閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

飛鳥時代の仏教美術における着甲像の図像に関する考察―法隆寺金堂四天王立像と中国・朝鮮半島の作例比較を中心に―

“法隆寺金堂四天王立像は、従来南北朝時代の影響を強く受けた作品であると解釈されてきた。しかし、本論文において改めてその図像についての検討を行った結果、隋・初唐の影響が随所にみられることが判明した。  法隆寺像に関する先行研究において、最も多くの研究者の関心を集めているのが、その甲制についてである。法隆寺像は、後の時代の四天王と同じく鎧をまとう姿で表されるが、その構造については他の着甲像と異なる点が多く、その解釈を巡り様々な説が提唱されてきた。この法隆寺像の鎧の構造に関する最も詳しい考察を行ったのは、野口晃氏であり、氏は法隆寺像の鎧を上体から下端までが一連で、それを正面中央で引き合わせる胴丸式の鎧であると結論づけた。この説は、現在では広く受け入れられている。しかし、野口氏の考察において、法隆寺像がまとう鎧が胴丸式挂甲であることを証明するために比較したのは、いずれも日本の作例であった。だが、法隆寺像は仏教美術の作例であり、その甲制は中国の着甲像の影響を受けていると考えられる。そこで、中国の着甲像の鎧について、先行研究を参考にしながらその構造の年代ごとの変化と特徴を整理した。  その結果、中国における着甲像の多くは左右の胸にそれぞれ胸甲をつけ、下半身に草摺を着用していることが確認できた。また、この甲制は飛鳥時代の日本の作例においても同様であり、法隆寺像のみがこの甲制とは異なる形式を用いているとは考え難い。そこで、改めて法隆寺像の鎧を観察すると、脇から体の中央に向けて曲線を描く段差は、左右に胸甲を着用した際に生じる曲線と類似していることに気がつく。また、首元から胸部に向かって取り付けられた帯状の鍍金銅板金具は、胸甲を固定するための帯を表していると考えられる。しかし、法隆寺像が左右の胸に胸甲を付ける甲制であると仮定した場合、腹部が胸部よりも一段高く造形されている点が問題となる。これは、この時期の工人が新しい形式の鎧の構造を理解できず生じた写し崩れであり、法隆寺像は本来胸甲を左右の胸に着用する甲制であったと筆者は考える。一方の下半身についても、中国の作例と比較を行うと、下半身にとりつけられた鍍金銅板金具は草摺の縁を表していると考えられ、法隆寺像は中国・朝鮮半島・飛鳥時代において主流であった、胸甲と草摺を着用する甲制であったと結論付けられる。さらに、法隆寺像の鎧には、胸甲の下縁に沿うように描かれた石帯文や、草摺が帯の上部に現れる表現など、中国の初唐の着甲像において見られる特徴が散見される。  また、天衣の形状についても法隆寺像には、南北朝時代ではなく隋代以降の影響が見られた。中国の着甲像においては、南北朝時代では首に天衣を掛ける着用法が主流であった。しかし、隋代に入ると南北朝時代において盛んであった天衣は姿を消し、代わりに腰の両側部から天衣を垂らす着用方法が盛行した。法隆寺像の天衣は、腰の両側部から布を垂らす型であり、隋代以降に流行した着用方法であった。  このように、法隆寺像には甲制・天衣のいずれにも隋・初唐の影響が見られた。一方で、飛鳥時代の着甲像に共通する大袖の形式は、中国においては南朝において盛んに用いられていた服制であり、北朝や隋・初唐においてはほとんど造像例が見出だせない。しかし、法隆寺像のみならず、7 世紀後半に造像された唐式甲制の鎧をまとう有鄰館像や当麻寺像も大袖の服制が用いられている。これは、7 世紀の着甲像において大袖の服制が意図的に採用されていたことを示唆し、この時期において、日本の工人たちが独自性をもった造像を行っていたことを窺い知ることができる。 “

2018年度 同窓会賞 大学院 芸術学専攻 修士2回生 柴田 晶子 SHIBATA Akiko

掲載作品の著作権は制作者本人に帰属しています。画像データの無断転載、複製はご遠慮願います。