閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

都路華香の画風展開についての考察 ―明治30年代の作風と《李太白図》(明治3学部4回生年)の制作意図について―

都路華香(1870―1931)は、明治後期から昭和初期にかけて、京都で活躍した日本画家である。京都市内で生まれ育ち、満9歳のときに幸野楳嶺の画塾に入門。明治20~ 30 年代は、新古美術品展や内国勧業博覧会などの展覧会で高い評価を獲得し、明治40 年に文展(文部省美術展覧会)が開設されて以降は、官展で活躍した。明治42年からは京都市立絵画専門学校・美術工芸学校の教員を、さらに大正15 年から昭和6年に亡くなるまでの間には校長を務め、後進の教育にも長らく携わった。また華香は、菊池芳文、谷口香嶠、竹内栖鳳と並んで「幸野楳嶺門下の四天王」と称され、近代京都画壇の歴史を語る上では欠かせない存在である。

その画風は、「奇抜」「個性的」と言われることが多い。特に知られるものに、明治末に制作された、《緑波》(Collection of Gri¬th and Patricia Way)や《良夜》(京都国立近代美術館)などの「波」の連作がある。《緑波》では緑青、白緑、焼群青といった岩絵具を重ね塗りして、また《良夜》では水墨の波線を幾重にも描くことによって、全く異なる海原の表情を描いている。このような表現方法は、明治末の日本画作品としては非常に画期的なものである。このほか大正5年の《埴輪》(京都国立近代美術館)や大正9 年の《東萊里の朝・萬年台の夕》(京都市美術館)など、大正期以降の官展出品作品においても、非常に独創的な表現を見せている。

近代京都画壇の歴史はこれまで、明治期は竹内栖鳳、大正期は栖鳳の弟子筋である小野竹喬や土田麦僊ら、国画創作協会の画家の業績を主軸として語られてきた。その中で、都路華香は竹内栖鳳の兄弟弟子と位置づけられるにとどまっているが、実際の華香の作風は、栖鳳や他の四天王のそれとは大きく異なっている。近代京都画壇の歴史をより多面的に捉える上で、都路華香は非常に興味深い存在である。

先行研究では、華香は明治末の「波」の連作を転換点として、大正以降の独自の作風を開花させたという見解が示されてきた。しかし、その画業の具体的な内容や個々の作品の検討は、未だに進んでいないのが現状である。

本論文では、華香が内国勧業博覧会や新古美術品展などの展覧会で活躍していた、明治30 年代頃の作品に注目して考察を行った。この時期の華香は、人物画や花鳥画を主に描いているため、同時代の他作家の作品との比較分析をすることによって、華香絵画の特徴やその制作意図を理解する端緒となるのではないかと考えたからである。また同時代評などから、明治30 年代が華香の創作の充実期であったこと、また彼が画壇に影響を与えうる位置にいたことは間違いないものの、先行研究ではこの時期の作品についてあまり注目されていない。

明治28年は、橋本雅邦の代表作として知られる《龍虎図》(静嘉堂文庫美術館)と《釈迦十六羅漢図》が京都で公開され、画壇に衝撃を与えた。また同じ年に師の幸野楳嶺が亡くなり、華香にとっては分岐点となる年であった。華香はこの年以降、橋本雅邦の作風を消化しながら、太く力強い線を特徴とするダイナミックな作風を作り出していった。

平安貴族の少年たちが落葉を追って走り出す情景を描いた明治31 年の《秋風》には、竹内栖鳳が「機鋒の鋭いきびきびした」と表現した、当時の華香の特徴があらわれ始めている。この華香絵画の独自性は、《雪中鷲図》や《春宵図》(共に京都国立近代美術館)といった花鳥画にも見られる。

そして明治34 年の《李太白図》(京都国立博物館)では、知恩院に伝わる仇英の《桃李園図》を下敷きとした上で、人物の表情をクローズアップし、その悠然とした様を描いた。華香はこの作品の制作において、自身の理想とする人物像を、李白本来の姿に重ね合わせて描きだそうとしたと考えられる。

以上のように本論文では、華香の画業の前半部分についての考察を行ったが、作品についてのより踏み込んだ考察、資料のさらなる収集が必要であり、残された課題は多い。近代日本絵画史において都路華香が果たした役割を明らかにするため、今後も研究につとめたい。

2019年度 同窓会賞 大学院 美術研究科 芸術学専攻 修士2回生 橘 凜 TACHIBANA Rin

掲載作品の著作権は制作者本人に帰属しています。画像データの無断転載、複製はご遠慮願います。