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平成25年度学部卒業式並びに大学院学位記授与式を開催

2014.03.24

 

 

 平成26年3月24日,平成25年度美術学部・音楽学部卒業式並びに大学院美術研究科・音楽研究科学位記授与式を執り行いました。

 美術学部136名,音楽学部59名,美術研究科修士課程61名,音楽研究科修士課程18名,美術研究科博士課程3名,音楽研究科博士課程2名が,門川大作京都市長をはじめ来賓の皆様,保護者の皆様,教職員に温かく見守られ,卒業式並びに学位記授与式に参加しました。

 

 

 

 今年も,例年どおり,美術学部・大学院の多くの学生は,交通局,京都水族館との連携事業から生まれたキャラクターのオオさん,ショウさん,建畠学長,人気のキャラクター,動物など,自作のユニークな衣装で参加し,また,音楽学部・大学院の卒業生からは,美しい歌声が披露されるなど,芸術大学らしい演出がなされ,会場を笑顔で包みこみ,和やかでアットホームな式となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 卒業生・修了生の皆さん,本当におめでとうございます。

 本学一同,皆さんのご活躍を心から期待しております。

<学長式辞>

 本日,ここに,門川大作京都市長をはじめとして,美術教育後援会,音楽教育後援会,美術学部同窓会,音楽学部同窓会の御来賓の皆様の御列席のもとに,美術学部卒業生136名,音楽学部卒業生59名,美術研究科修士課程修了生61名,音楽研究科修士課程修了生18名,美術研究科博士課程修了生3名,音楽研究科博士課程修了生2名の卒業式ならびに修了式を挙行するにあたりまして,式辞を述べさせていただきます。

 学部卒業生,大学院修了生のみなさん,おめでとうございます。これから皆さんは社会へと巣立ち,あるいは大学院でさらに勉学を深めることになりますが,いかなる方向に進まれるにせよ,本学の恵まれた環境のもとで,また京都という素晴らしい都市の文化の伝統に触れながら学んだ歳月は,皆さんの人生にとってきわめて大きな意味をもつことになるでしょう。

 周知のように本学は芸術系大学としては日本では最も長い歴史を有しています。百三十有余年の間に近代芸術の屋台骨を支えるというべきオーソドックスな人材を数多く輩出すると同時に,また芸術の既成概念を一気に更新するような独創性を発揮する才能をも世に送り出してきたのです。アカデミズムと在野精神,正系と異端,文化の伝承と革新という本来なら相反するはずの要素が共存しているところが本学の特質なのですが,考えてみれば,それは京都というまちそのものの魅力でもあるに違いありません

 京都とは不思議なまちであって,日本を代表する古都としてあまねく世界に知られているにもかかわらず,前衛的な気風にあふれてもいます。こうした二面性は実のところ,一枚の紙の両面のように不可分な関係にあるというべきかもしれません。伝統的な文化資源の厚みが,そのまま斬新な創造活動に基盤をなしているというところが,京都というまちの凄さであり,アートに関わる者を魅してやまない求心力をなしてきたのです。

 それにしても,私たちはなぜ表現において新しくなければならないのでしょうか。このまちにこれほど素晴らしい文化資源があるならば,それを遵守するだけで十分ではないか。歴史上の偉大なる遺産を乗り越えることなどできるわけがない。私たちはただ古典を忠実に学んでいればいいのだ・・・・。日々新しくあれという主張に対しては,そうした反論が聞こえてきそうです。

 しかし私たちが古典を学ぶのは,必ずしも古典そのものと同じような作品を作り出すためではありません。あえて逆説的な言い方をするなら,私たちはむしろ古典との違いを生み出すためにこそ,小難しい哲学用語を使わせていただくなら古典からの差異(ディフェランス)を超出させるためにこそ,古典を学ばなければならないのです。

 私たちは古典を生み出したアーティストたちとは別の時代を生きています。社会的な状況もアートを取り巻く環境もまったく異なっているはずの今という時代に,古典と同じ発想と方法で制作するならば,それは単に伝統を墨守するだけの内的な必然性を欠いた形式的な悪しきアカデミズムに陥ってしまうでしょう。

 とすると今度はこんな反論が出てくるかもしれません。新しくありさえすればいいのなら,何も古典など学ぶ必要はないのではないか。しかし新しさとは,何かに対する新しさであって,何もないところからは新しさが出て来るべくもないのです。私たちにとっての輝かしい古典であるロマン主義も印象派も,歴史に深く学んだ音楽家や美術家による“過去からの差異”として生み出されたのです。まったくもってピカソの独創であるキュビスムも,セザンヌに向けられた新たな眼差しやアフリカの部族芸術から受けたインスピレーションがなければ誕生することはなかったでしょう。

 ダダイズムは一切の歴史を拒絶したではないか。すべてに対するタブララサ(白紙還元)を敢行し,反芸術を唱えたではないか。そういう意見も出てきそうです。しかし反芸術とはあくまでも芸術との対概念として成立するものであり,自明の理として,芸術がなければ反芸術もありえないのです。反芸術がある限り,芸術は消滅しないというアイロニーは,かえってマルセル・デュシャンらのダダの運動の栄光を告げているとさえいえるかもしれません。

 アーティストならざる鑑賞者や研究者にとっても,同じことは言えるはずです。オーディエンスや読者として古典を聴き,また見る,読むということは,今という時代の感性によって古典を再発見する,そこに新たな意味を見い出すということでもあります。そうである限り,古典には最終的,究極的な解釈はありえず,時代と共に常に再解釈され,新たな意味をもって蘇ってくるのです。言い換えるなら,どのような時代の眼差しにも応えうる永遠の生命をもつ作品だけが,古典と呼ばれる資格があることになるでしょう。たとえば源氏物語は,かつては与謝野晶子や谷崎潤一郎が現代語訳を手掛け,戦後は円地文子や田辺聖子が,最近では瀬戸内寂聴がと,数多くのすぐれた文学者たちが翻訳=新解釈に取り組んできましたが,そのどれがベストというわけではなく,それぞれにその時代ならではの真実をはらんでいたというべきでしょう。

 これから社会に向かって羽ばたこうと新たな意欲に燃えている皆さんに,少々,古めかしくもある古典の話ばかりをしてしまったようです。今まで述べてきたことは要するに温故知新ということに尽きると私は思っています。古きをたずねて新しきを知るというこの論語の言葉は,新たなるアートの創造を志す者にとっての永遠の真実であるに違いありません。

 これから皆さんが出て行かれる世界ではさまざまな難問が待ち構えていることでしょうが,若々しいエネルギーに満ちた皆さんの活躍によって,必ずや新たな展望が切り開らかれるものと期待しています。本学での勉学を基盤にしながら,また時には改めて古典を顧みながら,アートの王道をたくましく歩んでください。

 皆さん,本当におめでとうございます。これをもってお祝いの言葉とさせていただきます。

平成26年3月24日

                 京都市立芸術大学長

                        建畠晢