第20回アーカイブ研究会「Week End/End Game:展覧会の制作過程とその背景の思考について」

第20回アーカイブ研究会は,インディペンデント・キュレーターの服部浩之氏と,アーティストの田村友一郎氏をお招きした。田村氏は,服部氏のキュレーションのもと,栃木県の小山市立車屋美術館で個展「試論:栄光と終末,もしくはその週末 / Week End」を開催した(2017年9月23日~11月26日)。研究会では,この個展の制作プロセスを軸に,地方都市においていま美術展を開催することの意味について議論が交わされた。

愛知県生まれの服部氏は小山市をはじめて訪れたとき,どこか「荒野」に似た印象をもったという。服部氏は地方/郊外/ロードサイドなど,具体的な社会的・文化的問題に触れることのできる作家として田村氏の個展を企画する。それは藤田直哉氏の『地域アート―美学/制度/日本』(堀之内出版, 2016年)が出版された直後で,地方のアートプロジェクトの意味が改めて問い直された時期でもあった。巨大なアートプロジェクトにも関わる服部氏にとって,この展覧会は小規模ながら「アーティストとなにか新しい状況や物事を生み出すという,とてもシンプルなこと」をしたいという自分自身の「根幹を再認識する機会」でもあったという(https://tamura-hattori.exhb.jp)。

2016年12月からはじまったリサーチのなかで田村氏が着目したのが,閉じた空間を構成していないこの美術館の建築的なあり方であり,美術館公用車である日産グロリアの名前に象徴される「栄光」――それも「かつての栄光」にまつわるさまざまな痕跡――だった。「栄光」は2016年に田村氏が参加した「BODY/PLAY/POLITICS」展(2016年10月1日~12月14日,横浜美術館)から継続するテーマである。それは小山市においても,市役所に掲げられた地元出身スポーツ選手を応援する垂れ幕や,観光地化のためにかつての故事にちなんで町を再活性化させようとする努力などに現れていた。

具体的な作品は,小山市にまつわるさまざまな「栄光」を表すものとなった。美術館前にあるスポーツ用品店の2階に飾られているスポーツ選手の写真を,ギリシャ彫刻の彫像に見立てた写真作品。スポーツ用品店を経営する三兄弟の,過去の栄光にまつわる思い出の品々。ミス準日本に輝いた小山市出身の女性が保持する,当時の記念の冠。これも美術館近くにある化粧品店のファサードを精巧に再現した模型(ウィンドーには古墳時代にこの地域を支配した女性の装身具が展示されている)。それらが展示室に作品として並べられた。美術館の外,駅前や交差点や田んぼのなかの野外広告には,三兄弟の過去の栄光を表す記念の写真が引き伸ばされて貼り出された。

これらの作品からは,スポーツや美に対する強烈な批判的視点(東京オリンピックと地方都市,美術における中心と周縁…)が見え隠れするが,展示風景からはユーモラスな雰囲気が感じられた。この点について田村氏は,2014年の作品《世話料理鱸包丁》(「SeMAビエンナーレメディアシティ・ソウル2014」,ソウル市立美術館,韓国)を例にあげて説明したが,極めてシリアスな問題に触れながらどこかユーモラスな展示を実現することで,対立する感情そのものが宙づりになるようにも思われた。

ちなみに小山市立車屋美術館での個展と同時期,田村氏は「日産アートアワード2017」のファイナリスト展に新作《栄光と終焉,もしくはその終演》を発表し,「栄光が落ちていく」イメージを,日産グロリアが崖から落ちる映像として視覚化した。けれどそこにも,クライマックスとしての車体が地面にクラッシュするシーンはない(かわりにサミュエル・ベケットの戯曲『勝負の終わり(Endgame)』から,「ゲームは終わり,終わりだ,終わろうとしている。たぶん終わるだろう」が引用されている)。

田村氏は言う。「よくありますよね,市民にとってアートとは何かとか,市民にどうフィードバックするかとか。でもアートが啓蒙できるわけでもないし,むずかしいと思います。この展覧会に参加した人たちは,自分の姿や自分が慣れ親しんだものが美術館に展示され,それを見るという得も言われぬ経験をしたと思う。それがどうかれらの生活のなかで変化していくのか,そこに自分は興味がある」と。

いま自分が立っている環境や場所をあらためて見る。それも,これまでになかったような,時に複雑で,けれどユーモラスなやり方で。服部氏と田村氏の活動は,現代の美術館がわれわれ自身の「栄光」とは何かを見るため/考えるための場として再生する,新たな可能性を示しているように思われた。

(佐藤 知久)

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