第26回アーカイブ研究会 シリーズ:トラウマとアーカイブvol.2   parallax(視差) ─「向こう側」から日本を見る


「ナショナルな大文字の歴史からこぼれ落ちる,語られにくい記憶」に対して,アートはどのようにアプローチできるのか? 高嶋慈氏(美術批評家/芸術資源研究センター研究員)は問いをこう設定する。
なぜ語られにくいのか? 大文字の歴史にはそぐわない「負の遺産」,あるいはあまりに個人的で周縁的な記憶だから。では,忘れてもいいのか? もちろん否である。ではどうするか? 高嶋氏は,リサーチや対話を通じて氏自身が共同作業を行なってきた二人のアーティストの作品を紹介しながら,アートがこの問いにどう応えうるのか,その道筋を探る。
最初に,大坪晶氏の《Shadow in the House》(2017〜)が紹介された。占領期(1945- 52)にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって接収され,京都や神戸などに今も残る個人住宅の,現在の様子を撮影した写真作品シリーズだ。この作品では,単に現状を記録するのではなく,室内にダンサーを配置し,そのダンサーのシルエットや動いた跡を,長時間露光撮影によってかすかな「影」のようにそこに写し込むという,フィクショナルな要素がつけ加えられる。
一方,裵相順(ベ・サンスン)氏は,韓国の大田と釜山という都市の歴史と記憶に着目する(前回のアーカイブ研究会報告を参照)。高嶋氏は裵氏とともに両都市を現地調査し,大田の一角にある蘇堤洞(ソジェドン)に,現在でも植民地期日本人街の家並みが残り,今でも住宅として利用されている家があることを「発見」する。けれどもそこでは,今まさに再開発が進み,家々は破壊あるいは洒落た店へとリノベーションされ,忘却と,想起への抑圧とが同時進行していたという。
二人のアーティストが関わる出来事はどちらも,国家にとっては周縁的なhistoryである。かつて自分たちを占領/支配した人々がつくった家や町の上に,現代の自分たちが住むといった経験を,その後の「独立」や「発展」といったstoryに位置付けることは困難である。こうして複雑な経緯は消去され,一方的な物語におきかえられ,過去の痕跡は消去されていく。
では,アートはどうか。
高嶋氏はまず,大坪氏におけるフィクショナルに追加された曖昧な影に注目する。これは誰のシルエットなのか? 接収前に住んでいた住人? 一時期そこに住んだGHQの将校やその家族? 返還後の住人? 複数の解釈が可能だが高嶋氏はそこに「複数の記憶が多重露光的に重なり合い,判別不可能になったもの」「もはや明確な像を結ぶことのできない記憶」を見ることができると指摘する。
釜山の龍頭山公園に残る石垣を型取りした裵氏の《Stone Rose》(2019)も同様である。石にも花にも見えるこの立体作品は,硬いものと有機的なもの,死んだものと生きているもの,傷跡と美といった,矛盾する要素をひとつの物質に共在させており,それによってこの作品は,現実のなかにある語りにくさやレイヤーの複数性を「許容する器」たりえている,と高嶋氏は言う。
歴史記述は,(記述者がマジョリティであってもマイノリティであっても)立場によってどうしても一面的になりがちである。これに対してアートは,複数の視点からの見方を,ひとつの作品に同時に内在させることができる。それによって作品は,現在と過去が断絶しておらずむしろ共存していること,現在の状況の複雑さの根がどこにあるのかを示すことができるのだ。こうしてアートは,別の視点から歴史的出来事に接近するための経路に,困難な想起へと向けられた可能性をひらくのである。

 

(佐藤知久)


第26回アーカイブ研究会

シリーズ:トラウマとアーカイブvol.2
parallax(視差) ─「向こう側」から日本を見る

講師|高嶋慈(京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員/美術・舞台芸術批評家)

日時|2019年10月24日(木)17:30-

会場| 京都市立芸術大学芸術資源研究センター,カフェスペース内

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