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耀州窯と磁州窯の深彫り陶磁器について

―(論文要旨)―


 陜西省銅川市黄堡鎮に位置する耀州窯は、その最盛期にあたる北宋時代(960年~1125年)には、主にオリーブグリーンの青磁を焼成したことで知られている中国北方地域の窯場である。 刀を斜めにした状態で彫り文様を施した、片切彫りの手法が特徴的な窯である。 この耀州窯のスタイルは、中国の多くの窯場で焼成されている。 ところが、前の時代にあたる五代時代(907年~959年)には、対照的な淡い釉色をした青磁を焼成している。 興味深いことに、華北地方に多く分布する磁州窯系の窯場でも、耀州窯と同じ装飾や造形をもった深彫りタイプの白釉陶器が焼成されている。 この深彫り技法は、中国陶磁器の中でも類例のない技法である。 一般に、唐時代の末から北宋時代の初めにかけての中国陶磁器は、唐代金銀器の模倣をした製品が多いといわれている。 五代時代に焼成された深彫りタイプの耀州窯青磁も、唐時代の金属器に祖形を求める考え方が、多くの研究者の間で通説になっている。 そこで、本論文では耀州窯と磁州窯にみられる深彫り文様と、唐代金属器の関係について考察を試みた。


 耀州窯の青磁刻花牡丹唐草文水注と磁州窯の白掻落し牡丹唐草文水注は、どちらが先に焼成されたのだろうか。 耀州窯の中心的な窯場である黄堡鎮では、初唐期(618年~684年)にすでに焼成を開始している。 そして、白釉、黒釉、白釉黒花など、磁州窯製品を思わせるものも、唐時代の初期にすでに焼成している。 従来、深彫り文様のあるこのタイプの製品は、北宋時代の官窯である「東窯」の製品で、北宋時代末の政和・宣和年間(1111年~1125年)頃に焼成されたと考える研究者もいた。 ところが、1984年から1992年にかけて耀州窯の黄堡鎮で行われた発掘調査によると、五代時代の文化層から深彫りタイプの水注が数点発見されたために、耀州窯の深彫りタイプの製品は、五代時代に遡って考えられるようになった。 一方、磁州窯の深彫り文様のある陶磁器は、磁州窯系の窯址の中で最も発掘調査が進行している観台鎮からは発見されていない。 白掻落し牡丹唐草文水注を思わせるような深い彫りの陶磁器は、河南省登封県曲河村の登封窯から出土した1点の破片のみである。 ただし、磁州窯の開窯当初にあたる五代時代後期に、耀州窯では深彫りタイプの製品がすでに焼成されていたこと、また、唐代耀州窯と共通した製品が多数みられることなどから、磁州窯の草創期には、耀州窯の製品が深くかかわっていたと考えられる。 このような理由から、深彫りタイプの製品は耀州窯ですでに行われていた技法を、後に磁州窯が習得したと思われる。


 ところで、深彫り文様のある陶磁器にはどのような製品があるのだろうか。 耀州窯では主に水注にみられる技法であるが、磁州窯では水注のほかに、長頸瓶、壼、そして枕などにも多数施されている。 それらを個々に観察すると、ほとんどの作品には正面向きの牡丹唐草文、もしくは側面を向いた宝相華唐草文と思われる花文が施されている。 また、河北省曲陽県澗磯村で生産活動を行っていた定窯の同時期の製品にも、片切彫りの技法であるが、正面向きの牡丹唐草文が見られる。 陜西省の耀州窯、河北省の磁州窯と定窯で類似したモチーフが同時期に彫刻されていたということは、五代時代から北宋時代初期にかけて意匠の技術交流が、華北地方で行われていたことを示す好例といえる。


 次に、深彫りタイプの製品の制作年代を考察する。 深彫りタイプの水注は、胴部が丸く把手が屈曲した特異な製品である。 そこで、伝世品及び発掘報告書に掲載された胴部の丸い水注から、深彫り文様のある陶磁器の年代特定を試みた。 その結果、この胴の丸いタイプの水注は、晩唐期に祖形を見出すことが可能となった。 そして、五代時代に最盛期を迎え、北宋時代の初めまで焼成されたと思われる。 深彫りタイプの水注と類似した、胴が丸く把手が屈曲した水注は、耀州窯と磁州窯以外にも定窯、越州窯でも焼成され、その出土地域は中国全土に及んでいる。 ところが、その中でも深彫り文様のある水注の出土地点は、中国の北方地域に限定されている。 耀州窯や磁州窯でみられる深彫り文様は、北方地域特有の装飾技法であった可能性が高い。


 さて、この深彫りタイプの水注は、唐代金銀器からどの程度影響を受けていたのだろうか。 『唐代金銀器研究』によると、唐時代の金銀器は、唐時代の初めから8世紀中葉以前を第1期、8世紀中葉から8世紀末までを第2期、そして第3期を9世紀から唐末の三つの時期に区分されている。 唐代金銀器の各時期にみられる特徴と、深彫りタイプの水注を比較すると、興味深いことに、耀州窯や磁州窯の深彫り水注は、金銀器の第3期の作品との共通点が多い。 その中でも、陶製水注の表面に施された牡丹唐草文は、陝西省扶風県法門寺塔基地宮(874年埋納)出土の銀鍍金団華文五花形皿や銀鍍金団華文体に施された花文との共通点を指摘することができる。 これらの製品は、同時に発見された衣物帳碑から、懿宗皇帝(在位859年~873年)に賜わったものであることがわかる。 従って、この団華文のモチーフは、皇帝の美意識に基づいて鋳造された可能性が高い。 また、陝西省西安市西郊出土の「宣徽酒坊」銘銀水注のように、著名な工匠によって作られた、比較的胴部の丸い銀水注も発見されている。 以上のことから、耀州窯と磁州窯にみられる深彫り文様のある水注は、唐時代の中でも北方地域、つまり、首都の西安地区で、皇族や貴族によって支持されていたタイプの金銀器に、影響を受け ていたことがわかる。 陶磁器にみられる深彫りタイプの製品は、西安で鋳造されていた金銀器の技術が、何らかの経緯で耀州窯に伝播されたために生まれた技法と思われる。


 深彫りタイプの水注は、どのような目的のために制作されたのだろうか。 盛唐期の唐三彩は、主に貴族の墳墓に納めるための明器として製作されていたようである。 しかし、安史の乱(755年~763年)以後の中晩唐期には、唐三彩は実用器として使用されるようになったと考えられている。 深彫りタイプの陶磁器も、単なる明器ではなく、日常用品、つまり酒器や茶器としての用途があったのではないかと思われる。 ところが、中唐期以前の宴席で水注は使用されていない。 晩唐期に李匡乂が著した『資暇集』によると、唐時代の元和年間(806年~820年)に酒の注ぎ方が樽から杓で酌む方法から、水注で注ぐ方法に変化したとされている。 確かに、故宮博物院所蔵の『宮楽図』にも、中央の洗(盥のように大きな器)に入った飲み物 を、長い柄のついた柄杓で酌んでいる官女の姿がみられる。 水注の宴席での使用は、9世紀にようやく始められたのではないだろうか。


 残念なことに、この論考では陶磁器にみられる深彫りの技法が、何にヒントを得て制作されたのかを知ることができなかった。 しかし、法門寺の銀鍍金団華文五花形皿と深彫りの牡丹唐草文水注の文様配置を考えた時、深彫りの技法は、陶磁器に彫られた文様をより誇張するために行われた、陶磁器特有の表現方法ではないかと考えている。 この時期になって、高級品であった金銀器の技術を取り入れながらも、陶磁器はようやく独自の道を歩み始めたのではないだろうか。 その過渡的な時期に焼成されたものの一つが、深彫り文様のある水注だったと考えられる。

2000年度 梅原賞 大学院 芸術学専攻 院2回生 岡田 享子

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