第35回アーカイブ研究会


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吉田亮人チェキ日記展と第35回アーカイブ研究会

 吉田亮人氏は写真家である。作品は国内外で展示・出版され、高い評価を受けている。今回のテーマである「チェキ日記」は、氏が写真家となる以前の2009年から現在に至るまで、毎日1枚「チェキ」フィルム(富士フイル ム製のインスタントフィルム)で撮りつづけている、数千枚におよぶ家族の記録写真だ。
 チェキ日記は、子供の誕生をきっかけに、日々変化する楽しかった思い出や、小さな子供のたたずまいなどを「忘れたくない」という強い気持ちからはじまったという。日常の感覚をなるべく生の状態で残す手段として、記憶をふりかえる栞として、写真はいいメディアですと吉田氏はいう。特に何かを意図的に撮ろうと狙うのではなく、ピンと来たとき、「おもしろい!」と思ったときにシャッターを押すそうだ(いずれは子供たちにプレゼントする予定だという)。
 撮影時には日付だけを裏面に記入し、時間があるとき、月光荘製のスケッチブックに日付と短いコメントを添えて貼る。「チェキ」を使うのは、時間が経ってからではなく、日々の流れのなかでその瞬間に感じたことを、生々しく覚えている身体のまま、ことばと写真で記録したいためだそうだ。1日に1枚しか撮らないので、写真家としても鍛えられる。デジカメだと写真を撮りすぎて、取捨選択してしまったり、プリントからアルバムに貼るまでに、時間がかかりすぎてしまう。チェキフィルムは、〈再編集する視線〉をできるだけ介入させず、日常性を身体的な感覚を維持したままアーカイブしつづける、そうした記録に適した自律的で簡便なメディアなのだ。松本久木氏はグラフィックデザイナーである。吉田氏の写真集や、この『COMPOST』もデザインしている。あるとき松本氏は、偶然、チェキ日記の一枚を見る。すぐその魅力にひきつけられた、という。これは何? と吉田氏に聞き、記録方法を聞いて、さらに興味は大きくなったそうだ。
 チェキ日記の写真(松本氏は「写像」と呼ぶ)の一枚一枚に、まず魅力がある。それを松本氏は「特別な出来事ではない日常性そのもの」あるいは、誰もが一度は見た風景や、誰もが一度は写真の中の人と同じことをした、そのような何かが写っている、と表現する。日常風景を撮影した映画フィルムの「任意のひとこま」のようなもの。日常性のなかの日常性と言えるかもしれない。あくまで私的な吉田家の家族写真なのに、自分自身の過去がそこに写っているような気さえする。一瞬を捉え、この一枚しか存在しないという意味で、強い唯一性(此性)を備えている写真なのに、むしろ普遍的な魅力がある。そんなチェキ日記に惹きつけられた松本氏は、この写真を「本」にすることを考えた。
 だが、ここに問題がある。チェキ日記の魅力は、一枚一枚の写真だけでなく、写真を日々撮りつづけアルバム化するという「営為」にも(にこそ?)あるからだ。「この1枚の写真」だけではない。「チェキ日記」という持続的な記録行為、あるいは方法自体にも、唯一性があるのである。そしてさらに、独自なメディアとしての、モノとしての唯一性を備えた一冊一冊の「チェキ日記」(松本氏は、チェキ日記には吉田氏の造形作家的な作家性が見られるという)。繰り返される営為の痕跡として結実するところにチェキ日記の魅力があるとすれば、それをどのように、さらなる複製物としての「本」に転換しうるのか? そもそもチェキ日記を作品だと考えていなかったという吉田氏と、その価値をなんとか世に伝えたい松本氏は、芸資研に相談を持ちかけ、今回の研究会につながった。
 吉田氏・松本氏と芸資研の石原教授・佐藤が相談した結果、「研究展示」を行うことにした。来場者たちと積極的に対話し、実験的な展示活動を通じてチェキ日記を公にする方法を探求するのである。展示を研究の場にもする「研究展示」という手法は、芸資研にとっても初めての試みだが、展示スペースと議論の場が隣接する芸術大学ならではの活動とも言える[写真1]。
 実際の展示では、「写真作品」なら決してしないだろうことを色々と試みた。写真を加工して展示したり(文字のみ/写真のみの2バージョン、どちらも日付なし)、極端に拡大してプリントしたり、現時点でのチェキ日記全116冊を実物展示する(来場者は、実物を自由に手にとってよい)などである[写真2~5]。

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 本についても実験的に数パターンを制作し、来場者に手に取っていただき感想を聞いた。現物のチェキ日記をかぎりなく模倣した複製バージョン、写真集の体裁にレイアウトしなおしたダミーブック、チェキ日記の全ページを見開きで撮影した写真のプリントアウト山積み(約4000枚)などである[写真6~8]。
 新型コロナウィルス感染症の流行と会期が重なったこともあり、来場者を予約の上で1日10名に限定したが、結果的に吉田氏や松本氏と来場者との豊かで濃密な対話が生じたのはとてもよかったと思う。「作品」でも「資料」の展示でもない「研究展示」という方法は新鮮で、来場者からも好意的な反応が少なくなかった。
 アーカイブ研究会は、展示期間の最終日前日に研究展示の成果をふまえて行なった。チェキ日記の魅力やチェキ日記という方法のメディア論的な特徴だけでなく、私的な記録を公的な作品にする際の論拠や、写真メディア史におけるチェキフィルムの独自性、社会的な時間と私的な時間など、重要な論点の提起がいくつもなされた。議論は現在も継続中で、いずれどこかで、チェキ日記に関する議論の詳細を公開できると思う(研究会自体については、芸資研のYouTubeチャンネルに近日中に公開される記録動画を参照していただきたい)。
 最後に一点私見を述べる。チェキ日記を本にする際の最大の問題は、写真の選択、つまり「編集」(あるいは「評価選別」)行為に関わるとわたしは考えている。チェキ日記はそもそも、写真を直感的・感覚的に撮影し、できるだけ再編集する視線を介入させず記録活動を継続することを意味している。一方で、写真集とは選択行為の結果そのものである。それはある視点から行われる「収集」だと言ってもいい。チェキ日記における「営為」の次元を重視し、選択された写真が不可避的に巻き込まれていく「物語」への回収を避けたいなら、「評価選別あるいは編集という行為をいかに避けて本を作るか」という難題を解決しなければならない。最終的に印刷される写真が4000枚から「選択」されたものではなく、チェキ日記という持続する記録活動=アーカイブの一部であることが、パフォーマティブに示されていなければならないはずである。
 そのためには、完全に同一な複製物を流通させる「本」というプラットフォームのあり方自体を変える必要があるかもしれない。そもそも、なぜすべての本は同一でなければならないのだろう。たとえば、写真の選択が一冊一冊ランダムに行われ、結果として内容が別々なのに、同じ書物であることを主張するような本はどうだろう。製本される瞬間ごとに、新たに最新の内容がつけ加えられ、成長していく本は? 写真が貼られておらず、購入者が自分でチェキ日記を作るための「本」は? チェキ日記とその「本」の関係は、データベースのデータとその出力形態のようにも思えてくる。そうしたことを、チェキ日記は考えさせてくれるのである。

(佐藤知久)


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1.展示風景
2.チェキ日記全116冊および、制作途中のチェキ日記(どちらも接触可)
3.チェキ写真の拡大プリント
4.チェキ写真(日付が記録されておらず、いつの写真かわからなくなったもの)
5.チェキ写真を加工し、①コメントのみ、②写真のみにしたバージョンの拡大写真
6.製本(現物の形態をかぎりなく模倣した複製物。複製した写真を貼り付けている)
7.ダミーブック(数十枚の写真からなる通常の写真集の形態にした本)
8.全ページのプリントアウトおよびフラッシュカット映像(チェキ日記の全ページを印刷したものと、1見開きを0.2秒で積み重ねた映像)
撮影:吉田亮人


第35回アーカイブ研究会

吉田亮人チェキ日記展と第35回アーカイブ研究会

講師|吉田亮人(写真家)、松本久木(松本工房代表/グラフィックデザイナー)

研究展示|2021年8月24日(火)-8月29日(日)研究展示会場/京都市立芸術大学 小ギャラリー

研究会|8月28日(土)14:00~(オンライン配信)

配信|芸資研YouTubeチャンネル
前半
後半

第34回アーカイブ研究会 失われた絵画とアーカイブ 宇佐美圭司絵画の廃棄処分への対応について


 2018年4月、東京大学本郷キャンパスの中央食堂に長年掲げられていた、宇佐美圭司(1940-2012)の絵画《きずな》(1977)が、前年に廃棄処分されていたことが判明した。寄贈された美術作品を、大学(正確には東京大学生協)自らが廃棄するというショッキングな事件について、東大は5月8日にコメントを発表。9月28日には、シンポジウム「宇佐美圭司《きずな》から出発して」が開催され、翌年5月にはその記録集も刊行された。さらに2021年には、《きずな》の再現画像と《Laser: Beam: Joint》(1968年南画廊にて初展示)の再制作作品を他の絵画作品などと合わせて展示した、「宇佐美圭司 よみがえる画家」展が開催された(東京大学駒場博物館、7月1日~8月29日まで)。
 今回のアーカイブ研究会では、作品廃棄後の対応、特に2018年のシンポジウムや2021年の展示に至る調査研究において、中心的な役割を果たした加治屋健司氏をお招きし、《きずな》および《Laser: Beam: Joint》の再制作をめぐる話題を中心にお話しいただいた。加治屋氏は芸資研の前専任研究員でもあり、2015年には芸資研で古橋悌二《LOVERS》の修復作業にも関わっている。
 宇佐美圭司は1990年から95年にかけて本学美術学部教授をつとめた。レクチャー後は、コメンテーターの石原友明氏(美術学部教授)のほか、京都市立芸術大学時代の宇佐美の教え子のベ・サンスン氏(アーティスト)、國府理「水中エンジン」再制作プロジェクトのメンバーでアート・メディエーターのはがみちこ氏らを交えて、ディスカッションを行った。研究会の内容全体については、動画記録(https://www.youtube.com/watch?v=tf 7SIPGyGH4)を、またあわせて同展カタログに掲載された加治屋氏の論考を参照していただくことにして、ここでは筆者が重要だと感じた3つの論点を記しておきたい。

1. 作品を記録することの重要性
 あらためて痛感されたのは、実に当たり前なのだが、芸術作品の記録を残すことの重要性である。大学生協の食堂に、撮影するとどうしても照明器具が映り込んでしまうかたちで配置されていたため、《きずな》には「正面から障害物なく写した写真」が一枚も現存していなかったという(廃棄が判明した時点では、作品名すら不明)。《Laser: Beam: Joint》でも、作品の構成要素の正確な配置に必要な図面は残っていない。今回の展示にあたっては、加治屋氏やそのチームが数年間にわたる調査を国内外で行い、作家本人のアトリエから《きずな》の全体像を写したカラーポジフィルムが発見されたものの、正面から写した写真は依然として発見されていない。

2. 再制作における判断を記録することの重要性
 作品そのものが現存せず作家も存命ではない場合、調査によって集められた種々の資料とその読解、ならびに、作品および作家に関する研究=言説から得られた知見をもとに、芸術作品を再現-再構成することになる。だが、どうしても詰めきれない細部(写真からは精確に判読できない等)については、再制作を担当する人間(研究者、学芸員、アーティスト、技術者…)が「判断」することになる。今回の場合でいえば、《きずな》再現画像における色の決定、《Laser: Beam: Joint》での、安全上の理由から当初のコンセプトに反するような改変(レーザーを1箇所からではなく3箇所から発する)を行わざるを得なかった点、などがそれにあたる。そこで重要なのが、こうした細部に関する判断を、誰が・どのように行うかという問題である。
 ディスカッションで石原友明氏が指摘したように、オリジナルの作者が存命の場合でも、作者の言説が作品にとって歴史修正主義的に働くケースがありえる。作者に近く、作品にとっての当事者性が高い特定の「強い語り手」が、再制作の現場で影響力を行使することもあるだろう。
 もちろん(作家が存命であれそうでない場合であれ)work in progressとして、またある種のリミックスとして、芸術作品が時代や社会的な状況とともに変化成長することはつねにありえる。だが、作品がもつ変化の可能性は、その作品自体に、そもそも変化の可能性を包摂するような特性があったかによって大きく意味を変えるであろう。はがみちこ氏が言うように、改変には「非当事者として再制作に関わることの責任」がともなう。作品そのものに関する記録に加え、再制作時のプロセスを記録し作品に付随させて継承することが、作品が時間の流れを超えたアクチュアリティを持つうえで重要だと思われるのはそれゆえである(保存修復と再制作の差異を考えることにもつながるだろう)。

3. 作品論の重要性
 加治屋氏によれば、今回の展示では展示作品が10点と少なく、各時期の代表的作品が並んだ結果、個々の作品が「宇佐美圭司という画家の人生」を説明する「挿画」として読まれてしまう危険性があったという。作家自身のナラティブやこれまでの言説(批評や研究)が既につむぎあげている作家像に寄り添うだけでは、作家が今ここに「よみがえる」ことにはならない。加治屋氏が何度も強調したように、「作家や作品についての多様な言説」、特に作品論を残すことが重要なのは、作品に、作家自身による/作家に関する〈ナラティブ〉から逸脱する要素があるからだ。作家像を越えていく作品論によって議論が展開していく。そうした作品論を増やしたい、と加治屋氏は言う。

 ダムタイプ《pH》のアーカイブや、《水中エンジン》の再制作プロジェクトをふりかえっても(本誌所収のシンポジウム「過去の現在の未来2 キュレーションとコンサベーション その原理と倫理」を参照)、「必要であればその作品の再制作が可能になるような記録を残す」ことは、非常に有意義な記録方法だ。今回は東京大学の事例だが、移転を控えた京都市立芸術大学でも、同様の「廃棄」が起きる可能性は充分にある。個々の芸術作品に適した記録活動を、日常的な制作や研究のなかに、負荷をかけずに、むしろそれ自身が芸術的な営みとして面白くあるようなやりかたで組み込んでいくことに、これからの可能性を感じる。

(佐藤知久)


第34回アーカイブ研究会

失われた絵画とアーカイブ 宇佐美圭司絵画の廃棄処分への対応について

講師|加治屋健司(東京大学大学院総合文化研究科教授、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員)

日時|2021年6月21日収録後オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第33回アーカイブ研究会  360°展覧会アーカイブ事業 「ART360」の実践を通した考察


 時空間を記録して残す方法は、この数百年間、基本的には変わっていないのではないか。絵画から高精細なデジタル映像に至るまで、視覚的な記録の形式は、ある視点から見た立体空間を平面におとしこむという意味で、ほとんど変わっていないと、辻勇樹氏はいう。
 いっぽう、「360°を記録するカメラ」は、鑑賞者の視点移動を可能にする。VRヘッドセット・ディスプレイをつけた鑑賞者は、記録された映像のなかの、何に注目するかを身体的に探索できる。これは、その場の状況を感じること―「体験」―に近づくのではないか。テキスト/写真/映像など、記録者が
設定した枠組みを明確にもつ記録(「framed media」)の価値を十分認めつつも、辻氏が360°映像に注目する理由はここにある。それはおそらくはじめて、解釈の多様性を担保する記録形式となるのではないか、というのである。
 辻氏がディレクターをつとめるプロジェクト「ART360」は、360°の映像で展覧会やパフォーマンスを記録する公益事業として、2018年にはじまった。運営の母体は、「次代を担う創造者への支援事業や芸術文化活動に関する普及活動を通じてよりよい未来の創造を目指す」公益財団法人の西枝財団である。
 記録対象となる展覧会やパフォーマンスは、3名の有識者委員会によって選択される。選ばれた展覧会は、8Kの360°カメラ(Insta360 TITAN)、空間オーディオ用のマイク、遠隔操作可能なドリーなどを用いて、360°のステレオ(立体)映像で記録される。すでに24本の360°映像がウェブサイトに公開され、これからも年間12ずつ記録されていく予定だという。
 記録活動に加え、配信や利活用、共有技術の開発にも力を入れている。その場にリアルに行った人たちと、そうでない人たちが意見交換や議論をおこなう場(「展覧観測」)を開催したり、多点同時撮影された対象を、鑑賞者が切り替えながら見るためのプラットフォーム(「PLACE」)も開発中である。将来的には、3Dスキャニングの技術と360°映像を組み合わせた、動的な記録技術の実装も検討しているという。
 ART360は、展覧会を直接経験した人たちと、そうでない人たち―そこには未来の人たちも含まれる―が、「状況の再経験」を通じて共通の土俵に立つことをめざしている。もちろん質疑応答にあったように、「映像のなかでは自由な解釈が可能だとしても、見るべき対象自体が制限されているのではないか」とか、「VR空間だけで満足してしまう人が増えるのでは」といった懸念はあるだろう。しかしそれが、「出来事の本質」とされる部分のみを切り出すのではなく、「展覧会という状況」を丸ごと記録しようというART360の活動の意義を減じることはないだろう。これからもひきつづき、ART360の活動に注目していきたい。

(佐藤知久)


第33回アーカイブ研究会

360°展覧会アーカイブ事業
「ART360」の実践を通した考察

講師|辻勇樹(Actual Inc. 代表取締役 /ART360ディレクター)

日時|2020年12月18日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第32回アーカイブ研究会 世界劇場モデルを超えて

 アーカイブとは単なる資料の集積ではなく、資料を提供するシステムや物的・人的資源をふくめた組織である。したがってアーカイブについては、どのような組織や資源(人や棚やコンピュータや建物…)によって運営され、どのような「システム」によって支えられているかを考えねばならない―そう、桂英史氏はいう。
 第一に、アーカイブは、どのような公共性と関係をもつのか。それは功利主義的な公共性なのか、それとも個々人それぞれに異なる効用にかかわる自由主義的な公共性なのか。あるいは、市場経済の欠陥を是正する福祉・厚生主義的な観点からみた公共性なのか。
 第二に、アーカイブは、どのようなイデオロギー(あるいは思想)に支えられているのか。その近代的な起源のひとつは、フランセス・イエイツが『世界劇場』(1969)で述べたルネサンス期ヨーロッパにある。そこでは神秘主義と科学が同居し、世界全体についての知識を得ることができるという思想から生じたさまざまな「知」が、書物や図表や演劇として、物理的・建築的空間に具現化されていた。図書館や劇場は、こうした思想を強化する一種の記憶装置として機能する。この全能的な思想―桂氏はそれを「世界劇場モデル」と呼ぶ―を、これからのアーカイブも継承していくのか。
 第三に、アーカイブは、どんな秩序に沿って提示されるのか。アーカイブ資料は分類と整理をほどこされ、一定の秩序を備えた資料体として並べられる。その配列し秩序化する論理―桂氏はそれを「棚の論理」と呼ぶ―自体は、どのように構成されるのか。レッシグの『CODE』(2000)を参照しつつ、検討すべき問いが提起される。それは社会的に統一された「法」なのか。行動原理としての市場性なのか。それとも、環境管理型権力に通じる可能性をもつ「アーキテクチャ」か。あるいは相互的に醸成される規範なのか。
 第四に、アーカイブにおける「財」とは何か。アーカイブされた資料が何らかの価値をもつ「財」であるならば、その価値はどのような仕組みによってつくられ、管理・調整されるのか。たとえ物資が豊富に存在しても、それを幸福や自由に変換する能力には、社会や個人間で差があると主張した経済学者、アマルティア・センの議論を引用しつつ、アーカイブの〈財としての活用法〉を検討すべきではないか。
 最後に桂氏は、現在開発中の、映像コンテンツの上映権と公衆送信権の売買システム(追求権の行使を可能にし、映像活用の記録にもなる)「ACIETA」を紹介しながら、ものがつくられるごちゃごちゃとした現場と、アーカイブとが一体化した組織の可能性について語った。整然と分類された秩序の美しさだけではない、ローカルなマイクロアーカイブの美しさ―現場で発生したもののありようについて自分たちで決め、それが共有され組織化されることから生じる美しさもあるのだ、と。

(佐藤知久)


第32回アーカイブ研究会

デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉

世界劇場モデルを超えて

講師|桂英史(東京藝術大学大学院映像研究科/メディア研究、図書館情報学)

日時|2020年11月16日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第31回アーカイブ研究会 美術館の資料コレクションは誰のもの?


 松山ひとみ氏は美術館の資料コレクションの観点から発表を行った。これまで美術館は所蔵している資料を主に展覧会や論文で公開してきたが、2022年開館予定の大阪中之島美術館では、利用者による閲覧の制度を整備し海外の研究者にも活用されるよう、情報発信を行うことを基本方針に定めている。美術館がこうした方針を打ち出すのは中之島美術館が先駆で、国内には明確なノウハウがないため、主に北米の情報を参照しながら進めてきた。国内では全国美術館会議によって、資料の所在情報をまず共有する試みが先ごろ行われ、美術館全体で資料を活用する機運が高まっている。
 美術館に関わる資料には、機関に関わる資料と、作品や作家に付随する収集アーカイブズがあるが、収集資料の受入れのプロセスが具体的に説明された。管理番号の付与、資料群の特徴と目的を決める作業指針の策定、資料に付随する各種のメタデータを国際標準化された基準に沿って付与していくが、カタログ化するまでの注意点などを、アーカイブ担当者は、予算や人出、需要に応じて決めていくことになる。必ずしも収蔵作品に関わらない美術関連資料であっても、新たな創作のために閲覧されることがあり、情報資源をさらなる価値創出へ還元する可能性を秘めている。
後半の討議では、作品と資料の曖昧なものや、作品の評価や保存には関わらない周縁的な活動の資料保管の意義、アーティストが独自に分類した資料群の寄贈の可能性、研究者やアーティストによる利活用の可能性も含めて、いかに美術館のアーカイブを社会に開かれた場所にできるかが議論された。

(石谷治寛)


第31回アーカイブ研究会

デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉

美術館の資料コレクションは誰のもの?

講師|松山ひとみ(大阪中之島美術館/学芸員・アーキビスト)

日時|2020年11月10日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第30回アーカイブ研究会 プラットフォームとしての図書館の役割 コロナ禍で露呈した物理的な公共空間としての弱さ



 佐々木美緒氏の発表は、「図書館とは何か」という問いからはじまった。
 日本では、各種図書館それぞれのあり方が、関連する法令によって定められている。大学図書館のばあい、「大学設置基準」(文部省省令、1956年)がそれにあたる。近年では、情報公開(レポジトリやオープンアクセスなど)、学習支援(ラーニング・コモンズ)、学内外の他機関との連携(MLA連携)などの諸機能も求められている。けれども、各大学固有の使命に沿って、必要な資料を系統的に蓄積し、教育研究に役立てる場所という図書館のあり方そのものは変わっていないと、佐々木氏はいう。
 一方で前回の研究会同様、交流やコラボレーションなど、さまざまな活動のための場所として図書館が注目されていることを佐々木氏も指摘する。たとえば近畿大学の「アカデミックシアター」(2017年開設)。ラーニング・コモンズ、産学連携、国際交流などのための専門施設をつなぐ「あいだ」の空間に、松岡正剛氏が監修した「近大INDEX」と呼ばれる独自の分類法に沿って配架された、マンガをふくむ数万冊の書物がならぶ。そこは文字通り、学生が行き交い議論する場所になっている。
 このように現代の図書館像は多様化しているが、それを佐々木氏は、〈共時的〉と〈通時的〉という異なる時間軸に属するふたつの役割から整理する。〈共時的役割〉とは、「同時代の社会における知識・情報・コミュニケーションの媒介機関」としての図書館の役割(場所としての機能)であり、〈通時的役割〉とは、「記録の保存と累積によって、世代間を通じた文化の継承と発展に寄与する社会的記憶装置」としての図書館の役割である(記憶機関としての機能)。そしてどれほど情報を伝達するやり方が変わっても、さまざまな資源を整理して検索可能な形にし、利用者が必要な資源にたどりつくことを助ける専門職者がいる。そうした人的資源によって、これらの機能が支えられている記憶機関、それが図書館なのだと佐々木氏は指摘する。
 まとめるならば、大学図書館とは、大学ごとに特色ある資源を蓄積し、それを教育・学術資源として活用しつつ、その成果をさらに蓄積して発信・公開するための、媒介機関/社会的記憶装置となる。芸術大学について言えば、これからの芸術大学の図書館とは、大学の中にあるさまざまな組織が、それぞれに深めてきた文化芸術資源を広く集約していく一種のプラットフォームになるだろう。学内組織それぞれの「深さ」を連携させ、広がりを持たせることで、大学としての特色ある文化芸術資源としてまとめていくことができるのではないか。佐々木氏はそう提案して、発表を締めくくった。
質疑応答では、検索のためのメタデータ記述に関する中央集権性の問題や、図書館の使命を大学全体で共有することの重要性などについて議論が行われた。

(佐藤知久)


第30回アーカイブ研究会

デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉

プラットフォームとしての図書館の役割
コロナ禍で露呈した物理的な公共空間としての弱さ

講師|佐々木美緒(京都精華大学人文学部/図書館情報学・図書館員養成)

日時|2020年10月28日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第29回アーカイブ研究会 デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉―イントロダクション


佐藤知久氏は、5日にわたる研究会とシンポジウムの前提となるイントロダクションについて説明した。図書館、博物館、アーカイブは、それぞれ携わる人々の専門性によって、見えない壁があるように思えるが、文化資源を扱うという点に関して共通の特性があり、過去の記録を扱う施設や機関の総称として「記憶機関」という言葉を使うことによって、その垣根を崩して議論できる利点があるという。あわせて2023年の京都市立芸術大学の移転を契機に、従来の付属施設の担う役割を捉え直して、新たに連関させる機構の構想が進められていることも説明された。これ
からの芸術や芸術大学にとって記憶機関はどのようなものでありうるべきか?という問いが本企画の大きなテーマである。佐藤氏はデジタル時代に記憶機関がいかに変化してきたか、そのとき、図書館がどのような場所として捉え直されているか、そして芸術大学において記憶機関がどういう役割を果たせるか、事例の紹介と問題提起を行った。たとえばジョージア工科大学の改装された図書館のように、ストレージは外部にある書物のない図書館が開設されている。この場合、デジタル知識へのアクセスを担保するのが図書館の役割となる。というのも北米での公共図書館の役割は、「市民社会の情報インフラストラクチャー」であり、教養に資するだけでなく、何らかのアクションを促すための場所だと捉えられているからである。他方で日本の公共図書館の役割は、教養の提供の場から地域づくりの核となるものに変わっていった歴史がある。芸術大学の図書館はテキストベースの調査の場所だと考えられがちだが、系列的にモノが蓄積されてきた履歴に潜りこみながら、その物質性を新たな創造につなげることにあるのだという。芸術大学の図書館・博物館・アーカイブの連携の可能性を本研究会では探っていく。
 

(石谷治寛)


第29回アーカイブ研究会
デジタル時代の〈記憶機関 memory institutions〉―イントロダクション

講師|佐藤知久(文化人類学/芸術資源研究センター教授)

日時|2020年10月16日|オンライン配信

会場|芸資研YouTubeチャンネル

第28回アーカイブ研究会 シリーズ:トラウマとアーカイブvol.04     ロマの進行形アーカイブとしての ちぐはぐな住居


岩谷彩子氏(京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)は,人類学の視点で調査研究を行い,インド移動民の夢の語りや,ヨーロッパでジプシーと呼ばれるロマの人々の文化を考察してきた。岩谷氏が調査対象とするのは,ルーマニアに住む金属加工に携わってきたロマの人々が建てる豪奢な建物である。これらは「ロマ御殿」とも呼ばれ,写真集も出版されている。岩谷氏は,この独特の建物は,記憶の反復や持続に基づく民俗学や伝統の産物というより,安定性のない「進行形アーカイブ」だと述べる。どういうことか?
岩谷氏は,その学術的背景として,近年の記憶研究を整理する。1990年代頃から「集合的記憶」(アルヴァックス)や「記憶の場」(ノラ)といった共同体の記憶を通して歴史を再構築する議論が活発になってきたが,他方で,想起に抗う記憶,共同忘却によって立ち上がる共同性といったトラウマ記憶への着目もあった。そのとき,番号化して分離・管理の道具とするアーカイブではなく,喪の作業としてアーカイブを捉える試みもなされた。たとえば美術家ボルタンスキーのような個々の遺物に名前を与え不在を共有するアーカイブ・アートや焼け焦げた跡など資料の物質性に注目する「不完全なアーカイブ」などである。岩谷氏は,ロマの家屋の様式のもつ象徴論的分析を超えた,そこを人が生きるプロセスに注目し,それを「進行形アーカイブ」としてロマの建築物の考察を続けている。それは身体と物質との関わりの中で立ち現れる環境でもあり,衣服の延長のように外部に開かれた建築であり,記憶が内面から外面へと折り広げられる場所だろう。
そもそもロマは,遊動性の高い移動生活を送るがゆえに,記録や民俗的な起源については無関心で,死に対する忌避の傾向も強いと考えられる。死者を歪めてしまうことへの恐れから,遺物を残すことへのこだわりも低く,長年の構造化された差別の経験から,対抗記憶を表明する人権運動もさほど活発にはなっていない。ルーマニアでは1864年の奴隷制度からの解放後にもロマへの差別は続き,ナチスドイツの占領後には反社会的な存在として強制収容された。戦後にロマの人々は,メタルとスクラップを売る仕事に従事し,工業化のなか蓄財をなす人々も増えた。1990年代以降に,西ヨーロッパに移住して出稼ぎをし,戦後の賠償金がなされるようになって,家を建てるというトレンドが起き,とりわけルーマニア南部の街ストレハイアでは御殿が次々と建てられるようになったのだという。
岩谷氏は調査で訪れた部屋の写真を見せながら,その目を惹く折衷的な様式からなる外観(ロマのインド起源説にもつながるアジア建築の様式やボリウッド映画スタイルの大邸宅とルーマニアの新古典主義やフォーク建築の折衷),それと対照的な空っぽの部屋(2階には誰も住まず,死者の遺物だけで満たされたり,孫のためのぬいぐるみだけが置かれたりし,大家族の客人が泊まる部屋として使われる)や,ファサードだけ設えられ建設途中で放置された建物などを紹介した。そうした開かれた家の住人の聞き取りから明らかになるのは,強制連行を逃れる途上の迫害や飢餓を生き延びながら,わずかな持参材を生き延びる糧にした経験である。
とりわけ74歳の男性のトランスニストリアでの経験の証言は不思議な夢のようで象徴的だ。彼は警察に追い立てられ馬を奪われ地下に2年間住まわされた。そこから退去させられて帰還後は,金を飲み込んで隠して持ち運び,後に便にして体外に排出することでその財を守って生き延びたという。そして近年の金の価格の高騰や賠償金によって,家が建ったのだ。移住と定住の狭間で,金が文字通り身体の内外を出入りすることで,死と生の価値が反転するような経験を,この家と人は記憶しつつも未来の忘却へと開け放っている。人類学者もまた,そのファサードの内側や証言者の内部に踏み込みながらも,その「進行形アーカイブ」を外へとつなげるメディエーターとなる。岩谷氏は,連続した記憶を持たない民は,家を残すのではなく,「エスカルゴのように脱ぎ捨てていく」,「そうしなければ生きていけなかった」という。
講演には,崇仁地区の街の記憶に取り組む人々の参加もあり,記憶の向き合い方についての類縁性も語られた。苦しい思い出を言いづらいと逆に,見栄を張って内部の人間に対して見せびらかす文化が生じるという。そうした内面は,外部の人間が調査に立ち入ることで,より複雑な表情を見せるだろう。聞き取りをして記録に残し,その記憶を内外で分かち合うことの意義があらためて確認された。

 

(石谷治寛)


第28回アーカイブ研究会

シリーズ:トラウマとアーカイブ vol.04
ロマの進行形アーカイブとしてのちぐはぐな住居

講師|岩谷彩子(文化人類学/京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)

日時|2020年2月18日(火)14:30−16:30

会場| 京都市立芸術大学芸術資源研究センター,カフェスペース内

第27回アーカイブ研究会 シリーズ:トラウマとアーカイブvol.03     このまえのドクメンタって 結局なんだったのか?!

2019年度のあいちトリエンナーレは,ドクメンタを参考にしたと言われている。ではドクメンタとは一体何なのか。2017年のドクメンタ14を中心に,石谷治寛氏(芸術資源研究センター研究員)が語った。
石谷氏の語りは,「オデュッセイアと移民」「ドクメンタの歴史のなかで」「トラウマとアーカイブ 」「都市と暴力の可視化」「ファブリック工場から芸術大学へ」「トロイアの女たち」という6つの部分から構成されている。各テーマに沿って石谷氏は,具体的な作品を詳細に紹介しながら,ドクメンタとは何かについて二時間にわたって語った。作品のもつ具体性と,その作品がドクメンタに展示される意義についての思想的背景を交差させながら進む氏の語りは,提示される情報量の多さと合わせ,文字通りめくるめくものであった。
けれども,ここで石谷氏の話の内容を「要約する」ことは,およそ不可能である。
もちろん,ヨーロッパにおける過去の出来事を多面的な視点—カッセル/ドイツと,アテネ/ギリシャという二つの具体的な視点—から読み直していくこと,その際には複数の視点を交差させていく「アーカイブ的」な仕種をも用いること……といった「特徴」をドクメンタから抽出し,整理し,図式化することは不可能ではないだろう。
個別具体的な問題,とりわけ,ナチスによる「退廃芸術」の弾圧とその掘り返しとしての「グルリットの遺産」問題や,世界各地で今も見られる検閲と焚書,国境や文化や宗教の壁を越えて移動する人間,宗教改革と宗教戦争,戦争と武器商人と美術,産業と大学,警察と都市,都市の中に建築物として残るさまざまな痕跡,記憶と記録,真実と虚構,そして移民危機と排外主義などの現在的課題等々,ドクメンタ14で参照された諸問題の社会的文化的な背景と,その作品への反映について,厳密かつアカデミックに論じることも,不可能ではないはずだ。
あるいはもう一段抽象的なレベルから,たとえば石谷氏が言及した資料 ‘The Exhibition as Medium and Plot’ (Siebenhaar, K. 2017.documenta.: A brief history of an exhibition and its contexts. B&S Siebenhaar verlag.)をもとに語ることも可能だろう。それによればドクメンタにおいて,展示空間は「芸術作品のショールーム」としてのみではなく,「思考のための,エステティック/ソーシャルな経験のための,出来事が生じるための空間」として想定されている。キュレーターは展示の「作者」であり「研究者」であるだけでなく,展示空間の「作曲者」「舞台美術家」「コレオグラファー」である。そしてドクメンタは,解読されるべきテキストであると同時に,何かと何かを媒介するメディウム,そこから何かが(アーティストだけでなく,作品の鑑賞者や,議論の参加者によっても)演じられるべきスコア(譜),つまり,完結した何かではなく,進行していくプロセスとなる。そのようなものとしての〈展示〉の可能性を,現在と歴史を背景に探究すること—それがドクメンタなのだと,そう結論めかして語ることもできなくはないだろう。
だが石谷氏があえてこうした語り口をとらず,いくつかの注意点を際立たせつつも,つねに個々のアーティストと作品,および作品が置かれた場のそれぞれについて論じることに回帰しながら,いわばもういちどドクメンタを再演するかのように語った点に,ここでは注意しておきたい。そこには,ドクメンタとは何かを明示することではなく,むしろ「ドクメンタから学ぶ」こと,ドクメンタをスコアとしてつぎの行為へと進むことが重要なのだ,というメッセージが含まれているように思える。そしてそれこそ,「ドクメンタってなんだったのか」という問いへの,正確な反応ではないだろうか。

 

(佐藤知久)


第27回アーカイブ研究会

シリーズ:トラウマとアーカイブvol.03
このまえのドクメンタって 結局なんだったのか?!

講師|石谷治寛(京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員/芸術論・美術史)

日時|2019年12月17日(火)17:30−

会場| 京都市立芸術大学芸術資源研究センター,カフェスペース内

第26回アーカイブ研究会 シリーズ:トラウマとアーカイブvol.2   parallax(視差) ─「向こう側」から日本を見る


「ナショナルな大文字の歴史からこぼれ落ちる,語られにくい記憶」に対して,アートはどのようにアプローチできるのか? 高嶋慈氏(美術批評家/芸術資源研究センター研究員)は問いをこう設定する。
なぜ語られにくいのか? 大文字の歴史にはそぐわない「負の遺産」,あるいはあまりに個人的で周縁的な記憶だから。では,忘れてもいいのか? もちろん否である。ではどうするか? 高嶋氏は,リサーチや対話を通じて氏自身が共同作業を行なってきた二人のアーティストの作品を紹介しながら,アートがこの問いにどう応えうるのか,その道筋を探る。
最初に,大坪晶氏の《Shadow in the House》(2017〜)が紹介された。占領期(1945- 52)にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって接収され,京都や神戸などに今も残る個人住宅の,現在の様子を撮影した写真作品シリーズだ。この作品では,単に現状を記録するのではなく,室内にダンサーを配置し,そのダンサーのシルエットや動いた跡を,長時間露光撮影によってかすかな「影」のようにそこに写し込むという,フィクショナルな要素がつけ加えられる。
一方,裵相順(ベ・サンスン)氏は,韓国の大田と釜山という都市の歴史と記憶に着目する(前回のアーカイブ研究会報告を参照)。高嶋氏は裵氏とともに両都市を現地調査し,大田の一角にある蘇堤洞(ソジェドン)に,現在でも植民地期日本人街の家並みが残り,今でも住宅として利用されている家があることを「発見」する。けれどもそこでは,今まさに再開発が進み,家々は破壊あるいは洒落た店へとリノベーションされ,忘却と,想起への抑圧とが同時進行していたという。
二人のアーティストが関わる出来事はどちらも,国家にとっては周縁的なhistoryである。かつて自分たちを占領/支配した人々がつくった家や町の上に,現代の自分たちが住むといった経験を,その後の「独立」や「発展」といったstoryに位置付けることは困難である。こうして複雑な経緯は消去され,一方的な物語におきかえられ,過去の痕跡は消去されていく。
では,アートはどうか。
高嶋氏はまず,大坪氏におけるフィクショナルに追加された曖昧な影に注目する。これは誰のシルエットなのか? 接収前に住んでいた住人? 一時期そこに住んだGHQの将校やその家族? 返還後の住人? 複数の解釈が可能だが高嶋氏はそこに「複数の記憶が多重露光的に重なり合い,判別不可能になったもの」「もはや明確な像を結ぶことのできない記憶」を見ることができると指摘する。
釜山の龍頭山公園に残る石垣を型取りした裵氏の《Stone Rose》(2019)も同様である。石にも花にも見えるこの立体作品は,硬いものと有機的なもの,死んだものと生きているもの,傷跡と美といった,矛盾する要素をひとつの物質に共在させており,それによってこの作品は,現実のなかにある語りにくさやレイヤーの複数性を「許容する器」たりえている,と高嶋氏は言う。
歴史記述は,(記述者がマジョリティであってもマイノリティであっても)立場によってどうしても一面的になりがちである。これに対してアートは,複数の視点からの見方を,ひとつの作品に同時に内在させることができる。それによって作品は,現在と過去が断絶しておらずむしろ共存していること,現在の状況の複雑さの根がどこにあるのかを示すことができるのだ。こうしてアートは,別の視点から歴史的出来事に接近するための経路に,困難な想起へと向けられた可能性をひらくのである。

 

(佐藤知久)


第26回アーカイブ研究会

シリーズ:トラウマとアーカイブvol.2
parallax(視差) ─「向こう側」から日本を見る

講師|高嶋慈(京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員/美術・舞台芸術批評家)

日時|2019年10月24日(木)17:30-

会場| 京都市立芸術大学芸術資源研究センター,カフェスペース内

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