金農の絵画制作における詩書画の関係性について ー画冊と画梅に着目してー
本研究の出発点は、中国文人画において当然と受け止められている画面上に書、文学の要素を含むという点が、鑑賞においては総合的に論じられていないのではないかという疑問である。しかし、同じ画面上に存在する要素であり、思想的、関係性的に分けて語ることのできないこの三つの要素であるにもかかわらず、近代以降の美術史学においては、絵画は絵画、書は書、文学は文学として別個に論じられてきている。そこで本研究は、中国文人画に多く見られる書、絵画を同画面上に含む作品を実際に研究対象として取り上げ、絵画、書道、文学の三つの要素を総合的に考察すべき芸術としての新たな位置付け、研究の手法を提示したい。
まず第一章では、18世紀の揚州八怪と彼らの活躍した時代、土地を概観する。金農という画家が表れた背景を確認する。他の揚州八怪に関しても概略を述べ、本研究の中心人物である金農を取り上げる。彼の人物像と絵画、書道、文学の三つをそれぞれ概観し、金農という芸術家の全体像を掴む。第二章においては金農の芸術を総合的な芸術として新たな位置づけを考察すべく、まずは画冊作品の絵画と書、文学の関係性について考察する。学部論文での仮説を引き継ぎつつ、題賛の面からも金農の芸術制作に迫る。第三章は絵画作品の中から画梅に焦点を当て、梅にまつわる文学、そして金農の書道作品との比較を通し、金農が絵画のための書、絵画のための文学を制作していた可能性について検証する。終章では第二章、第三章の検証結果を受け、金農の作品制作に見る詩書画の関係性を明らかにし、金農の芸術家としての新たな特徴、価値づけを探る。
検証の結果、金農の画冊は、金農という芸術家を知る上で、非常に多くの題賛、画面を見ることができ、また書道作品ではあまり見ることのできない書体を数多く見ることのできる作品形態であると言える。また、画冊制作のモチーフ選択は大型の作品には見られないものが多いが、その全てに題賛がつけられていることから、金農がどのようなモチーフを描く際にも文学性を付与し、画面に書を入れていることがわかる。金農の画冊において書、題賛は、入れる余白や量に応じて構図を変える、逆に構図や余白によって書の入れ方を変える、モチーフしか描かれていない画面に背景や文学性を持たせるなど、相互に密接に関わって制作されていると言える。
さらに、金農の作品において題賛には多分に金農の思想や絵画制作の背景が反映されている。短いものから長いものまで、金農は自身の絵画の上で様々なことを語る。いかなるモチーフを描く場合でも題賛を用い、どのような意図や背景をもってその絵を描いたのかを鑑賞者に伝えようとする姿勢が見られる。題賛とそれ以外の詩文の内容にも違いが見られ、金農がそれらを区別して制作していたことが指摘できる。
本論文での考察を通して、金農が文人としての三つの芸術である絵画、書、詩を、視覚的な関連性を持たせて制作していたことが指摘できた。金農の芸術において絵画、書、文学の三つは不可分のものであり、これらを視覚的に組み合わせることで、鑑賞者に対して能動的に働きかける金農独自の画面が完成していると言える。金農の芸術制作における詩書画一致とは思想的、理想的なものではなく、実際の絵画制作の中で視覚的に実現する実践的な詩書画一致、画面上における詩書画混然とも呼べるだろう。この特徴は、今まで語られてきた文人観ではない新たな文人の姿であり、単なる絵画的表現手法の新しさという面でない近代芸術の萌芽、先鋒としての価値づけられるのではないだろうか。
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