第34回アーカイブ研究会 失われた絵画とアーカイブ 宇佐美圭司絵画の廃棄処分への対応について


 2018年4月、東京大学本郷キャンパスの中央食堂に長年掲げられていた、宇佐美圭司(1940-2012)の絵画《きずな》(1977)が、前年に廃棄処分されていたことが判明した。寄贈された美術作品を、大学(正確には東京大学生協)自らが廃棄するというショッキングな事件について、東大は5月8日にコメントを発表。9月28日には、シンポジウム「宇佐美圭司《きずな》から出発して」が開催され、翌年5月にはその記録集も刊行された。さらに2021年には、《きずな》の再現画像と《Laser: Beam: Joint》(1968年南画廊にて初展示)の再制作作品を他の絵画作品などと合わせて展示した、「宇佐美圭司 よみがえる画家」展が開催された(東京大学駒場博物館、7月1日~8月29日まで)。
 今回のアーカイブ研究会では、作品廃棄後の対応、特に2018年のシンポジウムや2021年の展示に至る調査研究において、中心的な役割を果たした加治屋健司氏をお招きし、《きずな》および《Laser: Beam: Joint》の再制作をめぐる話題を中心にお話しいただいた。加治屋氏は芸資研の前専任研究員でもあり、2015年には芸資研で古橋悌二《LOVERS》の修復作業にも関わっている。
 宇佐美圭司は1990年から95年にかけて本学美術学部教授をつとめた。レクチャー後は、コメンテーターの石原友明氏(美術学部教授)のほか、京都市立芸術大学時代の宇佐美の教え子のベ・サンスン氏(アーティスト)、國府理「水中エンジン」再制作プロジェクトのメンバーでアート・メディエーターのはがみちこ氏らを交えて、ディスカッションを行った。研究会の内容全体については、動画記録(https://www.youtube.com/watch?v=tf 7SIPGyGH4)を、またあわせて同展カタログに掲載された加治屋氏の論考を参照していただくことにして、ここでは筆者が重要だと感じた3つの論点を記しておきたい。

1. 作品を記録することの重要性
 あらためて痛感されたのは、実に当たり前なのだが、芸術作品の記録を残すことの重要性である。大学生協の食堂に、撮影するとどうしても照明器具が映り込んでしまうかたちで配置されていたため、《きずな》には「正面から障害物なく写した写真」が一枚も現存していなかったという(廃棄が判明した時点では、作品名すら不明)。《Laser: Beam: Joint》でも、作品の構成要素の正確な配置に必要な図面は残っていない。今回の展示にあたっては、加治屋氏やそのチームが数年間にわたる調査を国内外で行い、作家本人のアトリエから《きずな》の全体像を写したカラーポジフィルムが発見されたものの、正面から写した写真は依然として発見されていない。

2. 再制作における判断を記録することの重要性
 作品そのものが現存せず作家も存命ではない場合、調査によって集められた種々の資料とその読解、ならびに、作品および作家に関する研究=言説から得られた知見をもとに、芸術作品を再現-再構成することになる。だが、どうしても詰めきれない細部(写真からは精確に判読できない等)については、再制作を担当する人間(研究者、学芸員、アーティスト、技術者…)が「判断」することになる。今回の場合でいえば、《きずな》再現画像における色の決定、《Laser: Beam: Joint》での、安全上の理由から当初のコンセプトに反するような改変(レーザーを1箇所からではなく3箇所から発する)を行わざるを得なかった点、などがそれにあたる。そこで重要なのが、こうした細部に関する判断を、誰が・どのように行うかという問題である。
 ディスカッションで石原友明氏が指摘したように、オリジナルの作者が存命の場合でも、作者の言説が作品にとって歴史修正主義的に働くケースがありえる。作者に近く、作品にとっての当事者性が高い特定の「強い語り手」が、再制作の現場で影響力を行使することもあるだろう。
 もちろん(作家が存命であれそうでない場合であれ)work in progressとして、またある種のリミックスとして、芸術作品が時代や社会的な状況とともに変化成長することはつねにありえる。だが、作品がもつ変化の可能性は、その作品自体に、そもそも変化の可能性を包摂するような特性があったかによって大きく意味を変えるであろう。はがみちこ氏が言うように、改変には「非当事者として再制作に関わることの責任」がともなう。作品そのものに関する記録に加え、再制作時のプロセスを記録し作品に付随させて継承することが、作品が時間の流れを超えたアクチュアリティを持つうえで重要だと思われるのはそれゆえである(保存修復と再制作の差異を考えることにもつながるだろう)。

3. 作品論の重要性
 加治屋氏によれば、今回の展示では展示作品が10点と少なく、各時期の代表的作品が並んだ結果、個々の作品が「宇佐美圭司という画家の人生」を説明する「挿画」として読まれてしまう危険性があったという。作家自身のナラティブやこれまでの言説(批評や研究)が既につむぎあげている作家像に寄り添うだけでは、作家が今ここに「よみがえる」ことにはならない。加治屋氏が何度も強調したように、「作家や作品についての多様な言説」、特に作品論を残すことが重要なのは、作品に、作家自身による/作家に関する〈ナラティブ〉から逸脱する要素があるからだ。作家像を越えていく作品論によって議論が展開していく。そうした作品論を増やしたい、と加治屋氏は言う。

 ダムタイプ《pH》のアーカイブや、《水中エンジン》の再制作プロジェクトをふりかえっても(本誌所収のシンポジウム「過去の現在の未来2 キュレーションとコンサベーション その原理と倫理」を参照)、「必要であればその作品の再制作が可能になるような記録を残す」ことは、非常に有意義な記録方法だ。今回は東京大学の事例だが、移転を控えた京都市立芸術大学でも、同様の「廃棄」が起きる可能性は充分にある。個々の芸術作品に適した記録活動を、日常的な制作や研究のなかに、負荷をかけずに、むしろそれ自身が芸術的な営みとして面白くあるようなやりかたで組み込んでいくことに、これからの可能性を感じる。

(佐藤知久)


第34回アーカイブ研究会

失われた絵画とアーカイブ 宇佐美圭司絵画の廃棄処分への対応について

講師|加治屋健司(東京大学大学院総合文化研究科教授、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員)

日時|2021年6月21日収録後オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

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