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森村泰昌の歴史的位置と「美術」への問題意識の変遷 -ブロマイドとしての在り方を巡って-

森村泰昌(1951~)は世界中の有名なイメージ、作品に自身が入り込む自写像を30年以上続けてきた美術家だ。1985年《ゴッホ(肖像)》をはじめとして日本の根本的な「美術」という言葉の不在や戦争という暴力の忘却といった、「非歴史性」を糾弾した先駆的な作家として日本現代美術に位置付けられる。後、1988年以降は次第に美術における西洋中心性を指摘するようになり、西洋において森村の作品は、西洋や西洋中心の美術を「見返す」ものとして評価位置づけられてきた。しかし、そのPC性による評価は、森村自身を西洋中心の渦に巻き込むように感じさせるようになった。そのとき、森村は自身の作品が身近な観賞者から、西洋とは異なる観賞をされていることに気づく。それは、森村に会うために作品を観賞しようとするような態度であり、ブロマイドのような作品の在り方であった。

森村の語る「ブロマイド」とは、写真が芸術作品のように作品として作者関係なく独立的に存在するのではなく、被写体を媒介するモノとしての写真の在り方である。森村は、自分の作品がそのように芸能的に見なされたこと自体に美術の新しい可能性を感じていた。芸能的に観賞される森村作品は同じく西洋美術の文脈では美術として見なされているからである。つまり、その二つは重なり合うことができると森村は考え、それを積極的に推し進めることが『河内音頭で美術をKILL』(1998)などのライブパフォーマンスであり、西洋中心でないグローバルな美術の在り方を探し求める姿であったのだ。

しかし歌は2005年頃を境に途絶え、2006年の《なにものかへのレクイエム・MISHIMA》から国内の問題や国内の美術の在り方へ問題意識の重心が移行していき、演説を始めとして次第に声が作品に登場してきた。その変化の一因は視聴覚文化の変化、例えば、写真のマニピュレイトによる修正可能性の高まりとその一般化が、その手法を変えさせ、ブロマイド的な存在方法の最も核の部分である、「生々しさ」、写真と死の結びつきの意識の減退が挙げられるだろう。

森村は自身の自写像が以前のようにブロマイド的に自身を媒体しないと考え始める。森村はデジタル写真の操作可能性の拡大が、観賞者にとって最早すべてがデジタル写真のように見えてしまう、ということを示唆するのだ。そこで森村は作品のプンクトゥム、写真の被写体の潜在的な死との結びつき、生々しさ、を復活させるために声を用い始めたと考えられる。

本論は、美術家である森村を写真史において、ポスト・デジタル時代の観賞者を想定した上でのプンクトゥムを模索しつづけ、作品への没入を誘う反演劇性と、作品を客体化させる演劇性という観賞体験を、観賞者によって同時に出現させた作家として位置づける。

2015年度 同窓会賞 大学院 美術研究科 芸術学専攻 修士2回生 田川 莉那 TAGAWA Rina

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