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平成23年度学部卒業式並びに大学院学位記授与式を開催

2012.03.23

 

 

平成24年3月23日,平成23年度美術学部・音楽学部卒業式並びに大学院美術研究科・音楽研究科学位記授与式を執り行いました。

美術学部133名,音楽学部58名,美術研究科修士課程56名,音楽研究科修士課程20名,美術研究科博士課程4名が,門川大作京都市長をはじめ来賓の皆様,保護者の皆様,教職員に温かく見守られ,卒業式並びに学位記授与式に参加しました。

 

 

今年も,例年どおり,卒業生・修了生の多くが自作のユニークな衣装で参加し,会場を笑顔で包み,和やかでアットホームな式となりました。

 

卒業生・修了生の皆さん,本当におめでとうございます。

本学一同,皆さんのご活躍を心から期待しております。

 

<学長式辞>

 本日,ここに,門川大作京都市長をはじめてとして,美術教育後援会,音楽教育後援会,美術学部同窓会,音楽学部同窓会のご来賓の皆様のご列席のもとに,美術学部卒業生133名,音楽学部卒業生58名,美術研究科修士課程修了生56名,音楽研究科修士課程修了生20名,美術研究科博士課程修了生4名の卒業式ならびに修了式を挙行するにあたりまして,式辞を述べさせていただきます。

 学部卒業生,大学院修了生のみなさん,おめでとうございます。これから皆さんは社会へと巣立ち,あるいは大学院でさらに勉学を深めることになりますが,本学の恵まれた環境のもとで,また京都という素晴らしい都市の文化の伝統に触れながら学んだ歳月は,皆さんのこれから人生にとってきわめて大きな意味をもつことになるでしょう。いかなる方向に進まれるにしても,そのことを誇りとしてたくましく歩んで行かれることと信じております。

 周知のように本学は芸術系大学としては日本では最も長い歴史を有しています。百三十有余年の間に近代芸術の屋台骨を支えるというべきオーソドックスな人材を数多く輩出すると同時に,また芸術に既成概念を一気に更新するような独創性を発揮する才能をも世に送り出してきたのです。アカデミズムと在野精神,正系と異端,文化の伝承と革新という本来なら相反するはずの要素が共存しているところが本学の特質なのですが,考えてみれば,それは京都という町そのものの魅力でもあるに違いありません。私は学長に就任してからまだ一年余りにしかなりませんが,それでも本学の栄光の伝統が若い世代にも脈々と息づいていることを皆さんの展覧会やコンサート,オペラなどを通じて実感してきました。

 もっとも大学とはある意味でのモラトリアムの時期であって,これから皆さんが出ていく世界には,そのようなのどかな光景はなく,むしろ激しく波立っているというのが現実です。私は仕事柄,海外に出向くことがよくあるのですが,民族紛争が渦巻き,恐るべき貧困に満ち溢れた地域が多いなかで,日本だけは平穏であり,芸術の世界もまたお花畑のようであるとある種,不思議な思いがしないでもありませんでした。しかしそのような平和な幻想も先の震災で一挙に崩壊し,アーティストたちにも,いま自分たちに何ができるか,何をすべきかというポジショニングを改めて問い直さなければならない状況が訪れているように思われます。

この式典もまた東北の震災の犠牲になられた方々への黙祷から始まりました。いまなお数多くの方が行方不明であり,原発事故や瓦礫の処理もまだ予断を許さないところがあります。こうした悲惨な出来事を前にして,はたしてアートに何ができるのだろうか,アートは何のためにあるのだろうかというのは,私たちが直面させられる実に重い問いであるといわざるをえないのです。

 アートとは自己目的的なものだ。現実的な有用性がないことにこそ,アートの存在意義があるのだという考えを私は否定しようとは思いません。アートは他の何ものにも奉仕するものではない,アートはアートのためだけにあるというプライドは,たとえ傍目には滑稽に見えようとも,アーティストたちの困難な戦いを支えているのです。またすべての集団心理が同じ方向に流れていく時,何ごとからも自由であろうとする自立した精神こそが,世論に迎合することのない,社会への根源的な批評として屹立しうるともいえるでしょう。

 アートの重要性が自明の理である大学という象牙の塔が存在していることの意義もそのような自立した批評精神にあると思われます。しかし今回のような大きな出来事は,そのような考えをも押し流してしまいかねません。アウシュヴィッツ以降に詩を書くのは野蛮だといったのは哲学者のテオドール・アドルノですが,はたしていま絵を描いたりピアノを弾いたりするのも野蛮だということになるのでしょうか。

 アートは語源的には技術という意味を含んでいますが,また想像力がなければ成立しない世界でもあります。想像をはるかに越えた現実を前にして,なお想像力を維持しようとすることは野蛮なことなのか。いささか逡巡しながらではありますが,あえていいましょう。そのような時にあっても,あるいはそのような時にあってこそ,想像力の世界であるアートには人々の心を救済する力があると私は信じているのです。

誤解しないでいただきたいのですが,何も私は困難な時にバラ色の夢を見せてくれるのがアートだと言いたいのではありません。優れたアーティストにとっての想像力は逃避的な夢ではなく,逆に今という時代の本質を鋭く見据え,それを他者と分かち合うことのできるイメージとして表現する力なのです。時にそのイメージは精神的な危機の表象ともいうべき性格を示すことにもなるでしょう。

 その例としてピカソのゲルニカを取り上げてみましょう。20世紀の反戦のモニュメントとしてもっともよく知られたこの絵画は,1937年に制作されました。スペインのバスク地方の町,ゲルニカのドイツ軍による爆撃の虐殺を聞いたピカソが,急遽ペンキを使って描き上げたモノクロームの大作です。

 ゲルニカは同年のパリ万博に出品された後,長くニューヨークの近代美術館に預けられていましたが,フランコ政権の終了後,ピカソの遺志に従ってスペインに移され,プラド美術館を経て,現在はマドリッドのライナー・ソフィア美術館に展示されています。私は何年か前,この絵だけを見にマドリッドに行きました。一点の絵を何日も美術館に通って見続けるというのは私にとっても初めての経験でした。

 ゲルニカは,純粋に絵画として見るならばピカソの傑作とはいえないという意見があります。私は必ずしもそうは思いませんが,空間的にはいささか雑駁なところがあるのは事実でしょう。

 しかし私はゲルニカを前にして,一種,粛然とさせられるような深い思いを禁じることができませんでした。この絵には確かに私たちの心を打つ強い力があるのです。ピカソは爆撃を自ら目撃したわけでもなければ,後から出かけて行ってデッサンをしたわけでもない。事実,画面の主役である泣き叫ぶ女のイメージは,ピカソと女性たちとのプライヴェートな諍いから来ているともいわれているのです。そうであるにも関わらず,画家の想像力は,暴虐への憤りと反戦のメッセージを,誰もが共有しうるような荘厳なイメージとして画面に出現させていることを私たちは認めざるをえないでしょう。

 世の中には想像を越えた恐るべき現実があるにしても,私たちは想像力をむなしいものだと見なしてしまってはならない。そのような時にあってこそ,言葉を失って立ちすくむのではなく,起きたこと,起きていることの本質を想像力によって見極めなければならないということを,ゲルニカは教えてくれるのです。絵は瓦礫の山をもとに戻すことはできないが,何ものからも自立したアートの力は,それだけにより普遍的な真実をはらんだものとして私たちの心を捉えるのです。

 困難な時代にあってもなお私たちの心を浄化し,また勇気づけもするアートの力とは,このようなものであるだろうと私は思っています。これからの日本にどのような将来が待ち構えているのか,定かには見えませんが,若い皆さんの活躍によって,必ずや明るい展望が切り開らかれるものと期待しています。本学での勉学を基盤にしながら,王道を行くアートの力を存分に発揮してください。

皆さん,本当におめでとうございます。これをもってお祝いの言葉とさせていただきます。

 

                                                               平成24年3月23日

                                                 京都市立芸術大学長  建畠晢