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日本の服地プリントデザインの黎明期  ―GHQ主導による戦後復興政策からの出発―

―(論文要旨)―

 

 今日至極当たり前のものとして生活の様々なシーンで見かけるテキスタイルデザインの、とくに身近な存在である、服地プリントはいつごろその成立を見たのだろうか。

 

 明治以来徐々にわが国に入ってきた洋装というものは、とりわけ社会の上層にのみあって、なかなか一般に普及するというものではなかった。大正から昭和のはじめ、開戦に至るまでの世の女性の服装は、その低価格と丈夫さ色柄の新鮮さで大流行した銘仙という絹織物の着物だった。この図柄は、当時世界的流行をおおいに取りいれたもので、モダンなデザインで売り出されていた。しかしこのスタイルが順調に成長して戦後に受け継がれたかというと、まず戦時下の自国の統制があり、続いて敗戦による寸断があった。

 

 戦争中は「不要不急産業」としてその存在を脅かされていた繊維産業は、戦後「平和産業」として日本の戦後経済復興を担う基幹産業となった。

 

 物資も国家的信用もなくした戦後の状況のなかで、いかにして日本繊維産業が驚異的な発展を遂げその復興を成し遂げたのだろうか。

 

 1974年秘密指定解除された日本占領関係資料である連合国最高司令官総司令部経済科学局文書(GHQ/SCAP Records, Economic and Scientific Section = ESS、以下ESS)から、今まであまり明かされなかったGHQや、米国陸軍省、米国国務省の日本繊維産業への関与を見ていく。今回は以下の資料を中心に考察していく(番号は便宜上添付した)。

 

(1) Textiles(Control)(General)Vol.1 Nov.1945-May 1946

(2) Dr. Jacobs Cotton Mission Jan.1948

(3) Textile Designs Jan.1947-Mar.1951

(4) Photo- Textile Designs Mar.1951

(5) Textile Mission-British American Textile Group Dec.1949-May 1950

 

まず1945年から47年にわたる初期占領政策での繊維業界のあらましを把握し、当初の特殊な産業形態を確認しつつ、1948年以降世界情勢の変化にともない、大きく変更された占領政策の中での、繊維産業の新たな位置付けを見る。国際市場へ進出、それに伴う諸外国との軋轢、とくに同じく繊維産業で戦後の経済復興を画策する英国との意匠盗用その他は、深刻な外交問題へと発展していった。その盗用問題の具体的状況を把握しつつ、その中でのGHQの非常に日本寄りの対応を見ていく。その経緯からGHQが日本繊維産業に日本経済の復興を賭け、その世界市場での立場をいかに守ったかを確認する。

 

 これらの資料から、研究のはじめに想定したよりも根本的、基礎的なところでGHQの確固たる政策と統制があり管理があったこと、また黎明期にGHQが果たした大きな役割を具体的に見ることが出来る。

 

 次に日本繊維産業側からの視点で服地プリントデザインの国内での成立過程を見ていく。

 

 終戦当初の段階では、原料その他の物資が極端に少なく、工場も壊滅的な打撃を受けていた。その中で日本経済復興をになった繊維産業には輸出偏重の中、GHQからの様々な政策とそれに伴う絹や綿、染料その他の凍結などの規制が出された。

 

 このような終戦直後のGHQと政府主導の規制に振り回された初期の繊維産業から、朝鮮戦争の軍需や輸出の好転で様々な規制が緩和され民営化されて、繊維業界が国内に向けて徐々に動き出し、それまで抑圧されていた凄まじいばかりの国内需要を背景に服地プリントが社会の中で成立するまでの経緯を追って考察していく。

 

 今回は黎明期である戦後10年間を研究の対象とし、戦後服地プリントデザイン誕生の具体的な経緯を、主に、1951年の創刊から1956年までの月刊あるいは半月刊の雑誌『染色ライフ』(八寶堂)の約100冊を中心に、その他1953年9月創刊の月刊雑誌『艸美』(芸艸堂出版)の創刊号~18号、月刊雑誌『そめとおり』、(染織新報)の1951年~55年、『鐘紡百年史』、『高島屋150年史』、『百選会百回史』、『大丸二百五十年史』などの社史、行政側からは『京都近代染織技術発展史』(京都染織試験場)『50年の歩み』(同)、その他繊維関係紙数社などの資料から追って考察したい。

 

 日本の繊維業界は驚異的に数字を伸ばし、1952年米国の対日占領が一応終焉となった時点で、繊維産業の輸出額は7886億2000万円となり全21産業中1位で18%を占めていた。この大きな経済活動と結びついた戦後の服地プリント黎明期を見てきて改めて感じることは予想以上に日本の伝統的な技術が継承されていることである。服地プリントの図案家がキモノ図案からの出身者でありその職域が未分化であった事は、キモノ業界の伝統への硬直を防ぎ、また服地図案の技術を保証するものであった。

 

 敗戦の混乱の中にあっても人々の旺盛で溌剌とした好奇心は健在であったし復興に向かう経済力は漲っていた。これらをバックに、まず日本画や洋画家の図案への参入があり、様々な大学から研究者がブレインとして集まりデザインソースを提供した。展示に於いては若き彫刻家が独創的なマネキンを誕生させて新しい展示を創出した。工芸との関係は相互に非常に密であった。

 

 このように繊維産業に多くの方面から人材が集中したこともこの時期の大きな特徴であったと言える。また染織技術の大きな発展が様々な表現を可能にしていった。

 

 黎明期の試行錯誤の多くの萌芽を、今の視点からポジティブに見ていくことは、現在のテキスタイルデザインに、様々な新しい出発点を与えるのではないかと考えられる。今後はこれらについても考察を進め可能性を探りたい。

 

 また敗戦そして、他国による占領という未曽有の文化的切断のなかで、日本独特の意匠に対する美意識がどのような形で伝わったのか、また捨てられたかという点にも留意して今後の研究に進みたい。ある歴史の一時点から一国のそれまでの衣裳がまったく変わるという画期的な変化の構造を見ていけたらと思う。

2013年度 同窓会賞 大学院 芸術学専攻 院2回生 牧田 久美 MAKITA Hisami

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