第27回アーカイブ研究会 シリーズ:トラウマとアーカイブvol.03 このまえのドクメンタって 結局なんだったのか?!
2019年度のあいちトリエンナーレは,ドクメンタを参考にしたと言われている。ではドクメンタとは一体何なのか。2017年のドクメンタ14を中心に,石谷治寛氏(芸術資源研究センター研究員)が語った。
石谷氏の語りは,「オデュッセイアと移民」「ドクメンタの歴史のなかで」「トラウマとアーカイブ 」「都市と暴力の可視化」「ファブリック工場から芸術大学へ」「トロイアの女たち」という6つの部分から構成されている。各テーマに沿って石谷氏は,具体的な作品を詳細に紹介しながら,ドクメンタとは何かについて二時間にわたって語った。作品のもつ具体性と,その作品がドクメンタに展示される意義についての思想的背景を交差させながら進む氏の語りは,提示される情報量の多さと合わせ,文字通りめくるめくものであった。
けれども,ここで石谷氏の話の内容を「要約する」ことは,およそ不可能である。
もちろん,ヨーロッパにおける過去の出来事を多面的な視点—カッセル/ドイツと,アテネ/ギリシャという二つの具体的な視点—から読み直していくこと,その際には複数の視点を交差させていく「アーカイブ的」な仕種をも用いること……といった「特徴」をドクメンタから抽出し,整理し,図式化することは不可能ではないだろう。
個別具体的な問題,とりわけ,ナチスによる「退廃芸術」の弾圧とその掘り返しとしての「グルリットの遺産」問題や,世界各地で今も見られる検閲と焚書,国境や文化や宗教の壁を越えて移動する人間,宗教改革と宗教戦争,戦争と武器商人と美術,産業と大学,警察と都市,都市の中に建築物として残るさまざまな痕跡,記憶と記録,真実と虚構,そして移民危機と排外主義などの現在的課題等々,ドクメンタ14で参照された諸問題の社会的文化的な背景と,その作品への反映について,厳密かつアカデミックに論じることも,不可能ではないはずだ。
あるいはもう一段抽象的なレベルから,たとえば石谷氏が言及した資料 ‘The Exhibition as Medium and Plot’ (Siebenhaar, K. 2017.documenta.: A brief history of an exhibition and its contexts. B&S Siebenhaar verlag.)をもとに語ることも可能だろう。それによればドクメンタにおいて,展示空間は「芸術作品のショールーム」としてのみではなく,「思考のための,エステティック/ソーシャルな経験のための,出来事が生じるための空間」として想定されている。キュレーターは展示の「作者」であり「研究者」であるだけでなく,展示空間の「作曲者」「舞台美術家」「コレオグラファー」である。そしてドクメンタは,解読されるべきテキストであると同時に,何かと何かを媒介するメディウム,そこから何かが(アーティストだけでなく,作品の鑑賞者や,議論の参加者によっても)演じられるべきスコア(譜),つまり,完結した何かではなく,進行していくプロセスとなる。そのようなものとしての〈展示〉の可能性を,現在と歴史を背景に探究すること—それがドクメンタなのだと,そう結論めかして語ることもできなくはないだろう。
だが石谷氏があえてこうした語り口をとらず,いくつかの注意点を際立たせつつも,つねに個々のアーティストと作品,および作品が置かれた場のそれぞれについて論じることに回帰しながら,いわばもういちどドクメンタを再演するかのように語った点に,ここでは注意しておきたい。そこには,ドクメンタとは何かを明示することではなく,むしろ「ドクメンタから学ぶ」こと,ドクメンタをスコアとしてつぎの行為へと進むことが重要なのだ,というメッセージが含まれているように思える。そしてそれこそ,「ドクメンタってなんだったのか」という問いへの,正確な反応ではないだろうか。
(佐藤知久)
シリーズ:トラウマとアーカイブvol.03
このまえのドクメンタって 結局なんだったのか?!
講師|石谷治寛(京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員/芸術論・美術史)
日時|2019年12月17日(火)17:30−
会場| 京都市立芸術大学芸術資源研究センター,カフェスペース内