シンポジウム「ほんまのところはどうなん,『アーカイブ』 初心者にもわかるアーカイブ論」の報告

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2015年9月19日に,シンポジウム「ほんまのところはどうなん,『アーカイブ』 初心者にもわかるアーカイブ論」が京都芸術センター講堂にて開催された。

シンポジウムのプロローグ「ボクにもわかるように話してな」で森村氏が語られたように,このシンポジウムは,本研究センターの特別招聘研究員を務め,自らを「アーカイブの初心者」と呼ぶ美術家の森村泰昌氏を迎え,森村氏から事前に投げかけられた問いにそれぞれの登壇者が応えるというかたちで進められた。

最初に登壇したのは本研究センター研究員の林田新である。森村氏からの問いは「なんでそんなもんが出来てきたん」というものであった。この問に対して林田は,アーカイブが(1)文書記録,(2)それを収集・保存する施設,(3)その活用に供する行為という国立公文書館による定義を紹介したうえで,それが西洋近代において,権力者に専有されてきた歴史記述の可能性を広く市民へと開放し未来へと恒常的に担保することを目的に誕生したこと,しかし,公文書管理法の成立が2009年であることに端的に現われているように,日本におけるアーカイブの制度的成立はまだまだこれからであることについて論じた。その一方でアーカイブをモデルとする芸術的実践の増加,哲学・現代思想におけるアーカイブ概念への言及,歴史学における非文字資料への注目,情報技術の発展にともなうアーカイブの「脱‐物理的保管」(post-custodial)の状況というように,アーカイブという概念が拡張している現状が報告された。

次いで登壇した本センター准教授の加治屋健司に森村氏が提示したお題は「アーカイブは病やて言うてる学者がいるらしい」というものであった。ここでいう「学者」とは『アーカイヴの病』の著者ジャック・デリダのことを指す。加治屋の発表は,マルセル・プルーストやポール・ヴァレリー,テオドール・アドルノのミュージアム(美術館)論,ミシェル・フーコーの図書館論を紹介したうえで,デリダの『アーカイヴの病』について概説するというものであった。デリダのアーカイブ論を紐解いていく中で,アーカイブ化の欲望が,情念的,強迫的に過去への回帰を指向する衝動であり,過去を破壊し無化していくような「死の欲動」それ自体とともに立ち現われてくるものであるという「アーカイヴの病」が論じられた。全体を通じて強調されたのは,美術館や図書館,そしてアーカイブとは,作品・書籍・資料といった知識や情報が蓄積した場ではなく,そこから新たな意味が生み出されていく場であるということである。アーカイブとは,固定した過去の知識の総体ではなく,未だ到来していないものへと開けていく所,知識が生み出されていく場なのである。

本学美術学部教授である加須屋明子は「アーカイブを芸術にする人が増えてきた」と題して,芸術とアーカイブについてお話しされた。近年,アーカイブを活用したり,アーカイブ形式を援用した作品が増加している。2015年に開催された「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭」や「第56回ヴェネチア・ビエンナーレ 国際美術展」でもそうした傾向は顕著であった。加須屋はそうした傾向の作品を(1)個人的/集合的な記録/記憶,(2)同じものの大量の集積,(3)博物館的な展示,の三つに分類し,その背後には作品概念の揺らぎや情報技術の革新,そして近代主義的な歴史を批判的に再構築する意思があることを指摘した。続けて,歴史的な重要性を帯びているように見えるこうした傾向の作品が,実のところ作家の生い立ちと感受性に依存しているとして作家による権威付けを批判したクレア・ビショップの議論を紹介したうえで,一定の強度を持って過去が参照された場合には,その確からしさによって観客の態度変更をもたらす可能性を有している点において,アーカイブ的な作品は評価できるのではないかと結論づけた。

京都精華大学の佐藤守弘氏には,森村氏から「なにがおもろいのか教えてください」という問いが投げかけられた。佐藤氏は,サー・ジョン・ソーンのミュージアムや驚異の部屋,澁澤敬三のアチック・ミュージアムやジョセフ・コーネルの作品など,「アーカイブ的」な事例を多数紹介したうえで,ミュージアムやライブラリーとアーカイブを次のように区別した。すなわち,ミュージアムが絵と壁によって,ライブラリーが本と書架によって構成されているのに対して,アーカイブは紙と抽斗によって構成されている。ゆえに,ミュージアム,ライブラリーとアーカイブには可視性と不可視性という問題が潜んでいるのではないかと示唆された。また,アーカイブ概念が拡張している昨今の現状を受けて,〈原型保存〉〈現秩序〉〈出所原則〉を原則とする現実のアーカイブと——とりわけミシェル・フーコーが『知の考古学』で用いたような——比喩としてのアーカイブを区別することを提案された。

最後に登壇した本研究センター所長であり美術家の石原友明は,「忘れることはよくないことですか」というお題に対して制作者の立場から,自分の作品が美術館に展示されること対して感じる違和感について述べた。美術館に作品が展示される際,それは常に過去の作品として展示される。しかし,作家にとって作品とは永遠に繰り延べられる「現在」であると石原は言う。人は,自分がやってきた過去の仕事——「忘れようとしても思い出せない」ような過去,覚えていたことだけは覚えているがその内実は定かではないような過去——を現在の立場から遡及的に根拠づけて物語を紡いでいく。言い換えるのであれば,ある過去作品の意味は現在の作品との関係においてその都度,書き換え可能なのであり,作品を作るということはいずれ作る作品の根拠を未来へと投げ出すことでもある。「現在」とは,来し方と行く末がせめぎ合う場なのであり,それこそが制作の現場であること,時間は直線的に流れることなく,いつでも編集可能であることが強調された。

最後に行なわれた全体討論では,ロラン・バルト『明るい部屋』を反−アーカイブとして読み解く可能性,アーカイブの欲望に対するアーカイブ不可能性・禁忌・不完全性,整理されざる混沌に魅了されること,また,美術史やアーカイブからいかに逃げることができるかという森村氏の態度など,非常に多岐に渡る論点が提示された。最後に行なわれた森村氏のパフォーマンスを含め,およそ5時間にわたって行なわれたこのシンポジウムでは,歴史的,理論的,実践的,社会的なさまざまな観点からアーカイブについての論点が提示された。森村氏が提示した「ほんまのところはどうなん,『アーカイブ』」という問いに対して明快な解答が提示されたわけではない。しかし,アーカイブという概念がはらむ問題圏の広がりとその重要性は,会場に足を運んでくださった方々と共有できたのではないだろうか。

(芸術資源研究センター非常勤研究員 林田 新)

 

シンポジウム「ほんまのところはどうなん,『アーカイブ』 初心者にもわかるアーカイブ論」

日時:2015年9月19日(土) 13:00-17:30

会場:京都芸術センター講堂

共催:京都芸術センター

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