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戦前日本の写真における中山岩太とは        —日本における芸術作品としての写真の形成と発展への貢献—

―(論文要旨)―

 

 本論文では戦前の写真家、中山岩太(1895〜1949)が日本の芸術作品としての写真の流れにどのように貢献したのかを考える。

 

 中山岩太は、東京美術学校時代、そして約10年の海外生活を経て、日本の写真の歴史において第一次発展期と言われる1920年代後半ー30年代に日本で精力的に活動した写真家である。また、中山は戦前において芸術としての写真を担ったアマチュア写真団体(芦屋カメラクラブ)を創設し、カメラ雑誌『光画』の創設に関わった人物でもある。その芦屋カメラクラブの最盛期と『光画』の刊行時期は1930年代前半であった。そのため、網羅的に写真史を捉える文献、もしくは日本の写真動向を主軸とした文献において、中山は1930年代前半に日本で流行する〈新興写真〉の枠内で語られることがしばしばある。そして、第二次世界大戦に向けて新興写真から報道写真に日本の写真の流れが変化していく過程において、中山は日本の流れに乗れず、取り残されたと批判的に捉えられ、中山への評価は新興写真の時代で終わってしまうこともあった。

 

 しかし、根本的に中山は、新興写真の枠内で語られるべき人物ではない。本論で細かく述べるが、彼の写真作品の制作に対する姿勢は、はじめから日本の新興写真における思想と異なっていた。中山が評価されるべき点は新興写真という一時代の構築、発展への貢献ではなく、今後の日本の写真史全体に影響する、別の2つにあると考えられる。その一つは、高度な写真技術と多様な写真表現の方法を習得し、それを営業写真家だけではなく、当時において芸術作品としての写真の発展を担っていた日本のアマチュア写真家達に主として熱心に伝え、日本全体の写真作品の制作活動のレベルを底上げしようとした点。そしてもう一つは、日本の戦時下という環境でありながら一貫して自由な自己表現の主張を行い、写真による芸術表現を途絶えさせないように努めた点にある。

 

 芸術作品としての写真の形成と発展のための方法としては、これらの方法は大変地味で地道な手段である。成果が如実に、短期間で見える方法でもない。ただ、広い世界を見て来た中山だからこそ、地味で地道な手段が今後の日本の写真を大きく変えると信じていたのであろう。日本における芸術作品としての写真の可能性を広げるためにとった今後の日本の写真を担う写真家の育成への貢献に直結するこの作業は、日本の写真史全体において意義のある過程であった。

2014年度 市長賞 総合芸術学科 総合芸術学専攻 4回生 小田 真巳 ODA Mami

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