閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

谷原菜摘子さん

在学生が、多方面で活躍する卒業生に本学の思い出や現在の活動についてお話を伺う「卒業生インタビュー」。画家として活躍中の谷原菜摘子さんへのインタビューを前半と後半の2回に分けてお届けします。
インタビュアーは、美術学部油画専攻の髙坂洋美さんと橋本唯瑶さんです。

画家を目指して

谷原  あまり友だちがいなかったので、ひとりで物語を作って、それをもとに絵を描いていました。今と変わらないですね。小学校の時には沖縄の民謡の題材になった心中してしまった男女の民話を調べて、それを絵に描いて家に飾ったこともありますし、スケッチブックを持って夜の校庭に行って、パステルで絵を描いたりしたこともありました。
小さいころは埼玉県に住んでいて、埼玉県立近代美術館が自転車で行ける距離にありました。小学生なら常設展が無料で見られたので、ひとりで入り浸って絵を見ていましたね。
あとは、図書館と古本屋に通い詰めていました。埼玉にある大きい図書館3館をぐるぐる回って、古本屋ではお年玉をほぼ本と漫画につぎ込んでいました。楳図かずお、諸星大二郎、萩尾望都、山岸凉子など、昭和の大スター漫画家と呼ばれる人たちの作品を読み耽るか、絵を描くか、物語を作るか、といった感じの幼少期でした。

谷原  子どもの時から画家になりたかったので、画家になるにはどの大学に行けばいいのか小学生の時に調べていました。当時は埼玉に住んでいたので、東京藝術大学がやっぱり真っ先に出て来て、将来は絶対に東京藝大に行くぞって決めていましたね。
ただ、その後父の転勤もあって最終的には関西に住むことになり、「東京藝大に行くはずだったんだけどな…」と正直思っていたんですが、私は当時からデッサンが苦手で、東京藝大に入るにはデッサンがすごくできないといけないらしく、予備校や高校の先生から「谷原さんのデッサン力では東京藝大に行くのは無理です」とはっきり言われてショックを受けました。
一方で、先生からは「谷原さんの絵は東京藝大よりも実は京芸の方が向いている」とも言われました。私自身は当時から技術が必要なすごく写実的な絵を描くより、何か変な世界観を作ったり、油絵具だけじゃなくいろんな素材を使ったりしたかったんです。子どものころから、卵の殻を自分ですりつぶして砂っぽい画材を作ったり、危険だから真似してほしくないですがガラスを細かく砕いてメディウムで貼ったりなんかしていました。そういうことをしたいのなら、むしろ京芸の方がいろんなことを受け入れてくれるんじゃないかという話だったんですよね。ちなみに京芸に入学後、1回生の時に日本画を選択したのは上村松園や大正期の日本画壇の画家たちが好きだったからですが、高校の先生には「谷原さんが好きな画家はみんな京芸出身ですね」とも言われて、じゃあ京芸を目指そうということになりました。結局2浪して、3回目の受験でようやく合格しました。

谷原  そうです。でも2浪したので、自信がゼロになってしまいました。私が入学した年は結構現役で合格した人が多くて、2浪するようで果たして画家になれるのか、と不安に思っていました。
また、自分の表現を見つけるのにも時間がかかりました。1回生の時はさっきも話したように日本画を選択して真面目に頑張っていたんですがあまりうまくいかなくて、2回生の時も自分の中でうまくいっていないように感じていました。その頃は画家になるのはちょっと無理かもしれないと思っていて、3回生で就職活動をしようかと考え始めました。でもその前に限界まで制作を頑張ってやりたいことを全部やって、それでも無理だと思ったら諦めようと思ったんですね。そうやって試行錯誤しているうちに、これだという表現に出会うことができました。
小さいころからどうしても画家になりたくて、もしかしたらなれるかもしれないからもう少し頑張ろうと思い、結局就職活動はしないで大学院に行きました。

制作に向き合った日々

谷原  最初は結構怖かったです。「総合基礎実技」の授業は嫌いではなかったんですが、先生が何を求めているのかが分かりませんでした。ペン画の課題で木を描いたら先生から「ただ木を描いただけだよね」と言われたり、立体を作るのは苦手なので立版古(※)が課題の時にはうまくできなくて評価してもらえなかったりしました。 でも、入学したら周りは作ることが好きな人ばかりで、大学時代も友人が多くできたわけではなかったですが、同じような価値観を持つ人たちに出会って初めて居心地のよさを感じました。例えば服装に気を遣う必要もないし、自分の好きなことを話しても失望されたり幻滅されたりすることもないし、制作さえ筋を持ってやっておけばいいですよね。そこが京芸のいいところで、居心地がよかったんです。

谷原  実は制作しかしていなくて、新歓も行かず、委員会活動もせず、部活動も一切やらず、絵しか描いていなかったです。制作するか、図書館で画家の本を読んでどうやったら画家になれるのかをひたすら考える毎日でした。たいてい最終バスの時間まで制作していましたし、今はもうダメかもしれませんが、昔は割と24時間とか48時間とか大学にいても何も言われなかったので、ずっと絵を描いていたこともありました。本当にそれ以外は何もやっていなかったですね。

谷原  今画家として活動している吉田桃子さんと仲がよかったんです。2回生の時からずっと同じ制作部屋でしたが、作品展の前にはみんな病んでしまうというか、変な感じになるじゃないですか。疲れているけど、最後だからやっぱりいい作品を作りたいし、でも寒いし、頭がおかしくなりそうな感じというか。そんな時に吉田さんと一緒に大学に泊まって、睡眠時間を2時間とかに削って制作していると、喋りながらでもできる作業の時にはお互い眠らないように謎のしりとりを始めたり、連想ゲームをしたり、エナジードリンクを何本も飲んだり、よく分からない会話をしたりして楽しかったのが印象に残っています。あと、こちらも画家をやっている永井麻友佳さんとも仲がよく、吉田さんと3人でひたすら大学にいて、手作りのケーキを食べたり、将来どこのギャラリーで展示をしたいかを話したり、たまにみんなで桂駅近くの中村軒にお菓子を買いに行って、桂川を見ながら食べるのも好きでした。

谷原  今、ベルベットに絵を描いているんですが、支持体をベルベットにする前の絵が全然よくなかったんですよ。先生の評価は悪くなかったし、みんな面白いと言ってくれていたんですけど、自分ではすごく恥ずかしかったんです。2浪までして大学に入学していろいろ描いてきたのに、たどり着いた作品がこれなのかという絶望が常にあって、こんな絵を描くために今までやってきたわけではないけど、どうしたらいいんだろうという葛藤がありました。キャンバスに油絵を描くという表現が嫌いで、全然いい絵が描けなくてひとりで唸っている時期が4回生までずっと続いていたと思います。
その後、ベルベットに描くようになってからは楽しく描けるようになり、順調に行き始めました。修士課程の1回生で絹谷幸二賞をいただき、2回生でVOCA展に推薦してもらって奨励賞をいただくことができました。その次の年には五島記念文化賞新人賞を受賞し、五島記念文化財団の助成を受けてフランスに研修滞在することもできました。でも、ベルベットに変えてからも自分の作品の幅が狭く、自分の目指しているところにはたどり着けないと考えて、どうしたらいいんだろうと悩む時期が博士課程の1回生の頃にありました。

谷原  赤いベルベットを使ったときは、黒いベルベットに描くことに限界を感じていて、「試しに赤くしてみようか」くらいの感じで始めました。赤いベルベットは、強制結婚など女性が虐げられるテーマや血がテーマとなっている作品で使っています。最近は黒いベルベットの作品ばかりですが、再びそういったテーマの作品を描くことになったら、赤いベルベットを使うかもしれません。

谷原  ずっと一緒ですが、やっぱり画家になりたいと思っていました。画家をやっておられる方にどうすれば画家として食べていけるのか聞いたりしていましたね。「あなたと私では表現方法や作品スタイルが違うから聞いても意味がない」って言われたりもしましたが、それはそれとして、どうやってここまでやってきたか知りたかったんです。それくらいどうしても画家になりたいと思っていました。

谷原  結局、さっき話に出た大学の時にできた友人は今でも間を置かずに連絡を取り合っています。ほとんど同志というか、もう家族に近いかもしれないですね。特にさっき名前が出た吉田さんは、私がフランスに滞在しているときに新婚旅行で訪ねて来てくれました。大事な友人は、会っていなくても忘れるとかどうでもよくなるような瞬間が全くないので、ほぼファミリー兼同志のような感じだと思います。そんな友人は2人くらいで、同級生の多くは絵を描くのを止めて何となく疎遠になってしまったんですが、その2人なら私の葬儀にも必ず来てくれると思います(笑)。
先生に対しては愛憎両方あります(笑)。やっぱりお互い1人のアーティストだから、どうしてもぶつかる部分が出てくるんですよね。ただ、先生の言うことをひたすら聞いていればいい絵が描けるかと言うとそんなことはないので、ぶつかることは別に悪いことではないんです。先生の意見に反発して従わず、自分なりの意見を持つことも大事だと思います。だからどうしてもぶつかるんですが、やっぱり最終的には感謝していますね。特に、博士論文は指導していただいた深谷訓子先生(※美術学部総合芸術学専攻准教授)のおかげで書き切ることができたと思っています。深谷先生はすごく優しい方なんですけど、優しいだけじゃなくてすごく厳しいんですよ。今の時代、ダメな部分を「ダメだ」と指摘するには結構勇気がいるじゃないですか。ハラスメントを起こさないよう言動には気を付けていても、人によっては厳しいことを言われると病んでしまう可能性もあります。深谷先生は頭ごなしに言うんじゃなくて、正当な理由をもってダメな部分を完全に否定してくださるんですよ。時間をかけて書いた箇所も、「要らないと思います」と言ってバッサリ切られるんですね。でも、そのおかげで論文をどうやって書くのかが分かりましたし、深谷先生には感謝の念に堪えません。森口サイモン先生(※現 名誉教授)についても同じことが言えます。サイモン先生のご指導、ご意見にもすごくいいなと思うところもあれば、私の作品とは方向性が全然違うと思うところもありました。でも、サイモン先生も1人のアーティストですし、私と目指している方向が違うから噛み合わないのは仕方ないんです。京芸の先生は、いい意味ですごく正直で、悪いと思ったらオブラートに包まずに「悪い」と言い切ってくれますよね。人にはっきり伝えることはすごく責任があり大変なことなんです。だから感謝しています。

谷原  修士課程に関しては、進まないという選択肢が自分の中にはありませんでした。4回生の時点ではまだ画家としてやっていくには自分の作品は未熟だと思っていたし、もう少し隣で同じように頑張っている人がいて、どうしても困った時には相談する先生がいて、ちょっと守られている環境にいる方が作品が伸びるんじゃないかなと思っていたので、修士課程に進学することに迷いはなかったです。
博士課程については、当初は全く行く気はなかったんです。でもその当時、自分は絵を描くことはできたんですが、作品を語る言葉を持っていなくて、自分の作品の根源やルーツがどこにあるかということについてきちんと説明できなかったんですね。美術史の理解や知識面に不備があったというか危機感を感じていて、それを解消するために博士課程に行くことにしました。博士論文を書くためには本をたくさん読まなければいけないし、考えないといけないので、強制的に自分をそういう環境に置いて勉強しないと自分の欠落を埋められないと思ったんです。ただ、親や友人には博士課程に進むことは反対されましたし、親は「学費は出さない、行くなら全部自分のお金で行きなさい」という感じでした。

谷原  本を読むことは言語化するにあたり有効だと思います。私も大学に入る前からよく本を読んでいましたが、美術に関係のない一般的な本、それこそ芥川賞の受賞作なんかも毎回読んでいました。それと文章を書くことも大事で、インプットとアウトプットの両方をやることが効果的だと思います。大学院であれば研究計画書を書いたり、授業でレポートを書いたりする機会があると思うので、いい訓練になるのではないでしょうか。あとは、個展に来場された方と作品について話すことや、ステートメントを信頼できる友人や先生に見てもらい、意見をもらうのもいいですね。そういうことをしていくうちに、だんだんと言語化することができるようになっていくと思います。

Profile:谷原 菜摘子【たにはら・なつこ】 画家

2021年京都市立芸術大学大学院美術研究科博士(後期)課程美術専攻(絵画領域)修了。 2014年公益財団法人佐藤国際文化育英財団第24期奨学生、2015年第7 回絹谷幸二賞、2016 年VOCA 奨励賞、2018年京都市芸術新人賞、2021年第39 回京都府文化賞奨励賞、第39回咲くやこの花賞などを受賞。黒や赤のベルベットを支持体に、油彩やアクリルのほかにグリッターやスパンコール、金属粉なども駆使し、「自身の負の記憶と人間の闇を混淆した美」を描く。2017年五島記念文化賞美術新人賞を受賞し、2017年秋~2018年秋の1年間、旧五島記念文化財団の助成によりフランス・パリへ研修滞在。 現在は関西を拠点に制作活動を行っている。