閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

中原淳一の「少女らしい」ファッション

“少女雑誌の挿絵画家として活動を開始した中原淳一は、「少女」の出現に伴い誕生した、明治期の少女文化の形成において重要な役割を果たした人物である。「少女」という概念は、高等女学校が設立されたことを機に、男女両方の子どもを指す「少年」から排除される形で創出された。少女雑誌は新しく誕生した「少女」に特別な意味合いを付随させ、「少女らしさ」という新たな価値観を形成し提示した。  中原は挿絵画家のみならず、雑誌編集者、ファッションデザイナー、プロデューサーなど様々な分野において活躍したことから、他の少女雑誌の編集者や挿絵画家とは異なり、多角的な面から自らの手によって「少女らしさ」を構築したと言える。また、中原は日本において初めて「少女」向けのファッションをデザインしたが、未だその特徴は明らかとなっていない。中原が理想とした「少女らしい」ファッションとは具体的にいかようなものであったのだろうか。   以上を調査するため、中原自身が出版した婦人誌『それいゆ』と、その公式的な少女版である『ひまわり』において描かれたスタイル画を比較した。婦人と少女における特徴の差異を明らかにすることで、中原が少女に求めたデザインをあぶり出すことができると考えられる。  比較調査の前に、中原がいかような社会背景や服飾流行の下でデザインしていたのかを把握するため、中原が活躍した1930 年から1950 年代の社会状況について整理した。 当時の日本は服飾界で重要視されていたフランスとアメリカの流行を参照していた。しかし、1950 年頃になると日本は両国の流行を、フランスは服飾界の流行の要であったことから「大人向け」、アメリカはティーンエイジャー・スタイルなど独自のものを創出したことから「若い女学生向け」と区別して受容していた。  以上の背景を踏まえ、スカート・ネックライン・小物の3つの項目に分けて実際に比較調査を行った。すると、中原は、スカートにおいては、ミニからミディ丈の短いフレアスカート、ネックラインにおいては、襟元の詰まった丸みを帯びたもの、そして原則小物を使用しないという特徴を持つデザインを「少女らしい」と認識していたことが明らかとなった。 以上の特徴の形成には、両雑誌の流行の取り入れ方の違いも関与していた。中原は『それいゆ』においてはフランスの流行が取り入れたが、『ひまわり』においては流行を意図的に避け、日常的で素朴なデザインを推奨していた。しかし、1950 年頃アメリカでティーンエイジャー・スタイルが台頭し始めると、中原は『ひまわり』においてアメリカの流行を取り入れていたことがわかった。したがって、先述した日本における両国の流行の認識の違い沿い、中原はデザインを手がけていたと言える。  中原が以上の特徴を持つデザインを「少女らしい」と定めた背景には、「少女」が創出された時代の社会が形成した「少女らしい」というイメージと関係している。当時の「少 女らしい」イメージの変遷を再び整理すると、「少女らしさ」は「清純さ」であるという図式があった。以上の図式の成立には、「少女」たちには良妻賢母になるという社会的な 役割があり、社会は「少女」たちに純潔・処女性を求めていたことがあげられる。そして、少女雑誌の編集者や挿絵画家は以上の図式を「少女」たちに提示する橋渡しの役割を担っており、中原はその中でも特に重要な人物であった。中原のデザインを再分析すると、「女性の身体性を隠す」「大人のような華美さではなく、慎ましさを求める」「清潔さを重要視する」といった3 つの特徴が浮き彫りになり、以上の図式との関連性が伺える。つまり、中原の「少女らしい」ファッションは当時の社会が「少女」たちに求めていた図式を視覚的に表象したものであり、そのデザインの背景には社会と「少女」における力関係が潜んでいたのである。 “

2018年度 奨励賞 総合芸術学科 総合芸術学専攻 学部4回生 谷岡 輝樂々 TANIOKA Kirara

掲載作品の著作権は制作者本人に帰属しています。画像データの無断転載、複製はご遠慮願います。