閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

青甲社の研究――1920~30年代の画塾の様相

現代で「画塾」と言えば美術系大学に入るためにデッサン等を学ぶところ、のイメージが大きいが、昭和期までは主に、一人前の画家育てるために、高名な画家自らが私的に運営した絵画教育の場のことであった。この頃に絵を志した者にとっては、幼い時分から師匠に付いて学び、育ててもらい、官展に入選して画家として認められるということが常道であった。画塾は、明治期までは、師の画風を厳格に写す絵画教育の場として存在したが、昭和期になると一人前の画家が互いに絵の批評をしあう研究会の場の側面が強くなる。その変化が現れ始めたのが、大正~昭和初期であった。

青甲社は当時の京都画壇で名の知れた画家、西山翠嶂(1879 -1958)が大正10(1921)年に設立した画塾であった。この塾は多くの塾生を抱え、大正~昭和期の官展を席捲する画家たちを後に生むことになる。近代京都画壇を知るにおいて、画家の多くが育った画塾について調査するのは重要であるが、現在、これに注目した研究はほとんどない。大画塾であった青甲社すらも例に漏れず、現代ではほぼ知られていない。

以上のことより今回の研究では、青甲社の活動の実態、その功績を解き明かし、大正期の画塾の一例を探ることを目的に研究を行った。

具体的には、機関誌『西山塾パンフレット青甲』を取り上げ、青甲社設立当初である1920 ~ 30 年代を中心に研究を行い、①塾の内部構造や活動の内容について、②塾員自身の考えや興味について、の二点を読み解くこととした。

まず、①塾の内部構造や活動の内容について、を読み解くにつき、大正15(1926)年3 月~昭和2(1927)年4月の塾の一年をスケジュール化した。すると、塾の主な活動に研究会、下絵相談会、幹部会、見学会、塾展(青甲社展)の5つが読み取れることが分かった。中でも、研究会は、青甲社の塾員が「研究会のみを信じる」と語るほどの大切な活動であった。

次に②塾員自身の考えや興味について、の観点において、塾員らのエッセイ等を読み解いていった。すると一点目に、大正期において青甲社では、写実性に関する議論が行われたことが見て取れた。当時の日本画壇が抱えていたこの問題について、塾員らは作品を描く際、描く対象を見つめる中に表現が生まれるのだという態度を共有したが、そのために対象を写実的に描く、精緻な表現を必要とするか否か、という点において意見を違え、議論しあった。

また、二点目に、研究会では、塾員の作品に対し「写実を離れ得ず不徹底」、「花の形がいけない」など、厳しい言葉を浴びせる場面も見受けられた。しかし、裏を返せば、これは塾員同士が互いに遠慮のない言葉で批評しあう土壌があった、ということである。塾主による塾の運営から進み、所属する塾員が一丸となって研鑽を積む画塾であったことが確認できる。

青甲社は数々の後の日本画界を席捲する画家を生み出した。そのことには翠嶂が、京都画壇の重鎮として栖鳳の後をつぐような位置にあったことも関係してくるのかもしれない。しかし、塾員は師から絵を学ぶ画塾という場の中で、絵を描く上で、「自由にさせてくれた」のが翠嶂であったと語る。事実、この塾は実に多彩な画題、作風を持つ画家がいて、特に研究会においては、帝展に入選する力をもった彼らが語り合い、時には厳しい言葉を使い、研究会を盛り上げて自身の糧とするような気風を見出せる。

昭和23(1948)年、青甲社の中堅の塾員数名が、翠嶂に無断で創造美術を結成した。現在でも青甲社は、新進的な創造美術に対する旧体制的なものとして語られることもある。しかしそれでも、青甲社の功績は、それまでの師から弟子への技の伝承から進み、まさに塾員自身がよりよい絵について考え、そのために新しい気風を起こし、進んでいく土壌を作ったことにあると思えてならない。創造美術結成の出来事も、塾員が青甲社から離脱をはかったのではなく、むしろ、青甲社が彼らのような新進的な態度を有する塾員を生んだととらえるべきである。

2019年度 大学院市長賞 大学院 美術研究科 芸術学専攻 修士2回生 酒井 十詩恵 SAKAI Toshie

掲載作品の著作権は制作者本人に帰属しています。画像データの無断転載、複製はご遠慮願います。