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御用絵師の登用の変化にみる近世絵画の諸相

―(論文要旨)―


 これまで日本の近世絵画を研究してきた中で、多くの画派があることを知った。しかしそれらの画派について個々の研究は盛んであるのに、他派との関わりや、同時代に存在する絵画を横断的に考察した論文などはみかけない。また、当たり前のように三都などの文化的先進地を中心にのみ美術が語られることが多く、それ以外の地域、所謂“地方”というものにスポットが当たることは少ない(もちろん、郷土史家などによる個々の研究は多く存在するものの、それらを総合して“地方”の像を描きだそうとするものは少ない)。ところが、近世中期以降の日本ではほぼ全国的に絵画を享受する文化圏が存在していたことはこれまでにも知られており、そういった地方から中央(文化的先進地域の意)に進出し一家を成した画家も多く存在する。このような近世絵画の流れを全国的な規模で捉えることで、自身の近世絵画に対する理解を深めるとともに、新たな視点から近世絵画史を捉えることができたらと考えた。


 近世絵画を時代的・地域的に広く考察するための材料として、まず各地の地方史誌等に記載される画家を調査し、リスト化した。その結果、現時点で延べ人数1748人分の画家のデータを作成した。なお、同様の画家リストとしては、インターネット上で公開されているものとして筑波大学日本美術シソーラスデータベース作成委員会の「日本美術シソーラス 絵画編」(http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/index.html)や、「物故書画家人名辞典」(http://www.soubi.jp/syoga-meibo/)などが既に存在するが、これらはいずれも地方画家のデータが乏しく、本研究においては新たに地方画家の調査をする必要があった。しかし、各地の地方史誌などで調べたデータをまとめてみると、それぞれの資料の編集方針の違いなどから、地方ごとに集まった絵師の数に大きな差が出てしまった。そのため、現時点においては画派の割合や地方差などを算出できるような完成度の高いデータとはいえず、今後データを数値的に活用できるものにするためには、さらに時間をかけての調査が必要である。そのため本論文においては、地方絵師の中でも全国的に人数の揃い易かった諸藩の御用絵師に特に注目し、現時点までに揃ったデータや調査する中で遭遇した個々の事例を元に、その役割や時代的な変遷などを追ってみることにした。その際、朝廷や幕府に仕えた御用絵師などの動向についても併せて触れた。


 まず近世初期の御用絵師の状況について、特に全国規模で勢力を拡大していった狩野派について述べた。狩野派は室町時代から存在する画派であるが、近世への過渡期に、朝廷・豊臣家・徳川家の三者との関係を維持して巧みに切り抜けると同時に、徳川幕府が開かれた後はその御用絵師として活躍した。狩野派は幕府御用絵師のうち最も格の高い奥絵師四家を筆頭に、それを補佐する表絵師家、諸藩に仕える御用絵師、さらには町絵師へとつながる確固たる支配体制を築き上げ、以後も画派内部での連携を取り合い、この体制を維持していったことが知られる。例えば地方へと下った諸藩の御用絵師は、その地位を世襲するとともに、代々江戸の狩野派に学び、狩野派中枢との関係を維持していたことが分かる。一方、近世初期においては狩野派以外の御用絵師を抱える藩も存在したが、狩野派の拡大の中でそれらの藩も御用絵師を狩野派に替えるなど、全国規模での狩野派への接近がみられる。こういった狩野派接近の背景には、近世初期の地方支配の強化の途上にあった幕府への追従の意味が考えられる。また、当時全国規模で行われた国絵図編纂の事業において中央と地方が連携する際、狩野派で統一されていればスムーズな協力関係が築けることが予想され、そういった実務的な面においての利便性が考えられた上での統一であった可能性もある。なお、調査をする中で、狩野派の藩御用絵師の存在については未整理の地方が多いことが分かり、今回触れた数よりも多くの藩が狩野派絵師を登用していたことが想像できる。これらの絵師家を整理すれば、近世初期の地方における狩野派の活動がより明確になると考えられ、さらなる研究の必要性が感じられる部分であった。


 近世初期には全国に圧倒的な広がりをみせた狩野派であったが、そんな狩野派の独占状態であった御用絵師の世界に、近世中期以降変化が見られ始める。最初に狩野派の独占を打ち破ったのは、確認できた範囲では南蘋派という画派であった。南蘋派は中国系の写実性に富んだ花鳥表現において一世を風靡し、その流行は藩の御用絵師職を介して全国へと拡大する。背景には当時の武家層における異国趣味の流行、ひいては、近世中期以降の自然科学への関心の高まりがあった。南蘋派の流行以後も、主に谷文晁の系譜をひく関東南画派、土佐派や円山四条派などの画派が御用絵師として登用されるようになる。ここにきて近世初期のような“藩御用絵師=狩野派”という構図が崩れ、各藩の趣向や目的に応じた画派の絵師がそれぞれ登用されるという状態になってくる。


 このように御用絵師の変化には、当時の社会状況や文化的背景が大いに関わっていることが推測される。絵画史を局所的に取り上げるのではなく、時代的・全国的に俯瞰することで、各時代における絵師の在り方、ひいては絵画の果たす役割など、従来の美術史学ではあまり触れられなかった部分を、明らかにしていくことが出来るのではないだろうか。

2006年度 大学院市長賞 大学院 芸術学専攻 院2回生 名村 実和子 NAMURA MIWAKO

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