特別授業 壁画は何をうつすのか—法隆寺金堂壁画の模写を通して—の報告

12月8日,本研究センターの客員教授・特別招聘研究員の彬子女王殿下による特別授業「壁画は何をうつすのか―法隆寺金堂壁画の模写を通して―」が行われた。講演のポイントは以下の3点が挙げられる。1)「模写,複製」を行う動機の時代的変遷や多様性。2)「日本画家」が文化財の保存修復に関わる際に,アイデンティティの問題が浮上したこと。3)「模写,うつし」の目的は技術的な精巧さか精神性の継承なのか,という本質論に関わる問題である。

講演の前半では,明治期に幾度も行われた法隆寺金堂壁画の模写制作が紹介された。まず,ご自身の研究対象である大英博物館所蔵の日本美術コレクションで発見された模写を紹介。明治期に医師として日本に滞在したウィリアム・アンダーソンの元所蔵品で,3m近い大きさのものだ。これは,壁画を見て感銘を受けた英国人外交官,アーネスト・サトウが桜井香雲という絵師に依頼し,1979~81年の間に制作されたものをアンダーソンに贈ったと考えられる。また,現在パリのギメ美術館所蔵の,パネル貼りでより精巧な模写も現存する。こちらは,宝飾デザイナーの元所蔵品で,1883年に制作されたと記録されている。これら初期の模写制作は日本美術コレクターによるプライベートな依頼だが,その後,帝室博物館から桜井香雲に対して模写事業が依頼され,国家レベルとして初の文化財記録事業が行われた。

さらに女王殿下は,西洋人コレクターによる壁画への熱い視線がきっかけとなり,「文化財保護」という観点からの模写制作が開始されたことの意義の大きさを述べられた。それまでは,狩野派における粉本教育など,師匠や古画の習得という観点から「模写,うつし」が行われていたが,「文化財を守っていく」ために模写するという考え方はなかった。日本が近代国家としての基盤を整えていくなか,日本初の文化財調査事業である「壬申検査」(1872年),「古社寺保存法」の制定(1897年),そして岡倉天心による建議書を受けての「法隆寺壁画保存方法調査委員会」の設置(1915年)など,文化財保護に関する法令や制度が整えられていく。一方でここには,「文化財保護」の観点や制度の確立を促した背景には,「オリジナルの代替物としての模写を自国に持ち帰る」西洋人コレクターの植民地主義的欲望があったという皮肉な事実と,「日本美術史」のマスターピースとしてナショナルな言説空間に組み込まれていく過程も否定できない。

また,講演の後半では,政府の主導で1940~49年の焼損に至るまで実施された,金堂壁画の模写事業が紹介された。この事業では,4名の日本画家が助手を率いてそれぞれの班を編成し,各班ごとに担当する壁面が割り当てられた。東京からは3名(荒井寛方,中村岳陵,橋本明治),京都からは入江波光が選出された。注目すべき点は,東京班と京都班で模写方法が異なったことだ。東京班は,便利堂(美術印刷・出版会社)が撮影した原寸大写真を和紙に薄くコロタイプ印刷したものに彩色していく方法を採った。一方,京都班の入江は,伝統的な模写技法である「上げ写し」(古画の原本や写真版の上に薄い和紙を重ね,和紙をめくった時の目の残像を利用して写し取る方法)を採用し,あくまで肉筆で写すことにこだわった。講演で特に焦点が当てられたのが,入江である。自らデザインした白装束を着て身を捧げる覚悟で模写に臨んだこと,模写制作中は自作品の依頼を全て断っていたことなどのエピソードを紹介しつつ,「画家としての個を殺し,色や線,影の付け方を忠実になぞることで,時空を超えて過去の描き手の内面や精神性を受け継ぐことができる」という彼の考えが紹介された。さらに,「上げ写し」は正確性に欠けるとして採用しなかった東京班に対し,入江はむしろ,「コロタイプ印刷への着色は,魂を欠いた“塗り絵”のようなもの」と思っていたのではないかと述べられた。ここには,手本の「うつし」によって脈々と技術的習得を行ってきた日本画家としての矜持がうかがえる。科学技術至上主義か精神論か,といった二項対立を超えて,「誰が,なぜ,何のために模写や複製を行うのか」という本質的な問いを射程に含むものだと言えるだろう。

(芸術資源研究センター研究員 高嶋 慈)


日時| 2016年12月8日(木)  15:30–17:30

会場|京都市立芸術大学新研究棟2F

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