ヤン・ファン・ケッセル 1 世が描いた《アメリカの寓意》と日本の甲冑
17世紀のネーデルラントの画家、ヤン·ファン·ケッセル1世(1626-1679)が描いた《アメリカの寓意》(1666年、アルテ·ピナコテーク所蔵)という作品には、羽飾りを身につけた人々、色鮮やかな動物、貝殻の仮面など、奇妙なモチーフがぎっしりと描かれている。しかし、この謎めいたモチーフ群の中でも特に目を引くのが、画面右下の、明らかに日本製と思われる甲冑だ。それも、胴に赤い文字のような刺繍があしらわれた、日本でもあまり見られないような奇異な甲冑である。
調査の結果、この甲冑の特徴と一致するものが現在ウィーン美術史美術館に所蔵されていることは明らかになったが、それに関する具体的な史料は見つかっておらず、なぜこの甲冑が海外に渡ったのか、どのような経緯で画家に描かれることになったのか、先行研究では部分的にしか示されていないのが現状だった。そこで、本研究では⑴この甲冑はどこから来たのか、⑵なぜ《アメリカの寓意》に日本の甲冑が描かれているのか、という二つの大きな論題を立てて、調査を開始した。
《アメリカの寓意》の作者であるヤン·ファン·ケッセル1世の日本での知名度はあまり高くないが、彼は高名なピーテル·ブリューゲル1世や、ヤン·ブリューゲル1世の血縁者にあたり、その系譜を引き継いだ細密で鮮やかな花の静物や昆虫画などを数多く残している。本論で扱う《アメリカの寓意》を含むアルテ·ピナコテークの《四大陸の寓意》シリーズは、彼の集大成とされる作品だ。
そして、画家が描いた「四大陸の寓意」という画題についてもその歴史を概観する。1492年にコロンブスが初めて新大陸を発見し、それ以降世界はヨーロッパ、アジア、アフリカ、そしてアメリカの四大陸と認識され、大陸を擬人化した寓意画が制作されるようになっていく。そこではアメリカは派手な羽飾りを纏い、武器を携えた野蛮な民族として表現されることが多かった。ヤン·ファン·ケッセル1世の《四大陸の寓意》もその画題の一作品ではあるものの、同時代の作例と比較した時、彼の作品はその形態やモチーフの量が明らかに異質だ。それらのモチーフの多くは旅行記の挿画や他の画家の作品から引用されていた。しかし筆者は画家が問題の甲冑を実際に観察して描いたのではないかと考え、甲冑の来歴を辿るために15世紀から17世紀にかけての日欧交渉に目を向けた。当時の日本の天下人である豊臣秀吉や徳川家康が、主に交流があったスペインやポルトガルへ宛てた書簡から甲冑や武器を贈呈した記述を抜き出すことで海外に甲冑が渡った時期を探ると共に、日本から海外に渡った物品の遷移にも着目する。当時、新大陸やアジアの品は富裕なコレクターたちによって蒐集されていたが、その品々の移動にはヨーロッパ中に親族のネットワークを持つ「ハプスブルク家」が深く関わっていた。本研究では、スペインの最盛期を築き、アジアやアメリカを含む広大な植民地を統治したスペイン国王フェリペ2世と、甲冑の具体的な経路考証に深く関わってくる、プラハで一大コレクションを築いた神聖ローマ帝国皇帝のルドルフ2世、その弟のネーデルラント総督のアルブレヒト大公を主に取り上げた。
以上の調査を踏まえて、論文の最後では先行研究に基づいて、画家が活動していたアントウェルペン付近に日本の甲冑がどのように到達したのか、筆者の考察と併せていくつかの可能性を提示した。同時に伝来の経路を考察する糸口として、画家が《アメリカの寓意》に日本の甲冑を描いた謎にも迫る。
本研究を通じて、この奇妙な甲冑の変遷とそれを取り巻く時代背景を読み解くことで、17世紀のヨーロッパと日本がどのように結びついていたのか、当時のヨーロッパにおいて日本やアメリカがどのように受け入れられたのか明らかにする。
掲載作品の著作権は制作者本人に帰属しています。画像データの無断転載、複製はご遠慮願います。