第37回アーカイブ研究会

沓掛アーカイバル・ナイト〈第1回〉
沓掛時代から平成美術へ:アートと社会システムとわすれたくない作品

来年度の崇仁地区への本学移転に際し、芸資研では1980年から2023年までの43年間の「沓掛時代」を多彩なゲストとともにふりかえるトーク·シリーズ「沓掛アーカイバル·ナイト」を今年度より企画している。第一回目のゲストは、本学卒業生であり、1986年に「ヴォイス·ギャラリー」を立ちあげて以来、多くの表現者たちに活動と発表の場を提供しつづけてきた松尾惠氏と、関西を対象とした現代美術の批評誌『A&C: art & critic』(1987年創刊)など様々なかたちでアート·マネジメントに携わってきた原久子氏をお招きした。「沓掛時代」を「美術をめぐる様々なシステム化が進んでいく時代」ととらえ、両者の視点からこの時代を振り返る機会としていただいた。

1 「関西アートシーンから見た沓掛時代」
まず原氏から、アート・プロデューサーとして関西のアートシーンを俯瞰してきた外側の視点からお話しいただいた。インターネット誕生以前、1980年代は「ニューアカデミズム」、「ポストモダン」などの活発な言論も後押しして「雑誌の時代」となったが、同時代のアートシーンを紹介する役割も雑誌が担ったという。だが、原氏によると、出版メディアは首都圏に集中しており、『美術手帖』などの月刊誌では関西の情報はあまり紹介されなかったため、当時「西高東低」[1]と呼ばれた関西方面のアーティストが活躍している状況を伝える雑誌は不足していた。
関西には芸術系大学・教育大学の芸術系学部が多数あり多くの作家が輩出されたという背景もあるが、とりわけ京芸出身者の作品は当時外から見ていた同世代の原氏の目からも興味深いものだったという。関西の作家の活動を数多く紹介し、創作と批評の若い才能を交差させる目的で創刊された批評誌『A&C: art & critic』[2]では、原氏が編集を務め、本学出身者のインタビューを多く手がけている。また原氏の参加した企画で、首都圏以外の作家を集めた「ドーナッツ」展(ワタリウム美術館 オン・サンデーズ、1999年)では、伊藤存、カワイオカムラらの卒業生が紹介された。京都の作家はマーケットに左右されない分、作品を深く醸成することができると見ていたそうだ。
『A&C: art & critic』の目次を一例として紹介していただいたが、当時よく使われていた「平面」(絵画、書、写真)や「立体」(彫刻)という用語からは形態等へのこだわりが読み取れるという。また「クレイワーク」(陶立体)や「テキスタイル」(染色)という用語もしばしば用いられており、そうしたマテリアル(素材)や形態別に顕彰制度(賞)や企画展がおこなわれていた。「インスタレーション」を問う議論が頻繁におこなわれたのも、この時代の特徴だという。
アーティストをとりまくインフラ状況(社会システム)に目を向けると、京都市街地にあるギャラリーが大学の外の世界との接続点となり、時代ごとの各種の顕彰・助成制度(文化庁在外派遣研究制度、ACC、安井賞、 VOCA展、京展 等)、また90年代以降には企業メセナが盛んとなって、卒業後の発表の受け皿となってきた。沓掛時代の約40年間にはそうした制度が増加しており、交換留学やアーティストインレジデンスなどの仕組みも90年代以降に整ってきた。京都芸術センター(2000年)や@KCUA(2011年)がオープンするなど、ギャラリーや美術館ではないオルタナティブな発表場所が加わったことも大きな変化として挙げられる。1980年代から現代にかけて、そのように作家のキャリアを支える諸々のシステムが整備されたことが確認されたが、原氏からは近年のアートフェスティバルのありかたについて、昔の団体展に近づいてきているのではという懸念も述べられた。

2 「わたし(たち)はどうサバイブしてきたか」
松尾氏からは、原氏から概説いただいたようなシーンの内側で活動した一作家として、個人的な体験を踏まえてお話ししていただいた。大学が沓掛に移転した1980年には、第一次テクノブームが起こり、ニューペインティングが隆盛するなど、若者のカルチャーに衝撃を与える出来事が次々と起こった。松尾氏自身も『美術手帖』1982年の「インスタレーション」特集号や1986年の「美術の超少女たち」の特集号で取り上げられ(作品画像の横にはポートレート写真がカラーで掲載された)、女性作家の活躍に注目が集まることで、それまでの怖くて近づき難いようなアーティスト像を覆し、一般の若者の考えるアーティスト像が身近なものに変わった時代だったという。
1980年に本学を卒業した松尾氏は、学生時代を過ごしたのは今熊野学舎だが、その多くのエッセンスは沓掛学舎にも引き継がれたと話す。学生時代の活動、三美祭(五芸祭の前身)、卒業後の展覧会、ギャラリーを開いてからの様子など、当時の写真を見せていただきながらふりかえっていただいた。学生の時、松尾氏はバスケ部に所属し、練習や合宿など部活仲間との結びつきも強かったという(バスケ部の先輩たちが「GOOD ART」を結成した際にも展示に誘われて参加している)。芸祭では、自転車(京大西部講堂の放置自転車を拝借)を改造した山車をつくり仮装行列で四条河原町を練り歩いた[3]。
卒業後は、京都大学の解剖学研究室やギャラリーでアルバイトをしながら作家活動を続け、1986年にVOICE GALLERY(現「MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w」)を開くことになる。当時の松尾氏はアーティストでもあったため、VOICE GALLERYは貸画廊の形を借りているが、表現者の生き方をサポートする一種のアーティスト・ラン・スペースだった。レンタル代を安くした反面、お金の工面に苦労し、他のアーティストを代弁することにも価値観の違いからジレンマを感じたそうだ。だが、1986年頃は沓掛で学んだ学生たちが発表場所を探していた時期でもあり、レンタル代の安いVOICE GALLERYでたくさんの卒業生が展覧会を開くことができた。夜遅くまで出入りができ、壁を塗ったりすることも可能な自由度が高いスペースが、他では断られてしまうような“やんちゃ”な表現を許容したという(一例として、初期に展示をした作家に、1967年生まれ世代である高嶺格、南琢也、西松鉱二らがいる)。当時の常識的アートシーンからすれば「はみだしもの」ばかりで、VOICE GALLERYは「不良の溜まり場」と陰で呼ばれたそうだが、逸脱の証として勲章のように感じてきたそうだ。実際、展示をした作家の活躍が目立ち始めると、ギャラリーの活動にも評価が向けられるようになった(ソニー・ミュージックエンタテインメント主催「アート・アーティスト・オーディション」では、1992年第一回グランプリに西松鉱二、1993年第二回準グランプリに高嶺格が選ばれた)。
1990年頃には、京都市主催の「芸術祭典・京」事務局でアシスタントをし、演劇、音楽、現代美術、学生(美術関係大学8校の卒制選抜展)の各部門に携わりながら、行政的な手続きを要する仕事を覚えた。1990年に文化庁芸術文化振興基金が創設されて以来、助成金制度を利用するようにもなり、またVOICE GALLERYの隣にオフィスを構えたDumb Typeが、セゾンなど企業からの助成を得て活動の幅をどんどん広げていく様子を目の当たりにすることにもなった。オルタナティブな活動をする上で、そうしたアーティスト支援の社会システムをフレキシブルに利用していく(サバイブしていく)ことの重要性を感じたという。
松尾氏の発表に対し原氏からは、現在の視点で「アーティスト・ラン」、「オルタナティブ」と言えるような活動がこの時期に数多く起こり、いい意味で“やんちゃ”=型にはまらない自由さがあったが、それは社会的な環境が発展途上だったからこその表現ではないかと所感が述べられた。

3 「ふたりの平成美術(1989~2019)」
後半の対談では、1980年代以降のアートに注目が集まっている状況[4]を踏まえて、おふたりにとっての沓掛時代(≒「平成美術」)を振り返っていただいた。当時の両氏の身近では、Dumb Typeメンバーら沓掛キャンパス出身者を中心とするAIDSポスタープロジェクトや、その周辺の多様な活動が起こっていた。それらはプロジェクト・ベースで議論のきっかけを作ることを目的としていたため、これまでは「作品」と捉えられず「美術未満」の活動とされてきたという。両氏も参加した、女性が女性のためにダイアリーを作るプロジェクト「Woman’s Diary Project」なども、単に手帳というプロダクトの共同での編集作業とみなされがちだったが、昨今のソーシャリー・エンゲージド・アートの文脈では活動のプロセス、インタラクション、継続性やそのアウトプットの仕方なども踏まえて評価されていることから、アートの実践ととらえ直すこともできるのではないかと話された。
80年代から平成の時代にかけて様々な社会的問題が噴き出し、それに作家達も応答して反権力的であったりマイノリティを擁護したりする活動が盛んになされ、多くのプロジェクトが現れた。アクティヴィズムかアートかの二者択一ではなく、自立する人間としてその時々の態度で積極的に関わっていく可能性が重要だと松尾氏は指摘する。特に、マイノリティの権利について活動をするには覚悟を要する時代だったため、正当に評価されなかった(損をした)作家も少なくないという。近年のドクメンタやヴェニス・ビエンナーレの傾向など、社会変革の意識を持つアートが国際舞台で取り上げられるケースも増えている現代の視座から、平成の時代に、拾い上げられないまま慌ただしく目次的に流されてしまったような問題を振り返り、再評価していきたいと両氏は語る。
また、マイノリティの表現だけではなく、メディア・アートやインスタレーションの作品等、この時代に新興した表現もレンタル・ギャラリーという仕組みがあったから生き残ることができたと指摘された。一方ではバブルの時代でもあり、コマーシャル・ギャラリーでは販売のしやすさを想定した作品が扱われがちだったが、そうしたシーンに迎合しない活動を支えた、“おばちゃん”的面倒見の良さが特徴とされる京都のレンタル・ギャラリーの存在は大きいという。評価を得て後にカテゴライズされていった表現であっても、出てきた当時は未分類で何者とも呼べないようなもので、作品未満の過程で作家自身がそれをしなければならないような必然性があるために生み出されてきた。芸術大学という場所がそうした「出てくる時代を間違えた」ようなオルタナティブな表現を醸成し、大学の多い京都では異分野の知とアートの自然な交流が生まれやすかったことも、時代を拓く表現の土壌にあったと語られていた。おふたりのお話によって像を結んできた沓掛時代の京都芸大の姿を踏まえ、崇仁キャンパスでの次なる時代の本学のありかたを見通す一助とできれば幸いである。

(𡌶 美智子)

VOICE GALLERY開業当時の様子


[1] 「西高東低」の状況を伝えるインタビュー集として本レクチャーでは下記が紹介された。畑祥雄『西風のコロンブスたち 若き美術家たちの肖像』ブレーンセンター発行、1985年。
[2] 京都芸術短期大学(現・京都芸術大学)発行。編集委員は、本学の学長も務めた建畠晢(元・国立国際美術館館長、現・多摩美術大学学長)、京都大学で教鞭を振るった篠原資明(現・高松市現代美術館館長)が務めている。
[3] 学生時代から松尾氏はバイクに乗る姿でも有名だ ったそうだが、バイク事故のため卒展で展示できず、保険金でギャラリー16で個展を開催したという武勇伝も。
[4] 「起点としての80年代」(金沢21世紀美術館・高松市美術館・静岡市美術館を巡回、2018-19年)、「平成美術」(京都市京セラ美術館、2021年)、「関西の80年代」(兵庫県立美術館、2022年)など、この時代を特集する企画展が相次いで開催されている。


第37回アーカイブ研究会
講師|
松尾 惠(ギャラリスト/MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w主宰)
原 久子(アートプロデューサー/大阪電気通信大学教授)

開催日時|2022年10月21日(金)18:00~20:00
会場|伝音合同研究室1(新研究棟7階)

アーカイブ

ページトップへ戻る