近代日本画における亜鉛華を使用した彩色技法 -明治33年京都市美術工芸学校絵画科卒業作品を事例として
近代日本画における亜鉛華を使用した彩色技法
──明治33年京都市美術工芸学校絵画科卒業作品を事例として(要旨) 紀 芝蓮
はじめに
絵画研究において、画家の制作意図や時代背景を読み解くためには、画風・様式の分析に加え、材料・技法の分析も有効である。明治以降、東京画壇では西洋画の表現技法と共に、西洋で開発された顔料を取り入れたことが自然科学的な作品調査によって確認されている。しかし、京都画壇については技法・材料の様相が十分に明らかではない。
本研究に先立ち、竹内栖鳳や山元春挙らが教師となり、京都画壇へ多くの人材を輩出した京都市美術工芸学校絵画科の卒業作品群に着目した非破壊分析調査に参加した。この調査では、明治33年の卒業作品、26点中の14点に西洋由来の白色顔料である亜鉛華の使用が確認された。これは、竹內栖鳳や山元春挙らの新様式の作品が知られる明治34年以前に、西洋顔料を使う試みがあったことを示している。そこで本研究は、亜鉛華が使用されている明治33年の卒業作品を対象として、亜鉛華がどのように使用されていたかを明らかにし、亜鉛華が選択された意図とその背景を考察した。
研究方法
本研究では明治33年の卒業作品のうち、「白色を呈している部分」があり「類似するモチーフ」が描かれた竹端道義《寒雲醸雪》、中山湖月《草蘆三顧》、今井斯文《伯夷叔斉》、川畑春翠《笠置落城》、曽我玉鼎《暁行》の5点に対象を絞り、目視観察、デジタル顕微鏡観察、X線透過撮影、紫外線照射撮影、蛍光X線分光分析を利用し、彩色技法と材料に関する作品調査を実施した。
また、亜鉛華が選択された意図や時代背景を考察するために、胡粉と亜鉛華の自然科学的特性、明治期のヨーロッパおよび日本における亜鉛華の製造・流通、絵画における使用技法に関する文献調査を行った。
調査結果及び考察
5作品への亜鉛華の使用方法については、《寒雲醸雪》では、雪には亜鉛華、竹には胡粉が使われている。《草蘆三顧》では、毛・描き起しの線描、雪に亜鉛華が使われている。どちらの作品も胡粉と亜鉛華を使い分けている。これは亜鉛華が胡粉よりも発色がよく、冷たい白色を呈す性質を知った上で、雪・線描・強調する部分に亜鉛華を選択したと考えられる。
《暁行》と《伯夷叔斉》には、共に白馬が描かれている。白の絵具を部分的に厚く塗って濃淡で立体感を表す表現と、線描で毛並みを表す表現が見られる。自然科学的調査では、《伯夷叔斉》の白馬には胡粉、《暁行》の白馬には亜鉛華と胡粉が混ぜて用いられたことが分かった。《暁行》では、日が明けてない冷たさを表すために、冷たい白を呈する亜鉛華を取り入れたのではないかと考えている。
この2作品の衣服では、白を暈して服の膨らみを表わす表現がみられる。これらの暈しの表現には亜鉛華が多用されている。これは、胡粉は画面に塗った直後の湿った状態ではあまり白く発色せずに乾燥すると白さが増すのに対して、亜鉛華は塗った直後から白く発色するため、亜鉛華の方が白色の色合いを微妙に調整する暈しの表現に適していると考えたためであろう。
《笠置落城》にも亜鉛華と胡粉が共に使用されているが、亜鉛華と胡粉の使い分けている部分、亜鉛華と胡粉の混ぜて使った部分もあり、その使い方は要領を得ない。しかしながら、特に旗や刀などの白さが際立って人目を引き、画面に効果的に躍動感や緊張感を与えている部分では亜鉛華が使用されている部分が多い。これらには胡粉より発色のよい亜鉛華を意図的に使用したのであろう。
このように、5作品には胡粉と亜鉛華が両方使われている。作品によって亜鉛華の使用技法は異なっており、共通する点があるものの、画一的ではない。胡粉と亜鉛華の使い分けが簡潔な作品と、それと比較するとやや要領を得ない作品があった。亜鉛華の使用方法を作者が個々の作品で模索したことが窺える。使用方法の特徴からは、亜鉛華の自然科学的特性を知った上で使用したと推察される。
作品が制作された明治33年前後の時代背景
19世紀後半以降、亜鉛華はヨーロッパで絵画に実用されていた。アカデミーの画家ヴィベールは油彩画において鉛白と亜鉛華の二つの白色顔料を併用して光の効果を出すところに亜鉛華で薄くかける方法について記述している。それを学んだラファエル・コランの記録でも二つの白色顔料の併用方法がある。
作品が制作された明治33年前後の画壇の状況をみると、西洋画家の黒田清輝と久米桂一郎らは、明治25年に留学から帰国し、明治27年に東京美術学校西洋画科に着任した。彼らはコランの鉛白と亜鉛華の使い分ける技法を日本に持ち込んだ。明治31年には、久米が編集に参加した『洋画手引草』が出版されており、亜鉛華の特性や、亜鉛華による水彩絵具の特色が紹介されている。
京都画壇においては、明治32年に京都市美術工芸学校に着任した山元春挙が、写真の焦点を生かした空間構成や迫真的描写表現を発展させた。明治35年の資料で、油画の材料を大量に購入していたことがわかる。このようなことから、学生らは、偶発的に亜鉛華に出会って使用したのではなく、すでに日本に紹介されていた亜鉛華の特性や技法に関する情報を書籍や春挙から知る機会があった可能性は高いと考えられる。
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