第44回アーカイブ研究会のお知らせ

座談会: 今語るリチ先生のこと

日生ビルレストラン〈アクトレス〉壁画制作を中心に

 


上野リチ晩年の作品、銀地に鳥や草花、果物を配した日生劇場のレストラン〈アクトレス〉(1963年竣工)の壁画は、リチの集大成ともいうべき大作として昨今広く紹介されていますが、リチはデザインの一部を示すのみで、実際の制作は当時の教え子京都市立美術大学の学生4名を選び委ねています。本座談会では、制作に当たってかなりの自由裁量も認められたという担当4氏に現場の詳細やこの作品についてのそれぞれの思いを話し合っていただきます。


座談会メンバー:1965年京都市立美術大学工芸科デザイン専攻卒業生

河原林裕二氏
元広告代理店電通勤務
木村英輝氏
キーヤンスタジオ主宰
越田英喜氏
コシダ・アート主宰
細見保彦氏
元広告代理店電通勤務
(50音順)


日 時:2024年4月13日(土)13:00-16:00
会 場:京都市立芸術大学 D棟3F 講義室8(お越しの際は公共交通機関をご利用ください)
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定員30名 要申込 下記の申し込みフォームより申し込みください
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上野リチ・リックス略歴
 1893年ウィーンの富裕な実業家の長女として生まれたフェリース・リックスは、1913年、ウィーン工芸学校に入学、1917年6月卒業と同時にヨーゼフ・ホフマンから誘われ、ウィーン工房に参加、ガラス製品・アクセサリー・小間物など多くのデザインを展開していますが、特にファッションとテキスタイル部で、マリア・リカルツらとともに頭角を現し、彼女のテキスタイルは「リックス文様」として、ウィーン工房最高の売れ行きを示し一世を風靡しました。当時はほとんどすべての部員がプリント布地のためのデザインを制作しており、その評判はダゴベルト・ぺッヒェのもとで最高潮に達し新時代を画していました。1925年にはパリのアール・デコ展で受賞し、秋には日本人留学生で建築家の上野伊三郎と結婚、1926年にかねてから憧れの日本に移住し、ほぼ隔年ごとに渡欧を繰り返して、日本の伝統意匠を自在に取り入れた作品をジャポニスムの影響を強く内包したウィーン工房からリリース、1928年には能装束意匠を強く意識した代表作ザルブラ社製壁紙デザイン4点を発表しています。一方日本では伊三郎との協働で多くの室内装飾デザインを展開しました。
 またウィーン工房解散(1932年)後の1935年には京都市染織試験場に技術嘱託として着任、1944年の退職まで当時国家的プロジェクトであった繊維輸出振興に貢献し多くの輸出向けデザインを考案・制作しています。これと並行して1936年から39年までは建築家ブルーノ・タウトとの関係で群馬県工芸所所長となった伊三郎とともに同所嘱託として、地場の材料と加工技術を生かした工芸品の改良・育成・振興に尽力しました。
 1945年敗戦の混乱期を経て、1951年京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)美術学部工芸科図案専攻講師となり、1960年からは教授に昇任、非常に独自な教育を展開し、また1963年の定年退職と同時に伊三郎とともに設立したインターナショナルデザイン研究所などで戦後新興の企業に多くの人材を輩出しました。
 戦後の代表作として1963年竣工の村野藤吾設計による東京・日本生命日比谷ビル内の日生劇場地下レストラン〈アクトレス〉の壁画デザインがあります。1967年京都で逝去。

上野伊三郎・リチ夫妻

レストラン〈アクトレス〉壁画
 レストラン〈アクトレス〉壁画は1963年9月16日完成した日本生命日比谷ビルの地下一階にあり1995年に分離保存されるまでの30余年独特の空間をつくっていました。
 この日本生命日比谷ビルは日本生命保険相互会社創業70周年記念事業の一つとして構想されたもので、文化に貢献し社会に寄与する施設として世界屈指の設備を持つ日生劇場が付設されました。設計は村野藤吾です。上野伊三郎、上野リチ夫妻は村野からこの劇場の大食堂の壁画の依頼を受けていました。
 このビルは1959年から4年1ヶ月を経て1963年8月に竣功しましたが、仕上げの工事に入ったのは1963年の春になってからで相当厳しい条件であったと思われます。
 ここで注目したいのは、床面積300㎡のレストランの壁面(襖紙約350枚分)を実際に手掛けたの今回の座談会メンバーで、リチは各所の見本を残して一年間のウィーン帰国のため7月10日には船上の人となっています。本会はこの壁画制作の詳しい経緯を実際に描かれた方々からじかにお聞きできる貴重な機会となります。

(文責牧田)

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