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宝菩提院菩薩半跏像の研究

―(論文要旨)―


 宝菩提院菩薩半跏像は、現在、京都市西京区の宝菩提院願徳寺に如意輪観音菩薩半跏像として安置されている木造の作例である。制作年代については8世紀後半から10世紀前半までの間で広く捉えられておりいまだに定説をみない。また、あまり他に近い作例が日本に現存しないことから、「唐風」と形容されることもある。しかし、具体的に宝菩提院像と比較できる直接の作例は唐時代には現存していない。宝菩提院像は日本彫刻史のなかでも稀代の優品でありながら、伝来、尊名を始め、その様式のつながりや形式についてなどほとんどが謎につつまれており、先行研究も数少ない。そこで本論では、顔の表現、服制などの形式面、材質・技法面からの検討によって、宝菩提院像の位置づけを試みた。まず、これらについて考察していくにあたり、宝菩提院像の伝来及び尊名について述べておく必要があると考え、第1章では先行研究を交えながらそれらの考察を行った。なお、名称に関しては本論では宝菩提院菩薩半跏像で統一した。


 伝来については造立当初の史料が残されていないため、その全容を明らかにすることは出来なかったが、宝菩提院にはいくつかの仏像の存在が確認でき、15世紀の史料にあらわれる如意輪観音菩薩像に該当する可能性も考えられることを指摘した。尊名については、虚空蔵菩薩像や普賢菩薩像などの説も出されているが、そのいずれも同時代に右足踏み下げの像容での現存作例がなく、一方、三尊像の脇侍としては右足踏み下げの作例が現存している。また、背面の石帯の中心が背骨の中心からずれていることなどから、上半身がわずかに右に傾いていることも指摘できるため、三尊像の脇侍としての位置づけが自然なように思える。


 続いて第2章では顔の表現について考察するにあたり、8世紀後半から9世紀の一木造の作例についてまとめた。その中でも、8世紀後半の奈良を中心に造像が行われたと考えられる一木造の作例のうち特に新薬師寺薬師如来坐像、法華寺十一面観音菩薩立像、奈良国立博物館薬師如来坐像においてまとまった展開がみられる、目が大きく、目鼻立ちを顔の下寄りに表す表現と、9世紀半ば以降の天台宗関係の作例及び唐からの影響で考えられる作例にみられる、目が細く、目尻が吊り上がり、唇の幅が狭い顔の表現を行う表現と宝菩提院像が部分的に繋がりがあることが指摘できた。ところで8世紀後半から9世紀においては、多種多様な作例が造立されたことが特徴であるが、その背景としては、造東大寺司が廃止され、一部の工人は平安京造営に関わったことも考えられるが、9世紀半ばに天台宗の工人組織が出来上がり始めるまで、工人組織が複雑になっていた可能性が挙げられる。したがって宝菩提院像は、日本国内の工人組織も複雑化していた中に唐の影響も加わり、高い水準の技能を持った工人によって単発的に生まれた作例であると考えたい。


 第3章では衣の表現、宝髻、装身具について考察した。服制に関しては、天衣の掛け方は、正面に2回U字型のたるみが出る掛け方をしており、条帛の掛け方は、たすき掛けに掛かっている条帛の本体部分に対し、端を内側から外側へ絡ませて出す形式を、裳の着け方は折りたたんだ裳を折りたたんだ部分の上から石帯で止める表現をしており、これらの表現は同時代のほかの一木造の作例でも多く用いられている。また、腕から垂下する天衣を大きく蛇行させる表現は8世紀末の木心乾漆造の作例である東京国立博物館日光菩薩半跏像、東京藝術大学月光菩薩半跏像、興福院観音・勢至菩薩半跏像において確認できる。よって、複雑な表現に見えても、服制は同時代に用いられていた一般的な形式を採用していることが指摘できた。宝菩提院像においては衣文が複雑に渦巻いた表現をしているが、同時代に流行した渦文や翻波式衣文を用いることなく、またここまで複雑ながらも矛盾のない衣文表現をしている作例は他には見当たらない。法華寺十一面観音菩薩立像、醍醐寺聖観音菩薩立像においても衣を翻らせる表現を行っており、それらは、体の動きに伴った表現ともとれるが、宝菩提院像おいては体に動きがなく、裳の渦巻いた衣文は体の動きとは無関係であり同じ括りでは考えられないだろう。宝髻は同時代には類例が認められない華やかで複雑な結い方をしている。装身具は、背面の石帯に木瓜紋が確認できるなど、8世紀後半に用いられた文様が認められた。


 第4章では材質・技法において考察した。材はカヤと考えられるが、カヤ材を用いていることは、同時代に広く影響していた檀像の概念の影響が考えられる。しかし、法隆寺九面観音菩薩立像に見られるような装身具まで一材から彫るような精緻な彫りを行わず、それらとは方向性の違う全体の調和を目指しつつ複雑な衣の彫りを行っている姿勢が認められる。そして、瞳に黒珠を嵌入しているが、瞳に別素材の物を嵌入する技法は唐からの影響の可能性が高い。


​ よって、改めて宝菩提院像の位置づけを考えてみた場合、8世紀後半からの新薬師寺像、法華寺像、奈良国立博物館像を中心としていたと考えられる様式と、9世紀後半からの天台宗関係の造像と考えられる作例との部分的な影響関係が認められつつ、唐からの影響も考えられる。9世紀後半以降は天台宗も造像活動が活発になり組織化していくが、おそらく宝菩提院像の造立時期は工人組織が複雑化しており、様々な様式が入り混じっていた時代にあたると考えられるため、造東大寺司廃止の8世紀最末期より後で9世紀前半までに求められるだろう。そして、9世紀後半以降の天台宗と関連する作例の様式も見られることから、最澄が天台宗を日本にもたらした9世紀前半には入ると考えられる。その時代の中でも、8世紀末の木心乾漆造の影響も明確に見られることから、より8世紀末の影響を確実に受けられる9世紀の第1四半世紀あたりに位置づけられるのではないだろうか。

2005年度 同窓会賞 大学院 芸術学専攻 院2回生 福田 祐子 

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