竿下和美(ピアニスト)
大阪音楽大学付属音楽学園で基礎を学び、京都市立堀川音楽高校、京都市立芸術大学音楽学部ピアノ専攻卒業。在学中は定期演奏会、学外コンサートなどに選抜出演。卒業後国内、海外各地でマスタークラスに参加、特に元ミュンヘン音楽大学教授、クラウス・シルデ氏(故)とのご縁は長きにわたることとなり、定期的にレッスンを受講。
ピアノ教育連盟オーディション全国大会出場、堺ピアノコンクール、フランス音楽コンクール奨励賞、京都ピアノコンクール第2位、長江杯国際音楽コンクール第1位など受賞。泉の森ホール、秋篠音楽堂オーデイションに合格。2005年、当時在住していた泉大津市より文化に貢献するピアニストとして文化賞を受賞。またソロ活動とは別にサックス&ピアノユニット「ティーモ」として活躍。2017年には初レコーディングアルバム「Blowing」発表。
なにわ芸術祭、京都芸術祭、 ヴァイオリスト劉薇氏のコンサートピアニストやドイツ・プロメテウス四重奏団、関西フィルハーモニー管弦楽団メンバーとの室内楽リサイタルなども行い関西を中心に活躍中。
これまで立川聖子、丸山博子(故)、阿部裕之の各氏に師事。
西大和白鳳短期大学非常勤講師を経て、現在平安女学院大学非常勤講師。日本クラシック音楽コンクール本選審査員。NPO法人京田辺音楽家協会理事長。
今回インタビューさせていただいた竿下和美さんは、現在は「がんと戦うピアニスト」という取り上げられ方をされることが多いのですが、病気になる以前から、人を巻き込みながら活動しているエネルギーの源がどこにあるのか、いつかお話を伺いたいと思っていました。
瓦版webのインタビューシリーズは、現在に至るまでに誰と出会い、何が起こり、その都度どのような選択を重ねてきたのかを辿っています。竿下さんにも同じ視点で、これまでの道のりについてお伺いしました。がんや闘病という出来事を一つの通過点としながらも、その前後を貫く「ピアニスト・竿下和美」の歩みを解き明かしたいと考えたからです。
インタビュー:柳楽正人(京都市立芸術大学キャリアデザインセンター音楽アドバイザー)
■現在の生活について
―今日はよろしくお願いします。普段の生活は普通にされているんですか?
竿下:仕事も演奏もいたって普通にしてますね。
―食事制限もなく?
竿下:はい。抗がん剤は1週間に1回打っているので、もちろんダメージはあるんですけど、たまたま私の体が強くて、他の人よりも比較的軽いみたいなんです。食べることができなくなると体力が落ちて、がんがどんどん広がっていっちゃうんですけど、何かが食べられなくなるとかもないので、今のところ食い止められています。
―2023年2月にステージ4の肺腺がんが発覚した時に、余命1年半と言われたんですよね。その時は1年半で総まとめをするプランを立てたんでしょうか?
竿下:いや、そこは逆に捉えていました。普通は余命と言われたらそこが終わりと思うじゃないですか。でも私の捉え方は、「ここまでは生きられる」と思ったんです。
―1年半は保証されていると。
竿下:そう、保証されている。だから終活というのはあんまり思わなかった。ただ、本当は3年後、4年後にやろうと思っていた計画を前倒しにしようと思いました。メディアにも取り上げてもらった“3世代で歌う第九”というのは、本当はもうちょっと後、3年後ぐらいにしようと思っていたのかな。それを、私が元気なうちにと思って前倒しにしたのが一番大きいかもしれませんね。
あとは自分自身のリサイタルも、この作品はもうちょっと温めてからやりたいと思っていたものも、体力があるうちにしかできないものは先に持ってきたりとか。そのぐらいかな。
―1年半のうちにやりたいと思っていたことはできましたか?
竿下:人間って「これをやっておかないと絶対に後悔する」っていうものに取り組んだ時に、意地でも成功させようという能力があるんです。だから形になりましたね。
―その1年半をクリアして、そこから先は特に期限を決めずに活動してるんですか?
竿下:そうですね。とりあえずNPO(京田辺音楽家協会)に関しては、翌年のことは全部決めていかないといけないので、できるできないというよりは、どんどんやっていく。演奏の仕事は1年先の依頼とかになってくるけれど、今はあんまり躊躇せず頼んでこられるんです。がんを公表した時は、1年先に決まっていた予定が全部キャンセルになったりしたんですよ。今は私の体を信じてくれる人の仕事を引き受けていけたらいいと思ってやっています。今の私の感覚としては、命の記録を更新していっている楽しみがある。陸上競技の記録更新と一緒で、まだまだできる、私どこまで記録を出せるだろうっていう感じで生きていますね。
■3世代で歌う「全」市民第九
―3世代の第九というのは、どういうきっかけで出来たんですか?
竿下:もともと第九はコロナの後にすぐ作ったんですよ。この町は意外と合唱が盛んなんです。それがコロナになって歌えない団体さんがいっぱいになってきた。でもあの頃は、歌い始める第一歩が怖かったんです。それだったら、うちがやっちゃえと思いました。みんなで集まって歌うというのがまだまだ厳しいかなという時に、あえてやろう、コロナに負けるな!って。2022年の第1回はマスク着用で歌って、オーケストラの人には本当にかわいそうな思いをさせたんですけど、12月に体育館でやったんですよ。音楽ホールだとどうしても密閉感があるので。いまだにメンバーには「めっちゃ寒かった!」って言われます(笑)。
―第九自体はコロナがきっかけで始まったんですね。その第九に“3世代”というキーワードが加わった。
竿下:「全」市民第九というタイトルを付けているんですけど、全市民っていう言葉に、もうちょっとちゃんとした意味合いを持たせたくて。私が結婚した時、当初3世代で同居してその中で子育てをしてたんですね。私は3世代がすごく心地がよかった。子どもの成長を大人や3世代で見守っていける世の中にしたほうがいいと思っていて、「全」市民第九をいつか3世代でやりたいというのを自分の中で目標にしていました。
―子育ての経験があったからこその3世代なんですね。
竿下:私が結婚した時に、周りから「3世代で同居なんてありえない、めっちゃしんどいよ」って言われてたけど、私は案外楽だった。私みたいに仕事をしていると、誰かが子どもの面倒を見てくれるし、私ができないところはおばあちゃんとかお母さんが助けてくれるし、お互いに助けられる。なんにも大変なことがなくて私の場合は逆によかった。世間の思う3世代のイメージ、世代が違うとしんどいよねっていうのも、音楽で取っ払えたらなと思いました。そもそもベートーヴェンが第九に込めたメッセージは、本当にわかりやすいから。
―人類みな兄弟、みたいなことですもんね。
竿下:そうなんです。それを歌うんだったら、それぞれの世代を受け入れようよって。
本当は時間をかけて準備するべきだと思っていたんです。子どもを入れようと思うと、やっぱり歌が上手くなればなるほど子どもと歌うのは嫌だという人も出てくるので。3世代で第九をやる意味を、ちゃんと市民や地域に浸透させないと無理かなと思って。それを前倒しで強行して子どもを入れたので、やっぱり当初はトラブルはありました。でも子どもたちの能力ってすごくて、子どもたちだけの練習時間を取ってあげたらいつの間にか発音もよくなるし、そうなってきたら大人の方が子どもの力を認めるようになるので、そこからはすごく楽でしたね。
田辺中央体育館アリーナで開催した第1回「全」市民第九演奏会
■京田辺音楽家協会を立ち上げる
―NPO法人京田辺音楽家協会は、竿下さんが立ち上げられたんですよね。
竿下:このNPOを立ち上げたのも、コロナ真っ最中の時だったんです。世の中が「音楽はいらない」「人が集まるところなんて」みたいな空気になっていた時に立ち上げました。当時はまだオンラインとかあんまりなかったんですけど、LINEのライブ機能を利用してオンラインコンサートをやったりとかしました。野外で人を集めて演奏会をやったりとかもしたので、当初は叩かれまくりましたね。でもやっていかないと、演奏家の仕事もなくなっていた時なので、ちょっとでもやりがいとか世の中に必要とされてるよというのを、何とか発信したいと思っていました。
―京田辺市はもともとの地元なんですか?
竿下:私は隣の枚方市で育ってるんですが、おじいちゃんが京田辺市に住んでたので、土地感はありました。結婚してから大阪の泉大津市で活動していたんですけど、娘が小学校を受験したいと言い始めて、主人もその時にちょうど転職を考えていて、それで京田辺に引っ越してきたんです。今のNPOの前身にあたる演奏家の任意団体があって、大学の先輩とかが、私たちこんな活動をしているから一緒にやろうって感じで誘ってくれました。
それで活動していた矢先、任意団体の会長から、もう辞めたいから次の会長になってほしいと言われたんですよ。もしも私が引き継ぐんだったら、会長が変わっても活動自体がぶれないようなものにしたいから、「NPO法人として生まれ変わらせるという条件を受け入れてくれるんだったら引き受けます」って言ったんです。ただ演奏したいだけの演奏家が集まっている団体じゃなくて、音楽で貢献をしたいという思いを持つ人だけが残ってくれたらいいと思って立ち上げました。
―演奏家はみんな、自分が演奏したいとか自分の活動を広げたいという思いはあると思うんですけど、人を巻き込んでやることにはなかなかならないと思うんですよ。その場所を、しかもコロナの時期に作ろうとしたところがすごいです。
竿下:コロナは、黙って待っていたら2、3年ぐらいで落ち着いてまた元に戻ってくるとは思いつつ、その時は「今だ」って思いましたね。おとなしくしておけばいいんだろうけど、その時は反骨精神しかなかった。でもどちらかというと、私に夢を語ってくる人が周りに多かったという方が正解かな。「こんなことやりたいんだけどな、でも自分はやり方がわからない」って。こういう演奏家の団体さんは、年に2回ぐらい音楽ホールでコンサートをやって終わりみたいな感じなんですけど、それを何かしら変えていきたい、でも変える方法がわからない、というタイミングで私が入ってきたみたいでした。
―今はどのくらいの演奏家がいるんですか?
竿下:今は100人以上です。地域に恩返ししたいという人が案外多いというのがわかった。普通のお仕事よりはお支払いできないんだけどと言っても、「この日が空いているから、こんなことをさせてもらいたい」とか言ってやってくださる方が集まってくださったんです。私が個人的にやっていた活動と上手くリンクさせられているので、自分一人では手が回らなかったところに演奏家派遣ができたりとか、こういうことをやりたいという夢を預かっていたけれど形にするのに時間がかかってたものを、今いる10名の理事と一緒に手分けして叶えていけた。今、NPO主催で年間100件ほど音楽イベントをやってるんですが、私一人では絶対無理だったので。
NPOを立ち上げる時に、定款で理事の皆さんは無報酬と決めさせてもらってやってるので、みんなボランティアになるんですけど、本当にやりがいだけで動いてくれています。地域のためにという思いだけで動いてくださる人たちなんです。
―地域のためにもあるけど、きっと竿下さんのためにというのもあるんだと思います。人を惹きつけたり束ねたりする能力があるんだと思うんですよ。
竿下:そこはどうかわからないですけどね。でも一緒にやって楽しいな、一緒にやってよかったなとは思ってもらいたいなといつも思っています。その方の大事な時間やお金の部分を何かしらこちらに預けてもらってるところがあるので、「こんなことができて楽しいわ」というものをお渡しできないとな、とはいつも思います。
京田辺音楽家協会が主催する「京田辺市音楽コンクール」
■父親から言われた「視野が狭いな!」
―竿下さんは子どもの頃から、周りから頼られる方だったんですか?
竿下:そうでもなかったです。小学校とか中学の時とかはピアノが大好きで、一人の時間が好きでした。人と交わるよりは家に帰ってピアノを弾いていたタイプ。ちょっと変人だったと思う。でも堀音(京都市立堀川高等学校)に行った時は、いつの間にか頼られていた。いまだに同窓会委員みたいな感じで、私が「同窓会やるよ!」って言わないとみんな集まらない(笑)。
堀音では、「あれ、音楽しかできない学校になってる」と思って、他のことをいろいろやっていました。中学生の時はやっぱりバランスが取れていたんです。みんなと普通に勉強もして、塾も行った上での自分の好きな時間だったのが、高校で好きな時間だけになっちゃうと、「こんなに勉強しなくていいの?」みたいな。かといって私も勉強してたかと言うと、そうでもないんですけど。
だから堀音の先生は、私は音楽に対して不真面目な生徒だという印象だったらしいです。無難にはこなしてるんだけど、他の子みたいにずっと練習してるわけでもない。みんなは朝から練習に来たり残って練習しているのに、私はさっさと帰ってしまう。どうも音楽だけじゃないところに興味を持っていそうだなって。
親の考え方もあったのかもしれないですね。うちの親に「音楽しかできない人間にはなるな」ってずっと言われていたんです。父親は音楽高校がどういう存在なのかわからず、ただ応援はしてたんですけど、堀音に入学してすぐの保護者会に参加して「ここはヤバいぞ」っていうのが第一声でした(笑)。「視野が狭いな!お前はここで生きるんか?」って言われました。「あれはちょっとお父さん無理や」って言われて、その後は一切来ませんでしたね。
―「視野が狭いな!」って言われてどう思いましたか?竿下さんにとっては、それが普通の日常だったんですよね。
竿下:でもね、私もそう思っていたんですよ。自分が夢だと思って行った音楽高校で、すごく憧れて学びたいことは全部学べるんだけども、これだけでは、自分の好きな音楽をただ発表しているだけの人間になってしまう、世の中の役には立たないなっていう感覚がありました。自分はただ演奏したいだけじゃないから、確かに考えないとだめだなって。
今、私がこういう活動をしてるのは、堀音の先生からすると意外だったみたいです。そこまで音楽に情熱があるように見えてなかったらしくて。
―京芸ではどう思われてたんですかね。不真面目に思われてたんでしょうか。
竿下:どうだろう。「個人で動いているちょっと変わった人」って感じだったのかな。バイトとか色々やってるし何してるんだろう、みたいな感じだったかも。経営について一生懸命学ぼうとかしてるし。
京芸の時は、「いかに世の中に役に立つ音楽活動をするための準備をするか」という意識がありました。ピアノの先生には猛反対されていましたけど、結構いろんなバイトとかをしていましたし、父親からは「会社経営できるぐらいの能力を持った上で演奏活動をした方が、絶対に世の中の役に立つ」とずっと言われていました。こういうことをやっておいた方がいい、こういう資格を取っておいた方がいいとか。それで簿記を取りにいったりしましたし、会社経営ができるような人脈を作るには何がいいんだろうと考えていたら、父親が知り合いの会社を紹介してくれて、そこで受付嬢をしていろんなマナーを学んだりしました。自分のやりたいことが形にできるように力をつけないとだめだって、すごく意識していましたね。それを学ばせてくれる環境は周りにないであろうというのは想像できたので。仲間と切磋琢磨しつつも、個人的にずっと動いていた感じです。
子どもたちの歌声に合わせてピアノを弾く
■クラシックのすそ野を広げる活動がしたい
―いずれは自分で会社を立ち上げたいという気持ちがあったんですか?
竿下:立ち上げたいとは思ってないんだけど、会社を立ち上げるだけのスキルを持った方がいい。卒業してから何かをやりたいのにできない環境だったら、自分で会社を立ち上げてやっちゃえばいいと思っていたので。
―演奏家を目指す人は、目標とか夢と言っても、大きなステージで演奏するとか、たくさん演奏するみたいなふわっとした夢のことも多いのかなと思うんですが、もっと具体的な目標があったんですか?
竿下:私の中では、例えば大きなところでリサイタルをやりたいという夢は全くなかったんですよ。私はそっちじゃないという思いは、大学の時に確実に芽生えていました。クラシック音楽を聴いたことのない人に、いかによさを伝えるかという役をやりたいとずっと思っていたんです。私が学生の時にはもう既にクラシック音楽を聴く人は限られていて、年齢層も高くなっていた。自分の同年代、たとえば小学校や中学の同級生とかが全くクラシックを聴いていない現状を見て、やっぱりすそ野を広げる活動をしないとって、もうその時に危機感があったんです。
当時はバリアフリーという言葉が流行っていたので、「音楽のバリアフリー化活動」と名づけて、ピアノがないところに電子ピアノを担いで行きました。 活動をし始めたのは大学を卒業してからですね。地域の公民館とか、シニアの人が集まるイベントとか、あとは病院。特に妊娠された方向けに、いろんなところでお母さんたちに聴いてもらいました。
―クラシックのすそ野を広げたいという思いは、どういうところから来ているんですか?
竿下:自分自身がクラシックやピアノが好きで学んできたので、今の“推し活”じゃないけど、やっぱり自分の好きなものを人に好きって伝えたいじゃないですか。単純にそこですね。「いいでしょ?」って。本当に推し活みたいなものですよ。
でも卒業後はすぐ音楽教室で教える仕事をしました。音楽高校や京芸とかを目指すような子たちが集まってきている音楽教室なんだけど、当時としては珍しく、大人の生徒さんも来る教室でした。当時の教室長は、「この子、面白い。この子だったら大人の生徒さんも対応できる」と言っていました。だから受験生とかを教える夕方にプラスして、朝から大人の生徒さんを受け持っていました。気づいたら一日中レッスンしているのが週3、4回。教えることはすごく面白かったです。その時に出会った大人の生徒さんたちは、いまだにずっと応援してくださっています。演奏活動をしていく上での、いわゆる私のファンがそこでついてくださったんですよ。それがすごくありがたかった。
そこで教え始めて4年で結婚して、泉大津に引っ越して、自宅でピアノ教室をやりつつ、またいちからバリアフリー化活動をスタートさせていきました。
―「音楽のバリアフリー化活動」では、クラシックの曲も演奏されるんですか?
竿下:そうです。ただ、クラシックだけにすると人が来ないので、種まきとして、皆さんが興味があるようなJ-POPを入れておく感じです。でも不思議なもので、ポップスとクラシックを一緒に演奏しても、クラシックが印象に残ってることが多いということが、20代の時にわかったんです。技術を積み重ねて見せていくクラシックの魅力って、やっぱり伝わるんだというのをすごく思ったのもあって、余計に継続してやっていったんですよね。
今はInstagramで、病気の人に何か目標になったらいいなと思って、毎日ポップスを一曲ピアノで弾いているんですけど、クラシックで培ってきたもので弾くとポップスも違ってくるということも伝えられたらいいなと思っています。
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