コンテンツ6.デジタルデータの紹介と模写作品の公開

■デジタルデータの紹介と模写作品の公開

●ポジフィルムのデジタルデータ化

井上隆雄の写真は1974年当時のラダックの堂内を鮮明に記録しています。堂内は暗く塵もあり、撮影するには非常に難しい環境でしたが、井上隆雄は堂内の空間だけでなく、柱の裏側や床に近い部分にある小さな図像までも撮影しています。どのような方法で撮影したのでしょうか。研究者にとって重要なこれらの資料は、井上隆雄の高い技術によって利活用が可能となっています。共同研究では、これらのポジフィルムを寺院別に分類し、デジタルデータ化の作業を行ってきました。

寺院別ポジフィルム点数表
寺院別ポジフィルムの点数表
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寺院別のデジタルデータ一覧表


・アルチ寺
・サスポール石窟

*その他、ラマユル寺、マンギュ寺、バズゴー寺、ガオン寺(フィアン)、グル堂、スピトク寺、シャンカル寺、ツェモ寺、スタクナ寺、シェー寺、ティクセ寺、ゴツァン堂、ヘミス寺のデジタルデータも保存しています。

●アルチ寺三層堂一階の壁画「般若波羅蜜仏母」の模写制作

撮影するには難しい位置にある堂内の細かな図像まで、井上隆雄は撮影することに成功しています。ポジフィルムのデジタル化によって、そのような現地の目視では十分に把握できなかった図像の細部まで確認することができました。その中で、本共同研究はアルチ寺の三層堂一階の「般若波羅蜜仏母」壁画に注目し、模写を通じてその表現技法と作画についての考察を行いました。

●学会発表資料

 

・「インドラダック地方アルチチョスコル寺三層堂壁画"般若波羅蜜仏母"の表現について--井上隆雄写真 資料のアーカイブ実践研究の活用の可能性--」、第41回文化財保存修復学会ポスター発表(帝京大学)、2019年6月22.23日。

ポスター発表のデータ
・「アーカイブ構築における創造的思考とアルチ寺仏教壁画の視覚表現研究ー井上隆雄写真資料 に基づいたアーカイブの実践研究ー」、『文化財保存修復学会第42回大会研究発表集』、 2020年7月、274-277。(新型コロナウイルス感染症流行のため熊本城ホールでの開催は 中止となった。代案として研究発表集が作成、配布された。)

要旨(PDF)

 

●考察:共同研究による創造的アーカイヴの形成

 本資料展では、井上隆雄が残したインド・ラダック仏教壁画の資料を、現代そして未来へと利活用し得る資料体へと更新するための過程とその成果を紹介してきました。ここでこれまでの研究活動を振り返り、アーカイヴズの意義や研究方法について考察したいと思います。
 アーカイヴズに対しては、やはり日本十進分類法(NDC)などの図書館で使われている分類法を適応させることはできず、対象とする資料体の性質を把握しながら、独自の分類方法を見出していく必要があります。今回の井上隆雄の資料の場合も、年代別、素材別、地域別、さらには寺院内のポジフィルムに対しても種類別や図像別など、いくつかの分類法を想定することができました。しかしながら、本資料展でも記しましたが、井上隆雄の対象に対する眼差しと仏教美術研究との二つの視点を組み合わせ、寺院別でさらには寺院内の空間別へと分類していく方法を採用しました。後世に残すべき重要な遺産とされるアーカイヴズですが、それを利活用可能な資料体へとアップデートするためには、その只中に位置する「現在」において、資料と出会った者の「創造性」が否応なく必要になるのではないでしょうか。アーカイヴ活動における客観性・網羅性はもちろん重要ですが、この点において、アーカイヴという行為は極めて創造的なものと言えるでしょう。まさにアーカイヴは、資料を残した者とその資料とそして資料を利活用する担当者との協働と言えそうです。いくつもの未来が存在すると言えるでしょう。
 本共同研究もまた、資料の保管と分類を行う中で試行錯誤し、ミーティングを繰り返しながらの取り組みでした。加えて本共同研究では、アーカイヴと仏教美術の研究者が出発点から互いに協力し進めていったこともまた、一つの要点であると言えそうです。すなわち、アーカイヴ活動と研究とが同時に進行するという方法論が採用されており、最初から「開かれている(公開されている)」場であったということです。貴重な資料は、その保存・管理が重要になるため、どうしても公開に至るまでに時間を要する場合があります。しかしながら、アーカイヴが創造性を背負っているのであれば、関心のある者が集い、活動のプロセスも検証しながら都度進んでいく場作りもまた重要ではないでしょうか。そのためには、大勢を集めて短期間で保管・分類作業をすべきなのか、あるいは時間は要するけれども少数による研究として活動を行うべきかについてもまた検討する余地がありそうです。
 とは言え、このように未来に利活用可能なアーカイヴズですが、やはりその前提には保管のための場所の問題があります。本共同研究もポジフィルムをデジタルデータ化しましたが、依然として「物」としての存在価値は重要です。近年、資料調査センター(リサーチセンター)に対する議論が活発化してきていますが、今後ますますデジタルデータと物と、その両方の継承が課題になっていくでしょう。その際、先述したように活きている資料という意識、創造的アーカイヴの形成を考える場合、これまでの収集と保存、コレクションという近代的諸制度や理念から資料を多面的に利活用し続ける組織体へと、私たちの価値観もアップデートすることが必要になってきているのではないでしょうか。 井上隆雄の資料もまた万全の環境ではありませんが、できる範囲で保存・管理に努めながら、これまで利活用を続けてきました。次は井上隆雄が残したビルマの仏教美術への関心も高まってきています。デジタルと物質、過去と未来など、情報化社会における「情報」の意義とそのための仕組み・システムを私たち自身が創造的に更新していくこと。今後ますます、このような社会システム自体のアップデートが重要になってくると言えるのではないでしょうか。