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【令和2年2月13日付】「芸術大学の名称」に対する本学の考え方についてー文化人類学の視点からー

2020.02.13

令和元年9月2日に大阪地方裁判所に提出した,学校法人瓜生山学園に対する名称変更差し止め訴訟に関しましては,これまでにマスコミ報道で多く取り上げていただくとともに,市民の皆さまから多くの応援のお言葉をいただきました。また,京都造形芸術大学の学生さんを中心とする反対署名,本学卒業生の有志による反対署名などが行われています。こうした温かい後押しに心から感謝いたします。

ここに改めて芸術大学にとって「大学の名称」がどれほど大切かについて,本学芸術資源研究センターの佐藤知久教授から,文化人類学研究者の視点で意見を述べていただきます。

公立大学法人 京都市立芸術大学

理事長 赤松玉女

 

 

芸術資料における大学の名称の意義について―文化人類学の視点から―

 

京都市立芸術大学

芸術資源研究センター 教授 佐藤知久

 

私は文化人類学者です。個人が記憶していることがらについての聞き取りや,人びとが実際に生活・活動しているなかに飛び込んで行う直接的観察,さらには文献資料など,様々な手法から得られたデータを用いて人間の多様な文化的活動について研究しています。ローカルで直接的なものに注目しながら,同時にとても広い視点から「人間とは何か」を考えるのが人類学の特徴です。 

研究者としての観点からすると,今回の名称変更問題は,「未来の研究者に,本来不必要な混乱と多大の負担を強いる」のではと,強く懸念します。

未来の研究者の姿を想像してみましょう。研究の基本は,「誰が」「どこで」「何をしたか」を同定することです。未来の研究者も,さまざまなアーティストたちが活躍している様子や,個々の大学がもつ特徴や活動について,「誰が」「どこで」「何をしたか」というポイントに沿って記述しようとするでしょう。

同時代の人たちが,アーティストの表現や芸術大学の活動について,どう受け止め,何を感じたり考えたりしているかをテーマにすることもあるでしょう。歴史的に掘り下げ,「21世紀の京都の芸術」について論文を書こうとする研究者もいるでしょう。

こうした場合,研究対象の資料となるのは,作品やその記録だけでなく,芸術に関連する各種の膨大な資料–––紙媒体は言うまでもなく,個人のブログ,twitterFacebookYouTubeや各種の映像資料(ラジオやテレビ等をふくむ)など,さまざまな媒体上での発言や言及–––をふくみます。そしてさまざまな媒体で,さまざまな人たちが発言する場合,人は自由に「京芸」「京都芸大」といった略称を用いることが可能です。

すると,もし京都造形芸術大学の名称が20204月から「京都芸術大学」に変更された場合,「京芸」「京都芸大」という名称は,

  • 2020年4月以前は間違いなく京都市立芸術大学を指すと言えるが,
  • 2020年4月以後は,文脈などからその略称がどちらの大学を指しているのかを慎重に判別・確認しなければならない

ことになります。ここに大きな問題があると,私は思います。

つまり,今回の名称変更問題で問題なのは,「問題の当事者」が大学名をどう表記したり発話するかだけでなく,大学外の「さまざまな人たち」が,どのように双方の大学名について,口頭あるいは文字媒体等で,話したり表記するかという点にもあるのです。「京都芸術大学」という名称,そしてその略称を使うのは大学当局だけではありません。この名称変更は,未来の芸術・歴史研究者に対して,京都発の創造的な芸術活動がどのように展開していったのか,そこで各大学が果たした役割などを研究する上で,多大な混乱と不必要な負担をもたらすものだと思います。

芸術に限らずさまざまな歴史資料が「誰に」関する資料なのかを同定することは,後世の,とりわけ歴史的視点をもった研究者にとって,研究の最も基本となる行為です。未来の人たちの歴史認識を不必要に歪め,結果として誤った歴史認識を生み出してしまうことは避けねばならない。現代の研究者である私はそう考えます。

名前というのは不思議なものです。地名でいえば,日本の都道府県名や県庁所在地の名前を見ると,同じものは二つとありません。町や地域や集落レベルでみれば重なるものはありますが,細かな地名は他地域の人にはあまり知られないので,混同する可能性は低いといえます。

同じ水準にある地名や,誰もが知りうる書名などに重複が見られにくいという現象の背景には,「名称とは事物の〈固有性〉を他の存在者と差異化しつつ指示するものである」という共通意識があるのではないでしょうか。名付けることの配慮ともいうべきこうした意識が,多くの名付ける者たちのなかに相互に働くことによってこそ,名称は「そのものの固有性」,いいかえれば「かけがえのなさ」を表現しうる。それは,大学の名称についても同じだと私は思います。

 

関連リンク

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