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法隆寺金堂四天王像の図像に関する考察-鎧の形式・経典との関連を通して-

 奈良・法隆寺の金堂に安置される木造四天王像(650年頃)は、我が国における現存最古の四天王立像である。四天王は、仏教公伝より間もない7世紀より造像され、現在に至っても多数の作例が遺されている。しかし、その中でも本像は直立不動の姿勢、特異な相貌の邪鬼など、特徴的な作例であるといえる。従来の研究では、光背に刻まれた銘文の検討、像の伝来についての検証、他の作例との比較等は行われてきたが、図像についての詳細な考察が行われていなかった。特異な形式の四天王である本像についての研究を行う上で、図像に関する考察は必要不可欠である。そこで、本研究では鎧の形式と経典との関連を通し、本像の図像的特徴について考察する。第一章では、本像が纏う鎧の形式について、奈良・法隆寺の金堂に安置される「釈迦三尊像台座」に描かれた四天王(飛鳥時代)、中国・敦煌285窟の西壁正龕(538・539年銘)に見られる四天王との比較を通し考察する。従来の研究において、本像が纏う鎧は上体から下端までが一連で、正面中央で引き合わせる胴丸式挂甲であるとされていた。また、腹部正面が胸部よりも一段高く作られている点については、腹部に甲を重ねていると解釈されていた。しかし、他の作例との比較の結果、本像の鎧は「敦煌285窟四天王」と同様の胸甲を着ける形式であると筆者は推測する。従来、甲を重ねていると解釈されていた腹部の空間は、胸甲と帯の間のであると考えられる。腹部の周辺が小札の部分よりも一段高くつくられているのは、画像から立体へ起こす際の写し崩れであろう。また、法隆寺像の特徴的な立ち上がった襟は中国・朝鮮半島の武人像に見られる形式であり、特に韓国・慶州皇龍寺の九層塔出土の舎利具に刻まれた神将像(632-647頃)が着用する襟の表現に近いと考えられる。第二章では、本像の図像の典拠となった経典について考察する。本像が造像された7世紀の日本において最も重視されていた経典は『金光明経』(412-421年漢訳)であり、護国を目的とした四天王信仰の背景にはこの経典の存在があったと考えられる。しかし同経には四天王の持物は記されていない。また、四天王の形像を表した経典としては最も早く漢訳された『陀羅尼集経』(653年漢訳)の儀軌では四天王は本像とは異なる持物を執るとされている。また、様々な経典の中で唯一広目天が筆を持つと記す『般若守護十六善神王形體』が漢訳されたのは8世紀のことであり、本像の造像よりも後のことである。以上のように、本研究においては本像の典拠となった経典を明確に特定することは出来なかった。ただし、本像と同時期に造像された、韓国慶州の感恩寺出土の舎利具に付属した銅製四天王像(682年頃)や、同じく慶州の四天王寺址出土の彩釉四天王浮彫(679年頃)についても同様に、典拠となった経典が特定できない点は特筆すべきである。本像についてもこれらの例と同様に、経典に基づかない図像であった可能性は高いと考えられる。

 

 最後に、これらの考察から得られた結果を踏まえ、法隆寺像が手本とした図像がどのような形態で伝来したのか考察する。第一章において、本像の腹部や胸部には写し崩れと考えられる箇所が存在することを指摘した。また、腹部背面において構造が曖昧な点が見られることを考慮すると、本像が手本にした図像は絵画によって伝来したと推測できる。

 

 上記のように、本研究では本像の図像に関する特徴を明らかにした。今後は、今回の考察に含めることができなかった様式についても検討し、本像の源流がいかなる場所に求められるのか探りたい。

2016年度 市長賞 総合芸術学科 総合芸術学専攻 4回生 柴田 晶子 SHIBATA Akiko

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