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平安時代から鎌倉時代における仏教版画の変遷についての研究 ―蓮華王院千躰千手観音像納入千手観音二十八部衆像摺仏を中心に―

―(論文要旨)―

 

 仏教版画とは、主に仏像の胎内に納入されている尊像の版画のことであるが、日本における始まりは、中国から印刷技術とともに仏教版画が請来された奈良時代であったと考えられている。しかしながら奈良時代の仏教版画の遺品は現存しておらず、仏教版画に関する少量の文献や百万塔陀羅尼といった文字の版の存在などから、わずかに想像するほかない。様々な文献記録が確認されはじめるのは11世紀後半からであり、また12世紀以降になると多様な作品が出現し、仏教版画が多方面へと発展を遂げた有様を知ることができる。しかし未だ仏像の胎内に納入されたまま研究対象になっていない作例もあり、日本版画の代表として挙げられる浮世絵版画と比べると、仏教版画は正当な美術作品としての評価を受ける機会が少なく、深く検討されぬままに残された分野であるといえる。そこで本論文では、墨摺線のみで構成され、色彩がなくとも一つの作品として成り立っている平安時代、鎌倉時代の仏教版画に関して、蓮華王院千手観音二十八部衆像摺仏を中心に比較検討を試みた。

 

 まず第1章では、平安時代から鎌倉時代における仏教版画の変遷について、用途の面を中心として述べ、また作成した版画年表をもとにして、そこからわかる当時の仏教版画の用途の変遷について考察した。仏教版画は、平安時代では上流貴族を中心として、主に日課供養や多数作善のために使用されてきたという性格が窺えるのに対し、鎌倉時代になると庶民にも徐々に浸透し、勧進や多数者作善といった目的で使用される傾向にあることが確認できた。

 

 第2章では、先述の版画年表に記載した仏教版画の中から、蓮華王院の千体千手観音像に納入された摺仏である、千手観音二十八部衆像摺仏を取り上げて論じた。この摺仏は、平清盛によって造営された平安時代と、その約100年後の火災に伴って復興造営された鎌倉時代の二時代の千体千手観音に、それぞれ100枚ほど納入された版画である。縦48cm~52cm、横29~31cmの比較的大きなもので、線が素朴で稚拙さを持つ多くの仏教版画の中で群を抜いて繊細複雑に構成されており、絵画作品に十分に値するものといえる。ここでは本摺仏の図様についての言及と併せて、蓮華王院千体千手観音像の造仏状況や他図像との比較を通して論じ、その中で本摺仏の制作に際して「版画工房」が存在した、という仮説を立てた。

 

 第3章では、前章で立てた仮説を明らかにするための手がかりとして版経に焦点を当てた。版経は版で摺られた経典の略称であり、平安時代末期から写経に変わって多様な種類の経典が摺られている。ここでは版経制作がさかんに行われた寺院の分布を提示して詳細を述べ、版経の扉絵として巻首に付記される版画である、見返し絵について論じた。また彫板師の存在について、版経の巻末刊記などをもとに論じることで、蓮華王院摺仏の制作状況との関連を考察した。

 

 最後に終章では、版経の制作者及び蓮華王院摺仏の制作状況について、第1章から第3章の考察をもとに再考を行った。その結果として、新たに蓮華王院摺仏制作に関して二つの仮説を提示した。一つめは、摺仏制作を蓮華王院近隣の寺院に分担して依頼していたというものである。二つめは、摺仏制作のために簡易の版画工房が建てられ、そこに他寺院からの工人が招かれて制作がなされていたというものである。これらの仮説を提示した理由としては、版経が、寺院に付属していたと考えられる彫板所で制作されていたであろうことが主に挙げられる。よって蓮華王院摺仏制作にも、何らかの形で蓮華王院近隣に位置する他寺院が関わっていた可能性が高いといえるだろう。

2012年度 市長賞 総合芸術学科 総合芸術学専攻 4回生 森 咲花 MORI Sakika

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