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平成24年度学部卒業式並びに大学院学位記授与式を開催

2013.03.25

 

 

 平成25年3月25日,平成24年度美術学部・音楽学部卒業式並びに大学院美術研究科・音楽研究科学位記授与式を執り行いました。

 美術学部125名,音楽学部59名,美術研究科修士課程52名,音楽研究科修士課程22名,美術研究科博士課程10名,音楽研究科博士課程5名が,門川大作京都市長をはじめ来賓の皆様,保護者の皆様,教職員に温かく見守られ,卒業式並びに学位記授与式に参加しました。

 

 

 今年も,例年どおり,美術学部・大学院の卒業生の多くが自作のユニークな衣装で参加し,また,音楽学部・大学院の卒業生からは,サプライズ演奏が披露されるなど,芸術大学らしい演出がなされ,会場を笑顔で包みこみ,和やかでアットホームな式となりました。

 

 

 

 卒業生・修了生の皆さん,本当におめでとうございます。

 本学一同,皆さんのご活躍を心から期待しております。

 

<学長式辞>

 本日,ここに,門川大作京都市長をはじめとして,美術教育後援会,音楽教育後援会,美術学部同窓会,音楽学部同窓会のご来賓の皆様のご列席のもとに,美術学部卒業生125名,音楽学部卒業生59名,美術研究科修士課程修了生52名,音楽研究科修士課程修了生22名,美術研究科博士課程修了生10名,音楽研究科博士課程修了生5名の卒業式ならびに修了式を挙行するにあたりまして,式辞を述べさせていただきます。

 学部卒業生,大学院修了生の皆さん,おめでとうございます。これから皆さんは社会へと巣立ち,あるいは大学院でさらに勉学を深めることになりますが,本学の恵まれた環境のもとで,また京都という素晴らしい都市の文化の伝統に触れながら学んだ歳月は,皆さんのこれから人生にとって極めて大きな意味を持つことになるでしょう。いかなる方向に進まれるにしても,そのことを誇りとしてたくましく歩んで行かれることと信じております。

 周知のように,本学は芸術系大学としては日本では最も長い歴史を有しています。百三十有余年の間に近代芸術の屋台骨を支えるというべきオーソドックスな人材を数多く輩出すると同時に,また芸術の既成概念を一気に更新するような独創性を発揮する才能をも世に送り出してきたのです。アカデミズムと在野精神,正系と異端,文化の伝承と革新という,本来なら相反するはずの要素が共存しているところが本学の特質なのですが,考えてみれば,それは京都という町そのものの魅力でもあるに違いありません。私が学長に就任してから二年余りになりますが,その間に目の当たりにした皆さんの展覧会やコンサート,オペラなどを通じて,本学の栄光の伝統が若い世代にも脈々と息づいていることを実感してきました。

 もっとも実際の社会では,皆さんが大学で学んだことのすべてが,直ちに役に立つとは限りません。むしろ一旦リセットして,一から出直すことを求められることすらあるでしょう。そういえば一時代前までは,大学は象牙の塔と揶揄されていました。学問のための学問,芸術のための芸術にいそしむ実社会からは切り離された場所にすぎないと思われていたのです。

 私は,ある卓越した数学者が講義の冒頭に述べることにしていたという言葉を思い出します。「これから一年間,なるべく役に立たないことを諸君と一緒に学びましょう」と彼は言ったのです。大学のアウトリーチが当然視されている今では,時代錯誤のドンキホーテのように聞こえなくもない滑稽な言葉です。しかし,一方で私は「役に立たないことを学ぶ」というこの数学者の姿勢に,何かほっとしたものを覚えもするのです。大学での教育や研究の中には,実社会にとって直接的には有用でないものがあるかもしれない。だがあえて逆説的にいえば「役に立たないことが役に立つ」こともある。数学者が言いたかったことも,実は数学は純粋な真理の探究であることによってこそ社会に寄与しうるということではなかったのでしょうか。

 北欧デザインのシンボルである巨匠に,ハンス・ウェグナーという椅子のデザイナーがいますが,彼が1949年にデザインした椅子は「ザ・チェアー」と呼ばれています。訳せば「究極の椅子」「椅子の中の椅子」あるいは「椅子なるもの」ということになるでしょう。もっとも座り心地の良い椅子がもっとも美しい。このことは数学の定理や物理学の法則の数式としての美しさを思い出させます。真実は美しい。もしそうであるならば,象牙の塔における学問や芸術の純粋な探究,自己目的的な探究も自ずと正当化されることになります。

 しかし不幸なことに,ものごとはそれほど単純ではありません。もっともよく機能するものがもっとも美しいという,いわゆる機能美の概念は椅子にあっては幸福な思想でありえますが,では武器にあってはどうなのか。たとえば機関銃のメカニカルな美しさは,効率の良い殺戮という機能を純粋に追い求めた結果ではないのか。それもまた私たちの目に魅力的に見えてしまうのが事実であるならば,真実の探求は,無条件に善として,善きものとして肯定されてよいのか。こうした疑問もわいてくるのです。

 私は,何もここで大学における芸術や学問の純粋な探究の意味を否定したいわけではありません。芸術なら芸術の探究には,たしかに自己目的的な側面があり,またそうでなければ単に受けがいいだけの安直な絵やデザインや音楽に終わってしまうでしょう。しかし同時にそこには芸術に対する批評的な眼差しがなければならないとも私は考えているのです。

 大学のもう一つの役割は,まさにこの批評性にあります。本学が社会に対して門戸を開き,いまだ収束していない東北の地震の被災者の方々への支援を継続し,また地域と密接に連係した活動を拡大してきたのも,いささか大げさにいえば,今日における芸術の役割を批評的に捉え直すという姿勢と深いところでシンクロしている作業でもあるのです。

 ここで皆さんに認識していただきたいのは,社会の芸術に対するリテラシーということの重要性です。リテラシーという言葉は,一般には識字,つまり読み書きする力のことをいいますが,より本質的には対象を批評的に読み解く能力を指しています。科学に対するリテラシーとは,科学にひそむ危険な側面をも感知する力であり,専門家たちにも社会の側にも,それが欠けていたがゆえに先の原発事故を引き起こしてしまったといえるかもしれません。

 いや芸術とは,科学技術とは違ってはるかに平和なものであって,制作であれ鑑賞であれ,ただ楽しめばいいだけだろう。皆さんが出ていく社会では,そう思われているのは事実です。それはそれで間違った考えではないでしょう。しかし皆さんには,広い意味でのアートに携わることになるであろう自らのポジショニングに対して,ぜひ,自覚的であっていただきたい。アートもまた,局面によっては時代を危険な方向に導いていくことがありえます。時にはそうした時流に警鐘を鳴らし,市民の側のアートへの批評的なリテラシーを喚起するのも,大学で学んだ者の使命の一つであるに違いありません。

少々,シリアスな話を持ち出してしまいましたが,冒頭にも述べたようにどのような方向へと進まれるにせよ,若い皆さんの活躍によって,必ずや明るい展望が切り開らかれるものと期待しています。本学での勉学を基盤にしながら,王道を行くアートの力を存分に発揮してください。

皆さん,本当におめでとうございます。これをもってお祝いの言葉とさせていただきます。

 

平成25年3月25日

                             京都市立芸術大学長

建畠晢