京都画壇のオーラル・ヒストリー

プロジェクト・リーダー:松尾芳樹(芸術資料館学芸員)
田島達也(美術学部准教授)

 近世の京都は,江戸に次いで多くの画家が集住する日本絵画の中心地のひとつである。近代になると流入する西洋絵画に対して,自らのあり方をみつめなおす機会も増し,その結果として新しい日本絵画の様式が誕生した。東京と京都では画家たちの近代化に対する考え方も実践の方法も異なり,京都の日本画家たちに対して京都画壇という呼称も行なわれるようになる。今日なおこの言葉は生きているが,時代の流れの中で次第にその姿は変化している。本事業では,京都画壇を画家だけがつくるものとは考えず,それを支える諸業との関わりの中に成立するものと考える。絵画が制作され鑑賞される京都という場の記録として,現在の視点から京都画壇にかかわる記憶を収集し,後世に伝えることを目的とする。
 今年度考えているのは,京都の画壇とパトロンに関する記憶の探索である。近世の京都にはあまたの画家が存在し,彼らの活動を支える者がいた。公家,武家,町衆らが中心的な存在となっていたが,明治維新を迎えその構造は大きく変化した。近代の京都の画家たちを支えたのは金融界や産業界の立役者たちである。京都における大正期の美術運動として知られるものに,大正7年に結成された国画創作協会がある。その結成に関わったのは土田麦僊,小野竹喬,村上華岳ら京都市立絵画専門学校出身の青年画家たちであった。若い彼らの活動を支えたのが塩崎庄三郎,吉田忠三郎ら実業家であり,塩崎は紀州の材木商,吉田は京都の呉服商であった。書簡などによりその援助の様子が研究されつつあるが,不明な部分も多い。画商とともに画家たちを支援する存在として当時大きな役割を果たしたパトロンという言葉も次第に死語となってきた現在,忠三郎の孫であり,現在呉服商からマネキン製作事業のほか,店舗や博物館の内装事業へと事業展開し,美術との関わりを深めている吉忠株式会社の代表取締役社長を務める吉田忠嗣氏にお話をいただいた。
 吉田忠三郞は先代吉田茂八の創業した吉田忠商店を継ぎ,発展させるとともに,美術界の支援者として京都において大きな影響力を持った。能や茶道を交流の場として形成された文化サロンを背景として行なわれる支援は,単に作品を購入するというだけの関係ではなく,若い画家たちの物心両面を支える存在であったという。戦後の社会の変化を経て実業家たちの支援のあり方もまた,変化を余儀なくされる。経営も三代目社長の吉田忠氏を経て,現在の忠嗣氏に継承されるが,忠嗣氏自身も日常的に京都の美術家へ目を配りつづける貴重な存在である。京都の美術家に対する実業家の支援の過去と現在を記録したいと考えている。

平成26年度
平成27年度

kyoutogadan_01仲春洋氏への聞き取り

kyoutogadan_02長尾好則氏への聞き取り

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