第25回アーカイブ研究会 シリーズ:トラウマとアーカイブvol.01    《シャンデリア》自作を語る ─近代歴史の中で生き残った人々の話から の報告

裵相順(べ・サンスン)氏は,京都市立芸術大学に留学して,抽象画の訓練を受けたが,日本で暮らしつつ,5年ほど前から調査ベースのビデオや写真作品を制作するようになった。彼女が主な調査の対象としてきたのは,戦前の日本人の朝鮮半島への移住と,戦後の引き揚げの経験である。講演の冒頭で,裵氏は,聞き取りをした辻さんの映像を紹介した。辻さんの家族は,1910年の日韓併合の前に韓国中部の都市大田(テジョン)に渡っており,写真好きの父は当時の写真を残していた。ソウルから釜山へは南北に鉄道が走っているが,その中間にある大田駅が開業したのは1905年のことである。この年の前後に日本人の入植者が移住し,日本人村が形成されたのだった。辻さんはその大田で育つが,太平洋戦争後の引き揚げで,関西に戻ってきた。裵氏は,こうした生き残った人々の聞き取りを行いながら,資料を掘り起こし,大きな歴史からこぼれ落ちる個人の記憶を作品にするよう取り組んできた。
過去の記録は,忘却の時間をたどるための最初の手がかりになる。裵氏が調査を始めたとき,まず中学生の時に撮られた家族写真を再現するかのようにして現在の姿を撮影することを試みたという。そうした比較を手がかりに,移住前の韓国と移住先の関西の街へと実際に訪ねてみると,時間の変化が感じられるようになる。彼女が特に注目したのは,植民地時代に日本が作っていた壁の土台だ。「語ることのできない石の変化に,語れないもののイメージがある」という。
10名以上の人々への聞き取りで語られた移住の経験への想いはさまざまだ。戦争中も移住者にとっては楽園のように平和で豊かだった環境を懐かしみ深い愛着を表明する者もいれば,結婚で韓国に移住したものの,日本に戻りたいけど戻れずに苦しんでいる者もいる。そうした調査に対して,もっと痛ましい歴史もあるのになぜ日本人を調べるのかという韓国側の反応もあり,調査の意味をも自問させられたという。それでもなお,自分が日韓を行き来する者だからこそ,これまで移住の経験を語ることが出来なかった人が,信頼して細部まで話すことができたのだと自らに言い聞かせることもあったと,彼女はその葛藤を吐露する。
それゆえ5年の調査のあいだに裵氏にも変化があったという。調査と創作との接点を時間をかけながら飲み込んでいき,展覧会でのアウトプットを進めるなかで,対象を内面化していく体験があったのだ。裵氏はそうした感情の動きを,平行線という抽象的な比喩で説明した。平行線は,鉄道の線路のように,向き合わざるを得ない距離感をもって,つかず離れずにいる。そうした感覚は,戦前の機関車の模型が走るインスタレーション,地図に基づいたドローイング,絡みあった紐などで表現された。そのうち,2004年頃に描いていた画面全体に曲線が重なり合う抽象画の作風が回帰してきたという。韓国と日本の錦糸を使ってシャンデリアのように束ね,解かれない状況を表した抽象的な写真作品が,証言した人々の写真に並置される。「細い細い線で生き残った」人々の気持ちを暗喩するものだと裵氏は説明する。日本と韓国,過去と現在のあいだを往還する人々の感情の交錯には,それを題材にして作品にする作家自身の感情の変化もが複雑に織り込まれているように感じられる。本講演は,そうした主客を超えたトラウマ的葛藤のもつれと変容の過程が語り直される,豊かな言語パフォーマンスにもなっていた。
裵氏は,2019年には,釜山港の船を待つ公園の壁を型取りし,樹脂で作品化した。日本人がつくったこの壁は,その後の大火事によって何度も爆発した跡が残されており,その形が花のようにみえたから,色を染めた。あわせて公園に残されている木の写真も,反転して花に見立てたという。韓国での植民地化と引き揚げの経験を生きた人々の感情は,その痛みの記憶が複雑に交錯するがゆえにはっきりとは語られずにきた。石に投影された咲き散る花のイメージは,その記憶の痕跡を無言のうちに匂わせるものとなるだろう。

 

(石谷治寛)


第25回アーカイブ研究会

《シャンデリア》自作を語る ─近代歴史の中で生き残った人々の話から

講師|裵相順

日時|2019年10月8日(火)京都市立芸術大学 芸術資源研究センター

会場| 京都市立芸術大学芸術資源研究センター,カフェスペース内

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