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近代京都画壇における〈若手〉日本画家の胎動  -京都青年絵画研究会展開催の経緯と意義についての考察

―(論文要旨)―

 

 本稿は、京都における若手画家の発表の場の原点に迫るものである。

 

 明治19年(1886)に結成された京都青年絵画研究会は、まさに、その原点というべき出来事である。若手日本画家を前面にアピールした本展は、その名の通り出品者の資格を10歳から30歳に限定した日本画の展覧会であり、当時伝統的な流派主義が根強かった縦割り社会の京都画壇において、それは流派への偏執からの脱却を掲げた若手日本画家たちが起こした新たなムーブメントであった。同会の発足には京都府画学校(現京都市立芸術大学)の設立に尽力した幸野楳嶺(1844-1895)らが中心となり、竹内栖鳳(1864-1942)ら次世代をリードする日本画家が早くも活躍をみせている。

 

 京都青年絵画研究会発足の経緯には主に、京都府画学校の設立、東京画壇の動向、フェノロサの講演が挙げられる。明治13年に設立された京都府画学校は全国初の画学校であり、個々の画塾が主流であった当時の画壇に新たな教育の場がもたらされた。そして、この時期の東京画壇の動向として押さえておきたいのが、明治6年のウィーン万博における日本の伝統工芸品の人気を受け、明治政府が輸出振興策として伝統美術の奨励を掲げていたことである。さらに、これに拍車をかけたのがフェノロサによる講演であった。フェノロサは東京大学で教鞭を執る傍ら日本美術に価値を見出し、研究活動を行った。明治15年に行われた講演では、日本画術の奨励と輸出の関係や新画の展覧会等を開設すべきことなどが提唱され、その内容は『美術真説』として出版され広く購読された。同年には政府主催によって日本画に特化した初の全国絵画コンクールとなる内国絵画共進会が開催されるなど日本画への注目は高まりをみせていた。京都青年絵画研究会の発足は、フェノロサが京都で行った講演からわずか1ヶ月後のことであった。

 

 明治24年には新たに竹内栖鳳を議長とする京都青年作家懇親倶楽部が結成され、京都青年絵画共進会(大日本私立絵画共進会)が開かれた。さらに同28年には京都博覧協会主催の日本青年絵画共進会、京都美術協会主催の新古美術品展の開催という具合で、京都青年絵画研究会展の開催を機に若手日本画家の活躍の場となる展覧会の制度が整っていくこととなった。

 

 京都青年絵画研究会展開催の意義は、幕末から画壇に根付いてきた流派主義の縦割り社会に、展覧会を通じて大々的に同時代の若手画家の横のつながりを形成する第一歩を踏み出したことである。京都青年絵画研究会展そのものについては保守派からの反発により1回きりで終了しており、それゆえ深く言及されていないのが現状である。しかし、明治初期に訪れた日本画の衰退に直面した楳嶺を筆頭とする日本画家たちが団結して起こしたこの行動は、次世代の日本画家たちを明治末期から大正昭和期にかけての京都画壇隆盛期へと導いたことは確かであった。京都青年絵画研究会展の開催は、若手画家にスポットを当てた展覧会の最も早い例として、また、近代京都画壇の若手日本画家たちの底力を示した出来事として、京都における展覧会史上に位置づけられるべきであろう。

2013年度 市長賞 総合芸術学科 総合芸術学専攻 4回生 古田 理子 FURUTA Riko

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