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逸脱の遊歩者、マイク・ケリーのぬいぐるみをめぐる「どちらでもないもの」の分析

 本論は、現代美術作家であるマイク・ケリー(1954-2012/ロサンゼルス)の作品分析を通して、「去勢のシンボルになりたい」と話していた作家の真意に迫ろうとするものである。ケリーは、多様なメディアを扱う作家であり、立体、ペインティング、映像、パフォーマンス作品のほか、インタビューや批評などの執筆活動も行っていた。なかでも、使い古され薄汚れた手作りのぬいぐるみをリサイクルショップで買い集め、それらを縫い合わせたり、吊るしたり、床や机の上に並べたりするいくつかの作品を含む〈Half a Man〉というシリーズによって、1980年代後半以降一躍有名になった。特にケリーは作品の形態的特徴から「おぞましさ」や「不気味なもの」といった主題の典型的な作家の一人としてみなされている。筆者は、ケリーの「去勢」を求める姿勢、作家としての態度に疑問を持った。それは、ケリーの作品に漂う反抗的かつ不条理な特質が脱・男性的な「去勢」という解釈だけにおさまるものではないと感じたからだ。なぜ、ケリーは「去勢」を求めたのか。また、その「去勢」とはどういった意味を持つものなのか。これが本論における問いであり、出発点である。

 

 本論では、まず、ケリーの生い立ちから学生時代、その頃のパフォーマンス活動に触れながら、1987年より発表されはじめた〈Half a Man〉への変遷をたどっていく。続いて作品分析では、商品経済や精神分析といったポストモダンアートのなかで焦点の当てられていた領域を交差させた〈Half a Man〉のなかのぬいぐるみに焦点を当てながら、「移行対象」や「贈り物」というぬいぐるみの持つ特徴から導かれる「去勢」の意味に迫っていった。そして、「去勢」を補完する概念として「ノンセンス」の性質にも注目している。「ノンセンス」は、無意味で馬鹿げた低俗なものを指す一般的な解釈だけでなく、意味と無意味の二項対立そのものを超えた価値を持つといわれる。そういった「どちらでもないもの」としての考え方が「去勢」の解釈へと多層的に作用していく。また、「不能哲学」を掲げた現代美術家である工藤哲巳(1935-1990/日本)との比較分析を行うことで、さらにケリーにとっての「去勢」について迫っていった。ケリーは工藤の回顧展カタログにテキストを寄稿しており、そのなかの分析を参照しつつ、両者の死や性といったタブー視される物事への接近について考察していった。

 

 「去勢」の末の「どちらでもないもの」としての中間的な立ち位置や境界線上を行き来するような姿勢は、物事を固定化せず宙吊りにし、可能性に向かって開かれた希望的な態度のあらわれのように思われる。つまり、ケリーのいう「去勢のシンボル」とは、「どちらでもないもの」としての逸脱の遊歩者の姿であったのではないだろうか。

2016年度 大学院市長賞 総合芸術学科 総合芸術学専攻 院2回生 河原 功也 KAWAHARA Koya

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