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平安時代における「蒔絵螺鈿」の成立  ―文献上の記述を中心にした考察―

―(論文要旨)―

 

 「蒔絵」と「螺鈿」という2つの漆工加飾技法を併用した「蒔絵螺鈿」の表現は、平安時代から鎌倉時代へ移行する過渡期にあたる12世紀に成立したとされている。「蒔絵」は漆を塗った上に金属粉や色粉を「蒔く」ことで絵や文様を表す、日本を代表する加飾技法である。一方、「螺鈿」は夜光貝などの貝殻から採取される真珠層を板状に加工し、そこから文様を切り出して木地や漆地に定着させる技法である。「蒔絵螺鈿」とは「蒔絵」によって描かれた文様の中に「螺鈿」の文様が組み込まれることによって成立する表現であり、平安時代の遺例としては和歌山県の金剛峯寺が所蔵する《沢千鳥蒔絵螺鈿小唐櫃》や東京国立博物館が所蔵する《片輪車蒔絵螺鈿手箱》が知られている。素材的にも工程的にも大きく異なる2つの技法の併用は当時としては画期的であり、後世の漆工品にも大きな影響を与えた。現在、「蒔絵螺鈿」の成立時期については遺例の調査結果を基に12世紀初頭と考えられているが、遺例数の少なさからより具体的な時期を導き出すことが困難な状況となっている。その一方で、平安時代に記された貴族の日記をはじめとする文献資料を調査していくと、11世紀の初頭から既に「蒔絵螺鈿」という語が用いられていることに気付く。

 

 本論では、日本の漆工史において12世紀の成立とされている「蒔絵螺鈿」について、実際の遺例に基づく従来の学説と、さまざまな文献に確認される「蒔絵螺鈿」の記述とを照らし合わせることで、その具体的な成立時期について再検討を行っている。

 

 第一章では、まず平安時代の加飾技法の中で最も中心的な存在であった「蒔絵」の技法的特徴について概観している。「研出蒔絵」という複雑な手順を踏む技法が、平安時代を通して用いられている点について、使用している金属粉の問題や貴族に特有の生活習慣などの側面から考察している。続いて「蒔絵螺鈿」を構成している2つの技法の起源を知るために、各種の漆工加飾技法が日本へと伝来した奈良時代の状況について取り上げている。奈良時代には中国大陸や朝鮮半島との交流が活発に行われる中で、漆工の分野においても従来にはなかった新しい技術がもたらされ、国内における漆工の水準を飛躍的に高めることとなった。東大寺正倉院の宝物に見られる「漆地螺鈿」や「末金鏤」の遺例、出土品に見られる金属粉の多彩な使用法や工程的な共通性は、平安時代へと移行する前段階において既に各技法の基礎が形成されていたことを示しており、その後の急速な発展の要因になったと考えられる。

 

 第二章では、京都府の仁和寺が所有する《宝相華迦陵頻伽蒔絵そく冊子箱》や《宝相華蒔絵宝珠箱》などの、奈良時代の影響を残しながらも高度に完成された蒔絵表現を見せる「初期蒔絵」の遺例群の特徴について触れている。金属粉を蒔いて文様を描く「蒔絵」の技法と、背景等に広範囲に金属粉を蒔く「地蒔き」の技法は、奈良時代から平安時代へと継承された後、「初期蒔絵」において融合を見せる。その加飾表現は2つの技法が組み合わされているという点で、後に成立する「蒔絵螺鈿」の先駆的存在に位置付けられるが、比較的早い時期に併用が行われた理由については、共に金属粉と漆を用いるという素材的な共通性が関係していたと考えられる。当時の漆工品製作が基本的に分業体制であったことも、作業効率の面で「蒔絵」と「地蒔き」の結びつきを促したと言えるが、このことは反対に異素材を用いる「蒔絵螺鈿」においては、その成立時期が遅くなった要因の1つとも考えられる。また「初期蒔絵」の遺例が製作されたのと時を同じくして、当時の文献にも「蒔絵」やそれに類する語が登場し始める。『竹取物語』や『伊勢物語』などの物語に見られる記述は、当時の漆工品について直接言及したものではないが、読者側に「蒔絵」に関する知識があることを前提とした表現がされており、蒔絵という名称が貴族社会の中である程度一般化してることを示唆している。天暦4年(950)に書かれた『仁和寺御室御物実録』からは、「蒔絵」がしだいに加飾技法の中心になりつつある様子や、奈良時代以降の「漆地螺鈿」の状況について読み取れる。またこの目録中では、「地蒔き」の技法を単独で使用した際に「平塵」という語を用いて「蒔絵」との差別化が行われている。この傾向は10世紀から11世紀初頭に書かれた他の文献にも見ることができるが、その後「平塵」という語はしだいに使用されなくなっていく。これは「蒔絵」の技法と「地蒔き」の技法が頻繁に併用される中で、しだいに具体的な文様を伴わない「地蒔き」の表現をも含めた、広い意味においての「蒔絵」という語が定着していったためであると考えられる。

 

 第三章では実際の遺例の特徴を踏まえ、11世紀から12世紀初頭にかけて書かれた文献に見られる「蒔絵螺鈿」の記述が真に示す加飾表現について考察を行っている。第二章で取り上げた「地蒔き」と「蒔絵」との併用は、技法的に見ると「蒔絵螺鈿」の成立に欠かせないものであるが、文献の上では2つの技法の境界を曖昧にする原因にもなっている。このことは11世紀に見られる「蒔絵螺鈿」の記述が、《平等院須弥壇》の「平塵地螺鈿」や《中尊寺金色堂》の「沃懸地螺鈿」などのような、絵画性を伴わない「地蒔き」と「螺鈿」を併用したものである可能性を示唆している。では文献上の記述が「蒔絵螺鈿」の成立時期に関して、1つの判断基準となり得るという展望はどういった所に見出せるのだろうか。

 

 10世紀以降、日本の風土にあった貴族文化の発展は漆工品の意匠にも和風化という影響を与えたが、それに伴う加飾表現の多様化は、院政期頃の「蒔絵螺鈿」の記述に具体的な説明を付け加える機会をもたらした。今回調査を行った文献資料の中では、『殿暦』における嘉承2年(1107)の記述の中で、絵画的な「蒔絵」の技法と「螺鈿」の技法を併用したことが明記されているが、これは本来の意味での「蒔絵螺鈿」の用例を示す重要なものであり、現存する遺例を含めて、「蒔絵螺鈿」のより具体的な成立時期を見当する上で1つの指針となり得るものと考えている。

2013年度 大学院市長賞 大学院 芸術学専攻 院2回生 上田 祥悟 UEDA Shogo

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