立芸術大学大学院修士課程修了。1996年渡米、ボストンにあるニューイングランド音楽院付属オペラストゥディオに1年間在籍後、同大学院修士課程を"with honor"[優等]の評価を受け、修了。留学中、マサチューセッツ州、バーモント州、ロードアイランド州などの、コンサートに出演。アメリカ国立スミソニアン博物館におけるレセプションで歌う機会を得、好評を博す。

帰国後、多数のコンクールで受賞。第2回 チェコ音楽コンクール 第3位、チェコ大使館における受賞者コンサートに出演。第5回 フランス音楽コンクール 奨励賞。第2回 ドイツ音楽コンクール 審査員賞。第1回 全日本新人演奏家オーディション 優秀賞。第9回 全日本演奏家オーディション エクセレント・ソリスト賞。第8回 日本演奏家コンクール 最高位第9回 大阪国際音楽コンクール Age-G エスポワール賞。

オペラにおいては荒川区民オペラ「ラ・ボエーム」ムゼッタ、あらかわバイロイト特別公演「ヘンゼルとグレーテル」(指揮:クリスチャン・ハンマー)グレーテル、東京室内歌劇場本公演 木下牧作曲「不思議の国のアリス」姉・ユリの2役、帝国ホテルオペラシアター(栗山昌良 演出)「フィガロの結婚」スザンナ、同じく「こうもり」アデーレで出演。

近年においては関西において音楽活動を行っている。2014年より西大和学園中学校・高等学校に勤務。2015~2021年度 西大和学園吹奏楽部音楽監督を務める。週3のみの練習、パート練習室なしという進学校の限られた環境の中、わずか数年で県最下位から小編成部門において連続して金賞県代表として関西大会に出場させるまでに部を成長させた。現在、同じ西大和学園グループ、大和大学准教授(教育学部教育学科所属)。東京二期会会員。

大学においては教育学部教育学科初等幼児教育専攻で教鞭を取っており、主に小学校の教員を目指す学生に音楽指導、教員採用試験対策の指導等に尽力している。大和大学吹奏楽部顧問。小学校教員や幼稚園教諭、保育士を目指す学生の為にYouTubeチャンネル「童謡&唱歌 歌日記 川内奈保子」を開設し、実践に役立つ楽曲(教材)を演奏した動画を発信、運営している。
https://youtube.com/channel/UCcEMRbaWtlsuNUbOC3eqUew

インタビュー:柳楽正人(京都市立芸術大学キャリアデザインセンター音楽アドバイザー)


■中学・高校の教師を経て大学の准教授に

―川内さんと言えば、西大和学園中学校・高等学校の吹奏楽部の顧問として、限られた練習時間で短期間に飛躍的に向上させたことで、吹奏楽界で名前を知られた先生ですが、そもそも西大和学園にはどういう経緯で入られたんですか?

川内:ストレートに言うと、シングルマザーで子供たち2人を育てていくのは、音楽だけでは難しいと思ったんです。結婚式場の聖歌隊の仕事とかには行っていたけど、それで生活していくのは大変だしボーナスもないし、これは手に職をつけないといけないなと。それでハローワークに行って相談して、そこで求職者支援向けの半年間ぐらいの講座があるのを知りました。いろんな科目の中から自分が興味があるものを無料で受けさせてくれて、しかも月に10万円支給されるんです。その中から、ネットビジネス科というところに行ったんです。

―失業した人とかが行く、いわゆる職業訓練校みたいなやつですよね?

川内:そうです。ただし1回でも休んだら支給がなくなるから、絶対に休めない。そこに約半年間、朝から晩まで500何時間行きました。そこでAdobeのソフトの使い方を教わって、フォトショップとかイラストレーター、あとドリームウィーバーとかを覚えました。ハローワークでは仕事探しもしていて、そうしたら奈良から20分、Adobeのソフトが使える人、みたいな求人がちょうどあったので応募したんです。最初は西大和学園の教員としてじゃなくて、学校のパンフレットやチラシを作ったりする仕事をしてました。

―最初は教員じゃなくて職員として入ったんですね! それはいつぐらいの話ですか?

川内:2014年です。1年目は派遣会社から行ってました。それで、その年の秋にたまたま音楽の常勤講師の募集があったんです。学校は私がソプラノ歌手をやっていることは知ってたし、帝国ホテルでコンサートをしたときに、ホテルにお願いして西大和学園の生徒に合唱で参加してもらったりもしてたので、音楽教員としての資質も少し期待してもらっていて、受けたら通してくれました。
 西大和学園はちょっと特殊で、音楽の授業を英語ネイティブのアメリカ人がやる「イマージョン教育」(*)があります。それをTT(ティームティーチング)として私が入って通訳するんです。あるいは私自身が英語で授業をしたりすることも求められました。私はアメリカに留学していたから、そこもちょっと買ってもらったと思います。

*イマージョン教育:外国語の学習方法のひとつ。その言語環境で他教科を学ぶことで、その言語に浸った状態で言語を身につけさせる方法。

―なかなかのハイスペックが要求されるんですね。英語で音楽の授業をしたり通訳したりできる人って、クラシック系だと有資格者はかなり絞られる気がします。西大和学園は音楽以外の授業も英語なんですか?

川内:「国際理解」という枠組みで、「国際理解」の先生が教える英語があったり、あとは体育とか美術とかの副教科は英語でやっていました。
 西大和学園は進学校だから、音楽の授業で何かをがっつり覚えさせるとかはなくて、ギターをやったりみんなでコンサートをやったり、とにかく音楽を楽しいと思ってもらえるような授業をやっていました。他の先生に聞くと、それが難しいらしいんですけど。音楽の時間は息抜きと思われるのか、すごく荒れるらしくて。でも私の場合は、言うことを聞いてくれたのでよかったです。

―生徒が聞いてくれる授業のコツみたいなものは、何かあるんでしょうか?

川内:周りの先生が言うには、専門性を見せたらみんなは黙るよって。私の場合、時々オペラの曲を歌ったりして、私はこういうことを頑張ってきたんだよというところを見せられたから。あとは英語がちょっとだけできたからかな。やっぱりみんな英語を頑張っているから。だから生徒たちが「おおっ!」って思ってくれるものがあれば、ついてくると思う。あとは、吹奏楽部の成績が段々よくなってきたから「吹奏楽の先生」という感じになってきていたと思います。
―なるほど、吹奏楽部の顧問としての認知度も出てきたのかもしれませんね。吹奏楽の指導は1年目からですか?

川内:吹奏楽部を受け持つことが、音楽の教員を受けるときの条件だったんです。だからやらざるを得ない状況で、1年目は全くわからないところから始めました。西大和学園は、周りの先生方がすごく情熱を持って取り組んでおられて、自分もその中に入ったからには頑張らないと、と思って吹奏楽を頑張りました。

―頑張ると言っても、スパルタ式にしごいた訳じゃないんですよね?(笑)

川内:全然スパルタじゃないです(笑)。進学校だからクラブ活動を勉強の逃げ道にしちゃうと怒られるし、「クラブは本当に息抜き程度ですよ」って最初に言われていました。練習は月・水・土しかできなくて、月・水は4時半から6時ぐらいまで、土曜日も普通に授業があるから2時半から6時ぐらいまで、だけど補習とかがあるとみんな休むから、出席率は全然よくない。活動時間は変えられないし、とにかく充実感を持って帰ってもらったらいいかと思って、達成感が感じられるような練習メニューを作って「ああ、今日もやってよかった!」と思って帰ってもらうことを考えていました。

―そこからスタートして、すぐにコンクールでも優秀な成績を収めるようになるんですよね。今回は川内さんの経歴にスポットを当てたいので、吹奏楽のお話はまた別で伺わせてください。現在は西大和学園から、同じ大学法人が運営する大和大学に移っておられますね。

川内:2019年に大和大学の先生がご病気になられたんです。それで「ちょっと大学に行ってもらえない? 修士号あるよね?」って言われて1月からピンチヒッターで入りました。それまでは大学で教えるなんて全く思っていませんでした。
 大和大学で教えるようになって4年目なんですけど、最初の2年は西大和学園と掛け持ちでした。いきなり吹奏楽の先生がいなくなったら困るということで。大学で講義をしつつ、水曜日と土曜日に西大和学園の吹奏楽部の指導に行かないといけなくて、すごく大変でした。

―大学では初等幼児教育の指導をされてるということですが、どういう内容なんでしょうか?

川内:シアター系のペープサートとかパネルシアター(*)とか、そういうのをやっています。あとは音楽を絡ませた劇をやったり。ピアノの弾き歌いは、採用試験を受ける学生に対しての個人指導になります。教員採用試験の真っ只中は、曜日によっては午前中から午後までずっとレッスンをしていたりします。
 大和大学の教育学部は、小学校の先生を目指す初等幼児教育専攻と、中学校の国語教育・英語教育・数学教育専攻があるんですが、その中学校の専攻の学生たちも、小学校の授業も取るんですよ。だから私は、教育学部ほぼ全員の学生を教えている感じです。簡単なバージョンのピアノでいいから、『富士山』とか『もみじ』とかの弾き歌いができるように頑張ってもらいます。大和大学に来て4年目になって、やっといろんなことが掴めてきて、今は教えるのが楽しいです。

*ペープサート、パネルシアター:ペープサートとは、幼児向けの紙人形劇のこと。パネルシアターとは、特殊な布を貼ったボードを舞台にして、不織布で作った絵人形を貼ったりはがしたり動かしたりして物語を進める劇のこと。

■京芸の大学院を経てボストンへ留学

―ではここから、最初に遡って川内さんの経歴を辿ってみたいと思います。高校生のときに京芸を目指そうと思ったきっかけは何だったんですか?

川内:高校は大阪の普通の高校でした。音楽の先生は、合唱などの指導者として有名な先生で、その先生に影響を受けました。私は音楽の道は全然考えてなくて、普通の大学を目指してたんですが、音楽の授業で歌唱テストをやったときに、先生から「声がいいから声楽をやりなさい」って言われたんです。それで声楽をやってみたら楽しくなっちゃって。それが高校2年生のとき。そこからのスタートでした。
 元々ピアノは結構やってたので、最初はピアノと声楽の両方で私立の短大を目指していたけど、ピアノよりも歌の方が望みが出てきて、やっているうちに声楽で京芸を目指そうかなってなってきたんです。ソルフェージュとか楽典とか(*)それまでやったことなかったから、高2の夏ぐらいから詰め込みました。

*ソルフェージュ、楽典:ソルフェージュとは、楽譜を読んで演奏したり、音を聞いて楽譜に書いたりする基礎訓練のこと。楽典とは、音楽に関する基礎的な理論のこと。

 その時に来た教育実習の先生にも、すごく影響されました。すごくいい声の先生が来て、ミュージカルの『踊り明かそう』か何かを模範で歌ってくださって。感動して自分もあんな風になりたいなぁって思ったんです。それまでは器械体操部をやってたんですけど、そこから音楽部に転向して、そこで初めて合唱もやったし、高2で人生がガラッと変わりました。
 受験生のときに同じ門下に、京芸で同級生になる日比直美さん(*)がいました。一緒に受験を目指してたんだけど、発表会に一緒に出たりしたときに「めっちゃ上手い!高校生とは思えない!」って思っていました(笑)。日比さんはめちゃくちゃ優秀だったから、私は結構劣等感があったんです。でもずっと一緒にいたから、私も頑張ろうって思えました。

*日比直美さん(現・シェーファー直美さん):1995年京芸大学院修了。現在はドイツのカイザースラウテルン・プファルツ劇場合唱団所属。

―それで2人とも京芸に入られたんですよね。大学を卒業した後のイメージっていうのは、何かありましたか?

川内:大学院に在学中だったと思うんですけど、堺シティオペラに出演させてもらったんです。当時、堺シティオペラはサンフランシスコオペラと交流をしていて、アメリカに行かれた先輩がいらっしゃったりして、ルートみたいなのがあったんです。サンフランシスコからも堺に先生が来られていて、そこで私は「サンフランシスコに行きたい!」と思ったんです。私はそのとき、アメリカの作曲家、メノッティ(*)のオペラがすごく好きだったというのもあります。
 それでサンフランシスコの大学で学びたいと思ってたんですけど、身内の縁があってボストンに住まわせてもらえるかもしれないという話があり、サンフランシスコとボストンだと東と西で違うけど、とにかくアメリカに行きたいと思いました。

*ジャン・カルロ・メノッティ(1911~2007):イタリア生まれのアメリカの作曲家。イタリアオペラの伝統と現代的な題材を組み合わせ、英語による親しみやすいオペラ作品を手掛けた。

―最終的にボストンに行かれることにしたんですね。

川内:ボストンに、ニューイングランド音楽院というアメリカで一番古い音楽大学があって、そこに入れてもらえました。

―ということは、サンフランシスコの先生からは単に影響を受けただけで、ボストンの音楽院は先生のネットワークとは全く関係なく、自力で探して自力で入ったってことですか?

川内:そうです。1回だけサンフランシスコにレッスンを受けにいって、またお金を貯めて行こうと思っていたら、ボストンに住めるかもっていう話があったので。住むところの近くに音楽大学がいくつかあるのは知っていたし、ちょうどサマースクールの時期で、申し込みさえすれば外部の人も行けたので、オペラのサマースクールに行って2週間ぐらい毎日練習していました。それで、そこのディレクターにちょっと紹介してもらったりして、ツテを作りながら受験勉強を進めていきました。TOEFLが○○点以上じゃないと受けられないみたいなのがあったので、英語も頑張って。それでクリアして入ったって感じですね。
―英語は得意だったんですか?

川内:高校の時、本当は外国語大学に行くつもりだったんです。中学のときから英語が大好きで。だから余計にアメリカに行きたかった。

―なるほど、もともとアメリカ志向があったということですね。アメリカの作曲家のメノッティのオペラが好きっていう話がありましたが、好きな作曲家にメノッティを挙げる人は珍しいような気がします。

川内:大学4回生のときにメノッティの『霊媒』をやったんです。あとは『電話』とか、その辺の作品が今でも好きですね。二期会オペラ研修所の修了試演会のときも『泥棒とオールドミス』をやったり、何かと縁があったんですよね。独特のちょっと暗い感じが好きで、明るいのもいいけど、憂いのあるほうが私は好きかな。自分の声は明るいんだけど、メノッティは私みたいな声質のキャラクターでもソプラノの役が絶対にあるから、自分が歌いたい役が結構あるんです。

―ボストンではメノッティをやる機会もあったんですか?

川内:オペラの実習でちょっとだけ。英語のものは、私とか韓国人とか中国人とかそういう人らを抜いた感じのミュージカルのコースがあったりしました。
 留学する前にサンフランシスコから来られた先生も言っておられたのは、アメリカにはいい先生がヨーロッパから来ているから、結局は色んなものを学べていいよ、ということでした。実際に向こうではドイツもの、イタリアもの、フランスものオペラをものすごくやらされました。そしてドイツ、イタリア、フランス、それぞれの言語のディクション(言葉の発音法)がすごくシステム化されていたことに感動しました。発音とかのルールがすごく整頓されていたんです。
 私は京芸の大学院にも行ったけど、アメリカの教育のシステムと温度差が全然違っていた気がします。向こうは先生方が「この子を良くしよう!」ってみんなで取り囲むような感じでやってくださるから。京芸で学部4年と大学院に3年いたけど、その7年間よりもボストンで2年学んだことの方が密度が濃かったです。だから行ってよかったなって思ってます。覚えなきゃいけないことが毎週たくさんあったから大変だったけど。私は4年弱ぐらいしかいなかったけど、10年ぐらいいたらもうちょっと勉強できたかな。せっかくいいディクションを習ったから日本でそれを伝えたいと思っていて、大学で専門の学生を教える道を目指したかったけど、残念ながらそういう縁がなかったですね。

―京芸で培った素地があったからこそ吸収できたこともあったかもしれないですね。堺シティオペラには何回か出演したんですか?

川内:1回しかいかなかったと思います。

―じゃあピンポイントな出会いだったんですね。

川内:そうですね。そこでの出会いがなかったらアメリカには行ってないですね、多分。


■帰国してさまざまなオペラに出演

―そして、29歳になる年に大学院を修了してボストンから日本に帰ってこられますね。

川内:帰ってくるきっかけは、お腹に子供が入っちゃったんです。日本とアメリカとどちらで産もうか考えたとき、向こうの保険に入っていなかったので日本に帰ってきたんです。

―アメリカで赤ちゃんができたときは、まだ結婚してなかったんですか?

川内:結婚してました。向こうに行って割とすぐに盛り上がって婚約したんです。それで「同棲ってちょっと体裁悪いよね、じゃあもう結婚しちゃおう」って。だからボストンに行ったその年に結婚したんです。

―そうだったんですね。帰国してからの音楽活動はどうだったんでしょうか?

川内:彼の地元の千葉県の柏市に住んで、子供がお留守番できるようなったタイミングをみてオペラに復帰しようと思っていました。下の子が3歳になったときに、そこから本格的にやりはじめました。2008年ぐらいが一番たくさん出ていたかな。1年間でオペラに5本ぐらい出ていました。覚えるのが大変だったけど。その年はコンクールもたくさん受けましたね。
 関東は面白かったですね。関西よりも絶対にいいと思う。場がたくさんあるからチャンスもたくさんある。オペラのオーディションは受けまくりました。落ちるオーディションもいっぱいあったけど、たまに拾ってくれるところもあるから、そういうのをこなしていってました。あとピアノを教えたりもして、そういう感じで10年ぐらいやっていました。

―そうやって色んなオペラに挑戦しつつ、最終的にはどこかのオペラ団体に入りたいとかいう考えはあったんでしょうか?

川内:いや、一応東京二期会には入っていたんですけど、ツテや後ろ盾もなしに本公演のオーディションを受ける勇気はなかったので、受けなかったです。それ以外の、個人でやっているような団体が関東にはたくさんあって、私はサロンオペラをやっている団体によくお世話になっていました。『リゴレット』のジルダ役とか『ランメルモールのルチア』とか、いい役をたくさんやらせてもらえました。それと、東京室内歌劇場の本公演のオーディションに受かって、そこで『不思議の国のアリス』の大きな役をもらえました。その頃が一番充実していました。40歳ぐらいのときかな。
―それで旦那さんとお別れして、関西に帰ってきたんですね。

川内:帰ってきて1年目は、結構ボロボロになっていました。でもなぜか関西でも演奏の機会はすごくあったんです。帝国ホテルで『フィガロの結婚』のスザンナ役をやらせてもらったり。演奏活動はすごくやらせてもらってました。関西に帰ってきて2年目も、その続きで演奏機会は結構あったんです。でもそうやって活動しているときに「このままじゃダメだな」って思って職業訓練校に入って、西大和学園に来たんです。

―おお、ここで最初の話に繋がりましたね!

川内:行き当たりばったりだったけど。

―とんでもないです! 色んな人からキャリアの話を伺っていると、誰かに声をかけられたことがきっかけだったとか、たまたま繋がったご縁がきっかけになったとか、自分の力だけではないターニングポイントみたいなのがあったりするけど、川内さんの場合は大体が自力ですもんね。

川内:自分で全部探して。

ー高校のときの音楽の先生とか、サンフランシスコから来られた先生とか、色んな人から影響は受けつつ、でもその人のネットワークやご縁に頼ることなく、自分で道を探して自分で切り開いてるっていうところがすごいと思います。川内さんの話はきっと若い人たちの勇気になるんじゃないでしょうか。

川内:行動力はなさそうであるみたい(笑)。思ったらぱっとやっちゃう性格だから。それで失敗しちゃったりもするけど、私は思ったらすぐやっちゃうんです。

ー予定にはなかったお別れがあったりもしたけれど。

川内:シングルマザーになってからは子供を育てていかないといけないから、自分も色々と勉強して、それで今の自分があるから、結果的に人生を長い目で見たらそこで決断しておいてよかったかなと思います。それがなかったら吹奏楽に出会うこともなかったし。吹奏楽と出会ったことは本当によかったから。

ーそういえば、大和大学には吹奏楽サークルみたいなのはないんですか?
 
川内:あります。コロナが流行してから部員が2人まで減ったんだけど、今は15人ぐらいに増えて、来年コンクールに出たいって言い出したんです。コロナの前は30人ぐらいいたときもあるんですけど、そのときは「先生、構わないでください」のオーラが出てたからノータッチ。今の学生たちは私に来てほしいみたいで、またやるのかなぁって思ってます。

ーいいじゃないですか!

川内:だいぶ上手になってきました。多分、来年はたくさん入ってきそうです。今年もほぼ1年生だから。それに、今まで大和大学の吹奏楽は人数がいなかったから、上手な学生は一般バンドとか学外で活動しちゃうんです。それがもしかしたら、吹奏楽部に入ってくれるようになったらいいなぁって思ってます。

ーあと数年したら、大和大学でも吹奏楽で新たな伝説を作ることになるかもしれませんね。今日は貴重なお話をありがとうございました!

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