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日本に伝来するチャンパ裂 ー日本とベトナムの織物の交易ー

 室町時代から江戸時代にかけて、日本には様々な織物が海外交易によって舶載された。輸入の織物のうち、「チャンパ」あるいは「占城」と称された縞物がある。「チャンパ」とはベトナム中部にあったチャム族の王国の名称である。したがって、「チャンパ」の縞物はチャンパ王国に関係している可能性がある。本研究は、近世に日本に輸入されたこの「チャンパ裂」について考察するものである。
 チャンパ裂の特徴と渡来の経緯を明らかにするために、筆者はチャンパ裂について記載されている文献を精査し、日本に現存しているチャンパ裂を実見調査し、日本とベトナム・チャンパ間の貿易関係について検討した。
 江戸時代の古文献の調査によって、チャンパ裂は木綿の赤い縦縞であることが分かった。また、『雅遊漫録』に「竪嶋の中に小もやう入地味よし」との記録もあるため、チャンパ縞物には、縦縞の中に小さい文様が織り込まれたものもあると考えられる。そして、日本の史料における最も早いチャンパ裂の記録は、管見の限り、1694年(元禄7)の跋がある 『万宝全書』の『和漢諸道具見知鈔』において確認されることが分かった。この史料から、17世紀末にはチャンパ裂はすでに日本に舶載されていたことが明らかである。。
茶道具に関する史料である『古今名物類聚』と『大正名器鑑』の調査によると、チャンパ裂が付属する名物の大半は瀬戸の焼き物である。瀬戸の焼き物が用いられるようになるのは16世紀末以後である。さらに、それらの名物の伝来を調査することで、チャンパ裂が付属する名物には、小堀遠州(1579-1647年)と遠州に関わる人物が所持していたものが多いことを確認した。したがって、チャンパ裂の茶道における使用については、16世紀末から17世紀中頃に活躍した小堀遠州が何らかの形で関与していたものと思われる。以上の通り、チャンパ裂が茶道に用いられるようになったのは16世紀から17世紀中頃のことと見てよいのではないだろうか。したがって、日本でチャンパと称されたこれらの織物が日本に輸入され始めたのも、この時期、16世紀から17世紀中頃のことと考えられる。
 かたや現物の調査において、筆者は五島美術館、東京国立博物館、鈴木時代裂研究所、サンリツ服部美術館が所蔵するチャンパ袋を調査した。江戸時代にチャンパ裂として認識されていた五島美術館蔵とサンリツ服部美術館蔵の裂を調査した結果、当時チャンパ裂と理解された縞物の特徴に関して、以下の3点に注目するべきである。まず、これらの裂には深い赤縞が織り出されていたことが分かった。この特徴は江戸時代の文献である『万宝全書』と『雅遊漫録』に見られる記述に一致する。次に、五島美術館蔵の裂は経糸の太さがまばらであることがこの裂の重要な特徴である。そして、サンリツ服部美術館蔵の裂の縞の中には細かい文様が織り出されていた。この特徴は1763年に出版された『雅遊漫録』の記載と合致する。一般の研究書では、チャンパ裂の文様は縦縞であると指摘されてきた。しかしながら、現物の調査の結果、チャンパ裂には縞の中に文様が織り込まれたものもあることが明らかになった。
 さらに、五島美術館蔵の裂の経糸の太さはまばらであるため、この生地はインド産の縞物のように柔らかくなく、粗く感じられるが、この粗い手触りもチャンパ裂の特徴の一つであると考えられる。
 最後に、筆者はチャンパ裂の渡来の経緯を考察するために、16世紀から17世紀のチャンパ・ベトナムと日本の間で行われた貿易について調査した。その結果、当時チャンパ・ベトナムと日本の間で活動していた主な貿易勢力と航路が明らかになった。それに基づきチャンパ裂の渡来の経路を考えたいが、ここで問題になるのは、チャンパ裂の産地である。管見の限り、現在ベトナムには17世紀のチャンパの縞物が現存していないため、チャンパ裂がチャンパで制作されたかどうかを確認するための比較資料が存在していない。また、日本に輸入された染織品や陶磁器の中には、輸出された土地や港に基づいて名称が付けられた品がある。そこで、以下2通りの場合の交易ルートを考えた。第一は、チャンパ裂がチャンパで制作された場合である。第二は、チャンパ裂が他国で制作され、チャンパ海港から輸出された場合である。
 そして、チャンパ裂がチャム人によって制作された場合については、チャンパ海港からの輸出と交趾シナからの輸出の2つの経路が考えられる。また、チャンパ裂が他国で制作された場合に関しては、カンボジアあるいはシャムでの制作とマレー諸島・インドネシア・インド等での制作の2つの可能性がある。
貿易の調査によると、縞木綿が交趾シナから日本に運ばれた記録がある。元禄8年(1695年)に刊行された『華夷通商考』には、交趾シナの土産の中に「島木綿」と記載されている。これは交趾シナから日本に運ばれた木綿縞があったという事実を示している。一方、管見の限り、チャンパ王国から輸出された木綿縞に関する記録はない。したがって、チャンパで制作されたチャンパ裂がホイアンに運ばれ、その後日本に舶載された可能性が最も有力であると結論付ける。

2017年度 大学院市長賞 大学院 美術研究科 芸術学専攻 修士2回生 グエン・デュオン・クイン・アイン NGUYEN Duong Quynh Anh

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