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彫刻家ナウム・ガボについて ―純粋という言葉に―

―(論文要旨)―


 論旨はナウム・ガボの経歴を再考することである。また1人の作家を通して構成主義の史実を追いたいと思う。構成主義が初期に抱えた葛藤が、歴史のなかでどういう意味を持ち得たのか。構成主義者が作品として理想に掲げた「構成」は、生活に一般的な方法論となった。「構成」の延長に建築やデザインを想像することは現実的な感覚である。構成主義に同調しながらも、ガボ独自の理論と理想は彼の造形に投影されている。彼にとって「構成」とは、鋭利で純粋な感情性を備えた生涯の連作であった。


 ナウム・ガボ(1890-1977)は、兄である彫刻家アントニー・ペヴスナー(1886-1944)と並んで20世紀前半を代表する彫刻家である。彼はロシアに生まれ、そこから西欧、アメリカへと探求の場を移し、世界中の美術館に作品を残す作家である。


 学生時代をドイツで過ごした後ロシアに帰って本格的な制作を始めた。政治的な状況から、ロシアを離れドイツ、フランスへ生活の場を移している。第二次世界大戦時はイギリスに暮らし、1947年アメリカに渡り市民権を得て永住した。


 彫刻の制作に平行して、モニュメントや商業的なデザインに取り組んだ記録も残る。彼の初期制作の契機となったロシア・アヴァンギャルドが第二次世界大戦後になってようやくアメリカのジャーナリストの手で見出された事とは対照的に、ガボは西欧世界を中心に常に第一線で活躍してきた作家である。日本でも兵庫県立美術館移転の機に《構成された頭部 No.2/1916、1966年再構成》が、エントランスに設置されている。前記の作品を含む初期の一連の人体構成は、近代的な彫刻の刷新とされた。この時期に前後してガボが経験した芸術的な衝突は、彼の初期造形を形成する要素でもある。なかでもロシア・アヴァンギャルドの有した前衛の意志と彼の制作の関係性は記すべき点である。彼の制作は作品と同様に、彼自身が残したテクストが多く残るのも特徴である。彼が発表したテクストは、文意と文体を併せて作品の延長であった。1920年は発表の『リアリズム宣言』は造形理論の明確な提示である。生涯の立体表現はキュビスムへの傾倒から始まり、造形に彼自身の理想を併せて試みられた。1937年に寄稿集『サークル』に彼が寄稿した論文も重要な位置付けとなる。彼の意図した「構成」という言葉には、「構成主義」における文脈以上に彼自身が造形理論に選んだ意志が込められている。彼の完成作品の造形には、実験器具といった科学的な現実想起を起こす部分があるけれども、想起される現実的なイメージは、造形過程の表出に過ぎないと考える。また、彼の作品を通観すると作家の視点は構造の仰観から内部への凝視に移り変わる。彼の過ごした時代の中でそれがどういう作品で在りえたか。彼は生涯を通して、様々な素材で「構成」を追及した。過去の制作を異なる素材や形で再び構成し直すことも多く、初期の人体構成に対しても晩年まで取り組んだという。時代が戦争を2度経験し、芸術が大きく変動していく状況下で彼が一貫した造形を残したことにも、制作に由来する条件付けを思わせる点である。


​ 当代の中でナウム・ガボの位置付けを考え、彼の制作を視覚言語として認識する。彼を最も評価する要素を《線による構成 No1/1942》、《線による構成 No2/1949》に見出し、これらを彼の制作から抽出された純粋な造形として挙げた。《線による構成》は他にも多くの連作が残る。それらの造形はラインに構成された空間構造から有機的なフォルムを有し、ナウム・ガボが重ねた探求の結果である。

2004年度 市長賞 総合芸術学科 総合芸術学専攻 4回生 水島 明日香 

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