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京都画壇における青年画家の眼 -明治30年代美工卒業作品の画風変遷を中心に-

明治30年代の京都画壇は、流派や領域を越えて自由な研究が奨励される時代を迎えていた。33年には竹内栖鳳(1864-1942)がパリ万国博覧会視察のためヨーロッパを訪れ、帰国後は洋画研究から日本画を見つめ直し新たな画風を築き上げたことがよく知られている。栖鳳門下からは上村松園(1875-1949)や土田麦僊(1887-1936)ら大正・昭和期に活躍した画家が数多く輩出された。このように、京都画壇の流れは一般的に各世代の代表的な画家の師弟関係によって語られる。

しかしそれだけでは、若き日本画家たちが繰り広げた制作活動の実態は把握しづらい。こうした中、当時の青年画家たちの制作活動を伝える数少ない資料が、京都市立芸術大学芸術資料館が所蔵する明治30年代制作の京都市立美術工芸学校(美工)卒業作品である。美工は明治13年設立の京都府画学校が同27年に改称されたもので、同42年には美工の高等機関として京都市立絵画専門学校(絵専)が新設され現在の本学に至る。美工卒業作品をまとめたものとしては本学から『日本画聚英』が刊行されているが、本研究では対象の113点について改めて実見調査を行い、調査の過程で認められた画風変遷を制作年に即して「鵺派風の折衷表現」「日本美術院派風の表現」「ロマン主義美術の影響」「洋画壇の影響」「動物画への移行」に分類し、同時代の美術動向との関係性を考察した。

その結果、美工では時流に呼応した最先端の画風を追う試みが実践されていたことが明らかとなった。さらに、生徒の実技奨励を目的に美工で組織された「校友会」の活動も美工卒業作品を読み解く手掛かりとなり、栖鳳ら当時の教員の発言からは生徒自身による研究を重視した指導が行われていたことがわかった。

京都画壇全体に目を向けると、明治30年代半ばより青年画家の間で洋画風を取り入れた日本画が流行し、「新派」と称された彼らの是非をめぐる論争からは、美工教員を中心とした肯定派と老年画家を中心とした否定派との対立が露となった。また、明治35年には美工卒業生の北垣静処が発起人となり「鴨緑茶話会」を結成、20代の日本画家を中心に絵画研究が盛んに行われた。美工関係者も多く所属した本会は、学校の存在が一つの土台となり結成された青年画家団体の草分けであったと言える。

美工卒業作品に現れた集団的な画風の変化は、当時の青年画家の制作姿勢が伝統流派の継承から同時代の美術動向に目を向けた各自の研究に重きを置くものへと変化していったことを示している。今では名前も知られていない青年画家たちの視点から明治期の京都画壇を振り返ったことで、大正・昭和期、ひいては現代の作家活動へと繋がる道筋を見いだすことができたように思う。

 

2015年度 大学院市長賞 大学院 芸術学専攻 院2回生 古田 理子 FURUTA Riko

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